white minds 第二部 ―疑念機密―

第二章「茫漠たるよすが」1

 無世界と比べると、神魔世界の空は青々として高い。晴天の今日は雲もうっすらかかる程度で、心地よい風がのんびりとそれらを運んでいた。早朝のため、日差しもさほど強くはない。のどかな一日の始まりに相応しい光景だった。
 思わず滝は深呼吸する。草の匂いが満ちた空気はやはり落ち着く。この場にこれだけの人数が集まっているにも関わらず、濃いと思うのは慣れの問題だろうか。背後でがやがやと仲間たちが騒ぐ声も、高い空に吸い込まれていく。
「あれがそうです」
 しかし、一つだけ見慣れぬものが前方に鎮座していた。彼らが向かっている先に建つ白いもの。無世界にあるような直線的な建物とは違い、流線型のフォルムが印象的だ。風変わりな船が地面に埋まっているとでも言うのが一番近いかもしれない。詩人でもいれば、草の海へ乗り出してきた大船とでも表現するのだろうか。
「あれが、基地」
 先頭を行く梅花が指さしたその建物を、滝はねめつけた。背負った荷物の重さも忘れそうになる。あそこにこれから自分たちは住むことになるのか。そう知らされても全く実感は湧かなかった。同じ白い建物といっても、今まで出入りしていた宮殿とは違う。あれは対魔族に特化した場所だという。
「はい。どうやらレーナたちとシリウスさんがいるみたいですね」
 歩調を緩めた梅花がちらと肩越しに振り返った。いつもの無表情から彼女が何を思っているかはわからないが、声は普段よりもわずかに硬い。滝は固唾を呑んだ。レーナたちが手助けをしてくれているという現状を、まだ彼は受け止めきれていなかった。確かに今まで何度も助けられていたが、それとはまた別の話だ。
「シリウスさん、もしかしてずっといるんじゃ……」
 そこで独りごちたのは隣にいる青葉だった。滝はシリウスとほとんど面識がないに等しかったが、神技隊を救ってくれた上の者の一人とは聞いている。何かあればすぐに名前を出されるところをみると、どうやら上の中でも頼られる存在らしい。
「まあ、ひとまず顔は合わせないといけませんね。そして荷物を置かないと」
 皆が複雑そうな気を漂わせている中、梅花は冷静に一言そう告げる。彼女は一度レーナたちとも会っているから平気なのだろうか。いや、青葉がなんとはなしに憂鬱そうな顔をしているところをみると、それだけが理由でもなさそうだ。滝は静かに頷く。気は重いが、いつまでも草原を歩いているわけにもいかない。大荷物の者も多かった。
「そうだな」
 滝が首を縦に振れば、そのまま皆は口をつぐんだ。無世界での束の間の休息が終わり、これから得体の知れぬ現実が待ち受けている。そんな思いが緊張感となり辺りを埋め尽くし始めたようだ。一体どのように振る舞うべきなのか、滝にも答えは見いだせない。考える時間があるだけに気持ちも揺らぐ。
 無言のまま、彼らは歩いた。風景も変わらないとなれば、次第に近づいてくる白い建造物を眺めるより他ない。それは実に異様なものだった。無世界にあるドームという施設を神魔世界に持ち込めば、こんな風に見えるだろうか? 周りに草木しかないため、その白さが際立っている。
 ようやく建物の前まで辿り着くと、皆は黙り込んだままそれを見上げた。晴れやかな空を背にたたずむ姿は、こんな状況でなければ鑑賞に値するかもしれない。肩に食い込んだ鞄をずらしつつ、滝は息を詰めた。
 白い壁の前では、シリウスとレーナが何か小声で言葉を交わしている。そこからやや離れたところに、アースたちがたたずんでいた。想像もしなかった光景に滝は当惑する。この場合、なんと声をかけたらよいのか。
「ここです」
 わかりきっている事実を、梅花はあえて告げた。まるで沈黙に耐えられなかったかのようだ。するとレーナは顎に手を当てたまま、やおら振り返る。清々しいくらいに朗らかな笑みを向けられ、滝は驚嘆した。
「おはよう神技隊。早かったな」
 レーナがそう挨拶すると同時に、傍にいたシリウスもちらとこちらへ目を向けた。一方、アースたちからは依然として反応がなかった。だがレーナはそれらを意に介した様子もなく、悠然と滝たちへ向き直る。余裕を感じさせる態度は相変わらずだ。彼女の気からは何ら迷いが感じられない。こちらの戸惑いは伝わっているだろうに、それを気にする素振りもなかった。
「おはよう。そうね、大人数での移動だから、早朝じゃないと目立つもの」
「ああ、なるほど」
 滝たちが何と答えるべきか逡巡していると、先頭の梅花が率先して答えてくれる。その通りだ。人目を考えれば夜の方が安全だったのだが、真夜中に神魔世界に降り立ってもその後が困るという意見で一致した。その結果、早朝の出発となった。寝不足な者も多いに違いない。滝も実際、昨夜はなかなか寝付けなかった。普段通りの顔をしている者の方が少ない印象だ。
「まずは荷物をどうにかしたいんだけど、部屋の方はもうできあがっているの?」
 皆がうまく声を出すことができずにいる中で、梅花は淡々と必要な事項を確認していく。こういう時はなおさら頼もしかった。滝たちが休息している間も彼女はあちこち走り回っていたようだが、その疲れも今は見受けられない。
「ああ、部屋はできあがっているので好きに使って欲しい。数は十分にある。が、どこに何があるかわからないよな? そうだな……」
 と、レーナはそこで思案した。当たり前のように梅花と会話している姿というのは新鮮なのだが、不思議と滝の目にはしっくりくる。レーナは腕組みをして明後日の方を睨み付けてから、ぽんと軽快に手を打った。そして隣で気怠そうにたたずんでいるシリウスへと視線を向ける。
「ちょうどよい。シリウス、彼らを中に案内してやってくれないか?」
 予想外な提案に、滝はますます閉口した。一体、何がちょうどよいのか。当のシリウスもそんな依頼がくるとは思ってもみなかったのか、片眉を跳ね上げる。
「何故私に頼む」
「もう一度中を見たいんだろう? われはまだ住居部分以外の調整がある。そちらも早く完成させないと住人も困るだろうしな。お願いできないか?」
 悪びれた様子もなく、レーナはふわりと破顔した。滝としてもその方がまだ抵抗感が少ないが、しかしそれをシリウスが引き受けるとは到底思えなかった。勝手に見ておくので案内は不要だと言いたくなるが、それでは仲間たちも困るだろう。仕方なく滝はシリウスの反応を待つ。
「……下手に出られると断りづらいな」
 予想外なことに、シリウスは仕方がないとばかりに嘆息した。冗談を言っているようにも見えなかった。一体この状況は何なのだろうと、滝は困惑する。想像していたものとは違う光景が広がっている。
「いいだろう。そのかわり勝手に見せてもらうぞ」
「どうぞどうぞ」
 渋々了承したシリウスへと、レーナは満面の笑みで首肯した。今までレーナと相対してきた上の者の反応と、シリウスの対応は全く異なっている。あまりに気安い会話が交わされるものだから、滝は夢でも見ているような心地になった。後ろでたたずむ仲間たちも、得も言われぬ気を漂わせている。
「シリウスさんに案内してもらったなんて知られたら、カルマラさんあたりが大声を上げそうですね」
 話が勝手にまとまったところで、ぽつりと梅花が呟いた。それは半分ぼやきのようだった。カルマラといえば、あのよく遅れてくる上の者のことか。確かに騒がしい人物ではあったが。
「あーうるさいだろうな。そこは内緒にしておいてくれ」
 するとシリウスはうろんげな目で遠くを見遣り、一つため息を吐いた。気怠げに耳の後ろを掻いた拍子に、その青い髪が揺れる。人間にはあらざる者の象徴のような華やかな色だ。ラウジングよりも長いだけに、よく目につく。
「はい、もちろんです」
「あー案内はするが、部屋を決めるだのなんだのはその後にしてくれよ。あと、設備の詳細は作った奴に聞いてくれ」
 ちらと空を見上げてから、シリウスはこちらへ視線を投げかけた。その双眸は実に大儀そうだったが、気には負の色が滲んでいなかった。本気で嫌がっているわけではないのだろう。それが滝には奇妙に思える。
「わかりました。ありがとうございます」
 礼を言った梅花は軽く頭を下げた。そして面を上げるや否や、滝たちの方を振り返った。これで大丈夫かとでも聞きたいのだろうか。滝は即座に頷く。彼女がいなかったら話が進まなかったことだろう。他の面々は戸惑ったままであることを考えても、彼女は貴重な架け橋役だ。
「では行くぞ」
 歩き出したシリウスの後を、慌てて滝たちは追った。レーナに見送られながらという居心地の悪さを噛みしめつつも、今はとにかく必要なことを事務的にと自らに言い聞かせる。早く荷物を置かなければ、そろそろ限界を訴え出す者も出てくるだろう。
 しばらくは、草を踏みつける音だけが辺りを満たした。澄み切った穏やかな風も、このちぐはぐな状況と相まって妙に生暖かく感じられる。
「入り口はここだ」
 白い壁がひたすら続くのを横目にしていると、つとシリウスが足を止めた。彼が指さしたのは壁に埋め込まれた扉だった。――おそらく扉だろう。一見したところではへこみの見当たらぬつるりとした表面には、手を引っかけるような場所もなさそうだった。
「手をかざせば気を感知して開く。つまり、無機物には反応しない作りになっている」
 そう説明しながらシリウスは手のひらを扉に向けた。ぷしゅぅという気の抜けるような音とともに、扉が上部に吸い込まれていく。滝は呆然と入り口を見つめた。想像していたよりも作りが高度だ。
「す、すごいですね……」
「精神に反応する特殊な物質を使用するからできることだ。……あの科学者の受け売りらしいがな」
 皆が次々と漏らすため息に、シリウスの抑揚の乏しい解説が重なった。あの科学者というのが誰のことを指しているのか滝にはわからなかったが、これが通常可能なものではないことは推し量れた。この基地は特別製らしい。
 けれども一歩中に足を踏み入れれば、そこは案外普通だった。左右に伸びた廊下全体は白で統一されているが、床は目を凝らせばわかる程度の格子柄となっている。壁には模様はなかったが、うっすら輝いているのは同じだ。いや、よく見ると若干灰色がかっているだろうか? 宮殿とは違う。
「右側は直接生活には必要のない施設だそうだ。この建物にとっての脳だな。中央制御室などと言っていたが、未完成らしい」
 シリウスが淡々と説明する声が、わずかに反響した。右手に続く短い廊下の奥には、入り口と似たような扉が鎮座している。真ん中にうっすら隙間が見えるところから推測するに、あれは左右に開くのだろう。
「それってもしかして結界とかの……」
「ああ、そのようだ。完成したら使い方は聞いてくれ。で、住居部分はこっちだ」
 梅花の問いにも、シリウスは簡素に答える。相槌を打った滝は天井を見上げた。入り口の前は楕円形の広場となっていて、その上部のみ吹き抜けの構造だった。声が響きやすいのはそのためだろう。集団で入ったのに息苦しさを覚えないのも、この作りが影響していそうだ。
「行くぞ」
 ついで歩き出すシリウスの後を、滝たちは無言でついていった。左手に続く廊下は長い。だが幅はそれなりにあるので圧迫感は覚えなかった。壁に一定間隔で設置されている四角い箱が明かりだろうか? 無世界で見かけた店のライトをどこか彷彿とさせる。
「一階は共同利用の施設ばかりだそうだ。食堂と大浴場、あとは治療室、倉庫の類いだな。あいつが今整備しているのもそこだ」
 周囲へは一瞥もくれず、シリウスは歩きながらそう続けた。瞠目した滝は思わず左右を見る。廊下の右手少し奥に扉らしきものがあり、その先には窓もあった。ちらりと中にテーブルが見えるのは食堂だからなのか。ずいぶんと用意がいい。
「そんなものまであるんですね」
「人間には必要だろう? とのことだ。部屋は二階からだ。上に行くぞ」
 感心する梅花に、シリウスは端的に答えた。そういう発言を耳にすると、彼らが人間ではないのだと知らしめられる。つまり、彼らには必要ないのだ。
 窓の横を通り過ぎると、その先には階段への入口があった。シリウスは真っ直ぐそちらへ向かっていく。滝としてはこの廊下の奥の方も気になるところだったが、それは後々自分たちで確認するしかなさそうだ。シリウスは人間ではないのだから、大浴場の使用方法もわからない可能性がある。――では何故そんなものをレーナが作っているのかが、今度は疑問に感じられてくる。
 階段も廊下の床と同じような材質だった。これだけの人数が押しかけたにも関わらず窮屈に思わないのは、天井が高いせいだろうか。つくづく考えられている。

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