white minds 第二部 ―疑念機密―
第六章「疑惑と覚悟が交わりて」7
「ミスカーテ、懲りずにまたやってきたのか」
「ああ、君に会いたくてさ」
「愛の告白なら間に合ってるので十分だ」
楽しげに口を開くミスカーテの口調は、今まで通りといえばそうだった。しかし一度その可能性を考えたら、全てがそれを裏付けていくように思えてならない。今の言葉も、本音だとしたら?
思わずレーナの名を呼びそうになるのを、梅花は必死に堪えた。
レーナが出てきてしまった以上、梅花が口を挟むのは逆効果にしかならない。レーナの邪魔にならないよう、まずは後ろの怪我人の避難を急がせる方が先決だ。きっとそのうちアースたちも追いついてくる。
壁際へと待避していた青葉へ、梅花は視線を送った。これだけで通じてくれるとよいのだが……。いや、青葉の位置からでは、まずレーナたちの技に巻き込まれないよう立ち回るだけで精一杯か。
「ふぅん、つれないね。さすがは彼の申し子だ」
悲しげにミスカーテは答えた。それが戦闘開始の合図となった。ミスカーテの放った黒い矢を、レーナの結界が阻む。耳障りな高音が響いた。
やはりここにいては邪魔だと、梅花は走り出す。二人の気がぶわりと膨らむのを確認しつつ、まず距離をとることを優先した。
しかしこれだけの気だ。どんな技使いであっても、まず間違いなく何かが起こっているとわかるだろう。恐怖や正義感に駆られた誰かが飛び出してこなければよいが。
梅花は祈るような気持ちのまま、まずは近くで倒れ伏しているレグルスへと駆け寄った。辺りを見回せば、さらに離れたところではサホやジュリが誰かの様子を確認しているのが見える。彼女たちなら、あちらは任せても問題ないだろう。
「大丈夫!?」
膝をついて呼びかけても、レグルスから返事はなかった。気があるから死んでいるわけではないはずなのに、ぐったりとしたまま動かないのが気にかかる。
揺さぶるわけにもいかず、梅花はまず彼の胸元へと耳を寄せた。呼吸はしている。体も温かい。が、濃い血の臭いがする。
彼女は慎重に彼を仰向けに寝かせた。額が派手に赤く染まっていたが、既に血は止まっているようだった。安堵したいところだが、それは頭を打った可能性があることを示唆している。
他に怪我しているところが見当たらないところからすると、破壊系か精神系の技でも食らって動けなくなり、石畳に倒れたのだろうか?
加わったばかりのレグルスの特徴は把握しきれていないが、結界は不得意ではなかったはず。誰かを庇ったのだろう。
「困ったわね」
男性としては細身でも、梅花の力だけでは運べない。そう判断して青葉の位置を確認しようとしたところで、視界の隅で青い光が瞬いた。この色には覚えがある。見上げた梅花は顔をしかめた。
「また、毒?」
ふわりと飛び上がったミスカーテの手から、青い光がこぼれていた。技が使いにくくなる例の毒だろうか? しかしこんなところで一体何のために? レーナとミスカーテの間には、まだやや距離がある。
ミスカーテを見上げたレーナが、ちらと左手に視線をやるのが見えた。その先には青葉がいる。通りに沿って並ぶ家伝いに移動していたらしく、そこに倒れていた男の傍で片膝をついていた。あの位置だと、ミスカーテの瓶が届く範囲ではなさそうだ。
レーナもそう判断したらしく、結界ではなく白い刃を選択した。瓶ごとミスカーテを叩き斬るつもりだろうか? あの刃であれば伸びるから、そこまで接近しなくともミスカーテに傷を負わせることができる。
けれども、何故だか忽然と嫌な予感がした。立ち上がった梅花は結界の心づもりをしながら、大きく息を吸う。張り詰めた空気が肺の奥まで刺さるようだった。心臓の裏側が冷えたような、そんな錯覚がする。
レーナが動くと同時に、ミスカーテが手を振り上げる。
「え?」
刹那、青い光が石畳に叩きつけられるのが見えた。梅花は思わず眼を見開いた。瓶が割れたらしく、薄青の光がぶわりと急速に広がっていく。まるで青い霧のようなその中へと、ミスカーテは自ら飛び込んだ。
今までの小瓶とは違う。それは拡散していく光の速度が裏付けていた。レーナもそれに気がついたのか、顔をしかめつつもその場を動けないでいる。
そこへ青い霧をくぐり抜けたミスカーテが迫っていった。縮れた赤い髪が、黒い衣が、青い光を纏うように進む。
一歩だけ踏み出したレーナの刃が、横一閃、鋭い軌跡を描いた。それはミスカーテの脇から黒い長衣を一直線に裂いていった。――と同時に、彼の左手から何かが落ちた。それが瓶であるとわかったのは、先ほどと同様に青い霧が広がった瞬間だ。
だが濃度が違う。量が違う。梅花の目には、まるで二人が青い光に包まれたかのように見えた。鼓動がどくりと跳ねる。瞠目したまま縫い付けられたようにその場にたたずんでいた梅花は、ついではっと息を呑んだ。
ぶわりと膨らんだ二人の気が、揺らいでいる。梅花は唇を震わせた。さらに強く跳ねた鼓動が、まるでそれに呼応しているような心境になる。何かまずいことが起きている。そんな予感に急かされて、梅花はそのまま走り出した。
「レーナ!」
この青い光はただの毒ではない。では一体何が目的なのか? ミスカーテが自ら飛び込んだことも気にかかっていた。最初の小瓶が囮だったにしても、奇妙な行動だ。
二人の気の揺らぎにも違和感がある。技を使う時によくある普通の変化ではない。もっと何か根本的に不安定な――そう、狂ったように暴れていた魔神弾が纏っていたような、得も言われぬ危うさがあった。
あの青い霧に巻き込まれてはまずいだろうと、梅花は結界を身に纏わせた。青葉が名を呼ぶ声が聞こえたが、立ち止まってはいられなかった。腹を括って霧の中に飛び込めば、視界の端が白く瞬く。
しばらくもしないうちに、明滅する青い光の向こう側に影が見えた。揺らめくようにたたずんでいるのは、ミスカーテだった。
しかし様子が変だ。どうにか倒れずにすんでいるといった風に立ち尽くす彼の視線は、あちこち彷徨っており定まっていない。
その左手に、レーナがいた。片膝をついた彼女は、体全体を使って呼吸をしていた。明らかに様子がおかしい。梅花は迷わずレーナへと駆け寄った。今のミスカーテなら、技を生み出す前に梅花でも対処できるだろう。
「レーナっ」
荒い呼吸にあわせて、青い霧が震えているように見える。膝をついた梅花はレーナの肩を掴んだ。
すると今気がついたとばかりにレーナは頭をもたげる。いつも以上に白い肌、額に浮かんだ汗の量が、彼女の体に何事かが起きていることを証明していた。
顔をしかめた梅花は、肩越しにミスカーテの方を仰ぐ。
「あなた、レーナに何をしたの!?」
詰問する声は、梅花が予想したよりも低くなった。
そこでようやく梅花の存在を感知したように、ミスカーテもこちらを見下ろす。ふわふわと定まらなかった視線がゆくりなく向けられた。かろうじて焦点が合ったと言わんばかりの表情に、梅花は思わず瞳を瞬かせる。
「これはこれは、申し子のオリジナルさん」
ねっとりとした口調はいつも通りなのに、ミスカーテの声には力がない。訝しんだ梅花は眉をひそめた。ミスカーテが何かを仕掛けたことは確かなのだが、彼もずいぶんと疲弊している様子だ。
「梅花!」
そこへ切羽詰まった青葉の声が響く。ちらとだけ目を向ければ、青い霧の向こうから青葉が駆けつけてくるのが見えた。先ほどよりもやや霧が薄まっているのだろうか? 明滅の速度も落ちている。
「何をしたかって? あはは、当ててみなよ」
片手を上げたミスカーテは楽しげに笑った。震えた肩から、波打つ赤い髪がこぼれ落ちる。説明するつもりなど皆無なのだろう。
背後に青葉が近づく気配を感じながら、梅花は言葉を探した。レーナを助けるためには情報が必要だが、その断片すら得られそうにない。
「注いで、こようとしたんだ」
と、耳元でかすかな声がした。はっとした梅花は、レーナの顔をのぞき込む。固く目を瞑ったままかろうじて唇を震わせるレーナの気は、やはりいまだ不安定だ。
「注いでって、何を?」
「僕の情報さ」
答えは予想外の方向から降り注いだ。顔を上げた梅花の目に、ふらついて一歩後ろへ下がったミスカーテの姿が映る。突然気分でも変わったのだろうか? しかし『情報』と聞いても、梅花にぴんとくるものはない。
「人間は、本当に何も知らないんだね。死にかけた魔族に、僕らは情報を注いで、生き返らせてあげるんだよ。それが半魔族。じゃあ生きている者に注いだら? 反発されるよね。揺らぐよね。普通は、死ぬよ。僕も、ただではすまない」
訥々とした口調で続けられた説明は、やはり梅花の理解の範疇を超えていた。
だが半魔族と同じと聞いて脳裏をよぎったのは、やはり魔神弾の後ろ姿だった。膨らんだり縮んだりを繰り返していた気を思い出すと胸がざわつく。そういえばあの時レーナは「暴発」などと言っていた。
「取り除けないの!?」
立ち上がった梅花は精神を集中させた。結界を身に纏わせたまま、無理やり右手に青い刃を生み出す。
こんなことでは脅しにもならないが、しかしそれ以外の方法が見当たらなかった。全身の血が粟立つかのような感触がする。青い刃に、まるで全ての精神を吸い取られたような心地だ。
きつと見据えた先のミスカーテは、笑いながらもどこか怪訝そうな表情を浮かべていた。やはり今のミスカーテは危うげだ。「注いだ」行為の反動を受けているのだろうか。
元に戻す方法がないのならば、まずは魔族たちを退かせなければならない。つまり、深手を負わせるしかない。――そうなったら、屋根にいるあの五腹心――レシガが動くだろうか? 彼女を退却させるためにはどうすればよいのか?
「おい梅花っ」
「オリジナル、駄目だ、そんな、いきなり力を使ったら」
焦燥感の滲む青葉の叫びに、かき消えそうなレーナの声が重なった。だが梅花は無視をした。青い刃を向ける先にいるのはミスカーテだが、意識の半分はレシガにも向けられている。
先日の戦いでは、レーナはミスカーテを負傷させることで退却を促した。この場合はどうだろう。
「無茶を言うね。一度注いだものは、どうにもならないよ」
高く笑うミスカーテの声に、頭をぐらぐらと揺さぶられたような心境になる。どこかがひび割れたような音が聞こえた。
レーナが再び梅花の名を呼ぶ。「オリジナル」ではなく今度ははっきり「梅花」と。血の滲まんばかりの声と気が、現状の深刻さを物語っていた。
頭の奥で、誰かが囁く。しかしそれは音として意識に響く程度であり、言葉としては認識できなかった。ただ青い刃の精度が増したことだけを自覚する。
「そう。なら、あなたに縋る必要はないってことね」
しかし動き出そうとした左手をぐいと強く掴まれた。おそらく青葉だ。何故止めるのかと振り返りたいところだったが、きっと今の梅花が冷静ではないからだろう。
――それくらい理解できる程度には落ち着いていることに、正直梅花自身もほっとする。
「結界を、解くなよ。この粉は、危険だ」
たどたどしいレーナの忠告は、ミスカーテの高い笑い声に掻き消された。彼の態度にわざとらしさを感じるのは気のせいだろうか? それとも単に余裕がないからか? 全てが判然としない。
梅花は薄らいだ青い霧の向こう――遠くの屋根へと一瞥をくれた。先ほどからずっと、あの五腹心はそこにたたずんだままだった。
ミスカーテが危険に晒されれば動き出すのではないかと思っていたが、その素振りはない。まだミスカーテは大丈夫だという判断なのか? それだけこちらは舐められているのか?