誰がために春は来る 第二章

第九話 選択肢

『子どもを連れていくのは無理だ』
 ミスばかり続くため早めに仕事を切り上げ、ありかは部屋へと向かって歩いていた。頭をよぎるのは昨日耳にしたリョーダの言葉。息をするのさえ苦しそうな顔で、それでも事実を偽ることができず、彼は重々しくそう述べた。
 神技隊として派遣されるかもしれない。乱雲とすぐに会うことができるかもしれない。そんな甘い幻想に浸る暇もなく、痛い現実が彼女へとつきつけられた。子どもがいる限り神技隊に選ばれることはない。それは家族がいる者は派遣しないというリョーダの優しさからではなく、子どもと一緒に生活できるほど異世界は安全な場所ではないという理由からだった。
 古語を使う、本来ならば技の存在しない世界。そこは彼女たちの知るあらゆる常識が通用しない異世界だ。そんな場所へ赤ん坊を連れていくなど無謀にも等しく、もしたとえリョーダが了解したとしても『上』が許すはずもない。それがリョーダの出した結論だった。
「どうしてこんな風にタイミングが悪いのかしら」
 部屋の扉を開けて、ありかは独りごちた。日が沈む前の部屋は窓からの光で紅に染められている。その光景にそこはかとなく寂しさを覚えて、彼女はそっと瞳を細めた。乱雲も同じように夕日を眺めているのだろうか? それともあちらの世界ではまた別の風景が見られるのだろうか? そんなことを思うと胸の奥が重くなり、彼女は恐る恐るお腹に手を当てる。
「ねえ乱雲、どうしたら私はあなたを幸せにできるの? どうしたらこの子を守れるの?」
 乱雲と子ども、そのどちらかを選ぶことしかできないのか。それ以外に道はないのか。彼女は奥歯を強く噛んだ。子どもを連れていくのは無理だとリョーダは言った。しかし子どもを連れていかなければ可能だ、とも口にした。子どもをこの宮殿に置いていけば、乱雲のところへ行けるのだと。
「でもこの子を置いていくだなんて」
 お腹をさすりながら彼女は瞼を閉じた。まだここに新たな命があるのだと実感はできない。けれどもきっと確かにいるのだろう、理由はないが漠然とだがわかった。これが母親になる一歩なのだろうか?
「子どもを置いていくなんて、そんなのできないわ。だからリョーダさんも苦しそうだったのよね。彼は娘と離ればなれになるなんて、きっとできないでしょうから」
 ならば子どものために乱雲を一人にしなければならないのだろうか? 傷を抱えた彼を一人放っておかなければならないのだろうか?
 ありかは思わず嘆息した。昨日の話からすれば、神技隊がこの世界へと戻れる日は相当遠い。いや、ひょっとしたら許されない可能性もあるそうだ。となればここに残る限り乱雲と会うことはままならず、いつか会えると励ました言葉は全て嘘になってしまう。
「それは、嫌。きっと乱雲は今も笑ってるんだわ。寂しそうに笑ってるんだわ。彼を一人にしたくない」
 どうにかして子どもと一緒に異世界へ行きたい。そう強く願い彼女は目を開けた。絶望的に思えるが、きっとどこかに道はあるはずだ。リョーダを、上を騙すことになろうとも異世界へ足を踏み入れてしまえば連れ戻される可能性は低くなるはず。全く手だてがないわけではなかった。
「ありか?」
 そこで突然声をかけられて、慌てて彼女は振り返った。そこには扉を開けた状態で訝しげに顔をしかめるシイカの姿があり、その左手が遠慮がちに彼女へ伸ばされている。扉を開ける音もしなかったと思い返しながら、ありかは口を開いた。
「お母様」
 よく考えると、部屋に入ってすぐ立ち止まったままだった。そのことに気づき、ありかはばつが悪そうに破顔する。不思議に思われたことだろう。シイカは後ろ手に扉を閉めて、言葉を選ぶように口を何度か開閉した。その様にありかはぴんときて、思わず体を固くする。
「ありか、そんなところに立ってないで座りなさい。あなた一人の体じゃあないんだから」
「……はい、お母様」
 だが当たり障りのないことを口にするシイカに、ありかも結局言葉少なく頷くだけだった。沈みかけた夕日が二人の影を床に焼き付け、重い空気をいっそう強調する。ベッドの端に腰を下ろして、ありかは俯いた。神技隊派遣の話をされるのかと身構えたが、どうやら違うらしい。シイカのことだからどこからか聞きつけてくると予想していただけに、何だか気が抜けて吐息が漏れた。
「話はリョーダさんから全て聞いたわ」
「え?」
「あなた、どうする気なの?」
 けれども次の瞬間には、シイカは本題へと切り込んできた。一瞬何のことだが飲み込めず、ありかは素っ頓狂な声を上げる。だがすぐに予想通りだったことに気がつき、床の上で視線を彷徨わせた。シイカも心の準備をしていたというところか。対してその変わり様を予測していなかったありかは、返答に詰まって眉根を寄せた。どうする気と言われてもそれでずっと悩んでいるのだ。すぐに答えが出せるならこんなに苦しむ必要はない。
「その……迷って、います」
「そう」
「乱雲を一人にはしたくないし、だけど子どもを置いていきたくもないし」
「選べていないということね」
「はい。できるなら子どもを連れて行きたいと、それしか考えられなくて」
 瞼を伏せたままありかは言葉を紡いだ。相手が母親であればこそ、吐き出したかった胸の内がするりと喉を通ってしまう。それでも都合のいいことを口にしていると理解していたから、顔を上げることはできなかった。視線が突き刺さっている気がして目眩がする。するとシイカの近づく気配がし、その手がありかの膝へと載せられた。
「その気持ちは私だってわかるわ。大切なものをどちらか選べというのは酷な話だもの」
「お母様……」
「でもね、今この子をこの世界から出すのは駄目よ。それはこの子のためにもこの世界のためにもならない」
「えっ?」
 そう言われて、思わずありかは視線を上げた。シイカの発言の意味がわからず、それでもリョーダの言葉とは違う何かを感じて、俯いたままではいられなかった。ベッドの側に膝をついたシイカと、ありかの眼差しが交差する。
「この子は立派な技使いになるわ」
「わ、わかるの? お母様」
「はっきりとわかるわ。この子の気がほら、あなた越しにも感じられるもの」
「私にはわからないわ」
「今はね。でもすぐにわかるようになるわよ」
 シイカの手がそっとありかのお腹に当てられた。ありかは小首を傾げ、愛しげに目を細めるシイカの顔をただ黙って見つめる。シイカの瞳は確信に満ちていて、疑う余地すらないようだった。ありかには命の気配が感じられる程度だというのに、シイカにはその気までわかるらしい。尊敬するような、しかし悔しいような気分で、ありかはベッドのシーツを軽く掴んだ。
「ありか、この子はこの世界に必要な子なのよ」
 さらにシイカはそう続けた。まるで全てを見透かしたかのようなその口調に、心が波立っていく。何故そんなことを言うのか、何故そう確信するのか聞き出したくて、ありかは語気を強めた。自然と眼差しも鋭くなる。
「この世界に?」
「ええ、この世界に。だからこの子の力を奪ってはいけないのよ。それに今この子を異世界へと連れ出せば、この子は力に押しつぶされてしまう」
 お腹を撫でていた手を、そっとシイカは離した。まるでそのまま触れ続けていれば小さな赤ん坊がつぶれてしまうかのように、気遣わしげな仕草だった。ありかはゆっくりと、今度は自らの手をお腹へと当てる。
「お母様は、乱雲よりもこの子が大切なんですね」
「そんなことはないけど……やっぱり孫は可愛いものね。本当なら私もこの子を無世界へ行かせてあげたいわ。でもね、それはこの子のためにはならないのよ。この子の気がこれだけ強いとなると、願いは叶わないの」
 ありかは再度小首を傾げた。シイカは気の強さを確信しているようだが、彼女には全くわからなかった。自分の内にあるからなのだろうか? それともシイカは別の何かでそれを感知しているのだろうか? 普段ならシイカだから感じられるのだろう、で済ませてしまうのだが、今日ばかりはそんな気になれない。うまく答えを返せなくて彼女は唇を軽く噛んだ。
「もしありかが異世界へ、乱雲さんのところへ行くというのなら――」
 するとそこでシイカは一度視線を逸らした。その様子に今まで感じていなかった彼女の老いを見つけだし、ありかは小さく息を呑む。目元の皺に顔色、何より瞳の奥の疲れが年相応の表情を作り出していた。いつまでも若々しいと思っていたのは、よく見ていなかったせいだったのだろうか? いや、もしかしたら乱雲とのことで心配かけていたせいかもしれない。そう考えると胸が痛み、ありかは瞳をすがめた。きっとシイカも悩んでいた。リョーダから話を聞く前から何か感づいていて、ずっとその後を考えていたに違いない。
「もしありかが異世界へ行くというのなら、この子は私が育てるわ」
「お母様……」
 だから続くシイカの申し出に、ありかは泣きそうになった。故郷を追い出されたシイカは家族と引き離される苦しみを知っている。父親が亡くなって沈み込んだありかの様子も、もちろん知っている。全てを知りながら、なおそう告げていた。自分の言葉がどれだけの痛みを引き起こすか理解しながら、それでも口にしていた。少しでもありかの負担が減るように、後悔のない選択ができるように。
「でもお母様、その体で子育てなんて無理が――」
「何言ってるのありか。私は一人じゃないわよ? リョーダさんも、それにその娘さんたちも協力してくれると言ってたわ」
「……え?」
「皆気にしてるのよ、あなたと乱雲のことを。あなたは一人じゃないの。そのことをちゃんと自覚なさい」
 シイカはふわりと春を感じさせる笑みを浮かべた。何度も瞬きを繰り返して、ありかは唇を震わせる。
 ずっと一人で抱え込まなければならないのだと思っていた。一人で答えを出し、その罪を負わなければならないのだと思っていた。だが違った。こんなにも周りの人は温かく、ずっと気にかけてくれていた。全て一人で決めなければと気負っていたのは、動揺するあまりに周囲が見えていなかった証拠だ。
「はい」
「答えはすぐに出さなくていいのよ。次の神技隊の選考が始まるまではまだ時間があるし、その頃にはあなたにもこの子の気が感じられるようなるから。だからそれからでいいのよ。誰もあなたたちの不幸を願ってはいないのだから。残るにしても、行くにしても後悔のないようにね」
 立ち上がるシイカを、ありかは目で追った。不思議と心は落ち着いていて、素直にシイカの言うことを聞くことができた。頷いたありかを見て安心したのか、シイカは窓際へと歩いていく。夕日に照らされたその後ろ姿を眺めて、ありかは口の中だけで囁いた。
「乱雲、私は何からも逃げないわ」

 それは決意への一歩。

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