white minds 第一部 ―邂逅到達―
第一章「影の呼び声」8
「おいリン、どこに行くんだ?」
一歩先を行くリンの向かう先が、自分たちのアパートではないことにシンは気がついた。このまま大通を進むと遠回りになる。用がないのに彼女が回り道をすることはない。まもなく完全に日が落ちてしまうだろうという時刻だが、今からどこかに寄るつもりなのか? しかし問いかけに対して返答はなかった。シンは顔をしかめる。何か考え事でもしているらしい。
「まさかリン、このままピークスの所に向かうつもりか?」
信号が赤に変わったため、リンの足が止まった。隣へと並んだシンは彼女の顔を覗き込む。この通りを真っ直ぐ進めば駅に辿り着くことを考えると、そういう推測になった。先ほどシークレットと交わした言葉を思い出し、シンは眉根を寄せる。ピークスと早く情報を共有したいという気持ちはわかるが、今日でなくてもいいだろう。話が長引けば、仲間たちが先にアパートに帰ってきてしまう。
するとリンは横目でシンを見上げ、当たり前だと言わんばかりに大きく頷いた。
「もちろん。後回しにして手遅れになる前にね」
「おいおい本気かよ。大体、ピークスのいる場所知ってるのか?」
「ジュリに聞いたわ。絶対に迷わないしわかりやすいって」
小さな鞄を抱きかかえたまま、リンは自信たっぷりに言う。いつの間にかそんなことまで聞き出していたらしい。どうしたものかと、シンは額を押さえた。彼女の行動力には目を見張るものがあるが、こういう時には困る。説得するのは一苦労だ。
「明日じゃ駄目なのか?」
「駄目なのよ。何かあってからじゃあ遅いでしょう。この数日だけで、何回おかしなことがあったと思う? 明日の朝にでもまた誰かが襲われないとも限らないわ」
朗らかなリンの声に、少しだけ陰りが見えた。シンは口に仕掛けた言葉を飲み込んで、数度瞬きをする。視界の端に映った彼女は、既に前を見据えていた。まだ信号が青に変わりそうな様子はない。通り過ぎていく車のエンジン音が大きくなり、小さくなりを繰り返した。穏やかな風に乗って、彼女の髪とコートの襟が揺れる。
「さっき、シークレットと話をしている間ずっと考えていたの」
抱きしめた黒い鞄の表面を、リンはぽんと軽く叩いた。今も何か考えているのだろう、彼女の眼差しはどこか遠かった。シンが額に手をやったまま首を縦に振ると、彼女はさらに言葉を続ける。
「青葉はシンの知り合い。ということはヤマト出身よね? あの様子じゃ強いんでしょう?」
「まあな。ああ見えて強い」
「ああ見えてって、そう見えるから大丈夫よ」
額から手を離して、シンは頷く。何がおかしいのか、リンはくすりと笑った。けれどもやはりその双眸は前を向いたままで。シンはわずかに首を傾げる。こういう表情をするときの彼女は、どこか深い。普段の彼女ができるだけ見せないようにしている思慮の片鱗が垣間見える。
「第十六隊ストロングにはヤマトの若長が、第十七隊にはシンがいて、私がいて」
話しかけるというよりも自分自身に確認するための言葉を、リンは並べていく。相槌を打ちながらシンも考えた。現状にそぐわない戦力に、違和感を抱かないと言えば嘘になる。以前感じた漠然とした不安ともいうべき予感が、頭をもたげてきた。自分たちの知らないところで既に何かが始まっていたのではないかという、疑念にも似た感情だ。
「第十八隊にはジナルの神童までいる」
リンの言う通り、極めつけはそれだった。本当にジナルの神童であればの話にはなるが、上の危機感を如実に表している。おいそれと手放したくはない存在のはずだ。シンは唸りながら首を捻った。
「力を入れ過ぎってか? しかし青葉は知らなかったみたいだぞ。本物のジナルの神童なのか?」
「ジュリがそう聞いたっていうんだからそうでしょう。神童が自らそう名乗るとは思わないわよ。上と連絡を取り合っていることは確かみたいだしね」
自ら名乗るわけがないと聞いて、そうかとシンは納得する。神魔世界には妙な二つ名がついている技使いというのが少数いるが、周りが勝手にそう呼んでいるだけのことが多かった。ありがたくない名であることももっぱらだ。こうして何気なく話をしているから忘れそうになるが、リンもその二つ名の持ち主である。ウィンの旋風。どういう意図で誰が呼び始めたのか知らないが、その名はシンのいたヤマトの端にまで伝わっていた。
「ね? いくらなんでも集めすぎじゃない? 状況が変わったとは聞いていたわ。でも別に、特段強い違法者が潜んでいるわけでもなかったのに。じゃあどうして?」
リンの言葉が途切れたところで、信号が青に変わった。それでも、彼女はすぐに歩き出さなかった。前を見据えたまま、きつく唇を引き結ぶ。気を隠しているため、そこから感情も読み取れない。だがシンには彼女の思いがわかるような気がした。周囲の鬱陶しそうな一瞥など意に介さず、彼は息を呑む。
「それは――」
「上は、何かが起きることをわかっていたのよね。だからピークスにもあんなことを言ったんでしょうね」
確信に満ちた声がシンの鼓膜を震わせる。鞄を抱くリンの指先に、力が込められたのが見えた。だが彼がそのことに言及するより早く、彼女は笑顔に切り替える。纏う空気さえ変わったように感じられた。
「そうとなれば、できることは早めに。手遅れにならないうちに動いておきたいの。上の指示を待ってたんじゃ心の準備もできないでしょう? だから今日ピークスに会うのよ」
不敵に自信たっぷり笑って、リンはシンの方を振り返った。力のある黒い双眸に見据えられて、彼は微苦笑を浮かべる。ここまで言われたら説得は不可能だろう。彼には返す言葉がない。引き留めようとしても、それでは一人で行くと言い出す可能性さえあった。
「わかった、今日だな。もうそれは止めない。ローラインたちが先に帰っていたら、その時はその時だ」
シンがそう降参すると、リンはさらに笑みを深くした。「それじゃあ行きましょう」と促されて、シンは前へと足を踏み出す。言い合いをしているうちにまた信号が赤になっては困る。
神魔世界にはないこの信号という存在は、無世界の特徴の一つだ。それだけ移動用の機器が市民にも行き渡っている証拠ともいう。シンたちは免許を取っていないためその恩恵にあずかることはないが、電車の数の多さには助かっている。技がない世界では、それ以外の部分が発達するのだとつくづく思い知らされた。噂に聞く朝の満員電車には乗る気にはなれないが。
シンたちがピークスの居場所まで辿り着いた頃には、完全に日が暮れていた。しかし迷うことはなかった。ピークスも気を隠しているわけだしなかなか見つからないのではと危惧していたが、その心配は全く不要だった。
電車で三駅、そこから十五分ほど歩いたところに、ピークスのいる屋敷はあった。家ではなく屋敷だ。無世界の家は所狭しと並んでいるなというのがシンの印象だったが、それを覆すものだった。広々とした庭に塀、その中にある建物は一言で表すなら立派。かなりの広さがあるだろう。木々の向こうに見える窓からは、かすかに明かりが漏れている。
「確かにこれなら絶対に見つかるわね」
門の前でたたずんだまま、リンが唸る。この屋敷を見逃すことはないだろう。だが夜分にこの門を叩くのは何だか憚られた。どうしても気後れする。シンは無言のまま小さく頷いた。本当にこんなところにピークスはいるのか? 神技隊の財政状況を考えると信じがたい。
「本当にここなのか? 何かの間違いじゃないのか?」
「私も今それを考えているところよ。でもジュリが嘘吐くとも思えないし。確かにこれならわかりやすいし」
躊躇っているのはリンも同じだった。この家が神技隊が住む場所としては不相応であることはわかる。シンたちなど小さなアパートに無理やり住み着いているような状態だ。本来ならあの広さで五人というのは断るのだそうだが、大家の厚意で目を瞑ってもらっている。そういった状況とこの建物と比べてしまうと、切ない気持ちになった。一体、部屋は幾つあるのだろう? 一つくらい分けて欲しい。
「あれ? 先輩?」
その時、塀の向こうから声がした。聞き覚えのある声だった。シンとリンははっとして顔を見合わせる。まさか本当に、ここにピークスがいるのか?
「こっちですよ、こっち」
声は右手から聞こえた。二人が慌てて振り返ると、塀の端の方にある小さな扉から一人の男性が顔を出していた。先日カイキたちに襲われた時にジュリと一緒にいた男、名前は確かコブシだ。大柄な彼がいると、押し開けられた木の扉がますます小さく見える。安堵したような落胆したような複雑な胸中で、シンは彼の方へと小走りで寄った。
「コブシ」
「どうしたんですか? こんな時間に」
「いや、ちょっと伝えておきたいことがあってな」
シンに続いてリンも駆け寄ってくる。コブシの背丈では、どうやら普通に立っていても塀の外が見えるようだ。だからシンたちにも気づいたのだろう。偶然とはいえ幸いだった。このまま立ち尽くしていては時間ばかりを無駄にするところだった。
「どうかしましたか? コブシ」
すると、さらに塀の中から声が聞こえた。今度は聞き覚えのない男のものだった。後ろを振り返ったコブシが「あ、隊長」と呟く。つまりピークスのリーダーということか。柔らかい草を踏みしめる音と共に、その声の主は現れた。コブシの後ろから顔を出したのは金髪の青年だ。白い肌に瑠璃色の瞳と、この辺りではあまり見かけない容姿をしている。コブシは塀の内側へと戻り、青年へと道をあけた。
「隊長、スピリット先輩です」
「ああ、ジュリが言っていた。どうもこんばんは、ピークスのよつきです。そうですよね、先輩たちも気を隠しているんですよね。そのことを失念してました」
穏やかな笑顔を浮かべて青年――よつきが扉から出てくる。すぐには技使いとわからず怪しんだということか。そう告げるよつきも、もちろん気を隠している。再びカイキたちに襲われないようにするためだ。先日ジュリたちとの話し合いで決めた注意事項は行き渡っているようだ。
「ピークスってこんな立派なところに住んでいるのね、びっくりしちゃった」
ここで間違いがなかったことに安心したのか、それともある意味気抜けしたのか、リンが苦笑しながらそう言う。よつきは「あー」と声を出しながら一度後方を振り返った。よつきたちの奥に見える庭は、一見しただけでも手入れされているとわかる。
「わたくしたち、ここで住み込んでお手伝いをしてまして。居候ですよ」
シンたちへと向き直ったよつきは、そう説明して笑った。そういう人を雇っている人間がいるとは聞いたことがあるが、実際に行っている家を見るのは初めてだ。一体どんな縁があってこんな仕事を見つけたのか? シンは明後日の方を睨みつける。まだまだ無世界も謎に満ちている。神技隊らが活動している地域も、ゲートがある日本という国の一部に過ぎなかった。その外はまさに未知の領域だ。この世界を知り尽くすのは一生かかっても無理だろう。
「まあ偶然、成り行きです。ところで何かお話があるのでは?」
「ああ、そうだったわね!」
話が逸れそうになるのを、前もってよつきが防いだ。シンたちの思考が遠くへ行こうとしているのに気づいたのか。リンはぽんと鞄を叩いてよつきへと向き直る。
「この間私たちを襲ってきた、カイキとネオンについての続報よ」
リンはそこで一呼吸置いた。顔を半分だけ出して様子をうかがっていたコブシが、ぴくりと肩を震わせる。よつきの笑顔も消え、真剣な眼差しがシンたちへと向けられた。辺りの空気にも張り詰めたものが漂う。
「夕方、第十八隊シークレットもカイキたちの仲間に襲われてたみたいなの。そこでとんでもないことがわかったのよ」
「とんでもないことですか?」
「彼らは、シークレットにそっくりだったのよ」
重要な事実をリンが告げると、よつきとコブシは一瞬固まった。彼女の言葉を脳内で繰り返しているようだった。何度か瞬きをして、それから互いに顔を見合わせ、ついで不思議そうにシンたちへと双眸を向けてくる。シンは大きく頷いてみせた。
「オレたちを襲ってきたネオンってのも、その時にいたシークレットの一人にそっくりだった」
「えーと、サイゾウとかいう名前だったかしら? 髪の長さは違うけど、それ以外は本当に同じ。兄弟というよりは双子みたいな感じね」
シンの説明にリンもそう続ける。まだ信じられないのか、よつきとコブシは「はあ」と気の抜けた声を漏らした。いきなり受け入れろと言われても難しいのが普通か。シンとリンがまた目を合わせていると、何とか立ち直ろうとしたらしく、よつきは一度首を横に振ってから顔をしかめた。
「本当、なんですか? シークレット先輩にそっくり?」
「嘘ついても仕方ないでしょう。当人たちもびっくりしてたわ」
「何も知らなかったら、シークレット先輩と間違えてたかもしれませんね」
「そうなのよ。だから急いで伝えに来たの」
唸りながら顎に手を当てたよつきに、リンは同意を示した。状況がわからない中、仲違いになるのが一番避けたい状況だ。情報も錯綜し、大事な事実を見落としてしまうかもしれない。するとしばらく考え込んだ後によつきは笑顔を作り、軽く頭を下げた。
「助かりました。ジュリたちが帰ってきたら伝えておきます」
「あ、ジュリはいないのね。ただ気を隠してるわけじゃあなかったんだ」
「実は今、第十五隊フライング先輩に会いに行ってるんです。昨日偶然その一人と顔を合わせまして、それで今日フライング先輩のところに話をしに行く約束になったんです」
そこで、思いも寄らぬ名前が飛び出した。唯一連絡のついてなかった第十五隊フライング。彼らと接触できたのは大きな一歩だ。思わず笑顔になったシンは、再びリンと顔を見合わせる。
「どうかしました?」
「いや、これで現時点で動いてる神技隊とは連絡がつくなと思って」
「第十六隊ストロング先輩とは、シークレットがもう会ってるみたいなの」
不思議そうに首を傾げたよつきに、シンとリンは口々に説明する。予想していなかった事態に困惑するばかりだが、悪いことばかりが起きているわけでもないらしい。ゲートからそう離れた場所にいるはずはないと思っていたが、こうも簡単に見つかるとは思わなかった。
「これで活動している神技隊全てに注意を促すことができますね。よかった」
安堵するよつきに、シンたちも頷く。とりあえずはカイキたちに注意を払いつつ、上の判断を待つのが得策だろう。そして可能ならばその間に顔合わせを済ませておくのが望ましい。上の決定に時間がかかるかもしれないという点だけが、気がかりか。
「この話はフライング先輩にも伝わるようにしておきます」
「よろしく頼む」
「はい」
頼もしいよつきの返事に、ひとまずの不安は解消される。ピークスとはうまくやっていけそうだと、シンは密かに胸を撫で下ろした。旧知の仲の者がいるというのは、やりやすいようでやりにくい。見知らぬ他人でも、常識人であれば話が通るものだ。
「先輩たちがいてくれて助かりました。これからもよろしくお願いします」
穏やかな微笑を浮かべるよつきに、シンも静かな笑みを返した。全ての懸念が取り越し苦労で終わることを、今は願うばかりだった。