「雨の後には銀踊る」
今日も朝早くから、しとしとと降り続く雨が通りを濡らしている。格子越しにその様子を見つめて、
俯くと頬へとかかる黒髪も心なしか湿気を含んでいて、自分のものだというのに気持ちが悪い。縫い物する手を止めて、彼女は髪を結い直し始めた。着物の袖が板の間を擦り、軽く音を立てる。しかしそれもこの雨音の中では、かすかに耳に届く程度だった。
ここ数日降り続いている雨は、誰の気分をも曇らせていた。洗濯物が乾かないし、買い物に行くのも億劫になる。しかし何より一緒に住むようになった少女―
今日も外に出られない千鳥は、板の間に寝ころんでつまらなさそうに本を繰っている。それは昨日も一昨日も読んでいた本だった。いつだったか、もらい物だからと頭が手渡したものだ。
「ねえねえ琴ねえ琴ねえ。
すると案の定、読書に飽きた千鳥は立ち上がって話しかけてきた。ぺたぺたと可愛らしい足音を立てて近づいてくる気配に、琴はゆっくりと振り返る。一本に結わえた銀の髪を揺らして、千鳥は隣に座り込んだ。
「あのねえ、千鳥。男の人はそう頻繁に、年頃の女の人の部屋には来ないものよ」
「でも昨日も一昨日も来てたよ」
「それは仕事の話し合い」
「今日はないの?」
「仕事は昨日終わったから、もうないの」
琴は千鳥の頭を優しく撫でた。指通りのよい銀の髪は、何度触れても心地よい。また、そうした時の千鳥の嬉しそうな顔が琴は好きだった。以前大屋敷に住んでいた頃は、なかなか親にもかまってもらえなかったらしい。
千鳥はここしばらく、琴が保護している
火事を利用して千鳥を狙ってきた術師を退治したのも、つい一月前の話だ。対術師専門の警護団『
「え、もう終わったの?」
「千鳥がお頭のところに行ってる間に終わらせたわよ。五の組は即行解決が信条だもの」
目を丸くして驚く千鳥に、琴は不敵な笑みを向けた。本当はできる限り千鳥を一人にしたくなくて、結果的に即行解決になっているだけだった。
仕事中は頭が面倒を見ていてくれているが、好色漢である彼に任せっきりなのも不安なのだ。千鳥によからぬことを吹き込まれては困るし、あんな大人を見本としてもらうのはごめんだった。けれどもそんな事情を千鳥には話していない。自分が重荷になっていると、きっと千鳥なら考えるだろう。だからそんな素振りは一度たりとも見せていなかった。
「竜にいと琴ねえってすごいよね!」
「そんなことないわよ」
「お頭のおじさん褒めてたよ。後は色恋沙汰さえあれば楽しいのにって」
「そういう言葉は忘れなさいね、千鳥」
苦笑して千鳥の頭を軽く叩くと、琴は立ち上がった。雨音はまだ続いている。このままでは昨日ずぶ濡れになった時雨組の羽織も、しばらくは乾きそうにない。
ため息をこぼした琴は軒先へと向かった。そのまま障子を開けて顔を覗かせると、冷たい雨粒が頬へと当たる。彼女は瞳を細めた。目に入るのは見慣れた光景だが、しかし昨日とは少し違う。空気に含まれている湿気と緩やかに吹く風の匂いが、それまでと微妙に異なっていた。見上げた先の雲はまだ分厚いが、夕方には止むかもしれない。
「琴ねえ?」
「あのね、千鳥。もし夕方にでも雨が上がったら、一緒に買い物に行かない?」
「え?」
琴は障子を閉めると、振り返って微笑んだ。千鳥は丸くなった瞳を何度か瞬かせ言葉を失っている。信じられないという顔だ。その理由がわかるからこそ、琴は小さく笑い声を漏らした。
見た感じでは雨が止む気配など皆無だ。だが術師はそれぞれの得意な分野に限って、かなり感覚が敏感だった。琴が得意とするのは水の術。だから雨に関して読みがはずれたことはない。
「どう? あ、帰りにお菓子買ってあげるから。長屋に閉じこもってばかりじゃ退屈でしょう?」
「でも雨なんて止まないよ、絶対」
「私は止むと思うけどなあ」
半信半疑な千鳥の側へ行くと、琴は膝をついた。きっと千鳥は普通の買い物にだって行ったことがないだろう。札師は狙われやすいという理由から、普通は人混みの中を避ける。札師の象徴とも言える銀の髪は、人中にあっても目立ちやすかった。瑠璃の国には髪を隠す風習もないため、人出のある場所を避ける札師は多いようだ。
「ね?」
「うーん、そこまで琴ねえが言うなら信じるよ」
だからまんざらでもなさそうな千鳥の様子は、可愛らしくも少し胸に痛かった。危険な場所だろうと、術師がいれば大丈夫。そう胸中で呟き琴は立ち上がった。
せめて子どもらしいことをさせてやりたい。力を理由に束縛される生活を送らせたくない。当人には言えぬ願いを胸に秘め、彼女は着物の裾を正した。
結局夕刻には雨が上がり、琴と千鳥は買い物に出かけることになった。本当はすぐに必要なものなどないのだが、それは千鳥には内緒だ。適当に夕餉の買い出しとだけ告げてある。雨ばかりでわびしい食事が続いていたから、それには千鳥もすぐに納得してくれた。
しかし予想外だったのは、そこに竜が混じったことだ。何かを察知してきたのか出かける間際に顔を出してきた彼は、穏やかな顔をしてこう言ってきたのだ。買い物なら俺も行くと。
術師なら一人でも多い方が安全だ。それは確かな事実なので琴は断らなかった。千鳥も喜んでいるしたまにはいいだろう。最近一緒にいる時間が多くて妙な勘違いをされているらしいが、千鳥のためならば少々我慢するしかない。
だから琴は長屋にいる他の仲間たちにも。笑って手を振ってきた。その顔に浮かぶのが下賤な微笑でも今は無視だ。制裁を加えるのは後でいい。
店の並んだ通りは、夕餉の買い出しに来た人々で賑わっていた。子どものはしゃぐ声、店からかけられる呼び声。それらを物珍しそうにうかがう千鳥に、琴は密かに苦笑する。
「うわー、お店がいっぱい!」
しっかりと握った千鳥の手は、興奮のためか汗ばんでいた。その逆の小さな手を取っている竜も、微苦笑を浮かべている。言葉には出さなくても思っていることは同じだろう。可愛らしくもかわいそうでもあるこの少女には、複雑な表情にならざるを得ない。
「ねえねえ琴ねえ、あれは何?」
「あれ? あれはね、紅やおしろいを売ってるお店よ」
「ふーん、じゃああれは?」
「あれは薬屋」
聞かれれば答え、答えたらまた聞かれる。これを何度繰り返したことだろう? まともに外に出たことがないのではと思える程、千鳥は何も知らなかった。だから通り過ぎる人々からの無遠慮な視線に驚くのもまた、仕方のないことだった。札師はどこへ行っても目立ってしまう。琴も竜も他の町人も黒髪の中で、千鳥の銀糸は目映かった。
「千鳥は可愛いなあ」
「もう竜、顔が緩んでるわよ」
「そう言う琴こそ」
琴と竜、二人は顔を見合わせて笑い合った。するとそれに嫉妬したのか、むっとした千鳥が見上げてくる。その動きにあわせて結わえた銀の髪が生き物のように揺れた。千鳥はぐいと手を引っ張る。
「琴ねえ、お菓子買ってくれるんでしょう?」
「うーん、そうね、じゃああそこの店に寄っていきましょうか」
甘える千鳥にそう答えると、琴は竜へと目配せをした。それに気づいていたらしい竜はうなずき、そっと千鳥から手を離す。すると走ってもよいと捉えたのか、千鳥は喜んで店の中へと駆けだしていった。まだ手を握ったままだった琴も、引きずられるようにして走り出す。
羽織が乾いていればよかったと、立ち止まったままの竜を一瞥して琴は独りごちた。時雨組の象徴である藍の羽織は、術師ならば誰もがその意味を理解している。普通の町人はただの術師としか思っていないだろうが、悪さを働こうとする術師なら間違いなく知っていた。だからあれを羽織っていれば、それだけで無用な騒動を避けられるのだ。今日のように、妙な輩に狙われなくてもすむ。
店に入った千鳥は、琴の手を離してお菓子選びに夢中になった。その姿から目を離さずに、琴は外の様子を密かにうかがう。竜もかなり腕の立つ術師だからまずやられはしないだろう。それでも相手が複数ならば、取り逃がすかもしれない。油断は禁物だった。
「これがいい!」
「これ? すみません、おじいさん。この飴ください」
瞳を輝かせた千鳥が選んだのは、色とりどりの飴玉だった。小さな袋に入ったそれを受け取った琴は、すぐにもう一方の手で千鳥の手を取る。そして飴玉の袋を年老いた店主に掲げて見せた。奥から出てきた店主は、ほとんど見えない細い目を瞬かせる。
するとどこからか、かすかに喧噪が聞こえた気がした。飴玉を受け取った店主から一瞬だけ目を離し、琴は外を一瞥する。けれども通りを行き交う人の流れに淀みはなく、少なくとも騒ぎのもとは近くではないようだった。安堵した彼女は再び店主へと視線を向ける。
「嬢ちゃん、五十ミンだよ」
「あれ、六十って書いてありますけど?」
「お嬢ちゃんたちなー、べっぴんさんだからおまけだ」
「おじいさんったらお上手。また来ますね」
白髪の店主の言葉に笑って、琴は懐から小袋を取り出した。そして五十ミンを素早く手渡し、代わりに飴玉の袋を受け取る。するとすぐに千鳥が手を伸ばしてきたので、その袋をそのまま渡した。嬉しそうな瞳だ。受け取った千鳥は満面の笑みを浮かべて礼を言い、店主にも頭を下げた。こういうところは育ちなのか礼儀正しい。
「あれ? そう言えば竜にいは?」
「表で待ってるんじゃない? ほら、男の人はこういう所には入りにくいでしょう?」
琴は千鳥の手を引いて、すぐに表へと出た。早く外の様子を確かめたくて、自然と早足になる自分に胸中で苦笑する。実はなかなかの心配性だったらしい。
しかしその必要もなかったようで。店先の横には、先ほどまでいなかったはずの竜が微笑して立っていた。その穏やかな眼差しから片づけが終わったことを読みとり、琴も微笑む。もう大丈夫だ。
「竜にい!」
すると千鳥は笑顔のまま軽く竜へと飛びついた。突然のことに小首を傾げる彼へと千鳥は飴の袋を掲げてみせる。袋の中で飴玉がぶつかって可愛らしい音を立てた。
「これ! 買ってもらったの」
「おお、よかったな。それだけでいいのか?」
「うん! こういうのはね、欲張っちゃ駄目なんだってお頭のおじさんが言ってた」
そう意気揚々と報告する千鳥に、竜と琴はまた視線を交わして苦笑した。日頃けちくさいことで有名な頭は、千鳥にまで教育していたらしい。竜の大きな手が千鳥の頭に載せられた。
「じゃあそろそろ帰ろうか」
「あれ? 竜にいたちの買い物は?」
「今、俺がすませてきたから」
「ずるーい! 私も見たかったのに」
しかしもう帰らなければならないとわかって、千鳥は頬をふくらませた。まだ満足していないのか嫌だと駄々をこねる彼女を、竜は納得させようと一人奮闘する。
その珍しい様子に琴は現状を理解した。どうやら札師を狙ってきたのは複数だったらしい。一人ならこっそりのすこともできるが、相手が複数ならばそうもいかない。誰かに見られたのだ。
いくら時雨組の一員でも、普通の警護団を相手にするわけにはいかなかった。時雨組という組織は公のものではない。だから表で騒ぎが起きた時には、逃げるに越したことがなかった。面倒ごとは最小限に抑えなければならない。よって帰るしかないとわかった琴は、不満そうな千鳥の肩を軽く叩いた。
「我が儘を言っちゃ駄目でしょう、千鳥」
「でも琴ねえー、せっかく外に出たのに。もっと色々見たいよー」
「それはまた今度ね。ほら、夕餉の支度もあるでしょう?」
今日は千鳥の好物にしてあげるから、と付け加えて琴は微笑んだ。それで千鳥は機嫌を直したらしく、瞳を輝かせて大きくうなずく。
内緒の護衛生活はなかなか大変だ。しかしそれもまだまだ、終わりを迎えそうになかった。