ご近所さんと同居人
第二話 「異世界人」 (後)
「ディーターさんですか?」
「はい、そうです」
もう一度確かめると、瑠美子は一歩青年へと進んだ。そよ風に揺れる花を横目に、彼女は鼓動を落ち着かせるよう左手を当てる。いつもよりもかなり、それは強く速く脈打っていた。痛い程だ。声が不自然に裏返らないよう気をつけて、彼女は口を開いた。
「ディーターさんなら――」
不安そうな青年へとまた数歩近づき、瑠美子は右手を一瞥した。ここから肉眼で見ることはできないが、その方角には役所がある。異世界人の登録をするためにディーターは出かけたと、今朝ノギトが言っていた。まだ帰ってきていないのだろう。その間にきっと、青年は目覚めてしまったのだ。
「異世界から人が流されてきた、っていう報告をしに行ってますよ」
青年へと視線を戻して、瑠美子は微笑みかけた。だがこれで理解してもらえるかはわからない。そもそも彼は、自分が異世界へと流されてきたことを知っているのだろうか? 瑠美子がヌオビアではじめて目覚めた時は、直前の記憶が曖昧で、ただ混乱するだけだった。とにかく心細かったことを、よく覚えている。
「ああ、そうなんですか」
すると青年は安堵したように、長く息を吐いた。今ので理解できたようだ。瑠美子はほっと胸を撫で下ろしながら、青年がディーターの名前を知っていることに気づいて、はっとした。つまり、彼は既に一度目覚めている。その際にでも簡単な説明を受けたのかもしれない。目覚めて誰もいなければ、見知らぬ場所にただ狼狽えるだけだ。
「すぐに戻ってくると思いますよ」
それならば心配することはない。瑠美子はそよ風に揺れた髪を整えて、もう一度青年の様子を密かに観察した。
見慣れない青銀の髪は、陽光を浴びて眩しい程輝いている。加えてその穏やかな眼差しが、煌びやかな雰囲気に一種の落ち着きを与えていた。目立つ容姿ではあるが嫌味はない。そう思えば、瑠美子の鼓動も少しは収まってきた。
「あの、失礼ですが」
だが観察していたことがばれたのだろうか? 青年の訝しげな声に、瑠美子の心臓がまた跳ねた。怪しい人だと思われたのかもしれない。垣根の向こうから向けられる視線に、瑠美子はうわずった声で返した。
「な、何ですか?」
「あなたも、異世界の方、なんですか?」
「……え?」
首を傾げる青年を、瑠美子は目を瞬かせながら見つめる。止まりかけた思考を何とか働かせると、彼女は深く息を吸い込んだ。彼とは大して言葉を交わしてないし、服だってこの国の物を着ている。異世界人だとわかる要素は何もないはずだった。
「違いましたか? ディーターさんが昨日、この近くにも異世界人がいると、若い女性だと話していたのですが」
「あ、ああ、ディーターさんから聞いたんですね。そうなんです、実は私、小さい頃にここへと流されてきて」
疑問はすぐに解けた。ディーターはそんなことまで話していたらしい。慌てて笑顔を繕って首を縦に振ると、青年はほんの少しだけ、安堵と動揺が入り交じったような顔をした。
「そうだったんですか」
そんな反応をされると、瑠美子にはどうするべきかわからない。安心させたかったのに、逆効果だったのだろうか? ここに来たばかりの頃のことを、瑠美子は必死に記憶から手繰り寄せた。何が不安だったのか、何が怖かったのか、何が知りたかったのか。幼かった自分に問いかけても、すぐには思い出せないが。
「あ、そうだ。お名前をうかがってもいいですか? 私は瑠美子です」
仕方なく当たり障りのないことを口にして、瑠美子は微笑んだ。すると青年はまた穏やかな笑顔を浮かべて、ゆっくりと首を縦に振る。結ばれた長い髪が、ディーターの上着を滑って軽く音を立てた。
「ルミコさん、ですね。僕の名前はソイーオザット。周りからは、よくソイーオと呼ばれてました」
ソイーオと、瑠美子は口の中で何度か繰り返した。ソイーオザットという長めの名前は、ヌオビアではあまり聞き慣れない。だがソイーオならばそう珍しい響きでもなさそうだった。瑠美子のように、名前を不思議がられることはないだろう。
「それじゃあソイーオさんと呼びますね」
そう答えながら、ソイーオはずいぶん話すのが上手いなと、瑠美子は感心した。ひょっとしたらソイーオのいた世界では、こことよく似た言葉が使われていたのかもしれない。
ヌオビアには様々な世界から人が流れてくるが、その中でも特に流れて来やすい世界というものがある。ヌオビアの言葉は、その世界の言葉が土台となっているらしかった。そこへ様々な世界、国の単語や言い回しが付け加わり、現在のヌオビア語ができあがっている。
だとすれば、彼がヌオビアに溶け込むのにも時間はかからなさそうだった。言葉の問題が、やはり一番厄介なのだ。瑠美子はまだ幼かったからいいものの、ディーターはずいぶん苦労したと聞いている。
「そうそう、ソイーオさん。お腹空いてません?」
言葉の次はと考えたところで、瑠美子はポンと手を打った。言語に問題がなければ、あとは食事と文化だ。ヌオビアには様々な世界の料理が、文化が浸透している。この世界に流されてきた者たちの知識が全て、活かされていると言っても過言ではなかった。瑠美子の知識が活かされることは、ほとんどなかったが。
「お腹……?」
だが空腹は、そういった問題とは別のところにある。後々のことではなく、差し迫った問題だ。
「そ、そう言われると、空いてますね。ずっと何も食べてませんし」
「ちょっとそこで待っていてください。今朝作った物の余りがあるんです」
瑠美子は家の扉へと駆け寄ってから、ソイーオの方を振り返った。お腹の辺りを右手で押さえ、彼は恥ずかしそうに頬を掻いている。意識した途端、それは突然襲いかかってくるものだ。瑠美子は急いで家の中に入った。
本当ならヌオビアで一般的な料理をご馳走したいところだが、既に朝食は全てなくなっていた。今あるのは、ノギトやハゼトの昼ご飯にと作った、おにぎりだけ。
「おにぎり……で大丈夫かな」
若干の不安はあるが、しかし何も食べないよりはましだろう。空腹は何にも勝る調味料だ。そう自分に言い聞かせて、瑠美子は台所へ向かうと、おにぎりを二つ皿へと載せた。おにぎりを知らなかったノギトたちも、今ではすっかりこれを気に入っている。具の注文がつくことも珍しくなかった。
「きっとソイーオさんも大丈夫よね」
今日の中身は、ヌオビアでもよく食べるツゥイッカという魚だ。瑠美子が知っている中では、鮭とよく似ている。おにぎりにも使ってみたところ、皆に好評だった。
瑠美子は皿を持って急いで玄関を目指した。おにぎりを落とさないよう気をつけて扉を開ければ、先ほどと同じ場所にソイーオが立っている。けれども何となく、先ほどよりも力ない様子だった。瑠美子は彼の元へと小走りで寄る。
「はい、これをどうぞ」
「これ、ですか……?」
「おにぎりっていう料理なんです。実はこれ、私の世界でよく食べてたものなんです。こちらでは見かけないんですけれど、よかったらどうぞ。手で持って、そのまま食べられますよ」
ヌオビアには海苔がないため、本当に握っただけのおにぎりだ。加えて残念なことに、こちらの米は日本の物よりも若干ぱさぱさしている。けれども炊き方を工夫すれば、美味しいおにぎりを作ることは可能だった。瑠美子の数少ない、この国での研究の成果だ。
ソイーオは少し躊躇いながら、おにぎりを一つ手に取った。そして軽く匂いを確かめると、おそるおそるそれを口にする。見知らぬ世界で見知らぬ料理を食べるのは、かなり勇気がいることだった。だがそれでも、空腹には勝てないのが人間だ。
「……美味しい」
ぽつりとソイーオがつぶやいたのを、瑠美子は聞き逃さなかった。思わず拳を握りたいところだが、初対面なのでそれは我慢する。せめて心の中でするべきだろう。
自分が作った物を美味しいと言ってもらえる瞬間は、何度経験しても嬉しかった。ソイーオの表情が徐々に明るくなり、その双眸が瑠美子へと向けられる。彼の輝かんばかりの笑顔に、瑠美子も繕いではない微笑みを浮かべることができた。
「ルミコさん、これ、すごく美味しいです」
おにぎりで喜んでもらえるなら、いくらでも渡したいくらいだ。ただ残念なことに、余っていたのはこの二つだけ。瑠美子は手にした皿を、ソイーオの方へともっと近づけた。
「お口に合うなら、こちらもどうぞ。家でゆっくり食べてください。きっとそのうちに、ディーターさんも戻ってくるでしょうから」
「あ、ありがとうございます、ルミコさん」
これで彼の不安も、少しは和らいだだろうか? 心細さを埋められただろうか?
礼を言うソイーオを、瑠美子は静かに見上げた。最初からこうすればよかったのだ。変に緊張する必要はなかったのだ。頼りにはならなくても仲良くできればいいと、そう思い直して彼女は肩の力を抜いた。