ご近所さんと同居人

第六話 「ありがとうを重ねて」

「そろそろ、帰らないと」
 道の真ん中で立ちつくしていた瑠美子は、ふと風の冷たさを感じて我に返った。どのくらいこうしていたのだろうか? どうも、時間の感覚が薄れている。日が沈むような時刻ではなさそうだが、見合いから逃げ出してからは、それなりに経っていそうだった。さすがに帰らないと、ルロッタたちが心配するだろう。
 重い気持ちを抱えたまま、彼女はのろのろと歩き出した。ルロッタには何と説明しようか。どう言えば不要な気遣いを避けられるだろうか。言い訳を絞り出そうとしても、名案は浮かんでこなかった。何を言っても同情されるか困惑されそうな気がして、何度目かのため息が漏れる。憂鬱だ。
「何て言おう」
 縹色の服を見下ろして、瑠美子は微苦笑を浮かべた。せっかく新調してくれたというのに、何の役にも立たなかった。これから出番はあるのだろうかと考えると、足取りはさらに重くなる。
 ソイーオにも迷惑をかけてしまった。この間会ったばかりだというのに、変なところを見られてしまった。今日は最悪な日だ。
「ノギトも馬鹿にするだろうなあ」
 見合いはこの年なら誰でもするものらしい。見合いといっても軽いもののようだが、それでもまさかこんな失敗の仕方は、普通しないだろう。また家で口喧嘩になるのだと考えると、どっと疲れてきた。さほどないはずの道のりが、遠く感じられる。
 それでも立ち止まるわけにはいかず、彼女は歩き続けた。いつの間にか、あの甲高い鳴き声の鳥もいなくなっている。今はせいぜい、木々や草が風に吹かれて音を立てるくらいだ。静寂が身に染みる。
 そのまましばらく進むと、道の前方に小さな影が見えた。目を凝らせば、それが人であることがわかる。近づいてくる速さから考えると、どうやら走っているらしい。こちらには森くらいしかないのにと、彼女は首を傾げた。ソイーオではなさそうだが。
「あ、ノギト」
 だが警戒する必要もなかった。よく観察すれば、見覚えのある服はノギトのものだ。くたくたになった上着は、元は白っぽかったはずだが、もうほとんど髪の色と同化している。
 見慣れた彼の姿が徐々に大きくなり、彼女は瞳を瞬かせた。どうして彼がこんな場所にいるのだろうか? まだ訓練の時間は終わっていないはずだ。たとえそれが早く終わったのだとしても、こちらへは普通足を運ばない。
「ルミコ!」
「ノギト、こんな所でどうしたの?」
 駆け寄ってくる姿に、彼女は率直な疑問をぶつけた。さすがに毎日鍛えてるだけのことはあり、彼の走りからは力強さが感じられる。地を蹴る音を耳にしながら、彼女は立ち止まった。
「お前がここにいるって、ソイーオから聞いて」
「ソイーオさんが?」
「様子が変だったから、来てみた。何かあったのか?」
 傍までやってくると、彼は乱れた髪を手で軽く整え、訝しげに眉根を寄せた。家に帰るまでは時間があると油断していただけに、彼女は返答に窮して黙り込む。言い訳は、まだ浮かんでいなかった。
 すると足下から頭の先まで、彼は探るように見つめてきた。居たたまれなさに彼女は視線を逸らす。
「今日は見合いの日だったよな」
「そう、だけど」
「なのにどうしてこんな場所にいるんだ? まさか飛び出してきたのか?」
 図星だ。彼女は顔を背けたまま、そっと瞼を伏せた。どうしてこう早くも、みんなばれてしまうのだろう。今日は本当に運がない日だなと、愚痴りたくなった。何か悪いことでもしただろうかと、振り返ってみても何もないのに。
「答えないってことはそうなのか」
「ちょっ……別に、そうしたかったわけじゃあないわよ」
「でもそうなったんだよな」
「あの人が、異世界人の癖に、なんて何度も言うからつい」
 結局、ごまかすのは不可能だったということか。彼と目を合わせないまま、彼女はそう告げて肩をすくめた。彼が相手だと、つい強く返したくなる。責められているような気になり、少しでも言い訳したくなった。これは悪い癖だと、いつも反省している。
「異世界人の癖に? 母さん、相手には何も伝えてなかったのか」
「そうみたい」
 彼の素っ頓狂な声が、耳に痛かった。彼女は横目で彼の様子をうかがい、その機嫌を確認する。呆れた顔はしているが、怒ってはいないようだった。彼女はほっと胸を撫で下ろして、小さく息を吐く。不機嫌な時の彼の言葉はきつい。今そんなものを聞いたら、息が止まりそうになるかもしれなかった。
 すると次の瞬間、彼の苦笑がやけに強く、鼓膜を震わせた。
「ま、お前に見合いなんて早かったってことだな」
 いつもと変わらない彼の軽口。しかし今はそれさえ胸に響いて、静かにうなずくことしかできなかった。
 この世界にすっかり馴染んだ気でいたし、新しい異世界人の力になろうとまで考えていたが、まだまだ未熟者だったのだ。彼女の知らないことは、いまだにこの世界に溢れている。
「ルミコ?」
「この世界には異世界人もたくさんいるし、ディーターさんも幸せそうに暮らしていたから、あんな風に思ってる人がいるなんて知らなかった。私って何も知らなかったんだなあ、って反省してるところよ」
 考えてみれば、ヌオビアに流されてこなかったとしても、彼女はまだまだ一人前とは言えない年なのだ。それを再確認してうなだれると、彼の慌てる気配が伝わってきた。いつもは軽快に言い返すところなだけに、素直な反応は珍しいのだろう。
「いや、別にそういう奴ばかりじゃないって。確かに、偏見持ってる奴はいるかもしれないけど」
「うん、それは知ってる。今までずっとよくしてもらってたんだから」
 ヌオビアにそういう人がいるということを、彼は以前から知っていたのだろう。けれどもそれを、彼女には気づかせないようにしていただけなのだ。異世界人を快く受け入れてくれる、そんな人たちばかりに囲まれていたから、知らないでいられた世界。
 この国へと流されてから十年、ずいぶん大人になったような気でいたが、実際はまだまだ子どもだったようだ。そうやって現実を噛みしめると、また泣きたくなってきた。何の役にも立たないどころか、守られているばかりなんて、悔しすぎる。
「ルミコ」
 不意に彼の腕が伸びてきた。それが彼女の頭を撫でて、それから遠慮がちに肩を引き寄せてくる。もう子どもじゃないのだからとつっぱねる気にもなれず、彼女はそのまま彼の胸に顔を埋めた。
 見知らぬ世界に怯えていた頃、ひっそりと一人で泣いてた夜には、よく彼はこうして慰めてくれた。怖々と手を伸ばして、小動物でも扱うかのように、ぎこちない動きで抱きしめてくれた。外であった事件を面白おかしく話しながら、背中をさすってくれたこともある。
 結局、あの時から何も変わっていなかった。力ない存在であることに、変わりはなかった。彼女は嗚咽を押し殺して、よれた彼の服をぎゅっと掴む。
「そんなに思い悩むなよ」
「うん」
「お前はよくやってる」
「うん」
「心配するなよ、俺がついてるから」
 耳元で聞こえる声は、いつになく優しい。彼女は小さく首を縦に振った。気を許すと、今度こそ涙がこぼれてしまいそうになる。だがそこまで弱くなるつもりはなかった。帰ったら皆の前では笑顔でいたい。「お見合い失敗しちゃった」と、笑いながら話せるくらい強くなりたかった。
「うん、ありがとう。私、ノギトたちと家族になれてよかった」
 その言葉に嘘偽りはない。恵まれていたのだと実感できた今、改めて彼女は感謝していた。受け入れてくれたのがノギトたちでなければ、小さな彼女は生きていけなかったかもしれない。それこそソイーオが言っていたように、潰されてしまっていただろう。
「あー……うん」
 だがせっかく素直な気持ちを口にしたというのに、ノギトは気のない声を漏らした。単なる照れ隠しなのかもしれないが、彼女は少し寂しくなる。そう思っているのは彼女だけだったのだろうか。へこたれているだけに、こんな些細なことでも弱気になるのが情けなかった。もう少しだけでも、強くなりたい。
「見合いのこと。母さんには、俺が適当に説明するから」
「え? い、いいの?」
「母さん、また騒ぐだろうからさ。次々と見合い持ってこられるのは嫌だろう? あれって疲れるし」
「う、うん」
 それなのに、彼は何から何までしてくれるという。彼女が落ち込んでいる時、彼はいつだって優しかった。普段は憎まれ口を叩くのに、こういう時だけ気を利かせるのだ。いつもこうならと何度もぼやいたことを、彼女はふと思い出した。彼も昔から変わらないらしい。
「いいよな?」
「うん、ありがとう」
 彼の胸から少し離れて、彼女は静かに顔を上げた。面と向かうと少し照れくさい。最近はずっと口喧嘩ばかりしていただけに、いっそう気恥ずかしかった。それでも感謝の気持ちだけは伝えたくて、彼女は繰り返す。
「ありがとう」
 何故か複雑そうな彼の笑顔に、彼女はかろうじてぎこちない微笑みを向けた。

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