薄鈍色のパラダイム
第五話 「現実と約束」
ふと我に返った時、見えたのは濁った灰色の空だった。何度か瞬きをすると、ゆっくりと雲が流れていく様子もわかる。私はどうやら寝転がっているらしい。ここはどこだろうか。今まで何をしてたんだっけ。どうしてこんなところにいるんだろう。考えながらもどうでもよくなり、私は口を開いた。
「真っ白だったらソフトクリームだったのに」
「そうだね」
思ったことをそのまま呟いたら、返答があった。オキヒロの声だ。私は振り返ることなく右手を伸ばし、溶けかけたソフトクリームもどきを指さした。今にも落ちてきそうな重たげなその雲は、風のせいで徐々に崩れてきている。
「ソウトは、ソフトクリーム好きだったのよね。お父さんはなかなか買ってくれなかったけれど」
「そうだったね」
「お父さん、私には甘かったから。だからおねだりしてソウトと分け合ったっけ」
嬉しそうなソウトの顔が思い浮かんだ。でもオキヒロにもあげようとしたら「僕はいいよ」っていつも断るんだ。お兄ちゃんぶってって私が怒ると「そりゃ年上だもん」って得意げに言って。懐かしいなぁ。
「……オキヒロはどうして急にいなくなったの?」
それなのにどうして突然いなくなってしまったのか。オキヒロの家が大変なのはわかっていた。でもそれならせめて、せめて私には何か言ってくれたらよかったのに。もちろん、力になれたとは思えないけれど。それでも連絡先くらい教えて欲しかった。
「殺されかけたんだ」
ぽつりと、オキヒロが答えた。胸の奥を何かに掴まれたみたいに、締め付けられるような痛みが走った。聞いてはいけないという警告が聞こえた気がする。眠ってしまえばいいだろうか? でもそうせずに寝転んでいると、オキヒロが座り込んだ気配があった。
いや、本当にそうかわからない。顔を動かそうにも動かせず、なんだかあらゆる感覚が曖昧だった。はっきりしているのは、雨が降り出しそうな空模様だけだ。どうせなら土砂降りになればいいのに。それならオキヒロの声も聞こえなくなる。
「ソウトに、崖から突き落とされた。たまたま途中の木に引っかかったおかげで死ななかったけど、足はこの通り、義足さ。最近の義足は性能がよくていいね。手は難しいみたいだけど、足なら不自由ない」
聞きたくない、そんな話は知りたくない。でも拒絶しようと耳を塞ぎたくても、両手はぴくりともしなかった。オキヒロの穏やかな声が私の中に毒々しく染み入ってくる。抗えない。
「何か書き置きでもあった? たぶん、ソウトが用意したんだと思う。足を引きずって逃げている僕を助けてくれたのがマツヨシなんだ。血の臭いがしたから、だって。彼は脳改造者だから、臭いにも敏感なんだってさ」
マツヨシが脳改造者なのは知っている。先ほど思い知らされた。でも、どうしてオキヒロを助けたんだろう? マツヨシがそんな善人だとは思えない。
「本当は僕から内蔵を抜き取るつもりだったんだ。抵抗なんてできないし、ちょうどいい獲物だったんだろうね。でも僕は交渉した」
心臓が跳ねる。脈打つ音が大きくなる。聞きたくない、これ以上何も知りたくない。体中から汗が噴き出し、妙な寒気を覚えた。震えていてもおかしくないが、それを確認することもままならない。頭の中がぐらぐらした。ソウトの笑い声が思い出せなくなる。
「だから僕はソウトを差し出した。僕を殺そうとしたソウトを代わりに差し出した」
「そん、な……」
ではソウトが死んだのはオキヒロのせい? あの日々が失われたのはオキヒロのせい? でも、オキヒロはソウトに殺されかけたんだ。じゃあ結局はソウトのせい?
「そして僕はマツヨシと一緒に働くことになった。土壇場での僕の態度が、何だか気に入ったんだってさ。それに僕のこの見目って『表』の営業にはぴったりなんだよね。脳改造の後遺症で、マツヨシってば表情がほとんど変わらないんだ。嫌な顔しかできないなんて、致命的だろう?」
オキヒロの乾いた笑い声が鼓膜を震わせる。私が求めていたものがこれ? これが真実なの? 空が滲んで見えるのは涙のせいだろうか? いや、それだけではないかもしれない。先ほどよりもオキヒロの声が遠ざかって聞こえるし、若干くぐもってきている。
「イブキに会いたかったんだ。どうしても会いたかったんだ。だから死にたくなかったんだ。わかってよイブキ」
わかりたくない、そんなのはわかりたくない。だってそのせいでお母さんは心労で亡くなったんだ。お母さんがいなくなって、お父さんも倒れたんだ。全部壊れたんだ。
噂が、憶測が、あらゆるものが私たちに降りかかって、そしてみんないなくなってしまった。残されたのは私だけ。私だけ一人、この冷たい世界に取り残されてしまった。
――いや、全ての責任がオキヒロにないことはわかってる。ソウトが殺されて、それで両親の仲がますますこじれたことも原因だって知ってる。それはソウトにまつわる噂のせいだ。ソウトが父の子ではないという噂が、昔から親戚のうちで広まってる。結局最後まで遺伝子検査などはしなかったから、いまだに真偽は定かでなかった。
では本当は誰が悪かったんだろう? 何が悪かったんだろう? どうしてこうなったんだろう? 避けられなかったんだろうか? 私の記憶にあるあの頃は、全て仮初めの幸せだったんだろうか?
「イブキ、愛してるんだ。好きなんだ。ねえイブキ、もう離れたくないんだ。だからお願い、もう一度、目を開けて笑って」
私は頭を振りたかった。何でこうなったんだろう。本当に、どうしようもなかったんだろうか。手を伸ばして誰かに縋りたくて、それができないならこのまま消えてしまいたくて、泣き叫びたくて仕方がない。
「だから……ねえ、イブキ」
そうだ、眠ってしまえばいいんだ。あらゆる感覚が薄れていくのに任せて、そのまま逃げてしまえばいい。
滲んだ空が灰色に塗りつぶされていく。空へと雲が溶けていく。オキヒロの声はもう聞こえないし、頭に誰の顔も浮かんでこない。無が、私の中に染み込んでくる。
そして、静寂が訪れた。いや、訪れようとして、掻き消された。頭を割るような痛みが走り抜けて、私は思いきり眼を見開く。
「――あうぁっ」
「イブキ!?」
喉から悲鳴のような声が漏れ、同時に慌てたオキヒロの顔が目の前に迫ってきた。その背後に見えたのは、殺風景な天井だった。何度か深呼吸をして痛みをやり過ごすと、私は瞬きをする。濡れて歪んだ視界の中で、不安そうなオキヒロの瞳が揺れていた。
「イブキ、大丈夫? 痛む?」
オキヒロの手が私の頭を撫でる。私は反射的に軽く頷いてから、体が動かせることを自覚した。どうもベッドの上に寝ているようだし、ここはどうやら部屋の中みたいだ。では、さっきのは夢だったんだろうか?
「よかった。返事はするのに夢現でずっと眠ったままだったから、このまま目覚めなかったらどうしようかと」
ほっと息を吐いたオキヒロは、私から少し離れた。激痛の波が来ないのを確かめつつ、私は恐る恐る上体を起こす。そしてオキヒロを見返した。
返事はしてたってことは、あれは現実? じゃあ一体どこからどこまでが夢だったんだろう? 全てがそうであればいいという祈りは、彼のダークグレーのスーツが打ち砕いてしまっているけど。
「ここ、は……?」
固い唾を飲み込んでから、私はどうにか言葉を発した。乾いた唇がひび割れてしまいそうだった。私はどれくらい眠っていたんだろう? 時間の感覚がない。
「会社の持つ別荘の一つ、とでも言えばいいかな。こんな山間で不便だから、使う人はほとんどいないみたい。僕の隠れ家の一つだよ」
そう説明しながら、オキヒロは辺りを見回した。生成色の壁に一枚だけ絵が掛けられている他は、小さなタンスしかない殺風景な部屋だ。窓には薄紅色のカーテンがかけられているが模様も何もない。天井の明かりもシンプルな作りで、オレンジ色の光が淡く優しく室内を照らしている。
「会社の……」
「ああ、大丈夫。ここには僕とイブキしかいないよ。マツヨシもいない。彼は報告をしに行ってるはずだ」
どうも不安そうに見えたらしい。優しく微笑したオキヒロは、そう説明しながらベッドの端に腰掛け直した。硬いスプリングの弾む音が、音のない部屋でやけに大きく聞こえる。
報告とは私のことか? 脳改造についてだろうか? 心臓を掴まれたみたいに息苦しさが増した。脳改造はどこでも受けられるわけじゃあない。もちろん大金を払えばやってくれるところもあるが、私がそういった医者にかかるのは無理だとオキヒロたちもわかっているだろう。もしトウガのことがばれたら……。
「イブキ」
ベッドの軋む音がする。こちらへと身を乗り出してきたオキヒロの手が、私へとおもむろに伸びてきた。思わず首をすくめると、いつの間にか解かれていた髪の一房を、オキヒロは手で掬い取る。
「痛んじゃってるね」
「……手入れなんてする時間もお金もないもの」
「残念。イブキの髪、好きなのに」
「放っておいてよ」
何で急に髪の話なんてするのだろう。顔を背けてため息を吐こうとし、そこでいつもと何かが違うことに気がついた。頭を締め付ける物がない。大事なカチューシャがない。脳改造の要となる、一番大切なものなのに。
私は朧気な記憶を必死に手繰り寄せた。そもそも私は何故こんなところにいるのだろう? 確かマツヨシと遭遇して、それで、彼に襲われて。
私は口を結んだ。ピリピリとした不快な痛みが体中を駆け巡っているように感じられた。そうだ、マツヨシのせいであのカチューシャは打ち抜かれてしまったんだった。だからあちこちがおかしいんだ。無理やり脳改造の効果が断たれた時どうなるのか、詳しいことは知らない。トウガはひたすら「気をつけろ」しか言ってなかった。でも何もないわけはない。
鼓動がどんどん速まる。なんだか体が重いし、あらゆる感覚も鈍っているような気がした。当たり前のように目を覚ましたけれど、ひょっとしてこれは奇跡みたいなものなんじゃないの? それとも、私は本当は死んでいる? これもまだ夢の中のことで、本当の私は眠ったままとか?
何が現実なのか曖昧というのは、これほど怖いものなのか。ぞっとして言葉を失った私の手に、急に熱い何かが触れた。弾かれたように顔を上げると、覗き込むように近づいてきたオキヒロと目が合う。
「お金はないのに医者にはかかってるの?」
「――え?」
「髪を手入れする余裕もないのに、脳改造を受けたの? どこの医者にかかったの? これは今の医学の限界を超えてるって言われた」
オキヒロが私の手を強く掴んだ。顔が引き攣るのが自分でもわかった。「言われた」ってことは、私の体を誰か診たということか。あのカチューシャも調べられたんだろうか? まずい。
正直、トウガのやっていることがどれだけ異端なのは私にはわからない。そこまでの知識はない。ただ普通の医者にはできないことをやっているだろうというのは、容易に想像できた。トウガが使っているのは超能力だ。脳改造をやっているような医者なら、私を診ただけで何かに気づくだろう。
「イブキ」
諭すような穏やかなオキヒロの呼び声から、私は目を逸らし続けた。心臓が痛い。目眩がする。オキヒロに握られた手の熱さが辛い。できるならここから逃げ出したかたった。いや、逃げ出すだけじゃあ駄目だ。トウガに知らせないと。あの診療所にも危険が及ぶかもしれない。
「教えたくない? ねえ、喋っちゃいなよ、イブキ。隠していても仕方ないよ?」
「彼を売るような真似はしないわっ」
「――そっか、男なんだね」
思わず声を上げてから、私は自分が失言したことに気がついた。でもここであからさまな反応をするのもまずいと思い、不機嫌な顔のまま黙り込むことに徹する。トウガは大丈夫だろうか? まさかもうマツヨシたちの手が伸びてないだろうか? それが気がかりだ。
「イブキ、僕のこと恨んでる?」
そこで唐突にオキヒロは話題を変えてきた。ただし声の調子は変わらなかった。私は咄嗟に繕うこともできずに押し黙る。その問いかけは、私の奥深くに突き刺さった。
「そんな体になってまでも、ソウトのことを知りたかったの? そんなにソウトが好きだったの?」
「ソウトだけじゃないわよっ」
「……そうだね、ごめん。僕もそんなことになってるとは思わなかったよ。謝っても仕方ないことだってのはわかるけど」
どうしてそんなことをと、叫ぶことができたらどれだけ楽だろうか。俯いた拍子に視界の端に映ったのは、スーツから見えた銀色の足だ。それが義足であると理解するのにさして時間はかからなかった。あれは夢ではないんだ。
オキヒロの話が本当なのだとしたら、一体誰が悪かったんだろう? ソウトだろうか? それともひょっとして、何も知らずにのうのうと生きてきた私だろうか?
ソウトに寂しい思いをさせたくなくて、オキヒロに笑顔でいて欲しくて。だから私たちはよく一緒にいた。いつかこの町は明るくなると信じて、大人たちの視線に怯える必要もなくなると信じて、仲良く三人で遊んでいた。
黙って目を伏せたままでいると、オキヒロはさらに強く手を握ってきた。ぎしりと軋むベッドの音。近づくオキヒロの気配を感じて肩に力が入る。
「僕はどうしても、イブキに会いたかったんだ。あそこがあんなに自由のないところだとは思わなくて、ずいぶん苦労したよ。イブキを探したくても、会社の設備は勝手に使えないし」
さらに身を乗り出してきたオキヒロの髪が、私の頬をくすぐる。視線を感じながらも目を合わせずにいるとまた頭痛を覚え、私は眉根を寄せた。嫌な痛み方だ。頭の奥深くに何か尖った物でも埋め込まれているかのような、それが奥へ奥へと突き刺さっていくかのような不快な痛み。
「また会えて本当によかった。お願いだから、もうどこにも行かないで。ここでなら君を匿うことができる。だからずっと、ここで一緒に――」
「それは無理よっ」
私は頭を振った。オキヒロの寂しげな双眸が見えても、それでも気持ちは変わらなかった。とにかくこのままじゃあ駄目だ。トウガに何も伝えないままこんなところに引っ込んでいてはいけない。私はまだ彼に何も返していないのに、迷惑ばかりかけるなんて嫌だ。
「どうして?」
「約束、破れないもの」
「約束?」
「してるの。カチューシャは壊れちゃったみたいだけど、でもこのままじゃあ駄目なのよ」
意を決してオキヒロを見上げると、困惑顔をした彼は深くため息を吐いた。そしてもう一方の手で私の頬に触れると、指を滑らせて額、頭を撫でる。
「もっとマツヨシに言っておくべきだったね、ごめん」
「謝らないで、とにかく私は戻らなくちゃ」
一刻も無駄にはできない。でもベッドから抜け出そうと体を捻っても、オキヒロの手は離れなかった。むしろ強く引き寄せられてよろめき、私は右手をベッドの上につく。そうだ、今の私はただの人だ。脳改造の効果も筋力増強の効果もない。複雑神経ブロックはまだ効いているはずなのに、痛みを感じるし。
「オキヒロっ」
どうにか手を引き剥がそうと力を込めると、逆にその勢いを利用され、私は背中からベッドに倒れ込んだ。衝撃に思わず目を瞑ると、スプリングの弾む音がやけに軽やかに鼓膜を震わせる。息が詰まるかと思った。情けない声を漏らすのを我慢して目を開けたら、案の定間近にオキヒロがいる。緑の双眸がじっと私を見下ろしていた。
「それ本気? 僕はイブキをここから出すつもりなんてないよ。せっかく会えたのに」
ようやくオキヒロの手が離れたと思ったら、今度は肩をベッドへと押しつけられた。動けない。でも怖くはない。ただまずいとは思う。
私は固唾を呑むと、この状況を打開すべく策を考えた。力では勝てないしこの体勢だと隙をつくのも難しい。助けなんてのもない。だけど私は戻らなくちゃ。伝えなくちゃ。そしてできれば、少しでも落ち着いて考える時間が欲しかった。
「お願い、オキヒロ」
必死に訴えると、私の肩を撫でるオキヒロの手が止まった。彼の眉がひそめられ、苦しげなため息が漏れる。
「イブキのお願いでも、それは聞けないな」
「何でもする、って言っても?」
これは押したらいけるんじゃないか? そんな希望が芽生えた。何が真実で何が夢で何を信じるべきなのかはわからないけど、昔のオキヒロと変わらない部分はあるみたいだ。私は左手でオキヒロの手の甲へと触れた。そこには私の知らない大きな傷跡がある。
「オキヒロ、お願い」
「……イブキはずるいね」
「この体、一度診てもらわないと心配なのよ。何がどうなってるのかわからないし、さっきから頭痛がするし」
追い打ちをかけるように私は言葉を続ける。嘘を吐いているわけではなかった。脳改造の効果が無理やり断たれた時、何が起こるのか。それは予測がつかない。
あれだけトウガが微調整にこだわっていたんだから、楽観視はできないだろう。いつ何が起こってもおかしくない。それこそ突然息が止まって、死ぬことだってあり得るかもしれなかった。
私を見下ろすオキヒロの瞳が寂しげに細められた。それから肩に置かれていた手が離れて、彼は口の端を少しだけ持ち上げる。
「それは、そうだね。イブキに何かあったら、それこそおしまいだ」
オキヒロはそのまま離れようとして、でも途中で何か思い出したように瞳を瞬かせると、私の顔を覗き込んだ。汗で額に張り付いた私の髪を、オキヒロの手がおもむろに剥がす。
「愛してるよ」
不意によぎったソウトの悲しそうな顔が、オキヒロのものと重なった。静かに紡がれた言葉に、私は何も返すことができなかった。