white minds 第二部 ―疑念機密―
第三章「誰かのための苦い口実」17
リンが短剣を取り落とすのが見える。今しかない。そう思った瞬間に、白い風が唐突に消えた。
「え?」
さらに踏み出した梅花の体に、何かが絡みつくのがわかった。いや、そう認識した次の瞬間には、体が傾ぐ。視界が白に染め上げられる。
がくりと膝の力が抜けて倒れ込むのを支えてくれたのも、絡みついた何かだった。瞬きをしても視点が定まらないことに、梅花はすぐに気がついた。いや、頭がふらついているだけだろうか?
全ての音が遠い。先ほどの轟音で鼓膜を痛めたのか? そう訝しみながらも視線を巡らそうとした途端、再び世界がぐらついて見えた。気持ちが悪い。思わず目を瞑ったら、今度はかろうじて声が聞こえた。
「梅花!」
青葉の声。後ろからだ。振り返りたかったがまた視界が揺れそうで、目を開けるのが躊躇われた。一体何がどうなったのか? 怪訝に思いつつもゆっくり目蓋を持ち上げれば、誰かの腕が体に回された。
「梅花、大丈夫かっ」
ゆっくり咀嚼するように気を探れば、すぐ傍に青葉がいることはわかった。ぱちりと瞬きをした梅花は、慎重に視線を巡らせる。まず見えたのは、右方にいる呆れ顔のレーナだった。左手を腰に添えた彼女は、嘆息しつつ口を開く。
「お前たちの勝ちだぞ、オリジナル」
その言葉を、怖々と梅花は飲み込んだ。勝ち。何度か脳内で繰り返しても、その意味が実感を伴って染み渡らない。だが、音が戻りつつあることには気がついた。
「勝ったの?」
口にすれば、少しだけ思考が回り始めた。先ほど体に絡みついたのはレーナの技に違いない。つまり、レーナが梅花の攻撃を直前で止めたことになる。
「ああ、オレたちの勝ちだ。いや、勝ったけど、本当、心臓止まるかと思った」
「そりゃあこっちが言いたい!」
背後からの青葉の言葉に、前方から叫び返す声が聞こえた。シンだ。梅花は慎重にそちらへと視線を向ける。まだふわふわとした感覚は残っていたが、視界はぐらつかなかった。吐き気もない。
蒼い顔をして座り込んだリンの肩を、シンが支えているのが見えた。シンのこうした剣幕は見慣れない。ぎろりと睨み付けるような気迫を伴った眼差しに、梅花は息を呑んだ。
徐々に聴覚が正常な機能を取り戻したことで、周囲のざわめきも感じ取れるようになった。しかし自分の技がリンたちを追い詰めたことは理解できるが、それでも一体何がどうなっているのかまではわからなかった。耳に飛び込んでくる会話を聞く限りでも、誰も理解してなさそうだ。
「そりゃあ、精神系と破壊系が真っ向からぶつかり合えばああなる。しかも、剣が媒介になれば」
困惑していると、呆れたようなレーナの声が飛び込んできた。破壊系。梅花は眉根を寄せる。破壊系と言えば、魔族が使っていたあの黒い技のことのはずだ。しかし先ほど梅花が放ったのは白い風だった。
「破壊系?」
「ああ、オリジナルのは破壊系も入っていたぞ。そうじゃなきゃ剣を弾いたりできない。まったく、こんなところで無理をしてくれるな」
微苦笑をたたえたレーナに、青葉が何か言いたげな気を纏わせるのが感じられた。しかし結局彼は何も言わなかった。その代わり、梅花を抱きしめる腕に力が入る。少しだけ息苦しい。だが文句を言う気力もない。梅花は散漫な思考を手繰り寄せつつ、先ほどの現象について必死に考えた。
精神系のみでは、武器を持った相手を打ち倒すのは難しい。けれども破壊系が混じることで、そうした武器にも影響を与えることができるようになる。そういうことか。ただし、場合によっては不協和音が生じる。
「いきなりそんな技なんて使ったら反動が来るからな。オリジナルも、リンも、気をつけてくれよ」
しみじみと何かを実感したようなレーナの忠告が、梅花の耳にも染みた。反動という言葉の意味することは、どんどん重くなる体が証明しているかのようだった。
仲間たちがいなくなった訓練室は、ひたすら広くて静かだ。真っ白な空間に一人ぽつりとたたずんだ滝は、額の汗を拳で拭う。
まさか後片付けがこんな時間までかかるとは思わなかった。よつきとジュリ、アキセとサホの試合が予想以上に延びたためだ。その分だけ、他の試合の開始時間がどんどんずれ込んでいった。
「悪いことではないんだがな」
壁に張り出されている対戦表を、滝はおもむろに見上げた。各々が真剣に取り組んでくれるからこそ力が拮抗し、戦いが長引くわけだ。そのこと自体は問題なかった。だが疲労が蓄積していくのはいただけない。休みも必要だ。
「残り四日か。大体は予想通りの結果だが、思わぬところも食い込んできたなー」
結果の書き込まれた表の横には、暫定順位も記してある。過去の噂、今までの戦いから、おおよそそれぞれの実力について予想はついていたが。
それでもよつきたちの武器への適応力については度肝を抜かれたし、新しく加わったゲットの力もなかなかだった。特にアキセとサホの組は、あのよつきたちにも食らいついたくらいだから相当だ。宮殿でミケルダが面倒を見てくれたおかげもあるだろうか。
「リンの一番弟子とか言ってたしな」
首の後ろを掻きつつ、滝は苦笑をこぼした。驚きと言えばリンもだ。まさかここにきて精神系の使い手が増えるとは思わなかった。リン曰く、まだ風の形でしか生み出せないらしいが、それでも十分だ。梅花が「破壊系に寄せる」芸もこなすようになったというので、この大会での各自の伸びは予想以上だった。
「今戦ったら、また結果は違うかもな」
対戦表に書き込まれた戦績は、その時点のもの。滝たちは全戦全勝となっているが、それもその時点のもの。今後もそれぞれが力をつけていくことになるだろう。
そろそろ見張り体制について考えなければならないが、どうするべきか。できれば戦力のバランスは整えておきたいところだが、まだまだ伸びるのだろうか。
「そもそも何交代制にすればいいんだ?」
そこではたと彼は気がついた。つい声にした疑問が、白い空間へと染み渡る。
夜間の警備体制についての知識がありそうな人間と考えると梅花くらいしか浮かばなかった。また彼女に助言を求めるとなると心苦しいが、こればかりは仕方ないだろうか。上の者に睡眠は必要ないから、彼らも当てにならない。おそらくレーナも。
「滝、まだかかりそうなの?」
そこで不意に声を掛けられ、彼ははっとした。急いで振り返ると、扉に手をかけたレンカが室内を覗き込んでいる。彼女がここにいるということは、夕飯の準備はもう終わったのだろう。彼はゆっくり首を横に振った。
「いや、大丈夫。もうちょっとだ」
「本当か? 顔色も悪いしほどほどが肝心だぞ?」
ついで答える声は、レンカの後ろから聞こえた。ひょっこりレンカの肩越しに顔を出したレーナが、微苦笑をたたえたまま手をひらりと振る。滝は眉根を寄せた。
「レーナに言われるのは心外だな」
「そうか? それは悪かったな。われはまだほどほどの範疇だが」
室内に足を踏み入れたレーナは、悪戯っぽくにこりと微笑んだ。そんなレーナへと、レンカも苦笑を向けている。まるで憂う母のような、それでいて不安を押し隠す子どものようなその眼差しには見覚えがある。――かつて自分に向けられていたものと同じだ。
同類だと言われているような心地になり、滝は複雑だった。そこまで無茶をすると思われているのか。
「だがこれから頭痛の種は増える一方だぞ。今のうちに休んでおかないと」
そこでさらりとレーナは恐ろしいことを告げてきた。しかし滝にも否定材料は見当たらない。シリウスたちがいて、まだ魔族が攻めてきていない今は、最も余裕のある期間だ。これから何が起こるのかは誰にも予測がつかない。
「それに、回復方法も早めに探しておくことだ。お前が倒れたら神技隊は潰れるぞ」
「それは私も同感ね」
レーナに続いてレンカも訓練室に足を踏み入れる。彼女の気遣わしげな気が全てを物語っているように思えた。
自分が倒れたらなどと考えたことはなかったが、ミスカーテとの戦いで前例はある。誰かに何かがあった時の仕組み作りも必要かもしれない。各々の役割がはっきりしてくれば、なおのことそうだ。
「回復方法ってのは体力的な話? 精神的な話?」
「人間の場合、体力的な回復は休息しかあり得ないだろう? 探すのは精神の回復方法についてだ」
気楽な調子で小首を傾げるレンカに、レーナは人差し指を振ってみせる。二人がこうして話している姿がすっかり目に馴染んだことに、滝ははたと気がついた。話しかけるのにもあんなに躊躇していたのが、今となっては嘘のようだ。
「個人差があるってこと?」
「当然だ」
「じゃあレーナはどうやって回復してるの?」
レンカの素朴な疑問に、レーナはちらと視線を上へ向けた。なんとはなしに滝もそれに倣う。壁と同様に様々な光を反射する白い天井が、そこには広がっていた。明かりらしきものが見当たらないのがこの訓練室の奇妙な点だ。特殊な何かを使用しているのか?
「そうだな。たとえば、オリジナルの顔を見たり」
「そんなに梅花が好きなのね」
「あとは、アースの傍にいたり?」
思わぬ発言に、滝は弾かれたようにレーナを見た。そこでその名前が出てくるとは思わなかった。だが首を捻ったレーナはまだ何かあるはずと考えこむよう唸っている。今の一言がどう受け取られたのかという点は気にしていないらしい。
「あのね、レーナ。一つ聞きたいことがあるんだけど」
そこでレンカは神妙な顔をして口を開いた。その焦茶の瞳がじっとレーナを見つめている。視線をレンカへと戻したレーナは、何を尋ねられるのか心当たりがないとばかりに瞳を瞬かせた。まるで無垢な子どものような双眸を向けられたら、滝だったら怯んでしまう。
「何なりと」
「あなたは、アースと付き合ってるの?」
それでもレンカはさっくり切り込んだ。その度胸は滝には持ち得ないものだった。ようやく話せるようになったこの得体の知れない相手の、まさに懐に飛び込むような行為だ。
おそらく今まで敵としてレーナたちを見て来た誰もの脳裏に、一度は浮かんだ疑問だろう。それをここできっちり問いかけるとは。
「いや」
それなのに、レーナはきっぱり即座に断言した。清々しくなるほどあっさり答えられたものだから、滝は思わず絶句する。あの距離感でそういう関係ではないというのか。――人間とは感覚が違うのか?
「じゃあどういう関係なの? 見ていて不思議なんだけど」
否定されたというのに、レンカはさらに追及を試みる。ここまでくると神業だ。
レーナは何故興味を持たれたのかわからないと言わんげに肩をすくめた。怒り出す素振りもなかったし、不機嫌にもならなかった。ただどこか困ったように微笑んで、彼女は頬に指先を当てる。
「われとアースはわれとアースだ。われにとって、アースは特別だけれど、依存していいとも思っていない」
依存。思いも寄らぬ単語が滝の耳に染みた。レーナの口からそんな言葉が飛び出してくるのは意外だった。一番依存とは真逆にいる存在のように感じられる。
「万が一の時、われはアースを切り捨てなければならない。そう思っている。今のわれは、彼を利用しているようなものだな」
続いて放たれた「切り捨てる」という表現に、滝は戸惑った。何がどうなった時、彼女はそのような決断をするのか? 背筋を冷たいものが駆け上がっていくような感触がした。
「それは、オレたちを守るためにか?」
ほぼ反射的に、滝はそう問いかけていた。レーナの目的は神技隊を守ることにあるという。いや、その先なのかもしれないが。そのためにレーナがアースを切り捨てるという状況が、やはり想像できない。
するとレーナは静かに滝の方へと視線を寄越した。もう、いつもの彼女だった。全てを見透かすような真っ直ぐな黒い双眸には、躊躇いが一切感じられない。
「お前たちを守ることは、手段であり目的だ。われはただ未来を変えたいんだ。そのために足掻いている」
そのためならば、何を捨てることになっても。何を選ぶことになっても。まるでそう告げているかのようだった。そのために頼る先は不要なのか? 滝はぞっとする。何かが間違っていると主張したいのに、そのための言葉が見つからなかった。
ちらと横目に見れば、レンカも閉口している。いや、何か口にしようとしながらも、直前で思いとどまったようだ。
「だからお前たちは気にするな」
得も言われぬ罪悪感を打ち消すよう、レーナの柔らかな声が静かな空気を震わせた。目眩を覚えるような心地になりながら、滝はきつく拳を握った。