誰がために春は来る 第一章

第一話 教育係

 総事務局から呼び出しを受け、ありかは廊下を歩いていた。一歩足を進める度に肩程ある黒い髪が跳ね、足首まである茜色のスカートが揺れる。しかし困惑のために足取りは重く、硬く響く靴音さえどこか沈鬱に聞こえた。ともすれば止まりそうになりながらも、それでもかろうじて前へと進んでいる。
「呼び出されるようなことは……してないわよねえ」
 ありかは首を傾げつつ頬に指先を当てた。この『宮殿』と呼ばれ続けている建物は規律が厳しい。この世界を動かしているのはある意味ここなのだから、それも仕方のないことではあった。ここが保たれているからこそ、『外』は平和を維持している。
 そのためか、表だって規律とされていなくとも、暗黙の了解のような縛りが多かった。ある問いかけをしてはいけないのだとか、その事実を外の人間に話してはいけないのだとか。外の人間が聞いたら目を丸くするような『決まり』がたくさんある。だが彼女はこの宮殿で生まれ育った者の一人だ。そんな規則などとうに身に染みついていて、破ることなどまずない。
「じゃあ給料の金額訂正……とか」
 だから彼女は首を捻るしかなかった。総事務局はあらゆる面倒な雑用を一手に引き受けるという、どう考えても回されたくない職務の一つだ。そこに呼び出されるというのは、つまり面倒ごとに巻き込まれるのとほぼ同義である。
「でも給料日からずいぶん経ってるし」
 あれこれと理由を考えてみても、結局は予測すらつかない。彼女は困惑しながら歩き続けるしかなかった。
 壁も床も天井も全て無愛想な白でまとめられた廊下は、行き交う人々で溢れている。だが、皆無口で急ぎ足だった。それぞれが仕事を全うすることで精一杯なために、気安い会話が交わされることもない。ひたすら彼らは無言で前だけを見ている。そんな中、今にも止まりそうな速度で進むありかは、一人浮いていた。
 それでも一歩ずつ進み続ければ目的地へと辿り着くというもので。唸っていた彼女の視界に、事務局の窓口が映った。殺風景な受付の机に、無愛想な顔の局員が一人。そしてその向かい側にもう一人、所在なげな男性が佇んでいるのが見える。
「あれ?」
 ありかはさらに首を傾げた。局員の顔に見覚えはある。ここを通る度に見かけている者だ。だがもう一人の男性に覚えはなかった。この宮殿に住む者を全員把握しているわけではないが、ずっと暮らしていれば顔くらい見かけたことはあるだろう。しかも彼女の記憶力は皆が目を見張る程で、一度見た顔をすっかり忘れることなどまずない。
「ああ、彼女です」
 すると足音に気づいたのか、無愛想な局員の手のひらがありかへと向けられた。それにつられてか、背中を向けていた男性も彼女の方を振り返る。
 黒い短髪のよく似合う、端的に言えば好青年だった。違和感を覚えるとすれば、口元にうっすら浮かんだ笑みだろうか。やや頼りなげに見えるが悪印象は抱かない。それはこの宮殿の者が滅多に浮かべない表情の一つだった。
「ありかさん」
 立ち止まりかけた彼女へと、局員の醒めた声がかかる。呼び出しを受けていたことをうっかり忘れかけていた彼女は、はっとして二人の方へと駆け寄った。
「すみませんっ。私がありかです」
「ええ、ちょうどいいところでした。彼に説明していたところなんです」
「説明?」
「教育係の話です。今からあなたを、彼の教育係に任命します」
 局員は単刀直入に用件を述べた。その言葉の意味を、しばしありかは考えた。考えているうちにようやく事態を察知して、しかしそれでも信じられなくて小首を傾げる。
「私が……教育係ですか?」
「はい、あなたが彼の教育係です」
 教育係――それは『外』から宮殿へとやってきて移住許可をもらった者に対し、宮殿内での生活が滞りなく進むように『教育』する者のことだ。不親切な宮殿の中の構造を教えるのも、暗黙の了解を教えるのも、全て教育係の仕事。移住者が無事一ヶ月後の試験に合格するまで面倒を見るのがその役割だった。
「ですが……」
 ありかは言葉を濁しつつ、隣に立つ男性を横目に見た。温厚そうな青年だ。その点では問題はない。だが彼は明らかに彼女よりも年上――おそらく二十歳は超えているだろうと思われた。一方、彼女は今年でようやく十八歳だ。大抵、教育係は移住者よりも十以上は年上の者が選ばれる。だから彼女が彼の教育係に選ばれるなど、普通は考えられなかった。
「ありかさん、あなたの困惑はわかります。ですが今は人材が足りないのです。彼はそれなりの技使いですから、それに見合った技使いでないと困りますし」
 彼女の戸惑いは予想済みだったのか、局員はよどみない口調で説明を付け加えた。彼女は瞳を瞬かせると、もう一度隣の男性へと一瞥をくれる。
 技使い。技を使う者。かつては能力者とも呼ばれていた存在。それはこの世界にそれなりの頻度で生まれる、特殊な力を持った者のことだ。炎を生み出したり土を掘り返したり空を飛んだり、様々なことを可能とする力を身につけている。その能力は親から遺伝するわけでもなく、また強さも人によってまちまちだったが、しかし全てが『技』とひとくくりに呼ばれていた。技を使う者だから技使い。単純な命名だ。
「でも、だからといって本当に私でいいんですか? だって私は――」
「ええ、わかっています。あなたは補助系の使い手で戦闘には不向きですからね。でも結界は得意分野でしょう?」
「はあ」
 彼女は気のない声を漏らして頷いた。補助系と言えば結界というのが、一般的な認識だ。確かに様々な技から身を守る壁である結界は、宮殿を守るためにも役に立つ。何かが起きたとしても、結界さえ張ることができれば時間稼ぎが可能だ。
 だがそれをここで口にするのかということの方が、彼女にとっては気になるところだった。隣に当人がいるのだ。宮殿内では当たり前に行われる会話かもしれないが、外ではおそらくまずないことだろう。あなたを疑ってますよ、だなんて当人を前にして言うわけがない。もしかしたら疑われていることに、彼自身は気がついていないかもしれないが。
「だからありかさん。あなたを彼の、乱雲らんうんさんの教育係に任命します。いいですね?」
「……はい」
 言いたいことは色々あった。しかし彼女は首を縦に振るしかなかった。断ることなどできなかった。伝えているのは総事務局の局員だが、その背後にはもっと上の者たちの影がある。上の命令は絶対だ。
「それでは乱雲さん、何かわからないことがあったら全て彼女に聞いてくださいね。あなたが何か問題を起こした場合は、彼女の責任となりますから」
「はい」
 表情を変えることなく頷いた局員は、今度は男性――乱雲へと視線を向けた。乱雲はまるでそれまでのやりとりなど耳にしていなかったかのような笑顔で、静かに了承の意を告げる。会話の意味を本当に理解していないのか? それとも知らない振りをしているだけなのか? 現時点では判断がつかなかった。
 すると軽く咳払いした局員は、受付の引き出しから鍵と書類を取り出す。分厚い紙の束を予想していたありかが瞳を瞬かせると、局員はそれを押しつけるように手渡してきた。
「それではありかさん、これが彼の登録証になります。この一ヶ月はあなたが保管していてください。彼の仮部屋番号は、鍵についた札に書かれています」
 もうこの件には関わりたくないといった様子だ。もっともこの後も彼には別の仕事が山のようにあるだろうから、仕方のないことだとは思う。きっと詳細について書かれた分厚い紙束は、後にありかのもとへと届くだろう。
「はい、わかりました」
 ありかはため息を堪えて、ゆっくりと頷いた。先ほどから注がれている乱雲の視線については、あえて気づいてない振りをした。



「ここがこれから一ヶ月あなたの部屋となります」
 そう言いながら、ありかは華奢な扉を押し開けた。同時に中から閉めきられていた部屋独特の空気が流れ出し、鳥肌が立つ。掃除はしてあるはずだが、どことなく湿っている。そして生活感のないその部屋には、悲しいくらい何もなかった。
 拒絶感を覚える冷たい白い壁には、絵一つ掛けられていない。小さな机とベッドが置かれているだけだ。窓はなく、薄暗い中で扉から漏れる光のみが中を照らしていた。
「ここが……」
「すみません、狭くて。でも、無事試験に合格して正式な認定を受けたら、もっと広い部屋に移れますよ」
 ぼやくように呟いた乱雲へと、ありかは微苦笑を浮かべてそう説明した。実際は広さよりもその鬱々とした空気の方が問題だろう。この閉鎖的な宮殿の印象をそのまま切り取ったような部屋だ。
「荷物を置いたらすぐに中の施設の方を案内しますね。食堂とか共同浴場とか、わからないと困りますもんね」
「……ありがとうございます」
「わからないことがあれば、すぐに聞いてくださいね」
「あ、あのっ」
 説明を続けようとする彼女を、彼の慌てた声が遮った。その響きに導かれるように、彼女は彼の顔を真正面から見上げる。困惑に揺れる黒い双眸は、彼女をじっと見下ろしていた。
「ええと、何か?」
「その、教育係っていうのは、つまり、これから四六時中一緒にいるってことなんですか?」
 戸惑いながら彼が口にした疑問を、彼女は胸中で繰り返した。四六時中一緒。そう言われればそういうことになるかもしれない。少なくとも最初の一週間は、彼を野放しにするわけにはいかなかった。そうしなければ確実に迷子になるからだ。
 この宮殿は構造こそ複雑ではないものの、とにかく部屋の数が多かった。慣れない者であれば指定された場所へ行くのも一苦労する。似たような作りの部屋があちこちにあることもその理由の一つだが、わかりやすい表示が一切ないのが最も問題だった。
「ええ。最初の一週間程は、ほぼ一緒ということになりますね。もちろん寝食などは別ですけれど。ああ、私みたいなのでは頼りないでしょうけれど、基本的なことを覚えてもらわないと困りますからね。我慢してください」
「いや、頼りないというわけではなくて……」
 どうにかわかってもらおうと彼女は説明を続けたが、彼は言葉を濁しながら眉尻を下げていた。右往左往へと彷徨う瞳を、彼女は首を傾げながら見つめる。
 何か問題があるのだろうか? 彼女は移住者についての記憶を探ってみた。この宮殿を初めて訪れた者は、誰もが戸惑うという。だがそれはこの建物の構造や規則についてであり、教育係を拒否するといった事例は今まで聞いたことがなかった。
「何か問題でもあります?」
「いえ、その。あなたみたいな若い女性がオレとずっと一緒だったりしたら……その、困りませんか?」
「困る?」
「ええと……付き合ってる方に勘違いされたりとか」
 彼女は一瞬思考を停止させた。停止させながらも彼の言葉をかみ砕き、それから言わんとすることを理解して破顔する。本当は笑い出したかった。だがそうしなかったのは彼に悪いと思ったからだ。きっと『中』と『外』は違うのだろうと考え、彼女は口元へと手を持っていく。
「そんなこと心配なさってたんですか?」
「え? そ、それはまあ、その」
「そんな人はいないので心配しないでください。それに教育係なら当たり前のことですから。誰も気にしませんよ」
 彼女はくすりと笑うと、「それじゃあ荷物を置いてくださいね」と付け加えた。彼はまだ困惑した様子だったが、それでも素直に首を縦に振る。
 いい人そうでよかったと、彼女は心の中で呟いた。先行き不安なことばかりだったが、それがかろうじて救いだった。

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