「笑い話にしてみましょう」
男子校の生徒というのは馬鹿の集まりだ。
馬鹿と言っても勘違いしないで欲しい。知能の問題ではないし、かといって単に子どもっぽいという話でもない。不良のたまり場みたいな高校の事情は知らないが、可もなく不可もなくみたいな俺たちの高校では、笑いが全てを決定する。
アホなことをして馬鹿な話をしてくだらないことに夢中になり、盛り上がるのが俺たちだ。どうってことのない日常を楽しむ方法を、いつも競っている。誰よりも笑いをとる奴がクラスの人気者となる。女子の目を気にする必要もないから、それはどんどんエスカレートする一方だった。どんなに頭がよくても、運動ができても、面白みのない奴と話すのはつまんないものだ。
そんなわけだから、今日も俺は朝から笑い話の種を探していた。通学途中の人間観察が趣味となったのも、この男子校に入ってからだ。ムカつくおっさんへの愚痴や終わってる女子高生のおぞましい実態は、俺たちの結束を固めるいい材料となる。
俺は学生カバンを背負い直し、駅のホームを見回した。今にも世界が終わりそうな顔したサラリーマンの大群と、甲高い声でキーキーと騒いでいるどこだか高校の女子生徒が、まず目に付く。
うざい。特に女子高生という生き物はうざい。俺たちの希望と理想を破壊する目障りな存在だ。ちょっと可愛い後輩でさえ輝いて見えてしまうような俺たちでも、あれはさすがに遠慮したい。女の子っていうのは雑誌とかテレビとかそういう世界の生き物であって、きっと現実には存在しないに違いないと考えたくなる。大体、あいつらが俺たちをチラ見する目の冷たいことといったら。人間を見ているとは思えなかった。
だけどもそうなだけに、少しでも理想に近い女の子がいると、気になって仕方がなくなるのが悲しい性だ。
今日もいた。遅刻ギリギリより一本早い電車に乗ると、必ず見かける子。たぶん大学生だろう。つまり俺よりも年上のはずなんだけど、ぱっと見た感じでは年下にしか思えない。
すし詰め状態の車内で頭一個分は引っ込んでるくらいに背が低いし、中学生かよってつっこみたくなるような童顔だ。でも制服じゃなくて私服だし、たまにカバンから顔をのぞかせている本は明らかに高校レベルの教科書とかではなかった。だから大学生なんだろう。大学って朝は遅いんじゃなかったのか?
名前も知らない。俺の方が先に降りるから、どこの駅で降りるかもわからない。ふんわりとした柔らかそうな髪を最近はショートカットにしている。これがまた似合う。染めてるかもしれないけど地毛かもしれないというくらいの色はギャルっぽくなくていい。服装はいつも淡い色が中心だ。可愛い。何より笑顔がいい。どよんとした目で背を丸めているサラリーマンばかりなので、余計にそう思う。
彼女を見つけると、俺はいつもその列の後ろに並ぶ。一人二人、間に挟むこともあれば、彼女のすぐ後ろに立つこともある。今日は真後ろの位置をゲットだ。背が低いので、ちょっと見下ろしただけでつむじが目に入る。いい匂いが漂ってくるのは気のせいだろうか? いや、気のせいじゃない。右隣の列でキャーキャーわめいている女子高生は、この子を見習うべきだ。俺はまじめな顔を保ちながら、学ランのポケットに手を突っ込む。
「なっちゃーん、みぃーつけた」
すると、突然声をかけられた。彼女が。
女子高生集団の隙間から、骨みたいな男がふらりと出てくる。手を振りながらへらへらと近づいてきた男は、何枚服を着たらそうなるのかわからない重ね着をして、派手な眼鏡を掛けていた。女子の目を気にした男――つまり俺たちとは正反対の存在だ。きっとこいつは共学出身だろう。「なっちゃん」って呼び方から推測すると、彼女の名前はなつきとかなつみとかそんな感じだろうか? 爽やかな響きが似合う。
「あ、松宮君。おはようー」
彼女は片手を振った。男は松宮とかいうようだ。って、そんなどうでもいい情報を記憶しても無意味だ。こんな奴の名前を覚えるくらいなら、英単語の一つでも暗記した方がためになる。
「おはようおはよう。いつもこの時間? 早くない?」
「そうかな? こっちは皆こんなもんだよ。そういう松宮君こそ、今日は何かあるの?」
「ゼミのレポートやばくて。彩香に手伝ってもらおうとしたら、この時間しかあいてないんだってよ」
間延びした声で陽気に笑う松宮は、そのまま断りもなく俺の前に割り込んだ。うわ、最悪。後ろから突き刺さる視線も感じる。憂鬱な朝は誰だって苛立ちやすいんだから、もっと考えればいいのに。正真正銘の馬鹿だなと、俺は松宮の背中を睨みつけた。
「ちょっと松宮君、それ横入りだよ。駄目だよ」
不穏な空気に気づいた彼女がおろおろとする。困っている姿はちっちゃな動物みたいで可愛い。彼女の周囲だけテレビの世界なんじゃないだろうか。すると松宮はさりげない調子で彼女の手を握った。
「じゃあ後ろ行く?」
これが女慣れした大学生の実力なのか! つい俺は声を上げそうになった。いやいや、感心している場合じゃないか。せっかく今日はいいポジションが取れたのにと残念な気持ちになるが、それと同時に、今日のネタゲットとか思っているところが悲しい習慣だ。本日の話題はうざい大学生の生態について。きっと似たような目撃証言があちこちから出てくるだろう。盛り上がること間違いなし。
「もう、手握らないでよ。彩香さん怒るよ」
「これくらいで怒るとかないない。心狭いなぁ」
「普段の行いが悪いんでしょう」
彼女は笑顔のまま松宮の手を引きはがした。彩香とかいうのは彼女か? 彼女がいるのに女の子にべたべたするとかなんていう奴だ。羨ましい。
しかし彼女の行動は意外だった。気が弱くて流されちゃうタイプかと思っていた。真面目なだけでなくしっかり者でもあるとか、どこまで俺の理想に近づくつもりなのか。童顔で背の低い年上のお姉さんとあれこれできたら最高だろう。
「ひっどいなー、なっちゃん。まさか、あの噂のこと本気にしてるの?」
「噂って何? 私は彩香さんから話を聞いてるだけ」
彼女はため息を吐きながらも周囲を気にしている。そりゃそうだろう。オレの後ろのおっさんが靴を鳴らし始めたし、結構まずい空気だぞ。それでも気持ち悪い笑顔を崩さない松宮はある種の天才かもしれない。
「あ、ひっかけたなー」
「知らない。あ、ほら彩香さん来たよ。行きなよ松宮君」
ちょうどいいと言わんばかりに、彼女は両手を突き出すようにして松宮を列から追い出した。大げさによろめいた松宮は、名残惜しそうにしながらもふらふらと歩き出す。
「ひっでーな、なっちゃん」
彩香とかいうのがどこにいるのか俺にはわからないが、松宮の視界には入っているらしい。ぶつぶつ言いつつも松宮が去ったおかげで、おっさんも足を止めた。よかった。
会話が終了したせいで、急に辺りが静かになったような気がした。電車が来るというアナウンスも流れ始めたのに、それさえも何だか遠い。
「すみません」
すると、突然彼女が振り返った。大きな黒い瞳が申し訳なさそうに見上げてきた。俺は思わず一歩足を引こうとして、でもそこにおっさんのくたびれた靴があることを思い出す。踏んだら絶対に舌打ちされるだろう。俺が慌てて笑顔を作っていると、彼女はきゅっと眉をひそめた。
「割り込まれそうになって嫌な気分になりましたよね。ごめんなさい。もうあんなことしないように言っておきますから」
いや、靴を鳴らしてたのは俺じゃないから。
ついそんな言葉が漏れそうになった。そうこうしている間に、電車がホームへと近づいてくる。風が吹き込んできて、彼女のショートカットが揺れた。俺は瞬きする時間も惜しくて、目を見開いたまま頷いた。何だか暑いのは人が多いせいじゃないだろう。少しだけ目を細めて笑った彼女の顔が、頭だか目だかに焼き付きそうだった。もしかすると本格的にまずいかもしれない。心臓が痛い。
電車がゆっくり止まる。彼女は軽く頭を下げると、また俺に背を向けた。ふわりと漂った花のような香りのせいで、俺はますます息苦しくなった。
この話をあの馬鹿連中に伝えるのはなしだ。うっかり彼女のことを口にしてしまったら、ずっとからかわれるか、妙な距離感を生むだろう。
あいつらと来たら、理想の女の話題には軽い調子で乗ってくるのに、現実の女の話には懐疑的だし口うるさい。振られた話への食いつきはいいのに、うまくいきそうになると微妙な顔をする。だから、こういうのは本当に信用できる奴にしか話してはいけない。取り扱い注意だ。間違えると、それこそ笑い話ではすまなくなる。
本日のネタを手放した俺は、扉から溢れ出してきたサラリーマン連中へと視線を向けた。「大丈夫です、ありがとうございます」くらい返事しておけばよかったと、今さらながら後悔する。最近まともに女の子と会話してなかったから、咄嗟に言葉が出てこなかった。
彼女の背中が遠ざかる。早く進めと言いたげに、後ろのおっさんが大げさに息を吐く。俺は扉に吸い込まれるような気持ちで、一歩前へと踏み出した。