密の紡ぎ

第五話 「たとえ遅かったとしても」

「あの、さあ、ユヅイヤさん」
「何だ?」
「ユヅイヤさんは、母さんの知り合いなの?」
「……は?」
「ずっと、母さんの名前呼んでた」
 下を向いたまま、ヒギタは言葉を続けた。思わず固唾を呑んだユヅイヤは、ぼんやりとした記憶を辿る。またオミコの夢を見ていたような気がする。彼女の笑顔を、眼差しを、温度を、ずっと求めていた気がする。もう一度会って謝ってそれからどうするのかなど考えられない程に、ひたすら顔が見たかった。
「――そうか」
 絞り出した声は低く冷たい。彼女を思い出そうとすればするだけ、もう一度会うのが怖くなった。夜ばかり甘い言葉を囁き昼間はまるで他人のような顔をしていた愚かさに、思い出すだけで目眩がした。何度彼女の言葉を無視してきたか。聞こえない振りをし、あからさまに嫌な顔をし、鬱陶しがってきたか。
 ヤルガが亡くなってから、そうした行為はさらに拍車がかかった。二人きりで暮らす家の息苦しさから逃げるように、彼は夜しか帰らなかった。ただ彼は、もう二度と得られないだろうかつての彼女が欲しかった。
 再度顔を上げたユヅイヤの瞳にうっすらとアーデル、エーデルの姿が映る。それは三分の一ほど重なって、奇怪な光を纏っていた。白と黄色の輝きがまだらに混じり合っているのが、薄雲の向こうでもはっきりとわかる。
「ちょっと、待てよ……?」
 今までアーデルとエーデルが見えたことなどあっただろうか? ここへ迷い込んだ頃は、何度もその姿を追い求めて空を見上げた。しかし空に月が昇ることはなかった。だからこの世界に月は存在しないのだろうと、そう納得するに至った。だが今、確かに空には月がある。
「あ、アーデルとエーデル!」
 ユヅイヤの視線につられたのか、ヒギタも空を見上げた。今まで世界が砂色に染め上げられていただけに、その光が目映く感じられる。ユヅイヤは乾いた舌に言葉を乗せた。
「アーデルとエーデルが重なる夜に、異界への道が開かれるという」
 まだアーデルとエーデルは重なっている。もしかすると見えないだけで、道は既に繋がっているのかもしれない。少なくとも彼らの真上にある空は別の世界のものだ。幻に囚われたこの世界のものではない。
 あの夜も月は重なっていたと、ユヅイヤは思い起こす。思い出したくはない、けれども忘れられない日だ。冷え冷えとするあの季節としては、珍しくも穏やかな風が吹いた一日だった。だから久しぶりに彼は夕方に散歩などし、道端に咲いている花を見つけた。名前は知らないが、それをヤルガが特に愛でていたことだけは覚えていた。紫色の花弁が風に揺れる様を、よく三人で眺めたと。
 花を持って帰ったのは、それが最初で最後だったと記憶している。何かをオミコに手渡したことなど、それまで一度もなかった。気まぐれだった。ただ懐かしさに浸りたくて、失った何かに手を伸ばしたかった。少なくとも、彼女のためなどではなかった。
 それでも花を見たオミコは心底嬉しそうに笑った。彼女のこぼれんばかりの笑みというのを、彼はその時初めて見た。愛おしげに花を飾る彼女の後ろ姿を眺めていると、何か大きな考え違いをしていたのではないかという恐ろしい思考に飲み込まれた。ただ村のためだけに、彼女は彼といたのだろうか? 本当に村のためだけを思って、全て我慢していたのだろうか?
 その夜も、彼は彼女を抱いた。彼女の声を、眼差しを、肌を、吐息を、温度を感じながら。そして一つの結論に達して、彼女が眠った後に外へと飛び出した。
 振り返れば心当たりなどいくらでもあった。彼女は今まで一度たりとも強制などしていない。村のために働けと口にしたこともなかった。出て行こうと思えば、いつだって彼は村を出ることができた。彼女の振りまくあからさまな好意は、本当は誰を欺くためのものだったのか。彼女が守りたかったものは、本当は何だったのか。
「もしかして、家に帰れるの?」
 希望を滲ませたヒギタの声が響く。その横顔へと一瞥をくれて、ユヅイヤは唇を結んだ。ユヅイヤがいなくなってから、オミコはどうしていたのだろう。いつヒギタは生まれたのだろう。ヒギタの話から父親の存在はうかがえない。だから彼の子という可能性もあるにはある。もしそうだとしたら、どんな思いで彼女はヒギタを育てていたのか。
「ねえ、ユヅイヤさん」
 ヒギタの真っ直ぐとした眼差しが、ユヅイヤへと向けられる。汚れのない瞳だ。おそらくオミコがずっと守ってきただろう瞳だ。何が真実であったとしても、ヒギタだけは帰さなければならない。それが今のユヅイヤにできる、最大の償いだった。
「ああ、帰れる」
 足の痛みを無視して、ゆっくりユヅイヤは立ち上がった。ふらつきはするもののすぐに倒れる程ではなさそうだ。慎重に一歩を踏み出し、彼はもう一度空を見上げる。白から黄へと移り変わるような奇怪な光を纏った月は、まだそこにあった。ヒギタが慌てて立ち上がる気配を感じて、ユヅイヤは口角を上げる。
「アーデルとエーデルが重なってるんだ」
「そ、そうだよね!」
「きっとこの先に道がある。だからヒギタ、走れ」
 根拠など一欠片もない。しかし考えてみると、この異界に紛れ込んだ時でさえ、ただ走っている最中だった。飛び出したユヅイヤは森の中を駆け、そして突然輝きだした宝物の光に目を奪われて、それまで存在していなかったはずの崖から落ちた。世界と世界の間に、明確な境などないのだろうか。全ては曖昧に繋がっているのだろうか。もしかしたら、この世界そのものが宝物の生み出すまやかしなのかもしれない。
「え……一人で? 嫌だよ! ユヅイヤさんも行こうよ!」
「いや、この足じゃあ」
「駄目だよ、そんなの駄目だったら! 一緒に母さんに会おう? 僕と一緒だったからユヅイヤさんは怪我したのに、それなのに僕だけ帰るなんて駄目だよ! そんなことしたら、僕は母さんに顔合わせられない! 胸張って母さんに会えない!」
 ヒギタの双眸に一種の強い光が宿る。確かにオミコの息子だと思わせるような、凛とした輝きだった。彼女がその立場だったとしても、きっと同じことを口にするだろう。
「走らなくても大丈夫だよ。だってまだ月は沈まないもん」
 ヒギタは小さな手を精一杯、ユヅイヤへと伸ばしてくる。砂まみれになった手のひらを見つめて、ユヅイヤは息を呑んだ。今さら謝っても過去は消えない。困らせるだけかもしれない。今度こそ拒絶されるかもしれない。彼は失ったものに、また手を伸ばしているだけなのかもしれない。
 いや、彼は今まで一度だって何かを求めて動いたりなどしなかった。通り過ぎる物を眺めて、与えられる物を受け入れて、こぼれ落ちた物から目を逸らしているだけだった。村を失ったあの日から、彼は望むことを止めていた。
「ユヅイヤさん」
 彼の思いに、彼女は気づいていたのだろうか? もしも、もしも本当にもう一度会うことができたなら、その時彼女は何と言うだろうか? いつも彼女の過去ばかり見ている彼に、呆れた顔をするだろうか? ため息を吐くだろうか? しかしどんな言葉でもいい、彼女の声が聞きたかった。それをここにきてようやっと自覚する。
「ああ」
 震えそうな小さな手のひらを、ユヅイヤは強く握った。輝かんばかりのヒギタの笑顔を見ると、ほんの少しだけ胸が痛んだ。

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