「前見る私、後ろ見る君」
「あーっ、十分遅れてる!」
部屋の扉を乱暴に開けて、私はぎしぎしと鳴る廊下を小走りで駆けた。短い髪が肩口ではね、頬に当たる。ちょっと綾奈、と呼びかけてくるお母さんの声は、悪いけど今は無視だ。今日ならばそれも許されるだろう。
慌てて羽織ったコートのボタンをし、赤いチェックのマフラーを巻いた。真っ白な手袋をはめて鏡をチェックすれば準備完了。
「行ってきまーす」
そう声を張り上げて私は玄関を飛び出した。そして止まることなくマンションの非常階段を駆け下りる。冷たく凍り付いたっ手摺りと手袋がくっついてしまわないよう注意しながら、私はすぐ下の三階へと辿り着いた。肺に入る空気が痛い。
「ごめん、圭太っ!」
非常階段のすぐ隣、お洒落でも何でもない扉の前に、圭太はいつも通りぼーっと立って待っていた。寒いんだから中で待っていればいいのにと何度言っても、圭太は聞かないんだ。
「いや、さっき出てきたところだから平気。たぶん十分は遅れてくるだろうなあって思って」
「何よそれー!」
振り返った圭太の顔を私は少しにらみつける。でも彼は何も感じてないかのような顔でのほほんと微笑んでいた。
どうせ私はいつも遅刻魔ですよっ。
ぷいと顔をそらせつつそれでもそっと様子をうかがうと、どうやら少しは気にしてるみたいだ。彼はかすかに眉をひそめている。
少し長めの黒い前髪に、大きな目、綺麗な肌。相変わらずの女顔だ。羨ましいくらいに……。
私は長く息を吐いてからゆっくりと歩き始めた。
コツコツという靴音を響かせながら、私と圭太はエントランスへと下りていく。風が冷たくて思わずうひゃあというかわいらしくない声がもれた。巻き上げられた粉雪が頬に当たって痛い。
今日は、大学の合格発表日だった。
友達とは見に行くなって担任は言ってたけど、私たちには関係ない。だって一人で行くのって寂しいし、親はやたらと心配してるからつれていきたくないし。それに、圭太となら平気な気がするから。
『もしどちらかが落ちてたら気まずくなるだろう?』
あんなこと平気で言うあの生真面目な担任には、デリカシーが欠けてるんだって!
私は少しだけ腹が立ってきた。
マンションのエントランスを出ると、道は見事なくらいてかてかだった。道路なんてまぶしいくらいに光を反射している。そう言えば昨日は気温が上がったんだっけと、ふと私は思い出した。溶けて凍った道って一番滑りやすいんだよなあ……。顔が自然と曇っていく。
「ねえ、圭太。ずっと黙っててさ、ひょっとして緊張してるの?」
視線を少し前方に落としたまま呼吸だけを繰り返してる圭太。私は彼の顔をのぞき込んで、軽い口調で尋ねた。見慣れたその澄んだ瞳には今は不安と苛立ちが入り混じってるみたい。でも、綺麗だ。
「き、緊張しない方がおかしいだろっ。オレは本命一筋なんだし」
「えーっ圭太は緊張しすぎだって。大丈夫なんだから」
私の言葉に、圭太やや顔をしかめた。本当気が弱いというか心配性というか何というか……。大きくなったら克服されるとばかり思ってたけど、やっぱりそううまくいくものではないみたい。その方が圭太らしい気もするけどね。
私は走るように歩き出した。雪の山の先に、かすかにだけどバス停が見えてくる。道の状態を考えればバスも時間通りには来ないだろう。もしかしたら、乗るはずだった時刻のに乗れるかもしれない。
「あ、バスが来た」
圭太がつぶやくのを私の耳は捉えた。目を凝らせば、かすかにそれらしい姿が雪山の彼方に見える。
「ラッキーだね」
「こんなところで運使いたくないんだけどなあ」
二人の声が重なり、空気が震えた。
予定の約倍の時間をかけて、バスは私たちを目的地へと運んでくれた。でもここから発表場所である大学までは、あと十分程歩かなければならない。手袋越しに伝わる冷気が指先を突き刺しているし。足先もかなり冷たい。正直げんなりだ。
「あー、すっごくどきどきしてきた。俺だめかも」
圭太の声はかすれていた。私はその肩を思いっきり叩き、前に一歩出る。そのままそこで半回転するとバランスを崩して倒れそうになり、慌てて手をぐるぐるさせた。ここは踏ん張り時だ。私は何とか氷道とのご対面を回避する。
「もう、圭太はすぐそうやって弱音吐くんだからー。あれだけ勉強したし、本番だって大失敗はしてないんだから大丈夫だって」
励ましの言葉も間抜けな動作の後では効果はなかった。圭太の苦笑いを、私は悔しげに見つめるころしかできない。
何よ、ひとが元気づけてあげようってのに。
「綾奈は本当楽観的だよなあ」
さらなる言葉が私の心に火をつける。
失礼ね! 私が楽観的なんじゃなくて、圭太が悲観的すぎるだけよ!
腹が立ったからすたすたと歩調を早めてやった。情けない声が背中に覆い被さってくるけど立ち止まってなんかあげない。自業自得だもん。
と、その時、
「うわあっ!?」
ひときわ大きな悲鳴と、どすっという鈍い音が鼓膜をついた。一つの可能性を胸に、私は慌てて振り返る。
「け、圭太っ! 大丈夫!?」
氷の道上に、圭太はしりもちをついていた。その体勢から判断するに打ち所は悪くないみたいだ。でも痛そう。私が急いで駆けよると、圭太はへらへらと微笑みながら澄んだ目で見上げてきた。表情も仕草もいつも以上に力無い。
「こんな時に滑って転ぶなんて……もう結果は見えたよな」
濁った氷に眼差しを落として、圭太はぼやいた。胸の中を妙にぞわぞわとした気持ちが駆けめぐって、頭が沸騰しそうになる。
気づけば私はまくし立てていた。
「何言ってるのよ圭太、今時そんなこと気にする人なんていないってば。一緒に合格しようって、そう約束したじゃないっ、馬鹿。今転んだのはね、大学に落ちる分を先に消費したのよ。だからもう圭太は転ばないし滑らないのっ」
丸くなった瞳が私を見つめていた。ぜえはあと荒い息がもれて、私は膝に手を乗せる。何で私がこんなにムキになってるんだろう……。馬鹿なのは私じゃない。
息を整えていると、圭太はのろのろと立ち上がり雪を払った。それから私の背中を撫でて、柔らかい声で話しかけてくる。
「わかったから綾奈、落ち着けよ。俺が悪かったからさ。ほら、もう発表時刻とっくに過ぎてるし、早く行こう?」
上体を起こすと圭太の瞳とばっちりぶつかった。いつも以上に優しい色をした目が、すぐ間近にある。思わず鼓動がはねそうだった。
「そ、そうね。寒いところに突っ立ってるのも嫌だし、さっさと見てこようっ」
不自然に声がうわずっていた気がする。私はそれをごまかすようにリズミカルに歩き出した。動揺してたのか滑りそうになったけどそこはセーフ、何とか持ちこたえる。
ますますかっこわるいなあ、私。
雲の隙間から顔を覗かせた日の光は、濁った氷に反射して輝いていた。冷たく澄み切った空気の中で、雪山もかすかに煌めいている。
「そうだよな、さっさと終わらせよ」
背中に降りかかる圭太の声には、苦笑が混じっていた。
合格発表の会場は、わらわらと集まった学生であふれかえっていた。喜ぶ人を見つけては、何かの部の人たちが大声を上げながら、その人を取り巻いていく。そのせいで、肝心の合格者番号は全く見えなかった。ものすごく迷惑だ。
「俺は、あっちの方かな。綾奈はすぐそこだろ?」
「うん、そうだと思う」
「じゃあ俺ちょっと見てくるな」
圭太の背中が人混みの中遠くなっていった。何となく心細くなって、私はゆらゆらと力無く手を振る。その横を、無言で誰かが通り過ぎていった。うつむいていたせいで男か女かさえわからない。
――――落ちたんだ。
不思議と鼓動が早くなる。固唾を呑んで、私はゆっくりと人混みを掻き分けていった。手を叩きながら頬をほころばせている女の子、呆然と立ちつくしている男の子を横目に、何とか目的の場所へと辿り着く。
白い大きな紙が目の前にあった。
――――私の番号。
万歳三唱を背中に受けながら私は紙に目を通す。後ろからやってきた人が数人、神妙な顔で隣にやってきた。
喧騒が、遠ざかっていく。必死に数字を追いかける目が、何度も紙を往復した。自分の番号を求めて。
「ない……」
無意識にこぼれたつぶやきに、私ははっとした。ないんだ、私の番号がないんだ。学部の名前を確かめてみるけれど、それは間違っていない。
落ちた。
腕が震える。頭がぐらつく。膝に力が入らなくなる。
自分が今どんな顔をしてるのかわからなかった。笑っているようにも思えた。泣いているようにも思えた。時が止まったように全ての音が私から離れていく。
「綾奈!」
待ちわびた、声がした。静かに振り返ると、左から人を押しのけてやってくる圭太の姿が見える。その溢れそうな笑顔が、全てを物語っていた。
「綾奈っ、俺、受かってた!」
そばまで来ると、圭太は私の肩をしっかり掴んで揺らしてきた。言葉にならない喜びのを伝えようと、とにかく必死になっている。私はへらへらと微笑んだ。
あの時、私も、一緒に転んでおけばよかったなあ。
ずきりとした痛みが体の中を駆けめぐる。
「綾奈、綾奈は?」
そう尋ねてから、圭太の顔が一瞬で硬直した。はっとしたように息を呑んで顔をしかめると、彼はゆっくりと紙に目を向ける。
圭太、だめっ、見なくていいから!
そう伝えたくても声が出てこなかった。そんな私の腕を掴んで、圭太は黙って人混みを抜けていく。引っ張られた腕が痛い。
「綾奈?」
騒がしい集団から遠ざかると、圭太は優しく名前を呼んで顔をのぞき込んできた。いつもみたいに笑って、大丈夫だよ、と言いたいのに、目の前の映像は無情にも歪んでいく。
「落ち、ちゃった」
涙がこぼれて頬を伝っていった。声も震えてかすれている。
かっこわるい。全部が終わったわけじゃないのに、泣くだなんて。迷惑かけるだなんて、情けないよ。
圭太が私の背中を撫でる。コート越しにその温かさがにじんできた。
「泣くなよ、綾奈。ほら、お前この前私立受かってただろ? それにまだ後期試験もあるじゃないか。まだ終わりじゃないだろう?」
わかってる、そんなことくらいわかってる。なのに何でだろう、涙が止まらない。
私は目をこすりながら何度も相槌を打った。短い髪が風に触れて、頬に当たってくすぐったい。
わかってる、わかってるよ……。
「私立には、行けない、行かない」
震える声で私は必死に自分に言い聞かせた。家計苦しいもんね。一人暮らしなんかしたら大変なことになっちゃうもんね。それに、圭太と離れてしまう。
「……え?」
首を傾げる圭太。私はぐちゃぐちゃの顔のまま精一杯微笑んだ。
そうだよ、今頑張らないと圭太と離れてしまう。
「今から、頑張る。絶対、後期合格するよ。圭太が受かって私が落ちたままじゃ悔しいじゃない?」
濡れた頬に風が冷たかったけれど、もう声は震えていなかった。圭太がぷっと吹きだして、私の頭を乱暴に撫でる。
「さっすが綾奈。その頑張り、俺がとくと見させてもらうからな」
「いいわよ、見せてあげる。後期一番で合格したら、何かおごってくれるよね?」
「うわあ、自信満々」
二人は笑い合った。気づけば涙は止まっていて、もうわけのわからない悲しみはわいてこなかった。
私って立ち直り早いでしょう?
誰にともなく心の中で問いかけると、胸の奥からふつふつと自信が戻ってくる。
大丈夫、まだまだ私はやっていけるよ。
「まあいいけどさ。俺が勉強見てあげようか?」
「冗談っ! 私理系で圭太文系。無理に決まってるでしょう? ちょっとは考えてよね」
私は歩き出した。てかてか光る道の上を、ゆっくりと足を運ぶ。風と一緒に流れ込んでくる喧騒も、今は気にならなかった。その後ろを圭太が慌てて追いかけてくる。
「バスがまた、タイミングよく来るといいね」
私の声は綺麗な空へと抜けていった。
「あーっ、十分遅れたー!」
私は白いコートを乱暴に羽織ると慌てて玄関に向かった。ちょっと綾奈、というお母さんの呼び声は、悪いけど今は無視だ。
「行ってきまーす!」
扉を開けて外へ飛び出すと、私はそのままマンションの非常階段を駆け下りる。冷たさの中に日の光を含んだ空気が、何だか気持ちよかった。
「ごめんっ、圭太!」
いつも通りぼーっと待っていた圭太に、私は声をかけた。圭太はその澄んだ目を私に向けて、少しいたずらっぽく微笑む。
「別に、今出てきたところだから。まあいきなり入学式から遅刻だなんて、俺も嫌だけどさ」
「うん、じゃあ走ろう!」
私は圭太の肩を勢いよく叩いた。少し伸びた髪が、肩ではねて頬に当たる。
「ちょっとおい、綾奈!」
「置いていくよー圭太」
日だまりの中へ、二人は駆けだしていく。エントランスを出ると、柔らかい空気が辺りには満ちていた。雪解け水の溜まった道路は、太陽に照らされて輝きながら揺らめいている。
道の先には、見慣れたバスの姿があった。