誰がために春は来る 第一章

第七話 後悔する時

 試験後の日々は至って単調だった。教育係と移住者という二人の関係は相変わらず続いているし、仕事が減った乱雲は真面目に勉強している。
 気づかれていないのだろうか? それでも日々ありかは胸中で問いかけていた。挙動不審ではないだろうか、変に思われてはいないだろうか。そう自問し続ける生活は今までにない程疲れる。顔色が悪いと、シイカにもよく言われた。もっともシイカの体調の方もあまりかんばしくはないようだったが。
 そんな風に今日も物思いに沈みながら廊下を歩いていると、突然後ろから元気な声がかかった。
「ありか!」
 振り返ると、見慣れた顔の男性が走り寄ってくるのが目に入る。同じ図書庫で働いているブルーノだ。見た目は三十ほどだが噂ではとうに越えているらしく、子どもと遊ぶ姿がよく目撃されている。
「ブルーノさん、どうかしたんですか?」
「いやあ、ちょうど良かった。後で伝えようと思ってたところだったんだよ」
「えっと、何か?」
「ありかに緊急の仕事が入ったらしいんだ、だから総事務局へ行けってさ」
 彼の言葉を彼女は反芻した。緊急の仕事。それが彼女に課せられるのは珍しいことだった。そういったものは大抵もっと上か力の強い技使いに回される。彼女は首を傾げながら彼を見上げた。
「本当に、私にですか?」
「らしいよ、オレもよくはわからないんだけどさあ。でもどうも最近不穏なリシヤに関してらしい」
 思わず彼女が尋ねると、頷いた彼は頭を掻きながらちらりと周りを見回す。聞かれていないか確認したようだ。リシヤの異変についてなら、ありかも時折シイカから耳にしていた。確かにここ最近色々とあるようで、忙しそうな雰囲気はあった。
「でも、どうして私に……」
「それはオレもよくわかんねぇな。まあ、とりあえず行ってこいよ。何かあったら図書庫の方はオレたちで何とかしておくから」
「はい、お願いします」
 彼女は頭を下げた。そしてすぐさま総事務局へと向かって歩き出した。少しでも遅れると、局員のあの金属を思わせる冷たい顔が微妙に歪む。その様は見たくなかった。
「どうして私に?」
 急いで歩きながらも彼女は眉間に皺を寄せた。シイカへ話が来るならまだわかる。だがありかはリシヤを訪れたことも少なく、実力だってあまりなかった。不安がこみ上げてきて彼女は瞳を細めた。何か妙なことが起きていなければいいと切に願ってしまう。
「乱雲の勉強のこともあるしね」
 何人もの人たちと擦れ違いながら、彼女はほんの少し口の端を上げた。彼のことを考えると不思議な気分になる。息苦しさを覚えると同時に、それでもわずかだけ心が浮いたようになった。気持ちを隠すことは苦しいけれども、それでも会っている瞬間はきっと嬉しいからだろう。
「変なの」
 苦笑しながら彼女は歩を速めた。軽い足音は、通り過ぎる人々のそれに混じっていった。



 乱雲のいる個室の扉を数回叩き、ありかは冷たい取っ手へと手を伸ばした。そっと扉を押し開けると、座っていた乱雲が立ち上がるのが見える。彼女は中へと体を滑り込ませた。部屋にはやや古くさい本の匂いが染み込んでいる。図書庫と同じ、慣れた香りだ。
「ああ、ありか」
「遅れてごめんね、乱雲」
 花が咲いたように微笑む彼へ、彼女は軽く頭を傾けた。思ったより総事務局での説明が長かった。午後の勉強時間には戻れるだろうと思っていたのに、もうその時刻を遙かに過ぎてしまっている。
「いや、勝手に勉強してたから大丈夫」
「でも私、また謝らなければならないの。今日緊急の任務が入っちゃって……」
 彼女は彼の側へ近づき、ちらりとその瞳を見上げた。彼は顔をしかめながら首を傾げ、口にしかけた言葉を飲み込んでいる。
「緊急の、任務?」
 その代わりなのだろう、ひどくかすれた声で放たれたのはそんな疑問だった。彼女は首を縦に振って、横にある机の表面をそっと撫でる。
「ええ、これからリシヤに行かなければならないの。リシヤに何故か結界が多いのは知ってるでしょう? それがどうも不安定らしいのよね。そのことに対する不満がつのってるみたいで、早く修復しなきゃならないって」
 ありかが選ばれたのは、仕事が結界の修復だからだ。微妙な制御が必要な作業は彼女の得意分野だった。『精神』と呼ばれる技のエネルギー源を彼女は多くは持っていないが、結界の修復ならば問題はない。
 そしておそらく、あまり人手を割きたくないというのが上の本音なのだろう。他に選ばれた名を聞いてみたが、どうやら実力者は選ばれていないようだった。リシヤの民衆を言いくるめられればいい、といったところか。
「そうなのか」
 彼は細く息を吐き出して寂しそうに笑った。その微笑に、鼓動がとくりと跳ねる。
 卑怯だ。彼女は胸中でそう思う。そんな顔をされれば行きたくなくなる。上の命令には逆らえないというのに、それを無視したくなってしまう。
「ああ、わかった。オレは一人で勉強してるから」
「あ、うん。本当にごめんね。戻ってくるのは今日の夜か明日だと思うから、本格的な勉強は明日の午後にしましょう。それじゃあね乱雲」
 彼女はそう言い残すと、そそくさと扉へ向かった。これ以上ここにいるのは危険だった。彼の澄んだ瞳を、寂しそうな顔を、切なげな吐息を聞いていると気がおかしくなりそうになる。
「明日な」
 そう告げる彼の声を背中に受けて、彼女は急いで扉を閉めた。それから数度深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けてからゆっくりと歩き出す。
「任務に集中しなきゃ」
 歩調を速めながら彼女は軽く頭を振った。結界の修繕に失敗するわけにはいかない。いましばらくだけは、彼のことも頭から追い出さなければならない。
 彼女は上着のポケットの中にカードと認定証があるのを確認すると、そのまま一階へと向かった。今回の任務の仲間が出入り口にはいるはずだ。慣れない仕事に緊張した者たちが、今か今かと待ち受けているはず。
「頑張らなきゃね」
 彼女は階段を駆け下りた。スカートの裾が跳ねるのも構わず、ただ心を仕事のことへと集中させた。



 リシヤは森に囲まれた古風な町だ。石畳の道が中心街から放射状に広がるも、それが途切れれば青々とした木々が生い茂っている。
 時折聞いたことのない鳴き声がどこかから聞こえ、ありかは身をすくめた。リシヤの町なら行ったことはあるが、森へと足を踏み入れたのは初めてだった。またそれは他の仲間も同じだったのだろう。皆すくんだ足を奮い立たせるようにしてゆっくり進んでいる。
 だが先頭を行く男の足取りだけはしっかりとしていた。見かけたことのない男性だ。宮殿では馴染みのない深緑の髪は肩程あり、今はそよ風に揺れている。また着ている衣服もゆったりとしたもので、宮殿内で見かける形のものではなかった。
 そして何よりもその『気』。押し隠してはいるのだろうが、放たれる凄みに身が縮みそうな心地だった。だからだろうか、誰も何も言うことができずその名を問いかけることも無理だった。草を踏みしめる音以外は、何かの鳴き声と葉の囁きしか聞こえてこない。
 彼以外の名なら、彼女はそらんじることができた。顔も何度も見かけたことがあり、総事務局で聞かされた名前とすぐに照らし合わせることができる。
 監視役ってこと? そう彼女は心の中で呟く。やはりこのメンバーだけでは心配だったのだろうか? ならばもっと実力者を集めればいいのにと、毒づきたくなった。
「この辺りだ」
 すると唐突に、その男が立ち止まった。つられて慌てて足を止めた一行は、辺りを探るように視線を彷徨わせ始める。ありかも同様に周囲を見回した。
 結界。それは先ほどからずっと感じていたが、確かにここの方が多かった。そこら中と言っていいくらい、あちこちに存在していている。彼女は怪訝な顔で辺りをうかがった。違和感だけが拭えなくて、握った手に汗がにじむ。
 森に結界など無駄としか言い様がなかった。しかも通行人の行く手を遮るものでもない。どことどこの間に張られた結界なのかわからなくて、修復する意義すら怪しくなる。
 けれどもそれをリシヤの民が気にしている。不安に思っている。今さら文句を言っても仕方がない。不安を取り除かなければ別の問題が起きかねないと、彼女は自らに言い聞かせた。
「妙に弱まっているところがあれば強化してくれ。だがあまり遠くへは行かないように、だそうだ。危険だからな」
 しかし続けて放たれた男の言葉に、彼女は耳を疑った。
 危険とはどういうことかと、問い返したくなった。そんな話は、総事務局員は一言も口にしていなかった。強力な技使いでなくとも問題はないと。ただ面倒な仕事だとは説明していたが。
「あの――」
 メンバーの一人が声を上げるも遅く、その男は一人ですたすたと歩き始めた。一体どこへ行くのか、何が危険なのか説明する気もないらしい。彼の背中を呆然と見つめて彼女は瞳を瞬かせた。
 彼は上の者なのだ。その行動から、瞬時に彼女は理解した。理解して納得した。それならばあの凄まじい気も素っ気ない態度も説明不足も頷ける。それはどれも上にいる者の特徴だった。彼らは言いたいことだけ言うとふっとどこかへ消えていってしまう。
「とにかく、言われた通りのことをしましょう」
 だから彼女はそう口にするしかなかった。あの男の言う通り、遠くまで行かなければいい話だ。結界の修繕だけ終わらせれば任務は終了となる。上に干渉することも尋ねることも彼女たちには無理だった。
「そうですね」
 皆は次々と頷き、散り散りに歩き始めた。とりあえず目に付いた結界が弱まっていないか確認し、弱まっていたらそれを補強する。それをひたすら繰り返し続けた。ありかも歩きながら辺りを見回し、結界に異変がないかを確認する。
 結界の数は、無数とも思える程だった。単純作業の繰り返しは気の遠くなるようなものだった。だが早く帰るためにはさっさと終わらせなければならない。嫌だと駄々をこねてもいられない。そう躍起になっていた彼女は、ふと傍に誰もいないことに気がつく。
「あれ?」
 皆遠くまで行ってしまったのだろうか? それとも自分が遠くへと来てしまったのだろうか? 慌てて周囲の気を探ってみたが、あちこちにある結界のせいでその位置は定かではなかった。朧気にどこかにいる、ということしか感じ取れない。
 何かの鳴き声がまた、頭上をかすめていった。腕を抱くようにして彼女は空を見上げる。生い茂った木々は空を覆わんばかりに枝を伸ばし、薄水色の青空はほんの少ししか見えなかった。さやさやと揺れる葉も、今は何故だか不気味に感じられる。
「戻った方がいいのかしら」
 遠くは危険だとあの男は言っていた。一度皆と合流した方がいいのではないか。考えれば考える程不安になってきて、彼女は小さく身震いした。
 するとその足下を小動物が駆け抜けていく。いや、小動物だけではない。それらが来た方を振り返ると、続けて犬のような生き物が数匹、また羽音を立てて何か小さな生き物が彼女へと向かってくる。そして、横を通り過ぎた。一瞬のできごとだった。
「な、何?」
 彼女は固唾を飲み込んだ。逃げろと体の奥で警鐘が鳴っていたが、足がすくんで動かなかった。
 何かが来るのか。何かがあるのか。危険だとわかっているのに動けない。良くないことがあると悪寒がするのに、体はぴくりとも動いてくれなかった。焦りだけがつのっていく。
「っつ!?」
 異変は、予想外の所に生じた。彼女を襲ったのは、突然の頭痛だった。頭を殴られたような衝撃の後、今度は胃の奥底から吐き気がこみ上げてくる。
「な、何……?」
 何か動物がやってくるわけでもなく、自然現象が起きるわけでもなく、訪れたのは体の変調。視界の中の木々が円を描くようにねじれ、その色がどんどん薄れていく。彼女は耐えきれずに膝をついた。呼吸が荒くなっていった。息を吸い込んでいるはずなのに肺まで酸素が届いていないようで、とにかく苦しくて仕方がない。
 死ぬのだろうかと、漠然とした恐怖がこみ上げてきた。何が起こったのかわからずに、それでも現状がまずいことだけを感じ取って彼女は泣きたくなった。
 こんなところで死ぬのなら、きちんと乱雲に気持ちを伝えておくのだった。隠さずに伝えておくのだった。そして言うのだ、傍にいられて嬉しかったと。迷惑だなんて思っていないのだと。縮こまる必要は、もうないのだと。それだけは知って欲しかった。
「らん、うん」
 彼女は草むらに体を横たえた。もう視界は白に塗り潰されていて、周りを把握することもできない。ただ耳だけがかろうじて正常な機能を保ち、辺りの気配を掴もうとしていた。
 もしも、もしももう一度乱雲と会えたら、ちゃんと言おう。そう強く心に誓いながら、彼女は痛みと吐き気を懸命に堪えた。目の前に乱雲の顔がぼんやりと浮かび、彼女は柔らかに破顔した。

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