ご近所さんと同居人

第十六話 「赤い竜巻」

 小さな籠を手に取って、瑠美子は玄関を出た。先ほど偶然通りかかったマルテアから、ディーターが体調を崩したという話を聞いたからだ。マルテアと顔を合わせるのはソイーオが流されてきた時以来だが、どうやら時々はこちらにも来ていたらしい。家に閉じこもり気味の瑠美子とは正反対だ。
 ソイーオのことでディーターにも心労がたまっていたのだろうか? かなり具合が悪いのだろうか? 少なくともここ数日はそうだという話だから、もしかしたらろくに物も食べていないかもしれない。
 そう考えた瑠美子が急いで作ることができたのは、小さめのおにぎりだけだった。本当ならお粥の方がいいかもしれないが、持ち運びには不便だから仕方がない。ご近所さんといえども、間にある畑のせいでそれなりに距離があった。
 外へ出た彼女は首をすくめた。夕刻にもなるとやはり風が冷たく感じられる。夕焼け空を一瞥して、彼女は小さなため息をついた。鮮やかすぎる茜色の空はぞっとするほど美しい。異世界への扉はこんな景色と共に開かれる気がして、自然と湧き起こる身震いを止めることができなかった。
 早くディーターの家に行こう。籠の中身をもう一度確認すると、瑠美子は急ぎ足で庭の横を歩き出した。最近少し伸び気味な黒髪が、首の後ろをくすぐってこそばゆい。彼女はあいている右手でそれを払い除けると再度空を仰いだ。日が沈むまではまだ時間がありそうだ。ノギトやハゼトが帰ってくるまでには、夕食の支度を再開できるだろう。
 その時、背後から聞き覚えのある足音がした。乾いた靴音が奏でるリズムは、先日のものよりもゆっくりだが聞き間違いはない。何より、この辺りを通る人は限られていた。彼女は慌てて背後を振り返る。
「ソイーオさん!」
 案の定、頼りない足取りで近づいてくるのはソイーオだった。茜色に染められた小さな姿が、彼女の声に引かれたのかほんの少しだけ速度を上げる。
 こんな時間に彼が帰ってくるなど珍しい。夜中にならないと戻れないのだと以前聞いたことがあった。困惑しながらも笑顔を浮かべようとした彼女は、徐々に近づいてくる彼の姿を見て息を呑んだ。その頬が大きく腫れている。
「ソ、ソイーオさんっ」
 籠を放り出したいのだけは何とか堪えて、彼女は彼の傍へと駆け寄った。誰かに暴力を振るわれたのだろうか? 城の人々をひどいとは思っていたが、最低限の礼節はあると信じていたから衝撃的だ。
 彼女の顔を見て、彼は困ったような微笑を浮かべた。そして赤く腫れた頬を一撫ですると、ばつが悪そうに頭を傾ける。茜色に染まった彼の髪が風に揺れた。
「どうも、ルミコさん」
「あ、あの、ソイーオさん……その頬」
 直視していいものか迷いながら、怖々と彼女は尋ねた。手を伸ばすのだけは躊躇した結果止めた。痛々しい様子に胸が締め付けられ、彼女は籠を持つ手に力を込める。彼は小さくうなずくと今度は微苦笑を浮かべた。
「なかなか事件が解決しないものだから、癇癪を起こした人がいて。でも大丈夫です。僕がふらふらしてたものだから、今日は早く帰してもらえました。優しい人もいるんですよ」
 彼女を安心させるためだろう。そう言って微笑む彼を見上げ、彼女は顔をしかめた。ふらふらしたということは、殴られたのは頬だけではないのかもしれない。見えない傷を思うとさらに胸が痛み、彼女は唇を噛んだ。
 どうすれば彼の疑いが晴れるのか? 彼が城にいる間に行方不明者が出ればいいのか? しかしそれでは新たな犠牲者が出ることを望んでいるのと同意だ。それはあってはならない。ではどうすればいいのか。
 俯いた彼女が眉をひそめていると、彼の手が伸びてくる気配があった。けれどもそれは途中で止まり、代わりに小さな声が漏れ聞こえる。そこに違和感を覚えて彼女はおもむろに顔を上げた。何かが変だ。
「ソイーオさん?」
「あ、あれは、まさか……」
 彼の双眸は彼女を捉えていなかった。その視線は彼女を通り越し、さらに遠くへと注がれていた。彼の唇が震えているのに気がつき、彼女は急いで振り返る。
 はじめはそこに何があるのかわからなかった。見えるのは夕焼け空を背景に、森がたたずむ姿だった。だが喚くような鳥の鳴き声に、彼女も嫌な予感がしてくる。
「竜巻だ」
 ぽつりと、彼がつぶやいた。彼女は息を呑みながら目を凝らした。そうすると確かに彼女にも見えた。風に揺れる木々の隙間から、かすかに赤い何かが見え隠れしていることに。
「ま、まさかこれが――」
 ヌオビアから子供たちを連れ去っている竜巻とはこれのことだろうか? ここからではその全貌は見えない。だがけたたましい鳥の鳴き声から、その力が尋常ではないことは予想できた。彼女が手にしていた籠を抱きしめると、その横を彼がすり抜ける。彼女は眼を見開いた。
「ソ、ソイーオさん!?」
 まさか向かうつもりなのか。慌てて呼び止めると、足を止めた彼は髪を振り乱しながら振り返った。その瞳には追いつめられた者の焦りがあり、彼女は体を強ばらせる。しかし彼を行かせたくはなかった。いくらなんでも危険すぎる。
「ルミコさん、僕は行きます」
「あ、危ないですよっ!」
「でも今誰かがまた行方不明になれば、僕の疑いが増すばかりです。僕が早く帰った日に限って竜巻が現れるなんて、普通は偶然とは思わないでしょう?」
 まくし立てるような彼の言葉に、彼女は何も言い返せなかった。確かにそうだ。竜巻が現れた時彼が何もしていなかったと、証言できるのは彼女しかいない。しかし彼女の言葉がどれだけ通じるのかは定かではなかった。このままではさらに彼は疑われるだろう。今度は殴られるだけではすまないかもしれない。
「だから僕は行きます」
 そう言い残し、彼はまた駆け出した。その覚束ない足取りを目にして、彼女は先ほどの彼の言葉を思い返す。もしかしたら次に巻き込まれるのは彼かもしれない。そう思うと居ても立ってもいられなくなり、彼女は走りだした。
 ノギトの顔がちらりと脳裏を横切ったが、今はそれを必死に振り払う。ソイーオを一人で向かわせたくはない。無事に戻った時には、その時にはいくらでも怒られよう。
「ルミコさん!?」
 増えた足音に気がついたのか、それとも放り出した籠の音に気がついたのか、ソイーオがちらりと肩越しに振り向いた。彼女はまとわりつくスカートに苛立ちながらも相槌を打つ。
「わ、私も行きますっ」
「でも――」
「もしソイーオさんに何かあったら、私きっと後悔しますもん。それは嫌ですっ」
 走りながらなので声は途切れがちだったが、それでも言いたいことは伝わったと信じたかった。わかってくれたと思いたかった。彼は仕方ないなという顔でうなずくと、また前へと向き直る。
 木々の隙間から見える赤い何かは、まだ消えてはいなかった。それどころかますます色濃くなっているように見えるのは彼女の気のせいだろうか? もう逃げ去ったのか鳥の鳴き声はしない。それがいっそ不気味で、彼女の心臓はますます早く打ち始めた。
 森に誰もいなければいい。犠牲者が出なければいい。そう願いながら、彼女はひたすら彼の後を追った。そんな二人の後ろ姿を、ハゼトが見ていたことには気づかなかった。



 異様な静けさの中、瑠美子の耳はかすかに物音を捉えた。ごうごうと風の唸る声が響き、まるでくぐもった獣の唸りのように聞こえる。それは森に共振し、あたかも森そのものが生きているかのようだった。
 それでも走ることを止めなかったのは、その前にソイーオがいるからだった。時折ふらつくもののその足取りには迷いがなく、一直線に赤い竜巻を目指している。彼女は置いて行かれないよう必死に彼の後をついていくだけだった。彼の背中を見失えばもう終わり、そんな気がしてならない。
 森の中をしばらく進むと、次第に竜巻の一部がはっきりと見えてきた。赤い風の渦に巻き込まれた木々が、耳障りな音を立てながら倒れていく。巻き上げられた木の葉は上へ上へと運ばれ、そのうち見えなくなった。彼女の背筋を冷たいものが走る。
「こ、これは……」
 そこまで近づくと、ようやくソイーオは立ち止まった。彼にぶつからないよう慌てて彼女も速度を落とし、その横へと並ぶ。まだ竜巻の本体までは距離がある。しかしそれでも鼓膜を叩く轟音はすさまじかった。
「まさか、いや、あり得ないことではないのか……」
「どうかしたんですか? ソイーオさん」
 呆然とした様子でつぶやく彼を、彼女はうかがうように見上げた。彼はこの竜巻に覚えがあるのだろうか? 彼が関係しているのだろうか? 城の人々の予想はある程度当たっていたのかと、彼女は目眩を覚える。
「もしかしたらこれは、僕がいた世界で時々話に上っていたものかもしれません」
 風の唸りにかき消されないよう、彼ははっきりとした口調でそう告げた。風から顔を守るよう手をかざして、彼女は瞳を瞬かせる。僕がいた世界、ということはソイーオが以前暮らしていた世界のことだろうか。だとしたら何故それがこの森に? そう考えた瞬間、彼女にも朧気ながら事態が見えてきた。
「ソイーオさん、それって……」
「僕の住んでいた小さな国で、よくある昔話みたいなのがあるんです。竜巻にさらわれた子どもの話が。僕は見たことがなかったんですが、実際町のはずれで見かけた人もいるみたいなんです。今思い出しました」
 ごうっと、また竜巻が大きな音を立てた。細い木々がへし折れて、その枝は赤い渦の中へと巻き上げられていく。それは次第に二人の方へと近づいているようだった。足の裏からかすかな地響きを感じる。
「きっと僕みたいに、この竜巻も流されてきたんでしょう。もしかしたら僕のせいで、ヌオビアへと流れやすくなっているのかもしれません」
 彼はそこまで見解を告げると、突然彼女の手を取った。唐突だった。驚いた彼女が首をすくめると、彼は有無を言わさずそのまま走り始める。ただし今度は先ほどと真逆の方向だ。
「ソイーオさん!?」
「あれに巻き込まれたら大変です。そのうち消えるものだと聞いたことがありますが、その前に追いつかれたらどうしようもありません。幸い他に人はいないみたいですし」
 引っ張られた手が痛い。説明する彼へと、彼女はまともに返事することができなかった。先ほど走ったせいで体力は尽きてきている。何とか呼吸を整えようと努力しても、酸素がうまく取り込めていないようだった。息苦しくて仕方がない。
「頑張ってください、ルミコさんっ」
 それでも彼は速度を緩めなかった。強く握られた手に応えるように、彼女はかろうじて首を縦に振った。

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