誰がために春は来る 第一章
第三話 隠れていたもの
疲れ切った体をベッドに横たえて、ありかは深く息をした。窓からは布越しに月明かりが差し込み、それがぼんやりと部屋の中を照らしている。
「お母様……は寝てるわね」
彼女は一度瞼を閉じた。精一杯耳を澄ませてみても、足音も気配も聞こえてこない。ということはシイカはちゃんと寝ているのだろう。かすかに気を感じることからしても、深い眠りに入っているに違いない。少しほっとしてありかはゆっくり瞼を持ち上げた。
「私は、眠れるかな?」
思わず弱気な呟きが漏れた。寝間着に包まれた体は疲労を主張しているが、しかし心は高ぶっていてとてもではないが眠れる気がしなかった。全て、乱雲から聞いた話のせいだ。彼が明かした、宮殿に来た理由のせい。
「聞いちゃいけないこと聞いちゃった」
彼女はぼんやりと天井を見つめた。薄暗い中でも見覚えのある染みが浮かんでくる。普段なら眠りへ誘う材料にしかならないそれも、何故だか今は乱雲の顔に見えて仕方がなかった。唇からまた重い吐息が漏れる。
『オレは兄さんから逃げ出してきたんだ』
彼は勉強部屋ではっきりとそう言った。兄とそのパートナーの関係を壊したくなくて、それなのに壊しそうな気がして逃げ出してきたのだと。小さな甥っ子を残して逃げ出してきたのだと、そう告げた。
「そんなのって……」
どうにかならなかったのかと、彼女は問いつめたくて仕方がなかった。だが言ってはならない気がした。もうこの宮殿に入り込んでしまったのだから、元に戻ることなんてできない。今さら何を言っても手遅れだ。それなのに問いただすようなことをすれば、彼を追い詰めかねなかった。
『片思いだったんだ、オレの。彼女が兄さんを愛しているとわかっていても、それでもずっと好きだったんだ。だから二人を祝福しようって、そう思ってたのに。なのにオレは兄さんを恨もうとしていた。憎もうとしてた。そんな自分が怖くなって、逃げ出してきたんだ。二人の関係を壊したくなくて、逃げ出してきたんだ』
思い出す乱雲の声は今にも消え入りそうで、儚くて、そして悲しみの色を帯びていた。あの時泣き出さなかった自分を褒めてやりたいくらいだった。相手の感情に同調しやすい彼女は、悲しい話を聞く度によく涙していた。あんな声を聞いたら、以前の彼女なら確実に涙をこぼしていたことだろう。
「でも、私が泣いたらいけない。そしたら乱雲は泣けなくなる」
寝間着の胸元をぎゅっと掴んで、彼女は震えを押し殺そうとした。彼に悲しそうな顔をさせたのは彼女だ。彼に話をさせてしまった彼女の責任だ。
「そんなつもりなかったのに……いや、私が迂闊だったのよね。そうよ、ここに来る人はみんな傷を抱えているんだから」
彼女はまた固く目を閉じた。それでも浮かんでくるのは寂しそうな乱雲の笑顔で、さらに胸の奥が痛み出す。
この宮殿の外には現在十五の自治区のようなものが存在している。近くにはヤマト、ウィン、リシヤが、大河を挟んではジンガーやミリカが代表例だろう。それらを統べる存在がこの宮殿だが、だからといって宮殿の方が裕福だとかそんなことはなかった。
むしろ最も過酷な場所がこの宮殿だろう。この中に住めば外よりも自由を制限される。そんな場所に好きこのんでやってくる者はいなかった。
「ここに逃げ込んでくるような人は、皆ひどい傷を負った人」
彼女の母であるシイカは、ある予言のために迫害されそうになり逃げ込んできた。またある人は犯罪人と間違われて逃げ出してきたし、ある人は家族の暴力を逃れるためにやってきた。誰もがそれなりの理由で宮殿へと駆け込んできていた。乱雲だって例外ではない。そのはずなのに、そのことがいつの間にか彼女の頭から抜け落ちていた。
「きっと傷ついたわよね」
無理やり聞き出してしまったも同然だ、きっと彼の傷口を広げてしまっただろう。そう考えると自己嫌悪で息が苦しくなる。あの時あんなことを言わなければよかったと、自分は何て馬鹿だったのだろうと、責める言葉ばかりが浮かんできた。
「駄目、寝なきゃ。明日の仕事に差し障りがあるわ」
だがこんなことばかり考えていても何も解決はしない。彼女は首を横に振ってシーツを手繰り寄せた。何があっても仕事だけは全うしなければならない。それはこの宮殿に住む――ジナル族の責務だった。
「そうよ、私は教育係なんだから。彼の傷を癒してここに適応させるのも、私の仕事なんだから」
明日からよりいっそう頑張らなくては。彼女はそう自らに言い聞かせて唇を引き結んだ。シーツを握る手に、必要以上に力がこもった。
決意を新たにして乱雲と向き合ったありかだったが、彼の方はそれまでと何ら変わりなかった。特別傷ついた様子もなく過去を思い出した様子もなく、時折自嘲気味な笑みを浮かべるだけで、これといった変化は見られない。
「乱雲、勉強進んでる?」
「ああ、おかげさまで。この部屋も何だか他の部屋と違って明るいしね。花があるからかな? 赤い色がすごく映えてる」
「あ、本当? それはよかった。実はこっそりもらったものを飾ってみたのよね。庭にたくさん咲いていたものだから」
だから彼女はできるだけ彼の過去に触れないようにし、明るく振る舞うよう努めていた。勉強用に借りた部屋も無機質な印象がないようにと気を遣った。ここは本当に誰も使わないため、一歩間違えれば牢獄のようになる。そんな努力のかいがあったのか乱雲の勉強もはかどり、宮殿の規則にも徐々に慣れてきている。
窓際にある花へと一瞥をくれてから、彼女はふわりと微笑んだ。いい香りだ。彼女は彼の手元にある問題集へと視線を移し、その表面を軽く撫でる。
「その調子で頑張ってね。今日は実力試験だもの。それまでに今日の分を終わらせないと」
「あっ、そうか。すっかり忘れてた」
「ちょっと乱雲しっかりしてよね。大丈夫? この試験に通らないとまともな仕事に就けないんだから」
彼女はくすりと笑った。宮殿内での仕事は、まず技使いか否かによって大きく二分される。また技使いの中でもこの実力試験を通るか否かで、その後の扱いがかなり変わってきた。
大人で受けるのは移住者だけだが、子どもは必ずこれを受ける。大概は十三歳を超えた段階でだが、稀に神童などと呼ばれるような子では、十歳になった時点で挑戦する者もいた。
「そういえば、その実力試験ってのは具体的にはどんな試験なんだ?」
「試験はね、主に二つあるの。一つ目は気を隠している技使いを探し出す試験。もう一つは、試験監督と戦う戦闘試験」
「どちらも通らなきゃいけないんだ?」
「ううん、どちらか合格すればいいのよ。大体片方だけ得意な人が多いから。私は探す方だけ通ったし。あ、かかった時間が短い方が優秀者ってことね」
彼女は人差し指を立てて軽く振った。きっと乱雲ならすんなり通るだろうと確信していた。しばらく共にいたらわかる。彼の話に出てくる技はどれもそれなりに実力が必要なものばかりで、彼の能力が相当なものであることを示していた。そこらにたくさんいる、ちょっと補助系の技が使えるだけの技使いとは違う。
「そっか。頑張らなきゃなあ」
「その前にこの問題集、頑張ってね」
「え? あ、ああ、もちろん」
彼の硬くなった笑顔に、彼女はわずかに苦笑した。技使いとしては一流でも暗記は苦手らしい。だから心配なのは移住者試験の方だった。だがそれまであと二週間以上ある。時間さえかければ何とかなるだろう。彼女はそう自分に言い聞かせ、瞼を伏せた。
その数時間後、二人は実力試験を受けに修行室へと赴いた。天井も床も壁も全てが白いその部屋は、ともすれば時間感覚さえ失われる。普段は子どもの技使いが、その能力を使いこなしてそれ相応の実力を身につけるために利用している。だが今は実力試験直前。ここに集っているのは試験を受ける子どもたちと乱雲たち、そして試験監督である一人の男性だけだった。
「あーみんな揃った? 揃った? オレは書類確認とかしたくないから人数しか数えないよ。えーといるな、うん、ちゃんといる。さーこっち来てこっち来て。さっさと終わらせるから」
皆の前に立っているのは、狐色の髪に茶色い瞳を持つ、かなり砕けた印象の青年だった。ありかも昔お世話になったことがあるミケルダという青年。彼が試験監督だ。いつまでたっても年を取ったように見えない、かなり『上』がよこした人員だ。
この宮殿には似つかわしくない軽い口調に驚いているのだろう、隣に立つ乱雲は黙って目を丸くしている。確かに、ミケルダの性格はここにはあまり馴染まなかった。そのためか、よく飛び出しては怒られているとも聞いている。
「そうそう、いい子いい子。あ、大体の奴は知ってると思うけど、オレはミケルダ。今日の試験監督だ。えーと、さて、今回はどっちからやるかなあ。うーん、今日の気分は戦闘かな。えーと順番は……逆から行こう!」
試験で緊張しているのかそれとも圧倒されているのか。誰も何も言わないのをいいことに、ミケルダは一人で話を進めていた。大げさな身振りでポンと手を打ってから、脇に挟んである書類を手に取る。そしてそれをさっと眺めると、にんまりとした笑顔で乱雲の方を見た。
「乱雲さん、あんたからだ」
人懐っこい笑みの中に鋭い何かを秘めながら、ミケルダは有無を言わさずそう告げた。小さく頷く乱雲の横顔をありかは盗み見る。いきなりだなんて予想外だ。大丈夫だと思っているが、ほんの少しだけ不安になる。
「乱雲」
「ああ、大丈夫」
しかし彼は動じなかった。ありかを一瞥して軽く微笑むと、ゆっくりミケルダの方へと向かっていく。彼は脇へ避けた子どもたちの間を、足音を立てずに進んでいった。気のせいかその背中がいつもより大きく見える。
「おお、いい気を持ってるなー。うーん、楽しみ。えっとな、ルールは簡単。オレがこの小さなカードを落としたらオレの負け。落とす前にあんたが降参したら、あんたの負け。わかるか?」
「はい」
ミケルダは簡単に試験概要を口にして、小さなカードを左手に握った。不親切きわまりない簡略した説明は『上』の者の特徴でもある。
それにも狼狽えることのない乱雲の後ろ姿を見つめて、ありかは息を呑んだ。まるで自分のことのように緊張してきた。これが教育係の宿命なのだろうか? それとも彼女が感情移入しやすいだけだろうか? 高まる鼓動を静めるよう胸に手を当てて、彼女は一歩後退した。離れていた方がいいだろう。これから戦闘が始まるのだから。
「ほらほらみんな下がって下がって。これから試験だからねー。あー、ありかちゃん、子どもたち守っておいて」
するとミケルダも同じことを思ったのか、手をひらひらとさせながら彼女に微笑みかけてきた。守ってということは、つまり広範囲の技を使うつもりなのか。青ざめた彼女は子どもたちの手を引きながら、壁際にぴったりと張り付いた。いざという時は結界を張らなければならない。それは彼女の役目だ。
しかしおかしなことでもあった。試験官が広範囲の技を使うなど、まず考えられないことだ。ある一定以上の力を持っていればこの試験は通る。だがそれは少なくとも命をかけるような戦いでも危険なものでもなかった。周りに被害が及ぶような戦いではないはずだ。
どうしてと、ありかは心の中で呟いた。ミケルダの浮かべている笑顔に、何だか嫌な予感を覚える。彼がそんな顔をしている時はろくなことがなかった気がした。
「乱雲さん、準備はいいかい?」
「はい」
彼女の心の準備など待たずに、すぐに戦闘は始まった。子どもたちと共に隅へと避けた彼女は、その行く末をただじっと見守る。
まず動いたのは乱雲だった。大きく跳躍しながら右手に黄色い不定の刃を生み出す。雷系の技だ。彼はそれを真っ直ぐミケルダの手元へと突きだした。だがミケルダは軽く微笑を浮かべて、その刃を右手首で受け止める。結界の応用だろうが、あまり見かけないものだ。
「ミケルダさんが、本気?」
彼女は思わず眼を見開いた。いや、実際は本気ではないのだと思う。しかし彼女を相手した時よりは、明らかに手加減の度合いが違った。続けて乱雲が放った黄色い矢を、いとも簡単に素手で叩き落としている。そんな複雑な結界の使い方は、普段ミケルダはしていなかった。
「ほーらほら、そんなんじゃ試験通らないよ?」
ミケルダは舞うように幾つもの矢を避け、残りの数本を手で払う。乱雲は右手に刃を携えつつ、間合いを詰めようと機会をうかがっていた。だがミケルダはそれを簡単には許さない。重力を感じさせない動きで一定の距離を保ち、誘いながらも隙を見せていなかった。
「うわぁ」
そんな戦闘を見ていた子どもたちのうち、一人が泣きそうな声を漏らした。これからあのミケルダと戦うのだと思えば逃げ出したくもなるだろう。励ます意味も込めて小さなその手を握り、ありかは息を殺した。
今となってみるとわかる。ミケルダはいつも相手にあわせていた。相手が試験を通るか通らないかというぎりぎりの線を見極めて、力を振るっていた。今ミケルダは、乱雲ならばこのくらい実力を発揮しても突破できると思っているのだろう。それはありかにとっては嬉しくもあり怖い。震えそうになるのを堪えて、彼女はただひたすら二人の動きを目で追った。
「乱雲」
祈るような囁きが彼女の唇からこぼれる。乱雲の刃はことごとくミケルダに受け止められたが、しかし彼は諦めなかった。単純な攻撃では敵わないと判断したのか、一旦後退すると今度は左手にも短い刃を生み出す。これも雷系の技だ。黄色に揺らめく刃が二つ、彼の手元で強く光る。得意なのが雷系の技なのだろう。
乱雲はすぐに動き出した。ミケルダに向かった右手の剣を繰り出しながら、隙を見て左手の短剣を横薙ぎにする。
「そんなのっ!」
ミケルダはその一方を身を捻ることでやり過ごし、もう一方は左手で直接防いだ。そして身をかがめると乱雲へと足蹴りを食らわす。
まさか即座に反撃してくるとは思っていなかったのだろう。かろうじて受け身を取った乱雲は、そのままよろめいて片膝をついた。しかしやられる一方ではない。一歩を踏み出そうとしたミケルダへと向けて、無理な体勢から苦し紛れに光の球を放った。かなりの大きさの球が、白い空間の中で明滅する。
「っつ!?」
同時に耳障りな音がした。強い光が目を灼き、ありかの視界も一瞬真っ白に塗り潰される。それでも腕をかざして必死に様子をうかがうと、ミケルダが光球を結界で防いだ姿が見えた。見えない壁に弾かれた球が消えた瞬間、火花を散らしながら四方八方へと細い光の筋が伸びる。そして端の方から徐々に空気へと溶けていった。
「あれ?」
彼女は首を傾げ、瞬きをした。ミケルダはすぐさま反撃に出ると思っていたのだが、一度大きく飛び上がると乱雲から離れた。ミケルダがあんな風に逃げるというのはこの実力試験では聞いたことがない。修行室の端へと降り立ったミケルダは、「あーあ」と声を漏らして頭を掻いた。
「久しぶりに骨のある相手だから、楽しもうと思ったのになー」
そう言いながら彼は左手をひらひらとさせた。その中に先ほどまで握られていたカードはない。いつの間に落としたのか。今の流れを思い出しても、彼女にはさっぱりわからなかった。子どもたちも同様なのだろう、みんな目を丸くしている。
「痺れて落とさせるなんて、反則じゃない?」
「ルールには、なかったと思いますが」
「まあそうだけどー。いいよ、合格で。もともと合格させるつもりだったしさあ」
肩をすくめたミケルダは、残念そうにへらへらと笑っていた。そんな彼を、乱雲は至極落ち着いた眼差しで見つめている。
そこでようやく彼女は事態を飲み込んだ。乱雲が勝ったのだ。こんな短時間に、あっさりと勝ってしまった。あの時彼が放った光球は苦し紛れではなかったのだろう。ミケルダならそれを結界で弾くことを予測しつつ、あえて繰り出した技だったに違いない。
結界を張ったとしても、間近から放たれた技の影響を完全に防ぐことは無理だ。電気の余波は近くにいるミケルダにも、もちろん乱雲自身へとも向かう。そこから引き起こされるのは、戦闘には支障のない程度のほんの一瞬の痺れだろう。しかし滑りやすい薄っぺらいカードを落とすことは可能だ。
「すごい」
彼女は呆然と呟いた。これはもしかして最短記録ではないだろうか? 強いとは思っていたが、まさかここまでとは予想していなかった。これならばきっとじきに重要な仕事も任されるようになるだろう。
これで乱雲も外回りの仕事ができるようになる。宮殿に閉じこもっているだけの生活から逃れることができる。
それを喜ぶ一方、胸の奥底は妙に重くなっていた。何故だかはわからない。しかし手放しで喜んでいないのは事実だった。彼が認められるというのに、外へ出られるというのに、彼女はそれを素直に祝福できないでいる。
振り返った乱雲の笑顔を見つめながら、彼女は自分の気持ちの変化に戸惑っていた。笑えているかどうかも、今は自信がなかった。