白の垣間見 5
第五会議室――別名説教牢獄と呼ばれる部屋で、リーツは硬い椅子に腰掛けていた。この殺風景な部屋には同じ椅子があと三つ、そして今にも壊れそうな机しか置かれていない。薄鼠色の壁も床も他の研究室と変わらないのに、冷たく感じるのはそのせいだろう。足をぶらぶらとさせた彼は、扉が開く音を聞いて振り返った。
「お、セレイラ。処分はどうだった?」
無言で入ってきたのはセレイラだった。さぞ疲れた様子だろうと想像していたのに、思っていたよりも元気そうな顔色だ。うんざりとした表情で肩をすくめた彼女は、彼の隣の椅子に腰を下ろす。
「自宅謹慎、二週間だそうよ。あなたは?」
「俺は一週間」
「私の半分じゃない。何だか気に入らないわねー、やってることは同じなのに」
不満そうに言って頬杖をつく姿からは、子どもっぽい印象を受ける。昼間のあの強気な発言など嘘のようだ。彼は苦笑しながらも、気になっていたことを怖々と口にした。
「それで……その、見習い卒業の方は?」
彼の論文はまだいい。しかし二週間も謹慎処分では、彼女は論文第一審査に間に合わない。そして何より、こんなことをしでかして何もお咎めがないわけがなかった。そう考えると心臓が脈打つのを感じて、彼は強く唇を結ぶ。しかし当の彼女は何食わぬ顔で結わえていた髪をほどくと、それを背へと無造作に流した。
「ああ、一年はお預けだそうよ。それにただ働きも増えそうねえ。何か企んでそうな顔してた」
そんなことは全然気にしていないのだと、そう言わんばかりの口調だった。眼を見開いた彼は、白衣の襟を正す彼女の横顔を見つめる。気に掛けていたのは彼だけだったのか? 彼女は落ち込んでもいないのか?
「そ、そうなのか……」
「そういうリーツはどうなの? 何か言われなかった?」
「俺は……どうせまたセレイラにそそのかされたんだろうとか、そんなことを言われただけさ」
「あららー、幸せなご身分だこと。羨ましいわね」
彼女は口の端をかすかに上げ、意味ありげな視線を送ってきた。この二人が何かやらかした時、主犯はセレイラである。そうかつての大人たちの頭に染みついているのだ。
実際彼女の強い言葉がなければ、彼にはこんな大胆なことはできなかっただろう。しかし何だかばつが悪くなり、彼は視線を逸らした。そしてこの部屋唯一の小さな窓から外を眺める。
ホログラムの空は既に藍色に染められ、世界は夜なのだと告げていた。道に灯された明かりはほのかに揺らめき、無機質な世界に暖かな色を与えている。だが研究者たちの時間はこれからだ。特に論文に追われている者は。
「それにしてもあの船、結局何だったんだろうなあ。やっぱり第一期の宇宙船だったのかな」
ぽつりと彼は呟いた。彼女はああ言っていたが結局何もわからないまま、ケイチが無事に帰れたかどうかも定かではなかった。ただ宇宙船が現れ、消えただけだ。それでも十分すごいことではあるが。
「だからそうだって、何度も言ってるじゃない。まだ信じられないの?」
立ち上がった彼女は、軽やかな足音を立てながら窓辺に近づいた。背中を撫でるように揺れる胡桃色の髪を、彼はぼんやりと眺める。もちろん、彼も自分の目を疑っているわけではない。久しぶりの運動のせいで体もくたくたで、あれが現実の出来事なのだと主張している。しかしそれでも全ては夢だったのではないかと思いたくなるのだ。
「リーツ。第一期の魔法には、何が必要だったかって知ってる?」
すると振り向かずに彼女は問いかけてきた。やや悪戯っぽいその口調は、答えられないとわかって聞いてくる時の特徴だ。彼は頭の後ろを掻くと首を横に振る。
「そんなの知ってるわけないだろう」
彼が投げ遣りな気分で言い放つと、彼女はくるりと振り返った。窓枠に両手を乗せ口角を上げると、挑戦的な視線を送ってくる。
「思いよ。第一期の世界を支えていたのは、思いを力に変換する技術なの」
淡々と言い聞かせるように、噛み砕くように、彼女は告げた。ピンとくるものがあった。あらゆる仮説が一本の糸で繋がった時のような、朧気な何かを理解できた時のような、そんな感覚が彼の中で湧き起こる。まさかと息を呑んだ彼は、乾いた唇でその可能性を口にした。
「ちょっと、それって、セレイラまさか確かめよう――」
「そう、だから試してみたのよ。実証されていないこの説を確かめるためにね。ケイチを早くアースへ帰すには、それしか方法がないし」
彼は唖然としたまま彼女を見つめた。開いた口がふさがらなかった。文句を言おうと唇を動かしても、空気が音となって出て行ってくれない。ただ妙にかすれた息が漏れるだけで、言葉を成さなかった。
だから彼女は昇格のことなど気にしていないのか。そんなことよりも、最大のチャンスを手にすることを選んだというのか。大事な資料を失うことよりも、その力を目にできる可能性に賭けたというのか。実際、彼女は賭に勝ったのだ。あの宇宙船は再び姿を消したのだから。
「そのためにケイチや俺を利用したのか!?」
「利用だなんてひどい言い方ね。リーツも早くケイチを帰してあげたかったでしょう? ついでに私も満足な結果が得られたってだけよ。誰も損してないじゃない」
「だからといって得もしてない! 特に俺は全然っ! 大体、ケイチがちゃんとアースに帰れたかどうかはわからないだろう? もし全然違う星に行ってたら、セレイラはどうするつもりなんだ!?」
大声を上げながらも、それがある種の八つ当たりに近いことに彼は気づいていた。ケイチが帰れるかどうか、わからないのに船を利用しようとしたのはリーツも同じだ。確証がないまま動いたのには変わりなかった。それは彼女の責任ではない。
だが上手いこと使われたという怒りは、どうにも収まらなかった。彼のケイチへの思いが利用されたも同然だ。これはひどすぎる。思わず立ち上がって拳を握ると、彼女は依然として微笑んでいた。動じる様子は微塵もない。
「帰れたわよ。だってあの宇宙船は女神が守る船だもの」
「……女神?」
「薄紫色の光は女神の力の証。あの船はアースに残された女神のものだったのよ」
きっぱりと言い切る彼女に「それはおとぎ話の中のことだ」と彼は言い返したくなった。けれども実際に彼は見たのだ。あの船が輝き、ケイチを乗せて消え去るのを。魔法が発動する瞬間を。
「神話は神話ではなかった。実在した技術だったのよ。第一期は存在していた」
得意げに語る彼女の双眸は輝いている。それは好奇心溢れる子どもが持つ、純粋な瞳の輝きだった。それと同時に自分の研究に誇りを持つ、一人の研究者の目だった。彼は微苦笑を浮かべて、まだ寝癖の残る前髪を掻き上げる。
「……そういえば俺たち、喧嘩してたんだっけな」
「そうよ。おとぎ話にばかり夢中になるのは変だ。そんなのは無駄だ。妙な空想ばかり追いかけてるから性格が悪くなるんだって、あなたが言うから」
ふと、昨日の喧嘩のことを彼は思い出した。論文がうまくいかずに、順調そうな彼女へと皮肉を飛ばしたのがその発端だった。ケイチのことで頭がいっぱいになり、今まですっかり忘れていた。
「その考え、撤回する気ある?」
挑むように彼女が妖艶に笑う。だが彼は考えあぐね、視線を逸らした。彼女の研究を悪く言ったことは申し訳なく思うが、性格が悪いのはつい先ほど実証されたも同然だ。
「それはまあ、保留ってことで」
「ちょっと何よそれっ、リーツ!」
静寂が支配するはずの部屋に、彼女の怒声が響き渡る。拳を振り上げる彼女から顔を背け、彼は大袈裟に肩をすくめた。これくらい言っても、きっとその女神とやらは許してくれるはずだ。おあいこにもなっていないだろう。
それからしばし続いた口喧嘩が語りぐさとなることを、この時二人はまだ知らない。