ご近所さんと同居人

第十四話 「魔法使い」

 赤い竜巻の話が瑠美子の耳に入ったのは、噂が広まりだしてから間もなくのことだった。森の方で謎の赤い竜巻を見たという証言は、同じ頃行方不明になった少女の話と相まって様々な憶測を呼んでいる。しかしどれに共通するのも、少女を連れ去ったのは赤い竜巻だということだった。
 それでもその怪しい竜巻が見られたのはたった一度だけ。見た人も一人で、たまたま朝早く散歩に出ていた老人だった。信憑性という点ではかなり怪しいのだが、それまでの恐怖心のせいなのかほとんど真実のように語られている。何か理由をつけた方が人は安心するものだ。
「赤い竜巻かー」
 買い物へとでかければ、今日もその噂で持ちきりだった。家に帰ってきた瑠美子は籠を食卓の上に載せると、重いため息を吐いて肩を回す。ヌオビアから消えた――流されていった人々。一度だけ遭遇された赤い竜巻。のどかな日々を送っているヌオビアの人々にとっては刺激的なのだろう。それ以外の出来事は全て些細なものとして無視されていた。
 籠から取り出した食材を順に確かめながら、瑠美子は消えた人々を思った。これだけ騒がれていることを、彼らは知っているだろうか? それとも知らずに別の世界で案外呑気にやっているのだろうか。帰りたいと泣いていないか、見知らぬ世界に怯えていないか。
 いや、そもそも本当に異世界へと流されているのか? 本当は何か事件に巻き込まれているのではないか? そう、例えばバルソアに襲われたのだとか。
「駄目駄目っ!」
 つい思考が暗い方へと向かっていって、慌てて彼女は首を横に振った。黒ずくめの男たちのことは、思い出すだけでも体が震える。それが幼い頃の体験と重なる分だけ、大丈夫だと念じても抑えられなかった。さすがに黒い物全てに怯えることはなくなったが、その名前が頭をよぎると鼓動が速くなる。
 だがどうしようもないのであれば、他のことを考えればいい。今は何よりも夕飯が大事だ。最近ますます食べ盛りのハゼトが、昨日は量が少ないと文句を言っていた。籠から食材を全部出し終えると彼女は瞳をすがめた。竜巻の噂を避けるように帰ってきたから、若干食材が足りないかもしれない。
 もう一度行くべきか。そう彼女が思案していると、玄関の呼び鈴が小さく鳴った。やや高めの可愛らしい音が、静かな部屋の中にすぐさま染み渡る。彼女は慌てて玄関へと向かった。この時間に訪れる人は近所の者くらいだ。
「ディーターさん!」
 案の定、外に立っていたのはディーターだった。その手には小さな袋があり、中からかすかにいい香りが漂っている。果物だろうか? この時期の物にしては珍しい、甘酸っぱい匂いがする。
「ルミコ、調子は大丈夫なのか?」
「はい、もう大丈夫ですよ。ご心配おかけしました」
 できるだけ朗らかに微笑んで彼女はディーターを見上げた。ちょっと見ないうちに彼もずいぶん年老いた気がする。周りに心配かけてばかりなのだなと思うと、胸の奥が鋭く痛んだ。するとディーターは優しく口角を上げて袋を差し出してくる。
「貰い物なんだが、食べきれない量なのでな」
「わあ、どうもありがとうございます」
 袋を覗き込むと小さな黄色い実がたくさん見えた。見慣れない物だが美味しそうだ。余ったらジャムにするのもいいかもしれない。
「ソイーオもほとんど帰ってこないしな。私は甘い物はどちらかといえば苦手だし」
 何気なく出された名前に、彼女の胸がまたちくりと痛んだ。きっとディーターはソイーオの発言については知らないのだろう。ディーターが心配するようなことを、ソイーオが口にするとも思えない。おそらく知っているのはノギトと彼女だけだ。
「そうなんですか」
 不自然にならないよう努めて、彼女は袋を受け取った。これ以上ディーターを心配させるわけにもいかない。これは彼女たちの問題だ。
「みんなで食べてくれると嬉しい。ノギトたちも元気か? 最近会ってないが」
「はい、元気ですよ」
 そう彼女が答えた時だった。その言葉を裏付けるように、大きな足音が勢いよく近づいてきた。ディーターが振り返ると同時に彼女の視界も開け、予想通りハゼトの姿が見えるようになる。
「姉ちゃん姉ちゃん……ってディーターさん!」
 鞄を揺らしながら駆け寄ってきたハゼトは、ディーターの姿を見つけて眼を見開いた。珍しいのはわかるがやや驚きすぎな気がする。怪訝に思って彼女が首を傾げると、徐々に速度を落としたハゼトは視線を彷徨わせながら玄関へとやってきた。
「お帰り、ハゼト」
「う、うん」
「どうかしたの?」
「いや、その……」
 先ほどの勢いはどこへ行ったのか、どうも歯切れが悪い。これは何かあるなと彼女が言葉を継ぐ前に、ディーターの手がハゼトの頭を優しく撫でた。
「ソイーオのことだな」
 静かで淡々としながらも、どこか重みを感じさせる声音。ハゼトはびくりと体を震わせて顔を上げ、何とかわかる程度にうなずいた。その重苦しいやりとりに嫌な予感を覚え、瑠美子は袋を持つ手に力を込める。
「ディーターさん、知ってて――」
「先ほど私も聞いた。だからハゼトが気にすることはない」
 申し訳なさそうにハゼトの瞳が揺れた。一方ディーターの対応は冷静だった。そんな中彼女だけが事態についていけてず、一人首を捻っている。ソイーオに何かあったのか? 二人は何を聞いたのか? 想像しようにも情報が足りず、不安だけが増していった。
「姉ちゃん」
 ディーターが何も説明しようとしないため、ハゼトがゆっくり彼女の方を振り返った。言い出しにくいのはディーターがいるためなのだろう。顔色をうかがうよう躊躇いながら、ハゼトはぼそぼそとしゃべり出した。
「姉ちゃんも、赤い竜巻の話は知ってるよな?」
「うん、それならどこでも噂になってるわよ」
「その竜巻のことなんだけど」
 ハゼトは鞄の紐に手をかけて、また話しにくそうにディーターを一瞥した。けれどもディーターの様子に変わりはなく、これから出てくるのがソイーオの話なのかと疑いたくなるくらい落ち着いていた。ハゼトの方が狼狽えている。
「竜巻がどうかしたの?」
「赤い竜巻なんて変だろう? 姉ちゃんの世界にも、なかったよな?」
 いつもずばり本題に踏み込むハゼトとしては回りくどい。それでも辛抱強く待つ決意をして、彼女は大きく首を縦に振った。赤い竜巻など見たことはもちろん、聞いたこともない。
「だから赤い竜巻はきっと魔法によるものじゃないかって。それでその、最近流されてきた魔法使いの仕業じゃないかって」
 小さな声でハゼトは付け加えた。かろうじてその内容を聞き取った彼女は、袋を落としそうになって慌ててそれを抱きかかえる。深刻な空気にそぐわない、甘酸っぱい香りがふわりと広がった。
 彼女はおそるおそるディーターを見たが、やはり彼は動じていなかった。だが否定もしなかった。つまりソイーオが疑われているというのは本当なのだろうか。怒鳴りたいような泣き出したいような不思議な気分で、彼女はきつく唇を噛む。
 わけのわからないものを全て魔法使いに押しつけるなんて間違っている。そう声を張り上げたいのに、彼女にはできなかった。最近ソイーオはなかなかディーターの家に帰ってこないという。おそらく城にいるのだろうが、詳しいことはわからないというのは疑われる材料の一つだった。
「魔法使いは、いつだって怪しまれる存在だ。しかも来たばかりとなればなおさらにな」
 沈黙の中放たれたディーターの言葉が、重々しく辺りに響く。バルソアのことがまた頭をよぎり、彼女は強くかぶりを振った。魔法使いである、ただそれだけの理由でそんな扱いを受けるのはあんまりだ。
「でも、ソイーオさんにはあの腕輪が」
 途切れそうになる声を何とか紡いで、彼女はディーターの顔を見上げた。あの青い腕輪がある限り魔法は使えないはずなのに、それなのにどうして彼が疑われるのか。しかし無情にもディーターは微苦笑を浮かべ、泣きそうな顔のハゼトをちらりと見た。
「あれも万能ではないらしい。未知なる魔法に対しては効果はないんだ。だから新たな魔法使いが現れると、城はその者を呼び出す」
 そう言われてしまえば、彼女にはもう言葉を継ぐことは無理だった。その未知なる力はヌオビアの発展に役立つかもしれないが、一方では脅かす存在にもなり得る。考えればすぐにわかることだった。しかしそれでもソイーオが疑われていると考えるだけで、胸が張り裂けそうになる。
 ソイーオはこのことを知っているのだろうか? 知りながら城にいるのだろうか? 無性に彼に会いたくて仕方なかった。会ってその顔を見て、話がしたかった。だが彼の方には会うつもりがないことはノギトから聞かされている。
「ソイーオさん……」
 つぶやいた名前が痛みとなって、彼女の体を巡り始める。するとディーターの手が今度は彼女へと伸び、その頭をぎこちなく撫でた。
 それでも顔を上げることができず、彼女は黄色い実の入った袋をさらに強く両手で抱えた。場違いに漂う甘い香りに、何故か急に泣きたくなった。

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