white minds 第一部 ―邂逅到達―
第十章「不信交渉」2
「あ……はい」
「あの怪しい魔族の毒についてなら調査が続いてるから心配しないで。レーナちゃんがくれた薬って奴をレンカちゃんからもらって、これから調べるところだから。だからそれまではおとなしくしていてよー。何かあったら誰か通して連絡して。いいね?」
まるで子どもに言い聞かせるよう、ミケルダは人差し指を振る。見覚えのある仕草だ。こくこくと梅花は素直に頷いた。レンカがいなくなったのは応急処置のためではなかったらしい。レーナがくれた薬は複数あったが、その残りを上に渡していたのか。ならば安心だった。ここはミケルダの言う通り上に任せておこう。
「それじゃあね」
皆が沈黙している中、ミケルダは軽快に手を振った。そして踵を返し扉へと向かった。ひらひら揺れる指先が白い戸の向こうへと消えていくのを、梅花は黙って見送る。彼が相変わらず忙しそうにしているのは人手が足りないからだろう。リンたちの話ではラウジングもかなり負傷したという。ミリカの人々の避難にも上の者が出向いているようだし、誰の手であれ借りたい状態なのかもしれない。
「お忙しそうですね」
同じ思いを抱いていたのか、そこでぽつりとジュリがこぼす。砂まみれになった髪を手で梳きつつ嘆息した彼女は、弱々しい笑みを浮かべた。その双眸からは、疲労が色濃く見て取れる。
「そうね」
相槌を打った梅花は天井を睨み上げた。飲食はどうにかなったが次は清潔な環境が必要そうだ。そうなるとシャワー室を借りる必要があるだろうか。そのために必要な手続きを考えただけでどっと疲れを覚える。ミケルダに注意を受けたばかりだが、また走り回らなくてはいけないだろう。部外者にとことん厳しいこの宮殿の制度はどうにかならないものだろうか。今さらながら如実にそう感じた。
「梅花、そろそろ寝た方がいいんじゃない?」
重苦しい現実を前にぼんやりと思考を手繰り寄せていると、また不意に声を掛けられた。視線を上げれば目の前でリンが眉根を寄せている。その気には気遣わしげな色が含まれていた。
「どのみち私たちは動けないし待つしかないんだから、休める時に休んでおいた方がいいわよ? この宮殿にいる限り、事態が動いたらまた梅花に頼っちゃうことになるんだから。何もできない時くらいは寝ておきなさいよ。寝て起きて、それから次に何をすべきか考えましょう。ね?」
リンの言葉は正論だ。これだけ頭が働いていない状況で宮殿の人間と交渉できるとも思えない。確かに一度休んでからまた改めて動き出すべきだろう。梅花は素直に頷いた。
「心配かけてすみません。わかりました」
「何でそこで謝るのよ。謝るようなことしてないでしょ? はい、いいから寝た寝た。私が隣にいるから余計なこと心配しなくても大丈夫よ」
リンがぱんと手を叩く音が小気味よく響いた。元気そうに見える幾分かは強がりなのかもしれないが、それでもそれを成し遂げてしまうのがリンの力強さだ。彼女が『旋風』と呼ばれる所以だった。それにしても余計なこととは一体何なのか。思い浮かぶものもなかったが考えるのも尋ねるのも億劫で、梅花は些細な疑問を放棄することにした。
「とにかく、よろしくお願いします。あ、もし宮殿の誰かが来てわけのわからないこと言い始めたら起こしてくださいね」
あと気がかりがあるとすればそれくらいか。そのうち何か飲食物を持ってきてくれるはずだが、その時小言を言ってくる可能性もある。何も知らぬただの使いの者であることを願うばかりだ。
「わかったわかった。だから寝なさい」
半ば強引なリンの言動に逆らう気も起きず、梅花はゆっくりと体をベッドに横たえた。抗えないほどの睡魔が襲ってくるのに、さしたる時間はかからなかった。
ぐったりしたカイキを洞窟の奥に座らせ、アースは深く嘆息した。これでようやく最後だ。気を失っていないだけまだましな方だが、動けない者を運ぶというのはなかなか骨が折れる。今日に限って言えばイレイもいるからさらに苦労した。それでも仲間たちが無事であったことには感謝すべきだろう。一体誰に感謝すればいいのかは定かではないが。
「さて」
岩壁で跳ね返り思いの外よく響いた声に顔をしかめつつ、アースは洞窟入口の方へと視線を転じた。その先にはレーナがいるはずだった。ちょっと様子を見るという意味のわからない発言をして空を眺めていたのでそのままにしておいたのだが、あれから音沙汰がない。そろそろ声を掛けてもよい頃だろう。彼は頭を掻きつつ振り返ると、静かに歩き出す。
「……レーナ?」
洞窟の外をのぞくと、そこにレーナはいた。ただし何故か入口のすぐ横に座り込んでいた。膝を抱えたままの姿勢でぼんやり空を仰ぐ様というのは、見ているだけで不安になる。すると彼女はようやく気づいたと言わんばかりに、やおら彼の方を振り向いた。
「ああ、アース。運び終わったのか? ありがとう」
ふわりとほころんだ顔はいつも通りと言えばそうだ。しかしどことなく力ない。彼女の頭から足先まで、彼はじっと凝視した。ろくに動かしていなかった左手はだらりと地面に垂れ下がったままで、右手で膝を抱えるようにしている。そこからぴくりとも動いていないのはやはり変だ。首から上しか動かしていない。
「そんなところで何してるんだ?」
「あーうん、気を探っていたんだが。その後、動けなくなってしまって」
やや気まずそうな顔で彼女は笑った。その言葉を理解するのに寸刻の間が必要だった。先ほどまでは確かに歩いていた。右手を掲げ空を仰いだりしていた。それなのに突然何を言っているのか? けれども彼女の顔にも気にも嘘を吐いているような様子は微塵も感じられない。いや、もとより彼女は嘘は吐かない。この場合は冗談でもないだろう。
「……まさか毒か?」
「違う違う、これは無理に精神を消費したその反動だ。本当は結構前からまずかったんだが、無視していただけだ。たぶん、ここに来て気が抜けたらしい」
ぱたぱたと右手を振る彼女を、彼は無言のまま見下ろした。どうやら右腕は動くようだが、そんなささやかな手の動きさえぎこちない。つまり動けないというのは本当らしい。しかし「結構前」とはいつからだったのか? 彼女はどこまでも無理が利いてしまうので、今さらながら心配になる。
「お前な……そういうことは早く言え」
ため息が重く響いた。それなら彼女をここに放置したりもしなかった。やることがあるのだろうと思ったから自由にさせておいたのに、そうなるとこれだ。彼ががしがしと後ろ髪を掻けば、彼女は慌てたようにまた右手を振る。
「だ、だから今言っただろう? その、だから、申し訳ないんだが、手を貸してくれると嬉しい」
「言われなくともそうする」
こんな時でも遠慮がちなのは本当に苛立たしい。戦闘の最中はごく当然のように当てにしてくれるのに、戦いが終わるとどうも距離をとろうとする節がある。それは他の三人に対しては見られない態度だ。
「まったく、お前って奴は」
心配と呆れが一定以上に達すると、それは怒りにも似た感情になる。そこにこの苛立ちが加わるとますます不快感は増すばかりだ。仏頂面で言い放った彼は、両腕を伸ばしてすぐさま彼女を抱き上げた。「え?」と不思議そうな声が耳元でする。「手を貸す」というのはこういう意味ではなかったらしいが、気にするつもりはない。
「動けないならおとなしくしていろ」
不機嫌に忠告すれば、彼女は素直に身を縮ませた。先ほどまでカイキたちを運んでいたのと比べると、彼女の軽さは際立つ。この細い体の中にあれだけのことをやってのける力が隠されているのだから、つくづく見た目というのは当てにならないものだ。全ての感情を混ぜ込んだまま腕に力を込めると、彼女が息を呑む気配が感じられた。
そのまま洞窟の中へと戻れば、カイキたちは相変わらずぐったりと座り込んだままだった。ただしカイキとイレイは目を瞑っているが、ネオンだけは起きている。彼の場合は傷と出血のせいで安静が必要なだけで、精神の方はずいぶんと安定してきていた。ひらりと手を上げたネオンの気楽な声が響く。
「お帰りレーナ。お疲れー」
普段以上に気安い声掛けなのは、この場合はあえてのことだろう。アースは黙ったままネオンの隣に腰を下ろす。すると腕から逃れようと彼女が身じろぎするのがわかった。無論、アースはおとなしく放すつもりもない。そのまま腕を解かずにいれば、彼女は困惑気味な吐息をこぼした。気を隠していなければ、戸惑いの色を滲ませていたかもしれない
「あの、アース、そろそろ離してくれないか?」
彼女がどうにかこちらを見上げようとしているのがわかる。横抱きにしているため彼女が頭の位置を変えると、前髪が首元に触れてかすかな音を立てた。しかし彼は腕を緩めるどころかさらに力を込め、眉根を寄せる。
「何故だ?」
「何故って……普通そうだろう。それに、落ち着かない」
腕を振り解こうとしないのは、無理だと諦めているからなのか。何故かできる限り小さくなろうとする彼女が愛しくて、ますます解放したくなくなる。そうでなくともこれ以上余計なことをさせたくなかったし、考えさせたくもなかった。――それに彼女を連れ戻そうとしたあの男のことを思い返すと、胸の奥から嫌なものが湧き上がってくる。あんな思いは二度とごめんだ。
「まあアース、気持ちはわかるけど、それはさすがにレーナもかわいそうじゃないか? 休めないだろ」
そこで恐る恐るネオンが口を挟んできた。身をすくめながらおろおろする彼女が気の毒になったのかもしれない。そうでなくとも誰もが彼女には甘かった。みんな彼女の味方をしようとし、そしていざという時は彼女に守られる。この矛盾は何なのだろう。
「だがこの冷たい地面に横たわるよりはましだろう?」
「そりゃあ、そうかもしれないけど。でもよぉ」
「いや、いいんだネオン。もういいから」
なおも異を唱えようとするネオンを制したのは彼女自身だった。どうでもいいと言わんばかりにそう告げると、今度はくたりと身を任せてくる。たったそれだけのことにじんわりと喜びを感じるのだからどうしようもない。アースがそれを自覚しつつ顔をしかめていると、かすれ気味な彼女の声が洞窟内に染み込んだ。
「動けないわれが悪いんだ。……シリウスがいなかったら、二回に分けて転移なんかしなくてもよかったんだがなぁ」
ぼやくような言葉の端々に嫌なものを感じ取り、アースは片眉を跳ね上げた。シリウスという名に覚えはなかったが、それが誰のことを指しているのかは予測がついた。この洞窟へと戻る直前、あの場にいた青い髪の男だろう。万が一居場所がばれるようなことがあってはまずいといつになく慎重な選択をした彼女に、尋ねたいことは山ほどあった。
「シリウス? それ誰だよ」
と、アースよりも先にネオンが問いかける。先ほどから青い顔のままだが、声音だけは普段通りだった。彼女が手渡した薬を飲んだおかげもあるだろうか。あの性格の悪い魔族のすることだから油断はならないが、この調子なら順調に回復するだろう。
「シリウスは神だ」
「……それじゃ答えになってるけどなってねぇよ。そいつ強いの? 何で知ってるの?」
いつものネオンなら躊躇しながら尋ねるところだが、今日は間髪入れずにだった。おそらく疲れのせいだろう。焦れったい話が苦手なアースとしてはありがたいことだが、彼女は困ったようだった。彼の腕の中でまた小さく身じろぎをしてから、うーんと軽く唸る。
「あいつは強い。おそらくこの地球で一番だな。いや、今いる神の中で一番か。……ミスカーテとアスファルトが巨大結界内に侵入してきたから、さすがのあいつも戻ってくる羽目になったんだろう」
彼女の返答は明瞭とは言い難かったが、あえて隠している時の言い様ではなかった。かといってどう説明しようかと考える際の慎重さもない。アースたちの理解が追いつかないことにも配慮できないといったところか。それだけ彼女も疲弊しているのだろう。
「えーっと、次々と名前が出てきてよくわかんないんだけど」
「ああ、すまない。アスファルトというのは我々の生みの親だって話はしただろう?」
聞き返した彼女に、ネオンはこくりと首を縦に振った。胡座をかいて背を岩壁に預けた彼は、何か言いづらそうに口をもごもごとさせ天井の辺りを見る。
「オレの傷を治してくれた奴だろ? 全然覚えてないけど」
やはりネオンはあの時のことを記憶していないらしい。あの性悪魔族――ミスカーテに手ひどくやられた直後なのだから、それも致し方ないか。つとミスカーテの顔を思い出すだけで、はらわたが煮えくりかえる思いが湧き上がった。自分よりも弱い者をなぶるような嗜好はどうしても好かない。何より自分たちを物扱いするあの態度は腹に据えかねる。
「そうそう。で、ミスカーテというのはアスファルトに一方的に対抗心を燃やしている魔族の名前だ。宇宙のあちこちで暗躍しているんだが、あの性格なので部下にも恐れられている。厄介な相手だな。ちなみに二人とも五腹心の直属の部下という、今いる魔族の中では最高位に当たる魔族だ」
今度はすらすらと説明が飛び出してきた。ふむふむと頷くネオンを横目に、アースは先ほどから気になっている単語を脳裏で繰り返す。「今いる」という表現は一体何を意味しているのだろう? それでは本当に最も強い神は、本当の上位の魔族はどこにいるのか?
「えー、そんな二人があの時来て、しかも顔会わせてたってこと? うわ、それって結構やばい状況だったんじゃない? それなら神が危機感持っても仕方ないよな。……生きててよかった」
ネオンはしみじみと呟いた。本当にその通りだった。あの強烈な気を持つ魔族たち、神の切り札のような男を前に、こうして無事に乗り切れたのは奇跡的なことだ。それも彼女が無理をしたからだと思うと複雑な気持ちにはなるが、彼女が連れ去られるよりはよいかと納得することにする。
しかし、あのアスファルトという男は何故彼女を連れて行こうとしたのか。口振りからすると彼女だけ連れ戻そうとしたようだったが、何故そうなるのか。それも引っ掛かることだ。自分たちと彼女の間には、やはり決定的な違いがある。
「……そうだな」
彼女がかすかに頷くと、その髪がたおやかに揺れてアースの腕を撫でた。アスファルトと対峙した時、彼女もアスファルトもどこかわかり合ったような気を放っていた。二人の間には何かがある。そして自分たちを見た時のアスファルトのあの顔。「覚えていないという噂は本当だったのか」という発言に含まれる感情をどう捉えたらいいのか。いくら考えてもアースには判断できない。自分たちは圧倒的に何も理解していないのだと、そう思い知らされただけだった。
「で、これからどうするんだ?」
そこでネオンは根本的な問いかけをした。どうするもこうするもないと言われればそれまでだが、さらに苦しい立場になっているのはアースでも飲み込める。これから彼女はどうするつもりなのだろう。この状況でどうやって神技隊を守るというのか。
「どうしたものかな」
すると彼女はまるでぼやくようにそう言う。彼女がそのような物言いを選ぶのは非情に珍しいことだった。それだけ途方に暮れているというほど悲嘆の滲んだ声ではないが、本当のところはどうなのか。気を隠しているためそこからは何も読み取れない。
「あいつを敵に回したくはないんだよなぁ」
続く囁きに、アースの底でちりりと何かが焼ける。不快感が止まらない。それを押し込めようと黙り込んでいると、ネオンが首を捻るのが視界の隅に映った。
「あいつって誰? そのシリウスって奴?」
「うん、そう」
彼女がそう思っているのは去り際の振る舞いから何となく予測できていた。もっとも「地球一強い」のであればそう判断するのが普通だろう。だが今までの経緯を考えると、神を敵に回さない方法というものが考えつかない。彼らはこちらを魔族の一味とみなして一方的に敵視していた。アースたちが一体いつ魔族の仲間になったというのか、問いただしたい気持ちになる。
「さっきも聞いたんだけど、知り合いなのか?」
そこでネオンは先ほどと同じ質問を繰り返した。常識的に考えれば、神と顔見知りなどあり得ぬ話だ。だが彼女の言い振り、声の調子から、どことなくそんな印象を受けていたことは事実だった。ただ噂で聞いたという雰囲気ではなかった。少なくともどこかで見かけたことはあるのだろう。
「知り合い……ってほどでもないが。うーんと、多少は?」
はぐらかすかと思えば、彼女はあっさり首肯した。揺れた髪がかすかな音を立て、また彼の腕を撫でる。
「以前に利用し合ったことがある」
「うわ、あんまり聞きたくないけど。それってレーナと同類ってこと?」
続く彼女の説明は信じがたいものだったが、またもや即座にネオンの問い返す声が続いた。おかげでアースは余計なことを考えずにすんだ。「利用し合う」というのが本当であれば、確かに彼女と似たような思考の持ち主でなければ無理だ。
「おい、それはどういう意味だ? まあ、われのような得体の知れない者を利用しようとするくらいだから、変わり者には違いないな。そういう意味では同類か。――だがここは地球だからな。あちらもどう出てくるのか」
彼女がため息を飲み込むのが感じられた。あの男の存在はアースが想像していた以上に悩ましいものだったらしい。どこか鷹揚とした態度、涼しい顔しながらも皮肉を口にするあの横顔を思い返すと、何とはなしに腑の底がむかむかとしてくる。理屈ではなく直感的なものだが、妙に気に食わない男だ。
「それじゃあ様子見るしかないんじゃないか? まずは回復だろ回復」
そこで話は終わりとばかりに、ネオンは気楽にそう締めくくった。思い切りあくびをして頭の後ろで腕を組む仕草は、どことなくカイキのものに似ている。彼女が反論しそうだったが、正論ではあった。どうにもできないのなら、最善を尽くすための準備をするしかない。つまり、この場合は睡眠だ。体力も精神力も回復させることができる一挙両得な方法だった。
「まあ、回復が最優先なのは間違いないな」
異を唱えるかと思ったが、今回ばかりは彼女も納得してくれたらしい。それだけ疲労しているとも言えるかもしれない。
「わかったならおとなしく寝ろ」
そう追い打ちをかければ、頭を傾けた彼女がこちらを見上げようとするのがわかった。アースがしっかり抱きかかえているのでそれもままならなかったようだが、顔をしかめているのは見なくとも予想できる。よく感じる気配と同じだ。
「……それって、まさかこのままで?」
「アース、前々から言いたかったけど、お前って容赦ないよな」
何故か彼女とネオンの声が重なり、洞窟内に染み入った。アースは適切な答えが思い浮かばず、仕方なく腕を緩めぬことで意思表示した。