white minds 第二部 ―疑念機密―
第五章「遠回りな求愛」13
陽動とはいっても、正確に言えば「何かある」と勘ぐってもらうためだけの出撃だった。――本来はそうだったのだが、下級に位置する魔族たちが血気盛んに動いたため、本当の出陣になってしまったのだろう。そして、神も動いたと。
「レシガ様、あれは直属殺しです」
そこへもう一人、突として気配が現れた。イーストがやおら振り返ると、廊下の隅でフェウスが片膝をつく。無骨な拳を固く握っている様が、彼の内心を如実に表していた。
「直属殺し?」
「我々直属の者が単独で仕事を任された時を狙い、戦力を削ぎに来ていた神です。あなた様のリグレッタルたちも……」
「ああ、あれにやられたの。それは仕方ないわね。だって転生神級だもの」
怒りを押し殺しながら事実を告げようとするフェウスに対し、レシガの返答は素っ気ないものだった。赤い髪を背へ払いつつ口角を上げる様は、彼女をよく知らぬ者であれば非情だと驚くことだろう。
だが決して心がないわけではない。しかし物事を俯瞰して見る力において、彼女の上を行くのは誰であれ難しかった。
「それに賢いやり方だわ。それでやられたのであれば、迂闊にお遣いに出してしまった私の落ち度というもの」
「レシガ様、あなたという方は……」
「何か問題でも? 感情に任せた結果、相手の力を軽んじることになるのは無益なのよフェウス。そういう相手にはそれ相応のやり方で返さないと」
面を上げたフェウスが困惑顔をするのを尻目に、レシガは楽しそうに笑った。これはフェウスだからこそ許されている態度だ。有能さ故とも言う。イーストは軽く肩をすくめた。
忽然と上位の魔族が消え、気づいたら天井まで押し上げられていた自分たちの立場は、実のところ危うい部分がある。
部下たちの不満を実力だけで押さえ込むのは困難だ。それだけの明確な差など、本来はない。そのため、直属とした魔族をうまく扱うことが肝要であった。――直属をあえて置かない選択を含めて。
「フェウス、あなたは実直すぎるわね。注意なさい。その力を適切に使いなさい。イーストがあなたを重宝している意味を忘れないで」
そういう意味では、上に立つ者としての言動が自然と身についているレシガは、彼ら五腹心の中でも特別な存在だ。だから彼女は混沌の時代の魔族の象徴であり、光でもあった。彼女のその眼差しが向けられる日を夢見て、皆が活気づく。
「……肝に銘じます」
「ええ、そうしなさい。ところでイースト、あなたの方は?」
そこで彼女はふうわりと振り向いた。金の双眸に見据えられたイーストは、揺れた髪を耳へとかける。面倒な役を押しつけたのだから、それ相応の戦果がなければ彼女は満足しないだろう。これはその確認だ。
「今回は挨拶だけさ。ミスカーテが踏み込みすぎて負傷したので戻ってきたよ」
「ミスカーテが? それはあのお嬢さんに?」
「そう」
簡素に答えれば、彼女は「ふぅん」と気のない声を漏らした。それだけなのかと問うようフェウスが首を傾げる。普段の彼女なら憤慨するところだからだろう。
だが今の話だけでも、彼女にとっては好奇心を刺激される情報だったに違いなかった。イーストは灰色の天井へと一瞥をくれ、言葉を探す。
「ずいぶんとたくましくなっていたよ。言動は、あの女神様に似てきたかもしれないね。あれではアスファルトもさぞ驚いただろうね」
「へぇ、それは興味深いわね」
レシガは口の端を上げた。アスファルトの女神――ユズとは、何度も顔を合わせたことがある。魔族の巣で五腹心を前にしているというのに、全く怖じ気づいた様子もなく、堂々と言葉を発する豪胆な神だった。
それでいてこちらにむやみやたらと憎悪を向けてこない、奇妙なところもあった。ユズの気はとにかく色鮮やかで眩しい。それはレシガも褒めていたくらいだ。
誰かの気を、精神を食らわねば生きていけぬ魔族にとって、ああいった気は最上級の御馳走にあたる。
「さすがは女神の娘ね。それでイースト、あなたの目的は達成されたの?」
くすりと笑ったレシガは、ついで単刀直入にそう問いかけてきた。どうやらはぐらかされてはくれないらしい。イーストは苦笑をこぼし、塔の窓から外を見遣る。
「概ね、ね」
久しぶりに降り立った地球のことを思い出し、イーストは相好を崩した。昔とは違う。それでいて懐かしさを覚える場所だった。
そこでまず見るべき事柄は、おおよそ確認できた。ミスカーテの負傷は予想外だったが、目的そのものは果たしている。これで準備は完了だ。
「それならいいわ」
満足げにレシガは頷く。会話についていけないフェウスが怪訝そうな顔をしているのが見えたが、イーストはただ微笑むだけにとどめた。得たものと失ったものの大きさを比べることは、今は止めておくことにした。
「いいから休め」
自室に入るなりベッドに座らせられて、レーナは閉口した。不機嫌な顔をしたアースを前に、余計な反論は逆効果だ。しかしずっと黙しているのもまずいことは、経験的にわかっている。ここは慎重な言葉選びが必要だった。
「聞いているのか?」
どうしたものかと思っていると、背をかがめた彼に瞳をのぞき込まれた。この状況は苦手だ。心配をかけていることは十二分に理解しているので、部屋から追い出すことも難しい。
揺れるベッドの感触にひたすら気持ちを向けつつ、彼女はおずおずと彼を見上げた。
「き、聞いてはいる」
「まさかこの期に及んで何かをやるなどと言い出す気はないだろうな?」
「そ、そのつもりはない」
視線を逸らすのも許さぬと言わんばかりに肩を掴まれ、彼女はへらりと笑った。
さすがにこの体調で何かができるとは思えなかった。休息――少なくとも精神を使うようなことは避けるのが肝要であるとは、もちろん理解している。
「わかっている。それはわかってるから、大丈夫だ。走り回ったり技を使ったり武器の調整をしたりはしない」
「おい、それは最低限の休息だ。寝られるなら寝ておけ。いいな?」
けれどもそれだけでは彼は満足しなかった。さらに低くなった彼の声が、どの程度の休養を求めているのか、如実に物語っていた。しかしそれは彼女には受け入れがたい域だ。
「え、いや、それはさすがに……」
彼女は眉尻を下げた。倒れそうになったのも、意識が遠のきかけたのも軽視はしていないつもりだが、しかし寝るとなると別種の問題が発生する。
彼女は常に魔族の動向を気で探っている。それはほぼ無意識のことだが、さすがに寝てしまうと中断される。この状況でそれは駄目だ。
「何か問題でもあるのか?」
「大ありだ。それでは魔族の動向が掴めなくなる」
「何を言っている。すぐに攻めてくる心配はないと断言したのは、お前だろう? ならば今のうちに休め」
肩を掴む彼の手に、さらに力が入った。確かに、先ほど神技隊らに聞かれた時、彼女はそう説明した。ミスカーテに怪我を負わせたからだ。
今まともに動ける直属級の魔族は、ミスカーテの他には数人しかいないだろう。そうなるとミスカーテを失いかねない策を、イーストは取らない。つまり、いきなり地球へと乗り込んでくる可能性は低かった。
「それはそうなんだが」
しかしだからといって動向を探らなくてもよいという話にはならない。あのイーストが、何もせずにただミスカーテの傷が癒えるのを待っているはずがない。必ず何かを水面下で仕掛けてくる。いくらなんでも意識を手放すわけにはいかなかった。
「でもな……」
どのように説明すれば納得してもらえるのか。答えを求めるよう視線を逸らした途端、その隙を突かれた。ぐいと肩を押されると、あっという間に体は傾ぐ。
抵抗する間もなくベッドに押し倒された拍子に、背中が痛んだような気がして、つい眉根が寄った。それは現実的な痛みというよりは、急速に傷を治された後の反動のようなものだ。肌に奇妙な緊張が走る時の、その違和感に近い。
しかしそんな彼女のわずかな表情の変化にも、彼は気がついたらしい。不機嫌そうな顔がさらに険しくなったと思ったら、そのまま肩をぐいと引き上げられた。弾むベッドの音が空気を揺らす。
一瞬何が起こったのか理解しかねた。目の前にあるたわんだシーツ。頭上に感じる彼の気配。どうやらうつ伏せにされたと気づいた彼女は、慌てて右手に力を込めて上体を起こそうとする。
「背中だったな」
と、耳朶をかすめるように彼の声が響いた。のしかかられるのではと思う距離で見下ろされていることを自覚し、彼女は困惑する。これでは頭を上げることもできない。
「まだ痛むのか?」
「え? いや、そうではなくて」
「見せてみろ」
「見せ……? いや、いやいやそれはいいから大丈夫だからっ」
彼が何をしようとしているのか察した彼女は、全力で抵抗を試みた。――いや、本当に全力なら転移を使えばよいのだが、それは逆にまずい事態を引き起こす予感がしたので物理的な抵抗のみとした。
はぎ取られかけた上着の合わせを掴み、体の中心へと引っ張れば、支えを失った体がそのままぽすんとベッドにまた沈む。
「レーナ」
咎めるような彼の声が頭上から染みる。まるで自分の行いが正しいと言わんばかりの口調だが、彼女としては冗談ではない。精神が安定していない状態で、彼に直接触れられるというのは大問題だ。
「傷は大丈夫。ジュリがしっかりと治してくれた。ただ治癒の技の反動があるだけだ」
かろうじて首の力だけで頭上を仰ぎつつ、彼女は捲し立てるように説明した。先ほどよりずっと近くに彼の吐息を感じて、なんだか泣きたい気分にさせられる。
この状況は一体何なのだろう。心配をかけているという負い目がある分、強く出られないのが敗因だ。
「お前の大丈夫は信用ならないからな」
頬にかかった髪の一房を、彼の手がゆっくりと退ける。やけに丁寧な手つきだった。重心が移動したのか、またベッドがかすかに軋む。
「何度騙されたことか」
「騙しているつもりはない……」
身を縮めて顔を背ければ、首筋に彼の手の甲が触れた。どう足掻いたところでこの距離は変わらないらしい。そもそも二人きりになってしまったら、彼に勝てるわけがなかった。
このままでは体力も消耗すると、彼女は観念することに決める。諦めも時には肝心だ。
「わかった、休めばいいんだろう? わかったから、ちょっと離れてくれ」
彼女は視線だけを彼の方へと向けた。この体勢が続くのは、体にも心にも負担だった。しかし彼は意外だと言わんげに、片眉を跳ね上げて瞳を瞬かせる。
「何故だ?」
「何故って、そりゃ当然だろう。……この姿勢では休めない」
離れたくないと言われなかったことに胸を撫で下ろしていると、唐突に彼の左腕が腰に回された。そしてあっと声を漏らす暇もなく、やおら抱き起こされる。有無を言わさぬ、それでいて体に負荷の掛からないなめらかな動きだった。
「これならどうだ?」
ベッドの端に腰掛けた彼は、そのまま彼女を横抱きにする。これでは全く先ほどと距離が変わらない。いや、思い切り顔をのぞき込まれてしまう分、彼女としては不利だった。
それなのに、彼の腕に包まれているというだけで安堵してしまう。そんな自分に彼女は胸の内で失笑した。この刷り込みはどうしようもないのだろうか。
「苦しくはないだろう?」
「……アースはわれを本当に休ませたいのか?」
普通にベッドに横になるという選択肢はないのだろうか。それともこれは逃げ出さないようにするための策なのか。時々彼女はわからなくなる。
彼が彼女を案じてくれているという点だけは確かだが、そこから先は何を優先しての行動なのか、判断がつかない。――どうしてもそこに、彼女自身の感情が交じるせいだ。
「当然だ。お前はこの方が安心するだろう?」
こともなげに断言され、彼女は絶句した。そこまで見抜かれているとは誤算だった。
否定もできず、仕方なく彼女が微苦笑を浮かべると、彼の腕にさらに力がこもる。どうしたって過去の記憶が呼び起こされてしまう。今さら抵抗しても無駄だと悟り、彼女は諦めて彼の胸に頭をもたせかけた。
そう、全て今さらだ。はじめからこうだった。
アースだったら大丈夫とばかりに押しつけられた「得体の知れない末っ子」という荷を、こうして腕の中で守ってくれた。ラグナを斬った後、途方に暮れた彼女が伸ばした手も、アースは黙って引き寄せてくれた。
あの時のアースはもういないのに、同じ気、同じ腕というだけで重ねてしまう。安らぐと同時に罪悪感がちりちりと胸を焦がす。これはもう理屈ではどうにもならない感覚だった。
こんな葛藤を抱くことすら、本来であればあってはならないはずなのに。だから彼と二人きりは駄目なのだ。
「余計なことを考えず、休める時は休め。いいな?」
頭上から降り注ぐ抑えた声は、ぶっきらぼうだがどこか優しい。まるで全てわかっているかのようだ。彼は何も覚えていない――いや、知らないはずなのに。
せめてこの思いが気に表れませんようにと祈りながら、彼女はかすかに頷いた。背中の違和感はいつの間にか薄れていた。