white minds 第一部 ―邂逅到達―

第四章「すれ違う指先」8

 計測器の保管場所は宮殿内でも機密事項となっていたが、かまわず梅花はそれを持ち出した。実際、場所を知っている者であれば使用は自由とされていた。何故なら、知っているのは本来は上の者に限られていたからだ。普段『下』にいる者が利用することはほとんどない。――以前までは、確かにそうだった。
「まあ、本当に上の人しか使わないなら宮殿に置いておく必要はないんだけどね」
 見た目よりも重い黒い箱には、亜空間が使用されている。この手の道具に関して、皆が思っているより上の技術力は高い。特別車を始めとして、宮殿では様々な場所で利用されていた。ただし、どういった手法を用いて作成しているのかは明らかとされていない。ここでも秘密主義だ。
「念のため、か……」
 箱を手にした梅花は、再びリシヤの森へ向かうべく廊下を急ぐいだ。この辺り――第五南棟に用のある人間は少ないので、人通りは疎らだ。誰かにぶつかるのを気にする必要もないので、いっそう足早になる。
 遅れるとまたカルマラが何をしでかすかわかったものではなかった。帰ってきたばかりの彼女の高揚感を舐めてはいけない。様々な騒動を引き起こすある種の有名人だが、そのほとんどは戻って来たばかりの頃だ。こんなに生きにくい場所でも、彼女にとっては懐かしい故郷らしい。
 そんなことを考えて気が急いていたためだろう。普段なら呼び止められる前に気がつく気配に、今日ばかりは意識が向いていなかった。
「梅花ちゃん!」
 背中に降りかかる呼び声は、耳馴染んだものだった。はっとした梅花は足を止め、箱を抱え直して振り返る。
「ミケルダさん?」
 廊下の奥で手を振っていたのはミケルダだ。癖のある狐色の髪に垂れ目が特徴的な、陽気で気安い青年。宮殿で一番よく見かける上の者。何と返答しようか梅花が迷っていると、彼はリズミカルな足取りで近づいてきた。
「梅花ちゃんまたこっちに来てたんだ。最近多いんじゃないー? ってそれ計測器でしょ。何かあったの?」
 のほほんとした口調で尋ねてきたミケルダは、周囲へ一瞥をくれてから首を傾げる。疎らだった人の流れは、いつの間にか皆無になっている。彼がいるからに違いない。上の者が通りかかる道を、普通の人間は避けたがる。失礼があってはならないから、邪魔をしてはいけないから、というのが表向きの理由だが、厄介ごとに巻き込まれたくないというのが本音だろう。彼に近づいていく者がいるとしたら、技使いの子どもくらいだ。
 もっとも、人気がなくなることは梅花にとっても好都合だった。遠巻きに眺められると居心地が悪いので、はっきり避けてくれる方が楽だ。発言に関してもそこまで気を遣わなくてすむ。
「ちょっと。……カルマラさんを助けるためにお借りしようと思いまして」
 向き直った梅花は正直に告げた。ミケルダはカルマラのこともよく知っているので、こう告げるだけで事情を察してくれるだろう。案の定、瞳を瞬かせた彼は思案顔になり「あー」と声を漏らした。
「もうすぐカールが戻ってくるとは聞いてたんだけど、本当に帰ってきてたんだ。でもって、早々に梅花ちゃんたちとお仕事? そりゃあ梅花ちゃんは大変だ。はしゃいでたでしょう?」
「ええ、まあ」
「お疲れ様。だから梅花ちゃん、顔色悪いの?」
 ミケルダは困ったように笑い、癖のある柔らかい髪をわしゃわしゃと掻いた。体調が思わしくない理由は他にもあるのだが、あえてそこには触れず梅花は曖昧に頷く。やや目を伏せると、彼のもう一方の手に書類の束があることに気がついた。珍しい。事務的な業務は苦手としているので、いつもなら宮殿内の技使い育成を専門とし、雑務は他人に押しつけていたはずだ。
「ところで。カルマラさんが呼び戻されてるってことは、ミケルダさんには別の仕事が行ってるんですよね?」
 そう結論づけた梅花は頭を傾けた。普段は宮殿内でのんびり仕事をしているミケルダだが、外でのちょっとした異変にも対応している。一般的な技使いでは太刀打ちできない案件等がその対象だ。リシヤでの騒ぎにも、今までならミケルダが出向いていた。
 ラウジングという見知らぬ上の者が出てきたのは無世界が関わっているからだと思っていたのだが、どうもそれだけではないらしい。既にミケルダには別の仕事が回されていたと考えるべきだろう。
「いやぁ、梅花ちゃんはさすが鋭いね。残念ながら内容は口外できないんだけど、これでも忙しくてさ」
「それは話しかけてくる頻度で推測できますよ。色々動きがあるってことがわかれば今は十分です」
 頭を掻くミケルダに、梅花は首をすくめてそう言ってみせた。宮殿で彼を見かける頻度が増えることは、平和の証だ。逆に彼の姿が見えない時は、何かが起こっている証拠だった。彼女にとってはよくない兆し。
「梅花ちゃんは相変わらず冷静だねぇ。普通は教えてくれってせがまれるところだよ」
「また私にうっかり漏らしたら、後でミケルダさんが叱られることになりますから」
「あはは、あの時みたいに? でも梅花ちゃんは口が堅いから」
「喋りはしませんが。でもミケルダさんからの情報は判断基準の一つになってしまいます。私の動きを見たら、誰かは何かに気がついてしまいますよ」
 へらへら笑うミケルダに、梅花はそう忠告した。幼少時から世話になっているこの青年は、妙なところで詰めが甘い。いや、わざとそうしていると言うべきか。気に入らない命令に対しては目に見えない程度に反抗しつつ、迂闊な青年を装って飄々としている節がある。
「大丈夫大丈夫。梅花ちゃんが聡いことはみんなわかってるから」
「いつまでそれで通すつもりですか……。私は知りませんよ」
 相変わらずのミケルダに呆れながらも、梅花ははっとした。こんなところで長居している場合ではない。少しでも遅れたら、あのカルマラがいつ痺れを切らすかわかったものではなかった。そんなことになれば青葉たちに迷惑が掛かる。そうでなくともカルマラの相手をするのは疲れるだろうに。
「それでは、カルマラさんを待たせると何が起こるかわかりませんので、私はこれで」
「――梅花ちゃん」
 すぐさま軽く一礼をして、梅花は踵を返そうとした。しかし、一歩目を踏み出す直前で呼び止められた。先ほどまでのお気楽な声音とは違う、何か含みを持った言い様だ。足を止めた彼女は肩越しに振り返る。
「何ですか?」
「どうも、ケイル様が動こうとしているっぽい」
「……さっきの私の話、聞いてました?」
「聞いてたけど言う。あっちが動くとオレらのところに情報回ってこないし、気をつけて」
 困惑しながらも、梅花は首を縦に振った。ここまで神妙なミケルダの顔というのは、久しぶりに見たような気がする。気をつけてとだけ言われても気をつけようがないのだが、違和感には細心の注意を払うべきだろう。もう一度頭を下げた彼女は、今度こそ廊下を歩き出した。白い空間に靴音が響く。
 やはり上もごたついているらしい。何かとんでもない事態が生じないことを祈りながら、彼女は箱をちらりと見下ろした。この小さな黒い固まりが、いっそうずしりと手にのしかかってくるように感じられる。
 これを持ってリシヤに行き、空間の歪みの要所を探り出し、装置を設置し、上に報告。判断を待ってまた走り回ることになるだろうか。これからの動きを考えると、足取りまで重くなりそうだった。



 夕飯の片付けが終わると、手持ち無沙汰になることが多い。賑やかな仲間たちがいなくなるとなおさらだ。何気なくつけたテレビでは、先ほどから物騒なニュースが続いていた。真面目に見るのも疲れてきたシンは、何とはなしに視線を右斜め前へやる。ほぼ同時に、座卓で頬杖をついていたリンが嘆息した。彼女はココアの入ったマグカップを見下ろし、憂鬱そうな顔をしている。
「何だよ、そのため息」
「んー? サツバの説得、どれくらい時間が掛かるかなぁと思って」
 マグカップを両手で包み込み、リンは肩をすぼめた。気にしていたのは先ほど部屋を飛び出していったサツバのことのようだ。ひどい剣幕だったので心境はわからないでもない。苦笑したシンは、座卓の上を指で叩いた。
「説得もなにも、連れて行くしかないだろ。明後日には出発だぞ」
「納得してないのに連れて行ったら、不満たらたらになるじゃない。それが嫌なのよ」
 不機嫌なサツバの相手を誰がするのかと、リンの眼差しは訴えている。十中八九その役目は彼女になるだろう。ローラインはサツバの様子など意に介さないし、北斗は困り顔でたじろぐばかりだ。有無を言わさずサツバを巻き込めるのは彼女しかいない。
「神技隊の自覚が足りないってのも困るな」
「そうなのよねぇ。でもまあ、ここまで来ると神技隊としての範疇は超えている気がするから、不満に思うのもわかるんだけど」
 リンはもう一度ため息を吐いた。ここでサツバの肩を持つとは意外だ。シンが「へぇ?」と首を捻ると、彼女は冷めかけているだろうココアを口に含んでぼんやりテレビを眺める。くだらないニュースと陰惨な事件の報道が入り交じっている、いつも適当に聞き流している番組だ。彼もちらとそちらを見遣った。どうやら過労死についての特集が始まったようだ。
「何の保証もなく、何のためなのかも知らずに、よくわからない仕事を押しつけられるのは迷惑よね」
 ぽつりと呟かれた言葉が、部屋の中に染み入る。返答に逡巡し、シンは口をつぐんだ。今の彼らの現状はまさにそれだ。当初は勝手に狙われるから否応なく対処しなければならないといった状態だったが、徐々に事情は変わってきている。
 何故彼らが神魔世界に行かなければならないのか。無理やり選んで派遣しておいて、勝手な都合で呼び戻すとはどういうことなのか。技使いが必要なら、神魔世界には余るほどいる。上の命令であれば、宮殿の要請であれば、断る者はまずいないだろう。それなのにどうして神技隊なのか。
「せめて説明してくれたらな」
 神技隊とはそういうものだと言われたらおしまいだが。ならば神技隊とは本来は何のために存在するのか。違法者を捕まえる意図を含め、最近は疑問ばかりが浮かんでくる。納得できないことだらけだ。それを考えると、サツバの反応は間違っていないのかもしれない。仲間としては迷惑この上ないが。
「そう、事情がわかれば気持ちの持っていきどころもあるんだけどねー」
 リンは相槌を打つ。しかし残念なことに上からの詳しい説明はなく、何度も失望させられてばかりだった。今回の件を伝えに来た梅花も「詳しい状況はよくわかりません」と話していた。おおよその出来事なら知っているのかもしれないが、無世界で話せることではないのか。
「梅花、お前には何か話してなかったのか?」
「さっきの話? 何か言いにくそうにしてたわよ。上が直接絡んできてるから、とか口にしてたわね。上が絡んでると神技隊じゃなきゃ駄目なのかしら?」
 テレビから視線を外したリンは、不思議そうに瞳を瞬かせる。上と聞くと、あの無愛想なラウジングの横顔がシンの脳裏に浮かんだ。亜空間では大変な目に遭った。リンの怪我のことを思い出すと、いまだに腑の底が重くなる。
「私たちは宮殿に出入りしたことがあるから? だからいいの? でも、それなら宮殿の技使いに任せたらいい話よね」
 考えを纏めるためか、リンはぶつぶつ呟いている。上の者はできる限り「一般人」との接触を避けている、というのは朧気ながら感じているところだ。神技隊が別枠扱いになっているのは理解できるが、しかしそれが理由なら宮殿に住んでいる技使いの方が適任だろう。わざわざゲートを開く必要もない。
「やっぱり、そもそもオレたちはただ違法者取り締まりのためだけに選ばれたわけじゃないってことか」
 結局、そう結論づけざるを得ない。つまり体よく動かせる手駒として選んだのか? そう考えると口の中に苦い物が広がった。神技隊に選ばれた時、皆がどんな思いでそれを受け入れたのか。故郷を離れ見知らぬ世界に赴く決意を固めるのに、どれだけの時間を要したか。準備のためにどれほど苦労したか。上は全く考えていないのか……。
「何かあった時のための要員ってこと? うーん、でもねー、そうなると説明がつかないことがあるのよねぇ」
 鬱屈した気分に押し潰されそうになっていると、リンが何か言いたげに小さく唸った。片眉を跳ね上げてシンは首を傾げる。何か引っかかることがあるのか。
「まあ、非常事態には利用しようと思っていたってのは理解できたとしても。レーナたちのことが説明できないのよ。彼女は何故だか神技隊を狙っていて。かと思えば『オリジナル』とか言ってる梅花たちのことを守ってて。……結局は、執着してるのが神技隊って存在なのよね。ただの非常事態用の要員に対してって考えると変でしょう? しかもどうして梅花たちとそっくりなのかってことも謎のままよ」
「それは、そうだな」
 確かに、その点は気に掛かる。神技隊とそっくりの五人組が現れるなんていう異変が偶然発生していいものなのか? ではレーナたちの存在を予期して神技隊を選んでいた? いや、それも変だ。「オリジナル」だとわかって青葉たちを選んだのだとしたら、上の戸惑い方は説明できない。大体、神技隊の選抜を行っていたのは多世界戦局専門部だ。梅花もレーナたちについては全く知らない様子だった。
「そうなると……」
 困惑しているのは神技隊だけではないのか。そう考えると少しずつ見えてくるものがあった。自分たち側からばかり考えているから疑いたくなるのであって、そうではないとしたら。
「上も不安なのか」
 何もわかっていないのは上も同じだとしたら。何故だか狙われている神技隊、レーナたちのオリジナルであるシークレットを、このまま無世界に置いておきたいと思うか。
「つまり、上は目の届く範囲に私たちを呼び戻したくなったってこと?」
 リンは座卓に置いたマグカップの縁を、指先でそっとなぞる。頷いたシンは首の後ろを掻いた。
「ああ。梅花の話でも、上は慎重になってるみたいだっただろう? そうなると、このままオレたちを無世界に放置しておくのは不安なんじゃないのか」
「えー、何だかそれって心配性の家族みたいね」
 何故だかリンはげんなりとした顔でまた頬杖をついた。手駒にされるよりは心配された方がまだましなように思うが、彼女は違うのか。シンは微苦笑を浮かべ、うるさく騒ぎ出したテレビを消した。会話の邪魔になるだけだ。
「上が心配してるのは梅花だけ、もしくはシークレットだけじゃあないの?」
「それならオレたちまで呼び戻す必要はないだろう? シークレットと、宮殿の技使いにでも任せたらいい」
 こうやって話をしていると、思考が整理されていく。シークレットが特別扱いされるのはわかるが、それだけではなさそうな印象だ。上も何をどうすればいいのか計りかねているのか?
「んーやっぱり結論は出ないわね。ま、神魔世界で何をやらされるのかもわからないんだしね」
 考えるのを諦めたらしく、リンはずずっとココアをすすった。シンもこれ以上詮無いことに頭を悩ませるのは止め、壁にある時計を見上げる。そして重要なことに気がついた。
「ところで――」
「ん?」
「サツバだけじゃなく、北斗も戻ってこないな」
「あ、そうね」
 激昂して飛び出していったサツバを、慌てて北斗が追いかけていったのだが。あれからしばらく経っているのに、音沙汰がない。気を隠しているから捜しにくいというのはわかるが、それにしても遅かった。見つからないなら見つからないで戻ってくるはずだ。サツバも小さな子どもではないのだし。
「もしかしてもしかすると、北斗が説得してくれてるのかも?」
「期待して違ったら、辛いのはリンだぞ」
「わかってるわよ」
 一瞬瞳を輝かせた後、リンは子どもっぽく唇を尖らせた。たまに彼女はこんな表情をする。普段年齢以上に大人びてしっかりしているだけに、その差が妙に目についた。こうして話をしていると忘れそうになるが、彼女はシンより五つも年下なのだ。あのサツバよりも年少者だ。……信じがたいことに。
「ま、サツバが戻ってこないことには話が進まないんだし。こっちはこっちの準備をしましょうか」
 気合いを入れるようにパンと手を叩いて、リンはおもむろに立ち上がった。揺れたスカートの裾が、座卓を撫でる。シンは顔をしかめつつ彼女を見上げた。
「準備?」
「そう、出発準備。まさかシン、神魔世界に連れて行かれてすぐに戻ってこられると思ってる?」
 不思議そうに聞き返したところ、耳障りの悪い言葉が降りかかってきた。深くは考えていなかったが、そう問われると胸の奥にざわりとした感触が広がっていく。言うならば嫌な予感とでも称すべき感覚だろうか。ざらざらとした冷たい何かが背中を這い上がってくる気配。
「あの上のすることよ? 覚悟しとかなきゃ」
 諦めたように苦笑したリンに、かける言葉はなかった。

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