white minds 第一部 ―邂逅到達―

第六章「鍵を握る者」6

「ラウジング、とかいったな。お前は本当に戦いたいのか?」
 炎が勢いを増し、火の粉が瞬く。熱気のせいか、それとも錯覚か、彼女の顔が揺らいで見えた。会話をすることで少しでも回復しようという魂胆だろうか? そう疑うものの、彼はすぐさま動き出すことができなかった。一度戦闘が始まってしまったら一瞬の気の緩みも許されない。その覚悟にはあと一歩何かが足りない。彼はぎりと奥歯を噛んだ。
「戦いたいか戦いたくないか、そんなことは関係ない。お前にこのまま好き勝手されるわけにはいかない」
「なるほど、われのせいということか。まあ、その気持ちは想像できる。今までひっそりと引きこもってきたわけだから、家の中を荒らされるのは我慢ならないのだろう?」
 怒るどころかしみじみと同意され、彼は困惑した。「引きこもり」という揶揄にさえ、咄嗟には反論できなかった。間違ってはいない。彼らはずっとこの「巨大結界」の中に隠れていた。――否、隠れられてはいない。しかし手が出せないと認識されることで長らく平穏を保ってきた。危うい安寧だ。
 それなのに、内側でこんな混乱が生じていることが知れたらどうなるか……。想像したくもない。だから皆が焦っている。狼狽えている。もしもの場合を考え、一刻も早く手を打とうとしている。
「警戒するのは当たり前だろう。一体、何が目的なんだ?」
 何度も脳裏をよぎっていた疑問を、彼は口にした。得体の知れないこのレーナという存在を、危険視するのは妥当だと思える。小さな綻びが破滅を導く例は、嫌と言うほど耳にしていた。
「目的? 端的に言えば、現時点ではオリジナルたちを守ることだ」
「守る? 何から?」
「それは言わずともわかっているだろう?」
 小首を傾げた彼女の髪が、熱風に煽られて優雅になびく。わずかに細められた瞳を凝視することは、彼にはできなかった。まさか魔族からとでも言いたいのか? 彼女が情報提供者として、半魔族の復活について警告してきたことを思い出す。そのために彼女は来たと?
 では何故神技隊を襲ったのか? やはり腑に落ちない部分がある。行動に一貫性が見いだせない。彼女の言葉を信じるだけの材料がなかった。嘘は吐いていなかったとしても、まだきっと隠していることがあるのだろう。そんな気がする。
 彼女が何か企んでいるのなら、野放しにはできない。半魔族の復活が『外』に知られないうちに、騒動を鎮めなければならない。そのためにも彼女は邪魔だった。だからケイルたちは彼女を葬るよう伝えてきた。生け捕ることは不可能だろうという判断は、ラウジングも納得できる。可能ならもっと情報を得たいなどと欲張ると、足下をすくわれかねない。手加減ができる相手ではなかった。
「そうか。……だがいつまでもここにいてもらっては困るんだ」
 彼は短剣を構える。頭の中が整理できたところで、覚悟が固まった。致命傷を負わせることができたなら、彼女はこの星から撤退してくれるのではないか。そんな朧気な期待もある。あの半魔族――魔獣弾は、先日の戦いで負傷しているはずだ。彼女さえ何とかしておけば、手の打ちようはある。
「帰るなら今のうちだぞ!」
 右方で幹が折れ、倒れる音がする。息を詰めた彼は地を蹴った。ぶわりと勢いを増す火の粉が風に乗って流れてくるも、かまわず走る。手にした短剣の刀身が、赤い瞬きを反射して鈍く輝いた。
 彼女がため息を吐くのが見えた。まるで聞き分けのない子どもを見つめる大人のような、呆れながらも微笑む瞳で、ひたとこちらを見据えてくる。ひたすら強い双眸だ。
 これが気にくわない。自分だけは全てを知っているのだと言わんげな眼差しが腹立たしい。翻弄するのが相手の狙いだったとしても、苛立たしさは抑えられない。
 彼は駆けながら短剣を突き出した。彼女相手に小細工は意味がない。ただこの武器の力を出し切ることだけを考えればいい。いや、そうするより他なかった。
 気合いを込めた一閃。揺らめくように後退した彼女は、紙一重のところで剣をかわした。軽く体を傾けるだけのごくわずかな動き。それでも服の一端をかすりもしない。
大振りとなった彼の方が、次の一手が遅くなる。彼女が刃を生み出す前にと左手へ振るった剣は、案の定空を切った。それと同時に襲い来るのは、背中への衝撃。一瞬、何が起こったのかわからなかった。それでも勢いに逆らわず前転したおかげで、深手にはならなかったようだ。
 彼は草の中を転がりながら距離をとる。視界の端で、青白い光が煌めいていた。あれは彼女得意の精神系に違いない。じわりと広がる鈍い痛みを自覚しつつ、彼は結界を張った。念のための防御だったが意味はあったようだ。透明な薄い膜の上を刃が撫でるように通り過ぎる。
「このっ」
 歯を食いしばりながら立ち上がり、彼は振り向きざまに剣を突き出した。闇雲な動きになってしまったが、幸いにも迫る不定の刃を受け止めることができた。彼女が手にした薄青の刃が揺らぎ、耳障りな高音を放つ。
 彼はまた結界を張りつつ数歩後退した。精神系の直撃を受けると、技の発現に影響が出る。エメラルド鉱石の短剣があるとはいえ、できる限り食らいたくはなかった。彼は元々精神容量がそれほど大きいわけではないし、制御も得意ではない。
 彼女は一足踏み出し、刃を軽く横薙ぎにする。その切っ先が目測よりも伸びることは、これまでの戦いで見聞きしている。
 飛びすさろうとした彼の結界を、青白い刃がかすめた。再び耳障りな音が空気を震わせた。しかし彼女はさらに迫ろうとはせず、刃を消滅させる。
 胸中で疑問が湧き起こるが、その理由を探る余裕などなかった。今が機会とばかりに、彼は左手で炎球を放つ。彼女の横を通り過ぎたそれは、背後の泉に着弾しジュワリと音を立てた。揺らいだ水面から白い煙が上がる。その行く先には目もくれず、彼は強く地を蹴った。
 手段は選ばない。彼女を倒す、それだけのために彼はここにいる。
 決意に呼応するように、手にした短剣が淡く輝いた。



 遠くで爆ぜる火の粉の音に混じり、誰かの声が聞こえたような気がした。思わず立ち止まった青葉は森の中を見回す。空耳ではなかったようで、前方では梅花とアサキも足を止めていた。辺りを濃い煙が覆っているため、視界はほとんど利かない。それでも先ほどよりましになっているのは、火の手から少し離れたからだろうか。
「今、何か聞こえまぁーしたか?」
 アサキの問いかけが煙を裂くようにして届く。「何かは」とだけ答えた青葉は、その声の特徴を思い出そうとした。若い女の声にも、少年の声にも思える。聞き覚えがあるような気もするが、はっきりとしない。
「空間も揺らいでるわね」
 ぽつりと梅花が呟く。不安と懸念の滲んだ彼女の声音は、青葉の不安をも煽った。先ほどと特段代わり映えのない、草木が燃える音だけしかないこの空間が、妙に落ち着かないものに思えてくる。
 誰かの声がするということは、近くで戦闘があるのだろうか? そうだとしたらもう少し何かわかりやすい変化があってもいいはずだが、技が使われた気配は察知できない。少なくとも彼には無理だ。
「どちらの方からでしょーう」
 そうアサキがぼやいた次の瞬間だった。今度ははっきりと、何者かの悲鳴が聞こえた。青年の声だった。妙な反響の仕方をしているせいで誰の叫び声とも断定できないが、やはり聞き覚えがある。青葉たちは目と目を見交わし頷き合った。響いてきたのは前方からだ。
「行きましょう」
 言うが早いか動き出すのが早いか、梅花が走り出す。慌てて青葉も後を追った。何が起こっているのかと思うと、気ばかりが急く。先へ進むにつれ煙が薄まったせいで、舞い上がる火の粉がよく見えるようになった。息苦しさが増すのは空気が薄くなっているのか、はたまた緊張のせいだろうか。結界越しに伝わってくる熱気に、背を伝う汗は増えていくばかりだ。
 徐々に周りの木の数が減っていく。膝まである下生えは炎に巻かれたため、踏みつけるとくしゃりと硬い音を立てる。その奇妙な感触にはなかなか慣れず、油断すると足を取られかねなかった。と、盛大に何かを蹴飛ばした。茶色い棒状の物がわずかに草の中から顔を出し、そのまま消える。おそらく折れた木の枝だろう。生き物ではないはずだ。
 落ちかけた速度を上げようとすると、またどこかで叫声が聞こえた。いや、これは技と技がぶつかり合った際に鳴り響く不協和音だ。やはり戦闘が起こっているらしい。
「うやっ!?」
 焦る青葉の足を鈍らせたのは、左手を走っていたアサキの悲鳴だった。どうやら何かに躓いたらしい。両手を前へ伸ばし盛大に草の海へ飛び込む姿が視界に入り、青葉は慌てる。ここで誰かが置き去りになるのはまずい。
 躓いた「何か」が人の体であるとわかったのは、アサキを助け起こした時だ。草の中に倒れているのは白い服を着た男だった。ぐったりとした様子で地に伏している。かすかに指先が動いたところを見ると死んではいないようだ。はずれかけた白いフードの下から、青白い顔と朱色の髪がのぞいていた。
 アサキが立ち上がるのを待とうとしたところで、青葉ははたと顔を上げた。勢いよく振り向くと、梅花の後ろ姿は既に小さくなっていた。揺れる黒髪の先が、煙のためかすんで見える。アサキの様子に気づいていないのかそれとも戦況確認を優先したのか。
「梅花っ」
「青葉、急ぐでぇーす!」
 このままでは離れ離れになる。その危険性にアサキも気がついたようだ。青葉はちらとアサキの目を見た。迷いは許さないと言わんばかりの強い眼差しだ。その力強さに背を押されたのか、青葉の足はひとりでに動き出す。アサキならすぐに追いついてきてくれると信じるしかなかった。戦闘が起こっているのなら、梅花一人で飛び込ませるのは危険だ。
「梅花!」
 念のためもう一度呼びかけてみるが、梅花まで届くかどうか。彼女は自分の安否は二の次にしてしまうから、こういう時に一人でもたじろぐということがない。頼もしい反面、厄介だった。
 舌打ちした青葉は、体に風を纏わせる。木々が減ったので低空を飛ぶことも可能なはずだ。その方が走るより速い。地を蹴った勢いのまま浮かび上がると、彼は草の上を這うように進んだ。彼を中心に生まれた風に揺さぶられ、近くの細い幹がみしみしと不穏な音を立てる。
 もう少しで梅花に追いつく。その背中に手が届く。そこまで来たところで、忽然と視界が開けた。彼女の足が止まった。なびいた髪の向こうに、赤く輝く泉が見える。そのまま追い越しそうになった彼は、左足を前に伸ばして無理やり地へ降りた。
「――レーナ!」
 切羽詰まった梅花の声は、水面に飲み込まれたようによく響かなかった。どうにか着地した青葉は勢いを殺しきれずに右の膝と手をつく。抉れた地面の感触が足に響いた。土とも灰とも言えぬよどみが煙と一緒に舞い上がり、視界が濁る。咳き込みそうになりつつ、すぐさま彼は立ち上がった。
 梅花の背中越しにまず見えたのは、青白い刃。薄い煙が満ちる中でも、技が生み出す輝きは鮮烈だった。その切っ先がラウジングに振り下ろされる寸前、逸れたのも把握できた。片膝をついたラウジングの腕をかすめ、草の海に落ちる。苦悶の声を上げる彼の向こう側で、レーナがつと顔を上げた。
 レーナの眼差しがこちらを捉えたのがわかった。何故だか泣きそうに見えた瞳には、幾つもの感情が浮かび上がっているかのようだった。全てが複雑で曖昧。ただ一つ確かなことは、彼女がこの時を待ち望んでいなかったことだけ。そんなあらゆる色を含んだ黒の双眸が、次の瞬間、すがめられる。
「駄目!」
 梅花の声がかすれる。青葉は固唾を呑んだ。即座に結界を張ろうとしたレーナに向かって、立ち上がったラウジングの腕が伸びる。その手にある短剣が薄緑色の光を帯びていたことを、青葉は認識した。全ての動きが、ひどくゆっくりとして見えた。体当たりする勢いで踏み込んだラウジング。結界を突き破った短剣が、彼女の体に突き刺さる。
 もう一度梅花が叫んだ。今度は泉に吸い込まれることなくよく響いた。そこでようやくラウジングも青葉たちの存在に気がついたらしい。弾かれたように振り返り、眼を見開く。その反動で深々と刺さった短剣も引き抜かれた。真っ赤に染まった刀身に目を奪われ、青葉は息を呑む。薄緑の輝きを失った刀身がぬらりと鈍く光を照り返した。
「――っつ」
 声が出ない。足が動かない。思考が働かない。それでも梅花が走り出そうとする気配を咄嗟に感じ取り、青葉はその華奢な肩を反射的に掴んだ。依然として視線はラウジングたちに縫い止められたままだ。今ここで何をすべきなのかもわからず、ただ呆然と立ち尽くす。
「神技隊、何故、ここに……」
 一歩一歩、ラウジングは後退った。手にした短剣からしたたった血の滴が、踏みつけられた草の中に落ちていく。相当動揺しているらしい。喉を鳴らした青葉は梅花の体を引き寄せつつ、ラウジングとレーナを交互に見た。今にも膝から崩れ落ちそうなラウジングとは対照的に、腹部を押さえたレーナは微笑んでいた。緩やかに上がった口の端にも血が滲んでいるが、瞳にはまだ力がある。
「ミケルダって、いう人が」
 それだけを口にするのが精一杯だった。背後でごうっと炎が勢いを増す音がする。それでも泉が近いおかげか、熱気はさほどではなかった。火の粉を反射して輝く水面は美しくすらある。妙に現実感のない光景に、頭の芯がじんと痺れたようだ。
「こういうのは、見られたくなかったんだがなぁ」
 ラウジングが口を閉ざす代わりに、頭を傾けたレーナが呑気な声を出した。表情も眼差しもいつもとあまりに変わりがなくて、傷口を押さえた左手から鮮血がこぼれてさえいなければ、負傷しているとは到底思えなかった。ゆらりと風に煽られた黒髪がなびく。全てが妙に優雅で、そしてどこか儚く見えた。
「あんまり、見て、気持ちのいいものではないだろう?」
 くすりと笑ったレーナは、次の瞬間体を折って血を吐く。かすかに背中が震えているのは痛みを堪えているためだろうか。やはり相当の深手だ。立って話をしていられるのがおかしいのだ。青葉は梅花の肩を強く掴みながら、レーナを見据える。空気が悪いせいか、奥歯に力を入れすぎているのか、頭が痛い。
「青葉、一体、なぁーにが……」
 そこでようやく背後からアサキが近づいてくる気配があった。振り返ることができない青葉は、ただ機械的に相槌を打つ。名を呼ぶアサキの声にも応えることができなかった。
「まいったな」
 手の甲で口を拭ったレーナはゆっくり上体を起こした。そしてラウジングの方へ視線を転じる。それまで石のように固まっていたラウジングは、はっとした様子で顔を上げた。彼女の双眸にまだ光があることを感知したのか。
「エメラルド鉱石は、やっぱりきついなぁ。傷も深い。ああ、まいった。こういうのを、あまりオリジナルたちには見せたくないんだが」
 レーナはそう独りごちながら、血だらけになった右手を掲げる。鮮血の眩しささえ幻と思わせるような声音は、不気味で空恐ろしい。背筋を冷たいものが走り抜けるのを、青葉は止められなかった。
 伸ばされたレーナの手の中に生まれたのは、真っ白な不定の刃だった。あの傷を負ってなお戦おうとする姿勢には、ただただ喫驚するしかない。彼女にそこまでさせるものは何なのか? 止めたいとは思うのに、やはり青葉の足は地に縫い付けられたままだった。それは背後にいるアサキも同様らしい。
「だが仕方ない。準備時間も必要だしな」
 軽く地を蹴ったレーナは、まるで空を踏むがごとくラウジングに接近した。怪我人の動きではなかった。反応したラウジングが短剣を構えるよりも、彼女が剣を振るう方が早い。傷などないかのような滑らかさで、斜めに斬り上げる。
 くぐもった悲鳴が上がった。弧を描くようにして伸びた白い刃が、ラウジングの左胴から肩を切り裂いた。血が噴き出すわけでもないのに、その一撃が重いことは青葉にもわかる。衝撃を受け止めきれず地へ転がったラウジングの、聞いたことのない呻き声が鼓膜を震わせた。下生えの中に埋もれた彼が、そこでもがいているのが草の揺れから見て取れる。
「――悪いな」
 刃が消え、レーナが微笑んだ。背を伸ばした彼女の眼差しが、再び青葉たちの方へ向けられる。そこから目を逸らすこともできず、青葉は小さく息を呑んだ。自分たちが一体何のためにここへ来たのか、忘れてしまいそうだった。まるで夢の中にいるような心地で頭が働かない。それでも全てが手遅れであることだけは感じていた。

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