white minds 第二部 ―疑念機密―

第一章「戦線調整」7

「しょうがないわね」
 諦めたように梅花は嘆息する。じきにカルマラの姿は肉眼でも確認できるようになった。ショートカットの髪をなびかせたカルマラは、草原を裂くように低空を突き進んでくる。そしてぶつかりそうな勢いのまま、器用に地面に降り立った。水を多く含んだ土の上だったらしく柔らかい音がする。
「梅花見ーつけた!」
 着地したその足で駆け出したカルマラは、こちらへと軽快に近づいてきた。無邪気な満面の笑みがやけに恐ろしく見えるのは、今までの所業のなせるわざなのか。カルマラの服は以前のものと同じだ。夏に見ると涼しげな恰好としか思わなかったが、肌寒さを覚えるこの気候ではどうしても違和感を抱く。しかし当人はそんな様子を欠片も見せず、顔を輝かせた。
「降りてきてよかったー! 私ったら運がいい!」
「カルマラさん、おはようございます。何か用ですか?」
 小走りで寄ってくるカルマラへと、梅花は軽く頭を下げた。雑談の隙を与えずに用件を尋ねるのは、過去の反省が活かされているのかもしれない。梅花は一体どのような子ども時代を過ごしたのだろう。詳しく尋ねるのは憚られていたので、確認したことがなかった。
「ううん、特別な用はないの。ただちょっと暇してたから来ちゃった。シリウス様は急に上に行っちゃったしー」
 けらけら笑いながらこともなげに告げるカルマラへと、青葉は密かにうろんげな視線を向けた。上の者が「暇」を宣言するとはどういうことだろう。――いや、周囲の気持ちになってみればそれもわかるか。微妙な調整や話し合いが必要な段階で、カルマラに介入されるのは避けたいに違いなかった。仕事を与えて邪魔されるくらいなら、好き勝手に遊ばせておいた方が楽だと判断してもおかしくはない。
「そうでしたか」
「梅花はこれからどこか行くの? ついていっていい?」
「えーとその前に、一つ確認したいんですが。カルマラさんは、私たちがいつ呼び戻される予定になっているのかは知りませんよね?」
 それでも念のためと言わんばかりに、梅花は端的に尋ねた。カルマラが知っていればそれで話は終わりだ。このまま無世界に戻ることができる。しかし幸か不幸か、きょとんと目を丸くしたカルマラはふるふると首を横に振った。
「うん、知らない。そういうのはシリウス様たちが相談してると思う」
「やっぱりそうですか」
「もしかして、それを確認しに来たの?」
 茶の瞳をきらきらと輝かせるカルマラに、梅花は微苦笑を向けた。青葉は頬が引き攣りそうになるのを自覚する。これはまずい状況だ。きっとカルマラは彼らの後をついてくるつもりだろう。二人の時間が束の間であったことを実感しながら、彼はため息を飲み込んだ。この悩みは今後も続きそうだ。
「はい。他の仲間も気にしていて」
「そっか。でもシリウス様は今は捕まらないと思う……」
「ミケルダさんは?」
「宮殿にいるんだけど仕事が多いのか、全然相手にしてくれないのよねぇ。あ、でも梅花がいれば話はしてくれるはず!」
 カルマラはパンと手を打ってにんまりと笑った。まさか彼女は忙しいミケルダにもつきまとってみたのだろうか。その状況を思い描いてみると、ミケルダのことが若干気の毒に感じられる。カルマラは行動力で突き進む性格のようだが、それは有事の際には役立ってもこういう状況では揉め事の原因にしかならない。周りの心労はいかほどだろう。
「ミケルダさん、やっぱり忙しいんですね」
「うん。でも梅花がいれば無視しないわよ。ほら行きましょっ」
 カルマラはぐいと梅花の腕を抱えて引っ張ろうとした。完全に自分の都合で動いている。梅花は眉尻を下げながら、ちらと青葉へと視線を寄越した。救いでも求めているのか。もちろん、この状況をなんとかできるなら彼もどうにかしたい。だが良案は思いつかなかった。
「……あのですねカルマラさん、ミケルダさんの邪魔はしないでくだ――」
 仕方なそうに梅花が釘を刺そうとした、その時だった。突然カルマラは弾かれたように顔を上げ、辺りを見回した。その短い髪がふわふわと揺れる。
「来た! シリウス様だ!」
 喜びの光に満ちた瞳が、真っ直ぐ左手へと向けられた。彼女の視線につられるように、青葉たちもその方を振り返る。確かに、覚えのある気がにわかに現れていた。白い建物のある方だ。青葉が首を傾げると、梅花がぽつりと声を漏らす。
「……レーナの気もあるわね」
 何故今まで気がつかなかったのかと言わんばかりの声音だ。梅花の言う通り、レーナの気もある。気づかなかったのは抑えられているせいもあるが、こちらが探そうとしていなかったからだろう。ここはゲートの傍であり、気の感知には向かない場所だ。
「じゃあ行ってみましょ」
 カルマラの声がいっそう高くなった。嫌な予感を覚えた青葉が慌ててカルマラの方を見ると、瞳をますます輝かせたカルマラは梅花の腕を力強く抱え込んでいた。
「目処を知りたいんでしょう? シリウス様の方が確実に知ってるから。上にいるんじゃ連れて行けないけど、あそこなら大丈夫っ」
 カルマラはそのまま梅花の腕を引いた。有無を言わさぬ調子だった。梅花から再度困惑した視線を向けられ、青葉は苦笑する。これはどう考えても逃れる術がない。
「ほらほら」
 仕方なく二人はカルマラにつれられて謎の白い建物を目指すことになった。後で知られたら怒られる事案かもしれないが、カルマラがいればなんとかなるだろうという気もしていた。上の面々でも、カルマラは制御し切れていないはずだ。
 抵抗を諦めてしまえばあとは早い。草原を撫でるよう低空を飛んでいけば、目的地まではさほど時間は掛からなかった。
 白い建物は、案外大きかった。比較対象のない場所なのでどのくらいだと具体的には言えないが、無世界の海で見た大きな旅客船を連想させるようなものだ。それはさながら、緑の海に浮かび上がる白い船のようであった。
「シリウス様!」
 カルマラが目指す人物は、その白い建物の傍にいた。青い髪が印象的なので、遠目からでもすぐにわかる。白い壁から浮き上がるように揺れる青が、ますます海を連想させた。
 シリウスはこちらを見て瞳をすがめただけで、何も言わなかった。いや、何か口にしかけたものを飲み込み、足下へと目をやる。彼の視線の先にいたのは、片膝を立てて何か大きな紙をのぞき込む後ろ姿だ。その白い背中を忘れるわけがない。――レーナだ。
「客が来たようだぞ」
 地に降り立った青葉の耳に飛び込んできたのは、呆れ混じりのシリウスの声だった。そこでようやくレーナは肩越しに振り返る。記憶にあるのと同じ笑顔でこちらを見上げ、さらに口角を上げた。
「ああ、オリジナル。おかえり」
 まるで当たり前のような、気負いのない挨拶。面食らった青葉は閉口したが、梅花も同様のようだった。一体なんと答えたらいいのだろう。レーナと上が話し合いを行い、休戦協定を結んだらしいというのは耳にしていたが。実際にこうしてレーナが普通に存在しているという事実をまだうまく飲み込めない。
「もう戻ってきたんだな。まだ休んでいてもいいのに」
 青葉たちが返答に窮していると、レーナはゆっくり立ち上がった。頭の上で結われた黒髪が優雅に揺れる。
 一方のカルマラはこの状況を受け止めきれていないらしく、着地した体勢のまま口をぱくぱくと動かし続けていた。シリウスへと視線を固定し、手足は微動だにしていない。
「その、状況確認をしたくて。誰に聞いてもわからないというから……」
 カルマラが黙ってしまうと会話が続かない。仕方なく意を決した様子の梅花が、本来の用件を口にした。ついで彼女はレーナの後ろ側へと一瞥をくれる。
 レーナとシリウスから少し離れたところ、その背後で、しかめ面のアースが壁にもたれかかっていた。言葉はないが、纏う気はずいぶんと刺々しい。そして奇妙なことに、大体一緒にいると記憶していたイレイたちの姿がなかった。一体この状況は何なのか? 青葉は首を捻る。じんわり漂っている空気が重い。まさか喧嘩中でもあるまいし……と考えを巡らせたところで、青葉ははたと気がついた。シリウスの気がたった今現れたということは、それまでアースとレーナは二人きりだったはずだ。そう考えればこの状況は一目瞭然だった。ある種の一触即発だ。
「それで、これって……」
 青葉が一人で納得していると、沈黙に困惑しながらも梅花が一歩を踏み出す。そしてそびえ立つ白い建物を見上げた。青葉も倣って視線を上げる。こうして近くで見るとますます大きい。無世界の建物なら何階建て相当になるだろうか。
「これは、そうだな、端的に言うなら対魔族用の基地だな」
 レーナは悠然とした足取りで白い壁へと近づいた。その材質は何だろう? 光沢感がどうも見慣れない。宮殿の中のような無機質さというよりも、艶やかな真珠を連想させるような輝きを帯びている。
「基地?」
「技でそう簡単に破壊されてはかなわないだろう?」
 戸惑う梅花に頷いて、レーナは白い壁にそっと指を這わせた。どこか艶めかしいその動きから目を逸らし、青葉は固唾を呑む。破壊と耳にすると、ついミリカの町の惨状が脳裏をよぎる。魔族が軽く暴れただけで、人々の住む建物などあっという間に壊滅だった。ある程度の技を防いでくれるものがあれば、心強いのは確かだ。
「……それってもしかして、レーナが作ったの?」
 問う梅花の気に宿っているのは確信だった。突然現れた建物。ここにレーナとシリウスがいる理由。加えて対魔族用という不穏な響き。それらから導き出される結論はそうなる。が、にわかには信じがたかった。こんな巨大な建造物が簡単にできあがるものなのか?
「ああ、そうだ。まだ中の整備は途中だけどな。さすがにこの規模と構成になると一度に生成するのは無理だった。すまない」
 次に耳に飛び込んできたのは「生成」という場違いな単語だ。どうやら青葉たちの知識にはない何かをやってのけたらしい。常識が通じる世界というのはもうやってこないのか。青葉はつくづく嫌になった。梅花の気にも諦念の色が含まれている。
「……前々から聞きたかったんだけど、ちょうどよい機会だから尋ねるわね。あなたにできないことって何?」
 梅花の声には驚愕よりも呆れの気配の方が濃いだろうか。壁を撫でながら振り返ったレーナは、梅花を見てきょとりと首を傾げた。何を言われたのかわからないと言わんげだ。しかしそのまま「うーん」と唸ってからレーナは悪戯っぽく笑う。 
「できないことか。そうだな、素直に信じてもらうことかな」
 おどけたように返されたのは思わぬ言葉で。それを冗談だと受け取ってよいのかどうか、青葉には判断しかねた。自分たちの立場や現状を思うと、乾いた笑みしか浮かんでこない。
 と、笑い声が右手から響いた。横目で見れば、あのシリウスが堪えきれぬとばかりに肩を震わせていた。この神のことを青葉はよく知らないが、よくある事態ではないような印象を受ける。実際、固まったままのカルマラが、今度は動揺の気を滲ませていた。
「おいシリウス、笑い事じゃあないんだぞ」
 レーナは困惑と愉悦を足しで二で割ったような顔をしながら、シリウスの方へと向き直る。その向こう側からアースの禍々しい気が迫ってくるような錯覚に陥りつつ、青葉は素早く辺りの様子をうかがった。カルマラはまだ動かない。
 こちらを睥睨しているアースとは目が合わぬよう気をつけていると、当惑した梅花と視線が交わった。どこか泣きそうな眼差しに見えるのは気のせいだろうか?
「笑いたくもなる。自覚はあるのに改善はされないのだな」
「優先度の問題だ。必要だからそう振る舞っている。その結果信用してもらえないだけだ。優先度が変わらないから……まあこうなるわけだな」
 その間も、シリウスとレーナの軽口は続く。周囲に不穏を撒き散らしているというのに、当の二人は軽妙な調子で言葉を交わしていた。青葉が知るこの二人のやりとりは緊迫感を伴うもののみだったので、妙な違和感があった。いつの間にこんなに仲良くなったのか。アースが不機嫌な理由も察せられるというものだ。
「ちょっと待って、話を戻すわね。つまり、この対魔族用の基地ってのが、私たちの住む場所になるってこと?」
 このまま話が逸れていきそうな気配だったが、いいところで梅花が口を挟んだ。もしかすると先ほどの視線はその役割を青葉に期待してのものだったのだろうか。そうだとしたら申し訳ない。
「ああ、そのつもりで作った。オリジナルたちがそれでよければだが」
 梅花の方へと顔を向け、微笑んだままレーナは頷いた。予感は的中らしい。今までのことを思えば、レーナが作った怪しげな建物に住むというのはそれこそ冗談のような話だ。
 あらためて青葉はこの巨大な建造物を見上げた。白い艶やかな壁には小さな窓がいくつかついているが、どれも中がのぞけるような高さにはない。まるで絵本で見た城だ。ただの住処にしては巨大だが、一体何が詰め込まれているのか?
「私たちには、たぶん、選択肢はないわね」
 寸刻の間をおいてから、梅花は端的に答えた。声は若干沈んでいた。彼女が憂慮する気持ちは何となくわかる。今まで敵と認識されていた存在が作った物に全てを委ねるとなると、反発する者も多そうだ。しかし彼女の言う通り、そもそも神技隊には選ぶ権利がない。自分たちでどうにかしろと言われても困るし、宮殿に間借りするという道もあり得ない。上がこの基地とやらを許可しているのなら、なおのこと拒否することなど考えられなかった。

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