white minds 第二部 ―疑念機密―
第四章「甘い勘ぐり」10
「いや、同じ手を使う奴ではない。小瓶がわれの手に渡ったことにも、たぶんミスカーテは気づいてるはずだ」
しかしレーナは首を横に振る。一瞬滝は意味を飲み込みかねたが、そういえば解毒剤をくれたのは彼女だったことを思い出した。ミスカーテがその可能性に気づいているなら、別の手で来るだろう。
「じゃあ一体……」
「さあな。ミスカーテが絡んでいるとなると、読みづらくなるな。あいつは部下を使い捨てにできる奴だ。恨まれても平気だし」
そう説明するレーナの吐息には、苦いものが滲んでいた。
ふいと滝はまたあの怨嗟のこもった眼差しを思い出す。もしそうだとしたら、彼らは使い捨てにされたことに気づいていたのだろうか? わかっていてなお、かすかな希望に縋りつつやってきたのか? 後味の悪さが胸に広がるのを止められそうになかった。
「だが妙だな。ミスカーテはプレイン直属だったはずだ。まさかあいつがイーストの下についたのか?」
そこでレーナは再び首を捻る。プレインというのは、五腹心の内の一人の名だっただろうか。時々他の名前も出てくるが、どうも滝の頭には現実感を伴って残らない。
「……まあいい。ミスカーテが絡んでいる可能性があるなら、いくら探しても今は見つからないだろう。こんなところに立ち尽くしていても無駄だ。一旦中に入ろう」
肩の力を抜いたレーナは、ふわりと相好を崩した。そう言われてもいまいち納得のいかないところではあった。
この星のどこかに魔族が潜んでいるかもしれないと思うと、どうしたって落ち着かない。放っておいて手遅れになれば、きっとずっと後悔する。
「そんな気を出すな。どんな目的であれ、今戦うつもりのない者を炙り出そうとしてもこちらが疲弊するだけだぞ」
するとまるで胸中を見透かすような忠告が飛んできた。滝はどきりとする。
確かに、森や山に潜まれれば探し出すのは困難だ。なんといっても相手は食事も睡眠も必要のない存在だ。いずれは町の中に出てくるだろうという予測も立てられない。
「でもでも、いいのかよ! 危ない奴らが隠れてるかもしれないんだぜ!」
滝が閉口していると、後ろから不満を隠しきれないラフトの声が響いた。ちらと一瞥をくれれば、拳を振り上げたラフトは唇を尖らせている。
もし自分の故郷に魔族が潜んでいるとしたら……。そう考えれば焦る気持ちは理解できないわけではない。
「いいから落ち着け。相手の立場になってみろ。気を察知されればいつ殺されてもおかしくないような星に潜伏してるんだぞ。迂闊な行動はとらないだろ。となると、こちらはそういう状態を維持することが重要なわけだ」
レーナは相変わらず冷静だった。そう言われると、無世界での攻防が思い出される。
いつどこで襲われるかわからないと思いながら日常生活を送るのは、なかなかきついものがあった。気を隠していればよいだけではない。いざ何かが起きても不用意に技が使えないということだ。
「今の我々にできるのは、少しでも異変があれば動く、それだけだ。隙を見せてはいけないと相手に思わせなければならない」
レーナの淡々とした言葉が滝の鼓膜を揺らす。ああそうかと、彼は突として合点がいった。彼女はずっとこのような攻防を繰り返していたのだろう。だから無世界で神技隊を簡単に揺さぶることができたのだ。
技を使うのが当然の者たちが、同じ技を使う者を相手取り、目的を果たすために暗躍する。その際に何が問題となり何に気をつけるべきなのか。どうすれば相手を追い詰めることができるのか。彼女は身をもって知っているに違いない。
「……そうだな、わかった」
心が折れた者から負ける。いつか耳にした言葉を、滝は脳裏で繰り返した。
それはただ戦闘中のことだけを指しているのではない。表だった動きがない時も同様だ。いかに相手を疲弊させながら、自分の精神を回復させるか。それに尽きるということなのか。
「レーナの言う通りだ。まずは基地に戻ろう。このままこんなところに突っ立っていたら風邪を引きかねない」
ゆっくりと息を吐き出し、滝はそう告げた。ここは彼が率先して動くべきところだ。
「後は夜の当番に任せよう」
再び吹き荒んだ風が、彼の言葉を瞬く間に運んでいく。その先の藍色の空では、星が頼りなく瞬いていた。
「シリウスさんからの伝言が来たって?」
早朝の食堂は人気が乏しい。ざわついているのは、準備中の厨房くらいだ。
眠気覚ましにと珈琲をすすった青葉は、向かいの席でサラダを口にする梅花へそう問いかけた。
半分は話しかける口実だ。梅花が来る前に、厨房で滝とレンカが話をしているのをたまたま耳にしている。どうやら昨晩、あのカルマラが慌てて伝えに来たらしい。
「ええ。宇宙であのミスカーテっていう魔族が動いているって」
フォークを動かす手を止め、梅花は頷く。
カルマラが駆け込んできたのは、夜も更けた頃だったという。睡眠という概念が乏しいせいか。それともシリウスからの言葉だったからか。夜の待機だったシンたちはさぞ驚いたことだろう。
「じゃあ予想通りだったってことか」
――ミスカーテ。あまり耳にはしたくない名に、思わず青葉は顔をしかめた。珈琲とは別の苦さが口の中に広がる。あの男が再び宇宙で何かを企んでいるのか。それは先日の魔族の襲来に関係しているのだろうか?
「そこまではわからないけれど。でも一枚噛んでいる可能性は否定できないわよね」
梅花はついと目を逸らした。小さな窓の方だ。分厚い硝子の向こうに見えるのは、今にも雪が降りそうな曇天だった。
このところどんどん気温が下がっている。この辺りはヤマトよりも北に位置しているから、外はかなり冷え込んでいることだろう。数日前の深夜には雪がちらついていたらしい。
「まあ、だからといって今の私たちに何かができるわけじゃないんだけど」
サラダへと視線を落とした梅花は、フォークを軽く突き立てる。さくりとレタスに突き刺さる音は軽やかだ。青葉は相槌を打った。
一部の魔族の行方がわからなくなってから、もう四日になる。しかしその後も異変が生じることはなかった。潜んだままで何をしているのだろう? 情報収集か?
そうなると、青葉たちにできることは限られている。せいぜい、買い出しなどの際に注意を払い、奇妙な噂話が流れていないか警戒するくらいだ。だが現時点ではそういったものは耳に飛び込んでいなかった。
「そうだな」
青葉はため息を飲み込んだ。こういう事態が続けば、どうしたって気分が重くなる。
それでも、このままではいけないと動き出している者たちがいた。その先頭を切っているのはリンだ。彼女が声を上げればその周囲も賑やかになる。これだけ不安が満ちた状況だというのに、クリスマスパーティーを企画するというのだから驚きだ。
けれどもおそらく実現してしまうに違いない。梅花の誕生日会までやってしまったくらいだ。
「せいぜい精神を温存するくらいか?」
苦笑を浮かべながら、青葉はまた珈琲をすすった。精神というものが厄介であるのは言うまでもない。温存と軽く言っても実は容易くはなかった。
戦闘での疲労だけでなく、この緊張感が続く生活というのは心身共に悪影響だ。適度に息を抜きながらも異変に素早く対応できるようにというのは、かなり無謀な試みだった。
「そうね」
精神の回復方法を増やしておくに超したことはない。滝がいつだったか独りごちていたのを青葉は思い出す。
ついで彼はちらと梅花の顔を盗み見た。考え込むように目を伏せる様は見慣れたものだが、昨年よりはずいぶんと危うさが消えたように思える。今の彼女は確かに生きようとしていると、なんとはなしにそう思えるのだ。
「……何?」
すると視線に気がついたらしく、不思議そうな眼差しが向けられた。真っ直ぐこちらを見据える黒い瞳は、以前ほど無機質には見えない。
言動は相変わらず淡々としているし、冷静な立ち振る舞いは長所として残っているが、それだけではない柔らかさがあるというべきか。
「いや。お前の精神回復方法って何なのかなと思って」
考えていることとは別の疑問を、青葉は投げかけてみた。
気になっていることではある。彼女は食にもこだわりがないし、かといってこれといった趣味があるようにも見えない。睡眠だって短い。一体いつどのように回復させているのだろう?
「回復方法?」
梅花は考え込むように首を捻り、フォークを動かす手を止めた。まるで考えたことがなかったと言わんばかりに。青葉は唖然とする。
「まさか、ないのか?」
「……回復させなきゃって思ったことがなかったわ。使い切ってしまうような時って、その後大体死んだように寝ていたみたいだし。で、起きたら回復しているし」
記憶を探りつつ答える梅花を、青葉は半眼で見つめた。とんでもない精神容量の持ち主だからこそか。普通は自分なりのやり方を見つけるものだ。大体は好きなことをするのがその方法の一つとなる。
「そういう青葉は何かあるの?」
逆に尋ねられて、青葉は固唾を呑んだ。ぱっと思い浮かぶの当たり前のことばかりで、それ以外となるとこの場では言いづらいものだった。白いカップをおもむろにテーブルに乗せ、彼はついと目を逸らした。
「そうだな……うまいもん食べたり、体動かしたり、あとは愚痴言い合ったり」
好きな人に会うこと。最後の一つは、やはり口にできなかった。誰のことを言っているのか尋ねられても困るし、逆に尋ねられなくても辛い。
梅花はわかったようなわからないようなという顔で、相槌を打った。それらは彼女にとっては効果的な方法ではないのだろう。
彼女には、誰かと共にいることで安らいだという経験がないのだろうか。ふとした疑問が湧き上がる。と同時に「青葉の隣は落ち着く」と言われたことを思い起こした。
あれはどういう意味だったのか? 何かを意図した発言ではないことは明かなのだが。
「まあでも、ちゃんと休むのが一番手っ取り早いよな」
「それはそうね」
結局、当たり障りのない結論でごまかすことにした。
睡眠など最小限でいいと言って無理を通していた彼女から、こんな同意を引き出せるようになったのだから、そういう意味では進歩だ。どこまでを「ちゃんと」に含めているのかは推し量れないが、及第点としておく。
「あ、またミケルダさん来るわね」
そこでぽつりと梅花が独りごちた。この場では耳にしたくない名に、思わず青葉は顔を強ばらせる。
あの神のことをどう捉えてよいのか、彼ははかりかねていた。彼女にとっては昔からの知り合いになるだろうが、それにしても距離が近すぎる。彼女としては珍しくぞんざいな言動を向ける相手という、別枠扱いな者には間違いなかった。
「カルマラさんが動いたからかしら?」
静かな食堂に染み入る梅花の声には、これといった感情は滲んでいない。ミケルダと顔を合わせることは、彼女にとっては別に喜ばしいことでもないのか。その辺りも青葉には掴めなかった。
困ったようにため息を吐いた彼女は、そのまま黙々とサラダを咀嚼する。再びカップを持ち上げた青葉は、厨房からかすかに聞こえる囁き声に耳を澄ませた。
珍しくも今そこにいるのは滝とレンカだけだ。鍋をかき回す音に混じって聞こえるささやかな会話。内容までは聞き取れないが、それでも仲睦まじさが漂ってくるのは羨ましいところだ。