white minds 第二部 ―疑念機密―
第五章「遠回りな求愛」9
「止めなさいって!」
牽制するように飛び出すカルマラの動きは単調だった。イーストはちらとだけそちらに視線を向ける。そんな彼の動きに呼応するよう、忽然と青い球の軌道が変わった。まるで透明な壁に跳ね返るよう向きを変え、カルマラを目指す。
「え?」
カルマラの素っ頓狂な声が風に乗って流れた。さすがにこれは予想できなかったらしい。何か技を放とうとしていたようだが、彼女はどうにか結界へと切り替える。しかしその精度でイーストの技が防げるのか?
懸念は、すぐに意味のないものとなった。ばちんと耳障りな音をさせ、青い球は透明な膜に弾かれて消える。
動きを止めたイーストは、興味深げにミケルダと梅花の方を見遣った。カルマラはといえば、不思議そうに瞳を瞬かせている。ということは、今の結界はカルマラのものではないらしい。
全体の流れが止まった隙に、滝はミケルダたちの傍へと駆けた。青葉の気もようやくすぐそこまで近づいてきている。これで少しは勝機が見えてくるだろうか?
――いや、どう考えても五腹心と呼ばれる魔族に勝つ術などない。ただ決定的な時が訪れるのを先延ばしにしているだけだ。
「この精度の結界を連続で生み出せるなんて、さすがはあのお嬢さんのオリジナルだ」
イーストは深々と相槌を打った。どうやら今の結界も梅花のものだったらしい。
確かに、今まで何度も彼女の結界は神技隊らを救っていた。レンカといい、精神系の使い手はどうも結界の精度まで優れているようだ。それにしても五腹心相手に通じるのは驚きだ。
「ますます興味深いね。それと比べて神の貧弱さには呆れるよ。まるで戦闘経験がないね。これじゃあ、あのお嬢さんがあんなに凜々しくなるわけだ」
楽しげに笑ったイーストは、ふんわりと雪を蹴り、一旦後退した。ここで距離をとる意味がわからず、滝は眉根を寄せる。
まるでイーストは遊んでいるかのようだ。いや、実際そうなのかもしれない。
それとも先ほど言っていたように、ついうっかり殺してしまう可能性があるから手加減しているのか? それはつまり、本気でレーナを引き入れるつもりということなのか?
「どういうこと?」
しんと静まりかえる中で、問いを発したのは梅花だった。一瞬何を尋ねたのか滝にはぴんとこなかったが、凜々しくなったという表現に対してだろうか?
レーナのこととなると、梅花は相手が五腹心でも臆さないらしい。頼もしいと言うべきなのかどうか、滝には判断しかねた。
そこへ青葉が到着する。ざっくりと雪を踏みしめて跳躍する気配を感じ取り、滝は無言で横へとずれた。青葉のすぐ側で構えるのは双方にいい影響がない。互いに動きづらくなるだけだ。
「そのままの意味さ。私の知っているあのお嬢さんはもっとあどけなかったよ。よほど苦労したんだろうね。かわいそうに。これだけ神が頼りなければ、きっと大変なことになっていたんだろうね」
頭を傾けたイーストは、梅花を見据えて穏やかに微笑んだ。その気に滲んでいるのは、紛れもない慈しみの色だった。本当にかわいそうだと思っている者のみが出せる気だ。
それが滝には不思議でならない。今まで魔族が向けてきたあの怨嗟の眼差しと、イーストの言動には明らかな乖離がある。先ほどミケルダたちに向けていた態度との違いも、ますます滝を混乱させた。
「仕方ないよね。ラグナを斬ってしまった上に、私たちが皆封印されたのでは。全てが突然だったから、こちらの騒乱も必至だ。残った神に力がなければ、そちらからの牽制もない。きっと同士討ちもあっただろうね。嘆かわしいよ」
声音が穏やかなだけに、語る内容をどう受け取ってよいのか滝には掴めなかった。イーストが何を言っているのかも、半分以上は理解できない。
ただ、圧倒的な存在感を纏いながらもこうして優しく語りかけてくる様は、滝の内をざわざわと揺さぶり続けた。
「どうしたんだい? そんなに不思議そうな顔をして」
ふいと、イーストが視線を左手にやった。カルマラの方だ。いつの間にか彼女の傍にはラウジングがたたずんでいた。二人の顔からはありありと困惑が読み取れる。無論、気にもそれはよく表れている。
「何か勘違いしていたのかな? 私は別に、あのお嬢さんにも君たちにも、恨みなんてないよ。ただバルセーナ様たちが蘇るまでの間、部下を守り通さなければならないんだ。そのために荒くれ者もまとめる。降りかかる火の粉は払う。増やせるなら戦力も増やす。単純なことだろう? 私には責任がある。優先順位を間違えるつもりはないんだよ」
うっそりとイーストは瞳を細めた。どうやら本気で言っているらしいと、滝は確信する。レーナが以前口にしていたことが、ようやく腑に落ちたような心地だった。
確かに彼は悪者ではない。しかし立場が違えば、ある種一番厄介な敵なのかもしれない。憎悪で心を揺らすことのない猛者を相手に、どう立ち向かえばよいのだろう。
「だからできればおとなしく来てくれると嬉しいんだ。そうしたら誰も殺さずにすむ」
たちまち相好を崩したイーストは、ゆっくりと視線を転じた。再度梅花へと向けられたその眼差しは、依然として柔らかだ。しかし脅されていると感じてしまうほどに、圧倒的な実力差がそこに横たわっている。
うっかり殺されずに、それでいてこの場を乗り切るにはどうすればよいのか? 滝は焦る気持ちをなだめすかすような心境で、剣を握る手に力を込めた。
「ジュリ先輩、下がってください!」
耳慣れぬ呼び名に反応する余裕もなかった。
言われた通りにジュリが後退すると、右手から鋭い銀の玉が飛んでくる。それは木々の間を縫うように進み、迫っていた魔族の脇腹に突き刺さった。低くくぐもった悲鳴が、冷え切った空気を揺らす。
深い雪に足を取られそうになりつつも、ジュリはやにわに肩越しに振り返った。予想した通り、駆けつけてきているのはアキセとサホの二人だ。こちらに魔族が集まってきているのに気づいたのだろう。
正直ありがたかった。数が多くなると、遠距離重視のジュリたちはどうしても不利になる。誰かに接近される可能性が高まるのは本来なら避けたいところだ。
「サホさん、アキセさん、助かりました」
「よつきさんは!?」
「あちらで足止めされています」
結界を生み出したジュリは、左方へと一瞥をくれた。複数の魔族を相手するには、この地形もまずかった。足場も悪く木々が障害になる。それなのに、よつきと離されてしまったのが痛い。
「とにかく数が多くて」
答えたジュリが生み出した結界に、何かがぶつかって弾けた。彼女はちらと上空を見る。
案の定、空から降りてくる魔族の数は確実に増えていた。堰き止められなくなっているからに違いない。つまり上の戦いも有利とは言いがたいということだ。
――否、今まであの数を制御してくれていたことが奇跡だったのだろう。
「よつきさんは何やってるんだか」
すると走り寄ってきたアキセが、あからさまに不快そうな気を漂わせた。こんな時でもまずそこに意識が向くのだから、根は深そうだ。しかし今はあえてその点は指摘せず、ジュリは周囲を見回す。
「アキさん、また上から来ます!」
そこへ追いついてきたサホの声が響いた。アキセは抱えた武器を迷わず空へと向ける。
複数の弾を同時に操るというとてつもない集中力を要するその武器は、サホの察知力が補助することでさらに効果を発揮している。問題は接近されると弱いことだ。もっとも、それはジュリたちも同じだった。
今度は右手に、突如として気が現れる。また転移だ。視線を転じたジュリは、ただちに銃を構えた。
レーナに調整してもらったこの銃は、瞬発力重視にしてあり射程が短い。動きながら使用することを重視した結果だ。よつきのはもう少し遠距離向きのものになっていたが、今必要とされているのは即座の反応だった。
転移に伴う独特な気の歪み。その中心を目指し、ジュリは銃弾を放つ。――精神の銃弾だ。
姿を見せたばかりの大男の腹を、青白い弾が突き抜けた。声にならない悲鳴を残して、大男を白い光が包む。やはりここを狙うのが一番効率がよい。
転移してすぐに動くことができる魔族は稀である。そのことに気づいたのはいつだっただろう。ふと疑問に思ってレーナに尋ねておいてよかったと、今は心底そう思う。
まともな対抗手段がない頃とは違う。手立てがあるのだから、その力を存分に引き出すためにはこうした気づきも有用だ。
「ジュリ!」
と、左方からよつきの呼び声がした。どうにかあの魔族の群れを振り切ってきたらしい。周囲へと視線を走らせながら、ジュリは振り返った。
先ほどよりも視界が開けていた。近くにいる魔族が減ったおかげだろう。しかしいつ他の魔族がこちらに近寄ってくるかわからない。
それに神技隊同士の距離がそれなりに離れてしまったのも問題だ。少なくとも、目視で確認できる場所には誰もいなかった。互いが援護できない状態というのはまずいだろう。アキセとサホがこちらへ駆けつけてこられたのは幸いだった。
「よつきさん、ジュリ先輩を一人にしてどうするんですかっ」
ジュリが何か口にするより先に、アキセの文句が空気を震わせた。駆け寄ってきたよつきの顔が、かすかに引き攣る。気にもわずかに苛立ちが滲んだ。
「うるさいですね。文句を言ってる暇があったら上の魔族を牽制でもしてください」
こんな時なのに憎まれ口を叩き合う二人に、ジュリは何と言ってよいのかわからなかった。困ったことだとサホの方を見遣れば、彼女も困惑気味に微苦笑を浮かべている。
この二人はあまり近づけない方がよいのかもしれない。だがこうして揃ってしまったのだから、今回ばかりは致し方ない。
「上、来ますよ!」
ならば別の方へ意識を向けてもらおうと、ジュリは声を張り上げた。実際、上空で動きがあった。薄灰色の空から二人、赤い男と青い男が降りてくるのが見える。
アキセが例の武器を構えるのを横目に、ジュリは周囲へ神経を張り詰めさせた。特に雪を被った木々の合間へと意識を集中させる。
「ジュリさん」
「右は任せました」
サホの呼び声に、ジュリは即座に頷いてみせた。ぞわりと肌に伝わってくるこの違和感は転移の時のものだ。おそらく、上空からの襲撃と転移による同時攻撃を狙ったのだろう。よく使われる手だ。
よつきと二人だけなら対処は絶望的だったが、しかしここには四人いる。どうにかできる。
「よつきさんは、こぼれた空の方お願いしますっ」
精神を集中させながらも、ジュリはよつきへ声をかけるのも忘れなかった。よつきとアキセの会話を防ぐ意味もあるが、よつきの銃の方が射程距離が長いので役割分担するならその方がよい。
刹那、気配が現れた。左右同時だ。そのうち左の方へと狙いを定め、ジュリは神経を研ぎ澄ませる。
躊躇わずに精神の銃弾を放ったが、同時に違和感を覚えた。何かがおかしい。その正体まではわからなかったが、直感には逆らわず、すぐさま結界を張る。
パキンと、何かがひび割れるような音がした。青白い銃弾は、人の姿をとった魔族の肩をかすめる。――外した。ジュリは一歩後退しながら、現れたばかりの男を睨み付けた。全身黒に包まれているので雪中では目立つ。
さらに結界の強度を上げると、薄い膜に何かがぶつかり、弾け飛んだ。黄色い光の残渣が周囲へと散らばっていく。これは雷系か?
まずい。もう一発銃弾を放ちながら、ジュリは横へと駆け出した。青い弾丸は、今度は黒い男の生み出した結界によって弾かれる。なかなかの精度だ。
いいや、違う。男の気は膨らんでいない。怪訝に思って目を凝らせば、黒い男の背後から白い男がぬるりと顔を出すのが見えた。二人いたのか。小柄なのと雪に溶け込む色合いなので、すぐには気づかなかった。
肩を押さえた黒い男を避けるよう、そのまま白い男が躍り出てくる。その手の中に黄色い光が宿った。白い男は雷系を得意としているらしい。
一対二は不利だ。わかってはいるが、アキセたちの方へ近づかせるわけにもいかなかった。続けざまに精神の弾丸を放ち、相手の動きを制限しながら隙を狙う。少しでもかすめれば、力を削ぐことができる。
こうなってしまうとサホの方を気づかう余裕はない。あちらも二人来ている可能性があるが、こちらをどうにかしなければ応援は無理だ。