「ボクの赤い手」
「いや。だって高木くんの手、気持ち悪いもん」
左に出した手は、そのまま何もつかまずに止まった。こわれたおもちゃみたいに動かなくなった。ボクは何て返事したらいいのかわからなくて、とにかく泣くのだけはガマンする。
こんな手じゃなければ。右手みたいに、みんなと同じような手だったらよかったのに。
* * *
ボクはスキップしながら家に帰ると、青いランドセルを放り投げた。転がったランドセルがガラガラと音を出す。きっと中に入れてた工作キットが何かにぶつかったんだ。でもボクは気にしなかった。それよりも今はのどがかわいてる方が重要だ。たぶん体育でがんばりすぎたせいだ。
「ただいまー」
ジュースを取りに急いで台所へ行けば、こわい顔したお母さんがボクをにらんできた。でもおそうじ中だったからすぐはジャマされない。だからボクは知らんぷりしてれいぞうこを開けた。ひやっとする空気が今は気持ちいい。
「こら、とおる!」
そうじきの音といっしょにお母さんの声が聞こえてきた。でもそれもムシ。お母さんが何言うかなんて、ボクはだいたいわかってる。いつも同じことくり返してるからさ。こういうのをたしか耳にたこができるって言うんだって、前に先生が教えてくれた。何でたこなのかはよくわからなかったけど。
「こら、とおる。ランドセルちゃんと片づけなさい」
「後でするー」
今度はそうじきの音が止まってから、お母さんの怒った声が聞こえてきた。でもボクは気にせずコップに入れたオレンジジュースをごくごく飲む。お父さんがよく生き返ったーって言ってるけど、こういう時のことだよね? 本当に生き返った気分だもん。でもシュワシュワってする方がよかったなあ。あれなかなか買ってくれないんだよね。
「後でって、それって明日のこと?」
冷たいジュースをあっと言う間に飲み終わると、近づいてきたお母さんがボクの頭に手をのせた。そして軽くぽんぽんってたたくとランドセルの方へ歩いていく。昨日だってそう、ぶつぶつ言いながらもいつもやってくれるんだよね。本当は自分で片づけた方がいいってボクだってわかってるんだけど。でもやってくれるってわかってるとあんまり動きたくなくなる。
「新しいクラスはどう? もうなれた?」
ランドセルをかかえるとお母さんがそう聞いてきた。ボクはコップをテーブルに置く。
二年になって、クラスが変わってボクは二組になった。本当ならやさしい京子先生のクラスのままだったはずなのに、近くに大きなマンションができたせいで三クラスになったからだ。
お母さんにそのことを言うとシンコウジュウタクチだからねえって言って笑ってた。よくわからないけどそれが理由みたい。ここはショウシカとか起こってないのかなあ? あ、友だちいっぱいできるからボクはうれしいんだけどね。
だけど実は、楽しいことばかりでもないんだ。京子先生とちがって新しい先生はこわくて、ボクたちはみんなハゲメガネってよびながらも気をつけてる。本当の名前は東山先生っていうんだけど、いつもお父さんみたいなかっこうしてて黒いメガネをかけてるんだ。で、そのメガネが光る時は気をつけないとダメ。おこらせたら宿題ふえちゃうからみんなビクビクしてる。
だけど、ボクは新しいクラスも好きだった。すごくかわいい女の子がいるんだ。その子の名前は真理ちゃん。
実はボク、一年のころから真理ちゃんを知ってる。初めて真理ちゃんを見たのは入学式の時。お母さんと手をつないで笑っている真理ちゃんが、すごくかわいかったんだ。空色のワンピースと真っ赤なランドセルがきれいで。こい青とかピンクとか色んなランドセルがあったけれど、ボクにはその赤が一番キラキラして見えた。
「うん、なれたよ」
だからボクはお母さんにそう答えた。先生はちょっとこわいけれど、真理ちゃんがいるからがんばれる気がする。漢字だってちゃんと覚えるし、苦手な算数だって……がんばっちゃうんだもんね。アトピーのかゆいのだってガマンする。かっこわるいのはいやだからさ。
「じゃあボク宿題するね」
おどろいてるお母さんからランドセルをもらって、ボクは部屋へと向かった。まずは明日の宿題だ。わすれて先生にしかられたらかっこわるい。真理ちゃんとなかよくなる前にダメなやつって思われたらこまるし。
「そう? がんばってね」
少しお母さんはうれしそうだった。でも理由を言ったらきっと笑われるからないしょだ。だからボクは大きくうなずくだけで、それ以上は何も言わずに部屋のドアを開けた。
* * *
「ほら、体育館に行くぞー。早くしろよ」
今日は朝から全校集会。東山先生がろう下から教室をのぞいて、大きな声でそうよんだ。ボクたちは急いでろう下にならぶ。先生は時間にうるさくて、ちょっと何人かがおしゃべりしてただけでクラスのみんながおこられるからだ。もちろん宿題をわすれたらもっとひどくおこられる。教室の後ろに立たせられるんだ。立ったまま勉強するのはいやだから、みんな宿題をやってくるって思ってるみたい。
「背の順に、前からならんで」
そんな東山先生の言うことだからみんなちゃんとすぐに動いた。ボクのななめ前には真理ちゃんがいる。いつもそう、背がほとんど同じだから近くになるんだ。だからボクはよく真理ちゃんの後ろすがたを見てる。
真理ちゃんがもう少し大きかったら、それかボクがもう少し小さかったらなあ。そうしたら真理ちゃんととなりになれるのに。
でもボクの左にいるのは真理ちゃんじゃなくてかなちゃんだった。元気よすぎていつも男子とケンカしてる女の子。先生にもよくしかられている。
「となりの人と手をつなげよー」
みんながならんだのを見て、先生がそう言った。一年生の時はよくそう言われたけど二年生になってから初めてのことだ。もうちゃんとした小学生なのになと思うと、ちょっとはずかしい。だけど先生の言うこと聞かないとおこられるから、ボクはすぐに左手を横へ出した。かなちゃんも同じように出しかけて、でもボクの手を見下ろしていやそうな顔をする。
「かなちゃん?」
「いや」
「何で? 先生におこられるよ?」
「いや。だって高木くんの手、気持ち悪いもん」
左に出した手は、そのまま何もつかまずに止まった。こわれたおもちゃみたいに動かなくなった。ボクは何て返事したらいいのかわからなくて、とにかく泣くのだけはガマンする。
男の子が泣いたらかっこわるい。それに先生に見つかったらまずいから。真理ちゃんだって近くにいるし。
「……そっか」
下を向くと、赤っぽい左手が少しだけ見えた。ボクの右手と左手はちょっとだけ違う。左の手のひらだけが赤っぽくてしわしわな感じなんだ。お母さんはアトピーのせいだよ、大きくなったらよくなるよって言うけど、でもよくなってるようには見えなかった。
冬はかわいて指先がカサカサになっちゃうし、いたいし。だけど冬でもなければそんなにこまらないから、ボクはずっと気にしてなかった。
それなのに、気持ち悪いだなんて言われた。そんなこと言われたのは初めてだった。そんな風に見えるなんてショックだ。
こんな手じゃなければ。右手みたいに、みんなと同じような手だったらよかったのに。
空っぽになった手のひらが悲しくて、ボクはうつむいたままゆっくり手を下げた。前にある見なれた上ぐつがちょっとにじんで見える。それは真理ちゃんのくつだ。
泣かない、泣かない。
ボクは心の中で何度もくり返す。泣いたらかっこわるい。泣いたら先生に見つかる。泣いてるところをみんなに、真理ちゃんに見られたくない。
そうくり返してると、前にある上ぐつの向きがほんの少し変わった。ボクはいつものくせであわてて顔を上げる。なかよくなりたいとずっと思ってたから、体がそう覚えちゃったんだ。
あっ!?
そうしたらふり返った真理ちゃんと目があった。その丸くて黒い目が、ボクの左手の方をちょっとだけ見た。まちがいじゃない。
聞かれたんだ。ボクの手のこと聞かれたんだ。
そう思うと心臓がばくばくいって口から飛び出してきそうだった。きっときらわれた。なかよくなる前にきらわれちゃった。ボクはまたすごく泣きたくなって、ぎゅっとくちびるに力を入れる。
けれども列が進み出すと、真理ちゃんは何も言わずに前を向いて歩き出した。かなちゃんみたいにいやな顔はしなかったけれど、何も言ってくれなかった。
見られなかったのかな? でもかなちゃんの言ったことはたぶん聞いてたはずだ。真理ちゃんは、どんな風に思ったのかな……。
ボクは下を向いたまま歩いた。前にいる真理ちゃんの手はとなりの明石くんとしっかりつながっている。それがボクにはすごくうらやましくて仕方なかった。
ボクの手は、空っぽのままだった。
冷たくて悲しい、空っぽの手のひらだった。
* * *
帰りの会が終わっても、ボクはすぐ家に帰る気がしなかった。かなちゃんの言葉がすぐうかんできて、お母さんに会ったら泣き出しそうだった。
でも泣き虫はダメだってお父さん言ってるし。お母さんだってこまって、大きくなったらよくなるから、って言うだけだし。
「何でボクだけ」
どうして左手だけこんな風なんだろう。
学校近くの公園で、ボクはランドセルを放り出して横になった。ちょっとした山みたいになってるそのうら側だ。ここならきっとだれにも見つからないはず。お母さんに理由を聞かれたら、音楽の練習をしてたんだって言いわけしよう。
「高木くんみーっけ」
だけど予想もしてなかった声が聞こえて、ボクはあわてた。
「真理ちゃん!?」
横の空を見上げようとすると、真理ちゃんの顔が見えてさらにびっくりした。今までこんなにおどろいたことってないはずだ。真理ちゃんがこんなに近かったことだってない。だってほとんど話したこともなかったのに。
「より道いけないんだー」
「あ、それは……」
「先生に言っちゃうぞ」
「ダ、ダメ! それはダメ!」
「だったら手、見せて」
ボクは起きあがってランドセルの横にすわりこむと、真理ちゃんをじっと見た。赤いランドセルをしょった真理ちゃんは、すごくキラキラした目でボクを見つめている。それはかなちゃんのいやそうな顔とは全然別だった。だからどうしようか迷いながら、ボクはおそるおそる右手の方を前に出す。
「ちがう。そっちじゃなくて左」
「え、こっち?」
「うん、見せて」
それなのに真理ちゃんはちがうと首を横にふった。困ったボクはとりあえず右手を引っこめる。真理ちゃんが何でこんなこと言うのか全然わからなかった。だってかなちゃんが気持ち悪いと言った手をだれが見たいって思う? おかしいでしょう? ボクだったらそんなこと絶対言わない。
左手を見られたらきらわれるかもしれない。
そう思うとまた心臓がドキドキしてきた。だけど真理ちゃんがじっと待っているから、ボクは仕方なく今度は左手を前に出す。体育の後みたいにあせまで出てきた。
「わぁ」
「き、気持ち悪い?」
「すごい、本当だちがう!」
「あのさ……」
「ねえ高木くん、さわってもいい?」
だけど真理ちゃんはボクの手を、新しいおもちゃを前にした時みたいに見つめてきた。うれしそうな真理ちゃんはいつもよりもずっとかわいく見える。もちろんいつもかわいいんだけど。
「この手ならきっとユーレイでもつかまえられるね」
「ユーレイ?」
「知らないの? 右と左の目の色がちがうとね、ユーレイが見えるんだって! わたしマンガで読んだもん。だったら右手と左手がちがったらつかまえられるんじゃないかなあ。高木くんの手だったら、きっとかわいらしいユーレイがつかまえられるよ」
真理ちゃんはすごく早口でそう言った。そんな話ボクは知らないんだけど、真理ちゃんは信じてるみたいだった。その黒い目に星が見えた気がする。ボクはうまく言葉が出てこなくて、ぱちぱちとまたたきをくり返した。
「ねっ、だから今度ユーレイ探しに行こうよ」
「ボクと二人で?」
「二人で。こんなすごい手を気持ち悪いなんて言う、かなちゃんはさそっちゃダメだよ」
約束、と言って真理ちゃんはボクの左手をぎゅっとつかんだ。空っぽだった手のひらが、今までにないくらい熱くなった。
「ねっ?」
「うん」
ボクは笑い返した。さっきまでもやもやしていたものが全部、どこかへふき飛んでいってしまったみたいだ。
きっと真理ちゃんの目にはまほうをかける力があるんだ。ボクの手にユーレイをつかまえる力があるなら、真理ちゃんにはボクを元気にする力がある。
「じゃあね。わたしもそろそろ帰らないと」
真理ちゃんはそう言ってランドセルをしょい直し、公園の外へと走り出した。ボクは立ち上がってその後ろすがたを見送る。本当は大きく手をふりたかったけれど、はずかしいから止めた。誰かに見られたらこまるし。それにまた今度二人で会えるからいいよね。
ボクは自分の左手を見つめた。ちょっぴり赤い手のひらも、真理ちゃんの赤いランドセルを思えばいやじゃなかった。
左手を空にのばしてボクは神様につぶやいた。
大きくなるのはもう少し、後でいいかなあなんて。
終