white minds 第一部 ―邂逅到達―
第三章「望みの居場所」9
なかなか戻ってこないので様子を見に来たのだろうか。梅花は言い訳を考えながら、ちらと横へ目を向けた。そして眼を見開いた。
「あれ?」
そこにレーナの姿はなかった。先ほどまで隣にいたのがまるで嘘のように消え去っている。梅花は瞬きを繰り返しながら首を傾けた。一体何が起こったのだろう。瞬く間に姿を消す技など見たことも聞いたこともない。辺りへ視線を巡らせても、どこにも見当たらなかった。
梅花が呆然としている間に、雨を弾く傘の音がどんどん近づいてくる。困惑したままそちらへ顔を向けると、不機嫌そうな顔の青葉と目が合った。
「梅花!」
名を呼ばれても、すぐに返事をすることができない。梅花は聞こえているという意思表示のため、かろうじて首を縦に振った。間の抜けた顔をしている自覚はあるが、うまく理由を説明できない。怪訝そうに眉根を寄せた青葉は、彼女の前で立ち止まった。
「何で起こしていかなかったんだよ! ゲートに異変って一大事だろっ」
青葉の怒声に、梅花はまた相槌だけで答えた。するとさすがに様子が変だと訝しんだのか、彼は眉をひそめて首を捻る。それから周囲を見回した。
「ゲートはもう大丈夫そうだな。だから雨宿りってか?」
「そういう、わけじゃあ、ないんだけど」
この状況をどう説明していいのか、梅花は言葉を濁した。レーナが来たと知ったらまた青葉は怒るだろうか? しかし隠していたのがばれた時の方が厄介なことになると思える。眼差しで問いかけてくる彼に向かって、彼女は恐る恐る申告した。
「突然、レーナがやってきたのよ。私に、会いに来たって言ってた。……慰められたことになるのかしら」
そこまで口にしてから、彼女は失言に気づいた。慰められるような理由があったことまでばれてしまう。それでもすぐにうまい言い訳が浮かばずまごついていると、目を丸くした彼はついで苦い顔をした。その後、苦笑したような喜んだような複雑そうな表情を浮かべる。めまぐるしい不思議な変化だ。
「……何で、レーナが来てるんだよ。いや、お前に聞いても仕方ないか。その様子だと戦ったわけじゃあないんだろう? っていうか、慰めたってなんだよ。何かあったのか?」
青葉は一度に色んなことを尋ねてくる。どうやら彼にも混乱が波及してしまったようだ。観念した梅花は小さく嘆息すると、前に一歩を踏み出した。そして当惑顔の彼の腕に触れる。
「順に話すから、まずは戻りましょう。アサキたちは起きてるの?」
「あ、そうだな。寝ぼけたアサキに梅花を迎えに行くって話しかしてない」
「じゃあ、なおさら早く帰らないとね」
梅花はもう一度ゲートの方へ一瞥をくれた。まるで何事もなかったかのように元通りになったそれを、つい恨めしく睨みつけそうになる。早まった選択だった。レーナから情報を聞き出せたのはいいが、家族のことはどうにもならない。そう考えるだけでまた気が沈む。
「ほら、早く帰るんだろ」
ぐいと肩を引き寄せられ、梅花は体勢を崩しかけた。足を強く踏み出したせいで、ばしゃりと靴が水を跳ねさせる音がする。文句を言いたくなったが、傘に入れという意味だと察して口を閉ざした。また濡れなくてすむのだから、感謝こそすれど不平を言うのは間違っている。
「――ありがとう」
かろうじて出した声は掠れ気味だった。それでもすぐ傍にいる青葉には届いたようで、手を離した彼が息を呑む気配が感じられる。そこまで驚くことかと眉根を寄せながら、彼女は目だけで彼を見上げた。口を何度か開閉させながら、何か言いたげな様子だった。大袈裟な反応だ。
「……何?」
「いや、何ていうか、礼を言われるとは思ってなかったから」
「私はそんなに失礼な人間に見えるの?」
「失礼とか失礼じゃないとかそういうんじゃなくて。だってお前、心配されるのとか苦手だろ。いつもこれくらいどうしたって感じだろ。だから、びっくりした」
そう説明されて梅花は首を捻った。確かに、心配されるのは苦手だ。案じてくれる人々の抱える痛みが直に感じられるようで、心配だと言われる度に息苦しかった。
しかし今はそうではない。ゲートのことがあったからか? 雨が降ってきてしまったからか? ――そうかもしれない。以前、突然の大雨でずぶ濡れになった後、何日も寝込む羽目になったことがあった。同じ事を繰り返す可能性があると考えれば、大丈夫とは言えない。迷惑を掛けずにすむなら幸いだった。
「そう。こんな天気になっちゃったしね」
雨さえ降らなければすぐに動き出せただろうか。いや、そうではないだろう。梅花が目を伏せると、また肩を掴まれた。「とにかく戻るぞ」との言葉に、彼女は頷く。青葉は口よりも先に行動する類の人間だが、それをここで指摘しても仕方ないだろう。それだけの気力もない。これから先ほどの重苦しい状況を説明しなければならないと考えると、口も重くなった。
雨の滴が、ぽつぽつと傘で弾かれる音が単調に続く。彼の普段の歩調よりは、幾分か遅い。傍だから感じる体温の高さに、自分の体が冷えていたことを気づかされた。季節が季節であれば本当に風邪をひいていたかもしれない。精神量には自信があるが、体力においては人より劣っている自覚があった。どうにか気力で保たせていると、その後で反動が来ることも多い。
「それで、何があったんだよ」
公園を出る辺りで、青葉が問いかけてくる。はぐらかすのは無理だろうと、梅花は諦念の面持ちで声を絞り出した。
「ゲートへ向かう途中にね、偶然……妹に会ったのよ」
そう伝えるだけで、青葉は何かを察したようだった。隠しきれなくなった彼の気から感情が伝わってくる。哀れみとも違う、わずかな悲嘆と気遣いと、驚きの混じり合ったもの。彼が何かを言い出す前に、梅花はさらに続きを口にした。
「どうして来たんだって、怒られちゃった。本当にその通りだと思うわ。でも、ゲートのことが気になるから、置き去りにしてきたのよ」
「――そこでレーナに会ったのか?」
幸いなことに、あすずとの詳しい話は追及されなかった。そのことに安堵しつつ、梅花は首を縦に振る。
「そう。ちょうど雨が降ってきたところだったから、木の下に連れて行かれたの。何だか、わけのわからないこと言ってたけど。落ち着かせようとしてくれてたみたいね」
あすずとのやりとりさえ口にしなければ、状況としては単純だ。それでも青葉は閉口していた。張り詰めた空気が肌に感じられて、梅花もそれきり押し黙る。雨音が何だか遠い。考えるべきことが色々とあって、うまくまとまりがつかなかった。だが何があっても今優先しなければならないのはゲートのことだ。アサキたちに状況を説明したら、宮殿に行かなくては。
「とにかく、このことを上にきちんと報告しておかないといけないわ。アサキたちに事情を話したら、神魔世界に戻るから」
痛々しい沈黙を破るように、梅花はそう吐き出した。青葉の体に力が入ったのが感じ取れる。わずかな逡巡の後、「わかった」と彼は素直に頷いた。「またか」と呆れられると思っていたのにすんなり了承されたのが意外で、彼女は首を捻りつつ彼を見上げた。間近で視線が合う。
「その代わりオレも行く」
「……え?」
「単独で行動するなって言ってるだろ。レーナは何も仕掛けて来なかったからよかったけど、これが青い男とかだったらどうするんだよ」
そう言われると反論の言葉が出てこない。たまたま何もなかっただけで、次もそうなるとは限らない。こちらの状況を宮殿側に理解してもらうためにも、その方がいいだろうか。梅花は青葉から視線を外すと首をすくめた。
「そうね、わかったわ」
答えた途端、ぐいと背中を押される感触があった。あっと声を出す間もなく視界が黒く塗りつぶされる。抱き寄せられたのだと理解するのに時間が掛かった。崩れた体勢を立て直そうとしても、肩を掴む力が強くてびくともしない。
「お願いだから、無理するなよ」
頭に直接響くような声。無理の意味がわからず、梅花は考え込む。それは一人で勝手に出かけていくことを意味しているのか、それとも――。
「辛いなら辛いって言えよ」
まるで祈りのようだと、梅花は思った。青葉の目に、それほど自分は痛々しく映っていたのか。無理というのがどの範疇なのか、彼女にはもうわからなくなっていた。自分の力を過信するつもりはないし、気持ちを押し殺しているつもりもないが、何が正常なのか忘れてしまっている。どこまで『当たり前』の線を下げたら『普通』になるのか。それを示されたことなどなかった。
彼女の努力は努力とは受け取られず、「神童だからできるだろう」の一言で括られる。押し黙っていたら、何も感じていないことにされる。諦めて受け入れていたらいっそう要求は増すばかりで、反論すると疎まれる。
だから単純に、事実に即して行動するしかなかった。そこに感情を差し挟むのは無駄なエネルギーを消耗するだけの結果となる。辛いという感覚もそうだ。どれだけの時間、気力、体力を削れば実現できるのかを計算して、それが不可能か否かを算段する。可能であれば、それだけ削るに見合う結果や必然性があるかを考慮する。それらを淡々と考え、伝えるだけだ。感情を入れ込むと、感情的なものが跳ね返ってきてしまう。それは結果的には自分にとって不幸なだけだった。
「なあ」
切実な言葉は冷たい水のように体に染み込んでくる。胸の奥が重苦しい。この息苦しさが辛さの象徴だと言うなら、ほとんどいつも辛いことになってしまう。負の感情に満ち溢れた世界は、自分にとっては毒なのだろうか。梅花は唇を噛んだ。ならばどうしてこうやって生き続けているのか。
『行きすぎると蝕まれるぞ』
不意に、先ほどのレーナの言葉が脳裏をよぎった。ああ、自分は蝕まれているなと、梅花は自覚する。突然何もかもを投げ出すことなどできないのに、どうしようもないことを考えている。
「お前は十分頑張ってるんだから、これ以上一人で頑張るなよ」
少しだけ、青葉の手から力が抜けた。身じろぎをした梅花は、怖々と顔を上げる。再び目と目が合った。哀れむ者の眼差しではないし、痛々しいものを見つめる視線でもない。彼の言葉を反芻しながら、彼女は瞳を瞬かせた。自分は何かを頑張っていたのか?
「私……頑張ってるの?」
「――頑張ってないと思ってたのかよ。お前はもっと思ってること話すべきだし、相談した方がいいと思うぞ。諦めないで」
いまいちしっくりと来ない青葉の言い様に、梅花は困惑するばかりだった。だからといって何でも話していいとも思えないし、誰にでも話していいとも思わない。彼女の事情を知る者は同時に関係者でもあるし、知らない者にとってはひたすら重い話だ。
「大体、何でお前はその状況で誰も恨まずにいられるんだよ」
青葉は小さくため息を吐いた。すぐ間近に顔があったために、そんな吐息さえ肌で感じ取れてしまう。梅花は眉をひそめた。どうして急にそこで恨みなんて言葉が飛び出してくるのか、理解できなかった。一体、誰を恨めと言いたいのか。
「何よ、それ」
「だってお前は全くどこも悪くないだろ。それなのにそんな状況に置かれて……」
「それを言ったら誰も悪くないでしょう? もし誰かの悪意があってのことだったら、そりゃあ恨みに思ったりもできるわよ。でもそうじゃないのに、どうやって恨めって言うの? おかしいわ」
梅花は少しでも青葉から距離を取ろうと懸命になった。いつまでもこの体勢というのは憚られる。早朝で人目がないのは幸いだが、いつまでもこのままとも限らない。それでも彼の手の力の方が圧倒的で、身じろぎをするだけで終わった。
「……普通はそれでも恨むだろ。何か理由を付けて」
そう呟いた青葉はそっと視線を外した。その言外に示されたものに、梅花ははっとする。彼女の家族を語る上で、彼の事情も決して無関係ではない。彼も関係者と言えばそうだった。
「親父は、恨んでた。何も言わずに突然いなくなった弟のことを」
ある日前触れもなく姿を消した梅花の父――
「普通は、恨むんだよ。何かを悪者にして気持ちのやりどころにするんだよ。オレだって、今でも親父のことは大嫌いだ。許してなんてない。お前は優しすぎるんだよ」
本当に優しいのだろうか? 眉間に皺を寄せている青葉の横顔を、梅花はじっと見上げた。そうとは思えない。彼は何故だか彼女のことをよく思おうとしてくれているが、そんなに綺麗な人間ではない。彼女はかすかに頭を振った。
「私は優しくなんてないわよ。だって、恨むのって疲れるんだもの。そういう負の感情を受け取るのも発するのも疲れるの。ただそれだけ」
「そういうところが人間離れしてるんだよ」
半ば呆れたような青葉の声音に、梅花は閉口するしかなかった。そんな風に言われても困ってしまう。自分では特別なことだとは思わない。どうしようもないことに気持ちを割いていても、虚しいだけだ。どんどんとすり減ってしまうだけ。これ以上疲れ切ってしまうと、本当に動けなくなる気がしていた。
「誰かを恨みにでも思わないと、普通は壊れる。平気な振りなんてできない」
それでは自分は壊れているのではないか。梅花はそっと瞳を伏せた。雨音が遠い。ずっと宮殿で言われて続けていたのだ、何かが欠落しているのだと。感じていないわけではないと異を唱える意欲もなかったので、言われるままにしていた。しかし、やはり何か足りないのではないか。
「私は、壊れていないの?」
つい、思っていたことが唇からこぼれ落ちた。また息を呑む気配が感じ取れる。こんなことを尋ねられては彼も困るだけだろう。慌てて「何でもない」と首を振ろうとすると、今度は頭ごと抱きしめられた。
「そんな顔してそんな声出す奴が壊れてるわけないだろ。でも、いつまでもそうとは限らないんだぞ」
物理的な息苦しさから逃れるよう、梅花は目を瞑った。体に直接伝わってくる声の振動に、何故だか安堵を覚える。だがそのまま頭を撫でられたところで、彼女ははっとした。こんなところで時間を使っている場合ではない。何のために公園を出たのか。
「……いい加減、放して。戻りましょう。アサキたちに知らせないと」
梅花が腕を突っ張らせると、青葉の腕の力が緩んだ。それでも完全に解放されなかったのは、傘からはみ出てしまうからだろうか。何だかんだと言いながら彼は過保護だ。そうさせるだけの無茶を彼女はしてきたのかもしれないが。
「そうだな。さっさと伝えて宮殿に行って、そして戻ってこよう。また拘束されてもかなわないしな」
傘が傾いたのか、弾かれる雨の旋律が変わる。頷いた梅花は軽く身震いをした。最近は宮殿に行くたびに長い時間引き留められることが多く、辟易していた。青葉が一緒であればましだと思いたいが、断言はできない。
「寒いのか?」
「ん、大丈夫。嫌な予感を覚えただけ」
「何だよ、それ」
「別に。変なことが起こらなきゃいいなと思っただけだから」
首を横に振った梅花は、強引に一歩を踏み出した。青葉は慌てたように傘を差しだし、横に並ぶ。こういう時は嫌なことが続くものだと、胸の奥で何かがざわついていた。覚悟しておいた方が後々楽だろう。何もなかったら、胸を撫で下ろせばいいだけの話だ。
「まったく、お前は」
言いよどんで苦笑した青葉のぼやきは、あえて聞かない振りをした。前へ進む度に水気のある足音が響く。梅花は水の溜まった地面を見つめ、今後のことのみを考えた。