ファラールの舞曲
番外編 彼と彼女の幻想曲-14
穏やかに吹く風が、日差しに照らされた草原を優しく撫でていった。囁きにも似た音が辺りを満たし、温かな静寂にほんの少し賑わいをもたらす。
シィラからレーナへと戻りきった彼女は、瞳を細めると息を吐いた。頬をくすぐる髪を後ろへと払いのければ、気持ちの良い光が木陰の合間から漏れてくる。背をあずけたこの巨木は、何年生きているのだろうか? 人間の寿命を遙かに超えているのは確かだが、それ以上のことは彼女にもわからない。
彼女は口元を緩めると、手にした手紙へと目を落とした。うっすらと花の模様が描かれたそれは、別れ際にゼジッテリカが渡してくれたものだ。落ち着いた色合いながらも華やかなところが、実にゼジッテリカらしい。
「よかった」
これならばもう大丈夫だろう。もう何度も目を通した文章を読み直し、彼女は軽く目を閉じた。
ゼジッテリカは強くなった。疑心暗鬼に陥っていた少女は、今なら躊躇いながらも一歩を踏み出すことができる。しばらく魔族が動けないことを考えれば、少なくともこの数十年はファラールに平和が訪れるはずだった。その後どうなるかは、人間の寿命を考えれば何とも言えないが。
「本当によかった」
彼女はゆっくりと目を開けた。すぐ傍に現れた気配を、鋭敏な感覚がすぐさま捉えた。彼女がいる木陰の横を行く一本の細道、その向こうに立っているのは間違いなく“彼”だった。テキアを演じ続けた……いや、これからも演じ続けるだろう、一人の神。彼がこちらへ歩いてくるのを、彼女はのんびりと待った。
彼が来ることはわかっていた。だから彼女はここに座り込んでいた。彼にとって彼女は謎の人物のままだろう。その行動を掴むことはできても、どういった存在であるかは知らないはずだ。利用できたとしてもそれでは落ち着かないに違いない。
「神は知らないよなあ」
手紙の表面を撫でて、彼女はくすりと笑い声を漏らした。ごくごく一部の神が、言われてようやく気がつく程度だろう。それくらい彼女の存在は異端だった。魔族の間では有名になってしまっているが、神には知れ渡っていない。
彼の気配がさらに近づき、止まった。不思議な高揚感を覚えながら、彼女はやおら振り返った。頭の上で一本に結わえた髪が、わずかに音を立てながら肩をかすめていく。
「ようやく来たな、雇い主さん」
口元に悪戯っぽい笑みをたたえて、彼女は手紙を白い封筒へと戻した。テキアの恰好をしたままの彼は、当主代理としての顔を崩さずに静かに立っている。この風景に溶け込まぬ黒の上着が、穏やかな風に煽られて草を撫でた。
「待っていたのか?」
「ああ、絶対来るだろうと思って」
素直に答えると、彼は苦笑を漏らして切れ長の瞳を細めた。そして上着の襟を正すと、小さく息を吐く。呆れているわけでも驚いているわけでもない。ただ諦念の嘆息にも近いのか、やはりかと言いたげな様子だった。もう演技の必要がなくなった彼女は、“普段”通りの不敵な微笑を浮かべる。
彼とのやりとりは楽しかった。そしてこの瞬間が、ずっと楽しみだった。利用されていると気づきながらも知らぬ振りをしていたわかれば、彼は何と言うだろうか? 幹にもたれかかったまま頭だけを彼に向け、彼女は口を開く。
「聞きたいんだろう? われの正体」
率直に聞いてみると、彼は肩をすくめて首を縦に振った。隠し事は無意味だと諦めたようだ。もう、探り合う必要はない。魔族の動きが収まった今となっては、互いを利用する理由は何一つなかった。
また、人間が誰一人としていない場所で、取り繕う必要もなかった。街へと向かう道とは逆方向だから、元護衛が通りかかることもない。この先にあるのは鬱蒼とした森だけで、依頼料をもらった人間が選ぶ道ではなかった。だから彼女はここで待っていたのだ。
「そちらの方はわかっている、という顔だな」
彼は片方の口角だけ上げて、彼女を見下ろしてきた。どうやら珍しくも感情が顔に出ているらしい。はしゃぎすぎだなと反省しつつ、彼女は小さくうなずいた。
「うん、まあ。地球の神だろうな、くらいはわかっている」
「十分だな」
「魔族にも全く気取られない神なんて、地球出身ぐらいなものだろう? 簡単なことだよ」
偽ることなく口にすると、彼はもう一度苦笑しながら嘆息した。そう、魔族に正体を悟られずに動く神などまずいない。それが可能なのは相当高位の、実力を持った神だった。そしてそんな存在は現在のところ地球ぐらいにしかいない。
不意に、彼の纏う空気が変わった。笑みをたたえたまま顔を上げると、彼は静かに目を瞑った。するとその体を白い光が包み込み、瞬時に偽りを剥ぎ取っていく。神や魔族が姿を変える時に起きる現象だ。彼女も同じようなことが可能だが、使ったことは数える程しかない。
光が止むと、彼の姿は“元”に戻っていた。ゆったりとした薄緑色のローブに青い髪がよく映えている。聡明さを滲ませる調った顔立ちは、高位の神としては珍しくないものか。彼は自分の体を見下ろして、安堵したように息を吐き出した。
「変装、というのもなかなか面倒だな」
凝り固まった体をほぐすように、彼は首を回す。そして右の掌を開いたり閉じたりしながら、彼女へ双眸を向けてきた。しかし彼女と目が合った瞬間、何故か居たたまれなさそうに視線を逸らす。だからその瞳が青いことくらいしか、彼女には判別できなかった。
小首を傾げながら彼女は瞬きをした。本来の姿が気恥ずかしいというわけではないだろうから、妙な反応だ。しかしこのまま黙っていても説明は得られそうにない。彼女はまた頬をくすぐった髪をのけ、いつものように微笑した。
「だからわれはしないんだ」
「しかしあの男が生きているという風に装わなければ、意味がない。さすがにあのお嬢さん一人では、ファミィールをいきなり盛り立てることは不可能だろう」
「まあな」
彼は振り返ると遠くにあるファミィール家の屋敷を見た。彼女もそれに倣った。ここからではあれだけの規模の建物も随分と小さく見える。“テキア”がいないことには、まだ誰も気づいていないらしい。そこにある気は皆穏やかで、勝ち取った平和を噛みしめているようだった。
「結局お前は最後まで、シィラを演じていたわけだな。ご苦労なことだ」
すると突然彼女へと視線を戻して、彼は口の端を上げた。皮肉を言っているつもりではなさそうだが、ただ単純に褒めているとも思えない。大体、彼女は努力してシィラを演じているつもりはなかった。ただレーナという名前を出したくなかっただけ。そして魔族に気取られやすい口調を変えていただけだ。
容姿でさえ、彼女はほとんど弄っていなかった。本来の――十六歳くらいの見た目――では他の人間に怪しまれる可能性がある。だから少しだけ年齢を上げてはいた。が、それくらいとも言えた。ある程度気を隠してくれる白い上着もいつも通りだったから、服装でさえあまり変わらないだろう。
彼女は頬に人差し指を当てると、小さく息を吐いた。
「それはお前だって同じだろう? いや、これからもってことを考えれば、お前の方が気が長いよ。それにわれは普段も似たようなものだから、大して苦労はない」
「それも、レーナも演じていると?」
「うーん、そのようなものかな。生きていくのに都合のいい性格を作り上げていったら、それが地になった。何が本当の自分かなんて、今はよくわからないなあ」
彼女は笑いながらさらに深く幹へと背をあずけた。そして遠くの空を見上げ、自らの言葉を反芻する。そう、シィラが特別なわけではない。魔族のよく知るレーナとシィラには、ほとんど差がなかった。感情の波をできるだけ平坦にしながらただ目的を追い求めるところは、ほとんど変わりない。
しかし今の発言は失敗だったなと、彼女は胸中で反省した。声音に全てが漏れ出ていた。複雑なこの痛みは、彼ほどの実力者なら容易に感じ取ってしまうだろう。それは不快ではないが、意図したところでもなかった。咄嗟にでも視線を外したのは正解だ。高位の神というものは、大概負の感情にも共感しやすい。
「われはな、いや、我々はな。魔族の間では
「みせい……?」
このままではまずい。彼女はできるだけ軽い調子で、あっさり本題に入った。これがおそらく彼が一番知りたかったことだろう。双眸を青々とした空へ向けたまま、彼女はさらに説明を続ける。
「未完成で生物なのか物体なのかわからないもの、らしい。認めたくないのだろうな、この存在を」
今度は慎重に言葉を発したから、声音には何も表れていないはずだった。だがやはりまだ目は合わせられない。彼が一歩近づいてきても、彼女は一瞥もくれなかった。するとまた穏やかな風が吹き、巨木の葉をざわざわと揺らしていく。沈黙を打ち消してくれるそれに、彼女は密かに感謝した。
「認めたくない? 何故だ?」
「神の知識に魔族の技術でもって生まれた存在だからだ。しかも殺しても生きてる、ってあちらは思ってるだろうしなあ」
彼が息を呑むのがわかった。それも仕方がない。神と魔族の争いが続いて、もうどれくらいになるのか。その両者に繋がる存在があるなどとは、普通思わないだろう。
その事実に直面した魔族は彼女たちを認めようとしなかった。神の中では知る者はほとんどいない。彼がどんな反応をするかは、さすがの彼女も予想できなかった。
「ま、今はこうして魔族の企みを潰しまくっているわけだから、あいつらにとってはいい迷惑だよなあ」
彼女は苦笑混じりにそう言って、意を決すると再度彼を見上げた。いつもの調子で不敵に微笑むと、彼の瞳に納得の色があるのを見つける。それが何に対するものなのか、聞く気にはなれなかった。
彼の手がやおら伸びかけて、しかし途中で戻り幹に添えられる。やや戸惑ったように眉をひそめると、彼は静かに口を開いた。
「何故そんなことをする?」
彼の素朴な疑問を、彼女は胸中で繰り返した。確かに最も訝しく思うところかもしれない。彼女の事情を知る者がいたとしても、首を傾げるところだろう。返答を聞いても不思議がるかもしれない。しかし彼女にはそれ以外の理由が見あたらなかった。だからここはそのまま答えるしかない。
「みんなに幸せになって欲しいからさ」
「……は?」
案の定、彼は気の抜けた声を上げた。わけがわからないと言わんげにさらに眉根を寄せ、それでも何とか理解しようと努めているようだ。彼女は頭を傾けて、少しでも気持ちが伝わるようにと“両親”のことを思う。
「神と魔族の決戦を避けたいんだ、少なくとも今は。だから均衡を保ちたい。で、今は神の方が力が弱まってるから、魔族がさらに力をつけるのを阻止することになる。な、簡単な理屈だろう?」
自然と浮かんだ笑顔のまま見上げたというのに、彼は閉口した。何か言おうと口を開きかけても、その唇からは吐息しか漏れてこない。
彼の気が伝えてくるのは戸惑いだった。正とも負とも取りづらい複雑な葛藤のようなものが、その双眸にも見え隠れしている。何か問題発言でもしただろうかと、彼女はさらに首を傾げた。
「意味がわからないな。そんなことをする理由がない」
「だから幸せになって欲しいからだって」
しばらくして彼が口にしたのは、結局苦笑混じりの言葉で。彼女は少しだけ拗ねた口調で答えると、おもむろに立ち上がった。事情を理解して欲しいわけではない。わかって欲しいと懇願するつもりもない。だが伝えたいことがあった。
彼へと一歩近づき、彼女は幹に手を添えた。そしてその場を動く気配のない彼に向かって、覗き込むように距離を詰める。身長差がある分、見上げる角度はなかなか急だ。
すると今度は彼も目を逸らすことなく、真正面から視線が合った。青い瞳が探るように彼女を見つめている。“テキア”がよく、密かに向けていたものと同じだった。
沈黙の中を、か細い風の声が通りすぎていった。どちらにも言葉はない。静かに見つめ合ったまま、彼女はどうすれば上手く伝えられるかを考えた。彼に対して敵意など一つもないのだと、神に対して喧嘩を売るつもりはないのだと、それだけはどうしても伝えたい。
彼女は口元を緩めると、そっと幹に置かれていた彼の手に触れた。指先がかろうじて手の甲に触れるだけの、ささやかな行為。しかし互いの実力を考えれば、それは手の内を晒すことと同義だった。触れれば触れる分だけ、気を読むことは容易くなる。
「そのためなら別に、利用されてもかまわない」
囁くような彼女の声が、辺りに溶け込んだ。彼は目を逸らすこともせず、その言葉を聞いていた。動揺しないところをみると予想済みというところか。彼は表情を変えることなく、おもむろに口を開く。
「わかっていて利用されていた、と?」
「利用されることでわれが損するわけではない。別に問題ないだろう?」
「だが普通は気分を害するな」
「普通は、な。でもわれは普通じゃあないから」
彼女は即答すると再び悪戯っぽく笑った。微笑みはいつだって、彼女を彼女たらしめてくれる。迷いも躊躇いも全て封じ込め、皆の知るレーナを作り上げていた。一種の呪いのようなものだ。
「それにお前がいてくれた方がこちらも安心できたしな。お互い様だ」
そう、彼がいるからこそ彼女は動くことができた。彼には制限があることを知りつつも、それでも彼の存在に助けられていた。だから利用していたのは彼女も同じだ。何より彼が先に気づいてくれたからこそ、魔族が動いていると確信することができた。
二人は同じことをし、同じことをされていた。そうと知りつつ彼女は不快には思わなかった。似た者と話をするのは楽しく、たわいのないやりとりでさえ心弾む。これは久しぶりの感覚だった。もっとも彼がどう思っているかまでは、この至近距離からでも推し量れないが。
ほんのわずかだけ背伸びをすると、彼女はくつくつと笑いながら幹から手を離した。眉一つ動かさないが、彼がほっとしたのが何となくわかる。彼女の行動は意味がわからないと何度か言われたことがあった。それは神でも同じか。ただ好意を伝えたいだけなのだが、うまくいかないことが多い。
「おかしな奴だな」
「よく言われる」
悪戯っぽく肩をすくめると、彼と再び視線が合った。そして同時に苦笑が漏れた。こんな風に笑い合うのはどれくらいぶりのことだろうか? 彼女が記憶を探り始めると、彼が背を屈めてほんの少し顔を近づけてくる。それでも彼女は後退ることなく彼を見上げた。
「だが今のも全て嘘かもしれないだろう? 偽り続けるお前の言葉を信じるなど、普通はできない」
彼の言うことはもっともだった。誰もがそう思うことだろう。何が真実で何が偽りなのか、見抜くのは容易なことではない。彼女は小さくうなずくと、微笑みながら彼の鋭い視線を受け止めた。
「でも彼女は信じてくれた」
手紙のことを思いながら、彼女は頭を傾けた。最後までゼジッテリカはシィラを信用してくれた。正体に気づいても、シィラという存在が偽りであったと知っても、信頼してくれた。それは彼女にとってこの上なく幸せなことだった。疑心と猜疑の世界に生きている彼女にとっては、最大の賛辞に等しい。
「そうだな。あのお嬢さんはお前を信じていた」
「そしてお前も信じてくれる」
ついで挑戦的な言葉を、彼女は口にした。彼はまた閉口した。“テキア”の行動を見ていればわかることだ。
何より利用するというのは、そういうことだった。彼女の実力を信用し、彼女がゼジッテリカに危害を加えないと確信し、彼女が人間を見捨てないと思うからこそ利用するのだ。魔族ではないからといって、彼と利害が一致するとは限らないのだから。
「基本、言っていることに嘘はないよ。存在そのものが偽りみたいなものなんだ。喋ることくらい、真実の方がいいだろう?」
彼女はそう付け加えると、その場で体を反転させた。これ以上言うべきことは何もなかった。伝えられることは全て口にした。そうなると長居はしない方がいいだろう。心地よいやりとりに慣れるとまた一人は辛くなる。彼女は封筒を胸元に差し入れると、その場で軽く伸びをした。
「さーて、そろそろもう話はいいよな?」
「これからどこへ行くつもりだ?」
すぐに去ろうとした彼女の背中に降りかかったのは、予想外の問いかけだった。ゼジッテリカにテキアが必要なくなるまで、彼はここに留まるだろう。彼女は魔族の動きを潰すために、ここを離れる。二人の道が交わることは、少なくともしばらくはないはずだった。
彼女はうーんと小さく唸りながら頬に人差し指を当てた。彼の心境を想像しようにもいまいちピンとこない。となると素直に答えるのが一番だろうか。彼女はちらりと空を見上げる。
「そうだなあ、ここら一帯の星にも、まだ他に魔族の動きがあるし。とりあえずそれらを潰そうかなあと思う。あー、そろそろ
「あれはお前の仕業だったのか」
つぶやくように答えると、彼から呆れ混じりの言葉が放たれた。少しは噂になっているらしい。暇を見つけては情報収集のため、彼女は神界に潜り込んでいた。目当ては魔族に関する古い資料だからそれほどの被害ではなさそうだが、侵入されたという事実が重いのか。彼の耳には届いていたようだ。
「そう。別に隠すつもりもないんだが、いつもばれないんだよなあ」
「お前にかかればそうだろう」
首を傾げる彼女に、彼は笑いながらそう言った。普通は怒り出すところだと思うが、彼にとっては笑い話となるらしい。変なところも似ているなと考えながら、彼女は歩き出した。そうかなとぼやいた言葉は、緩やかな風に乗って流れていく。
「あ、そうだ」
しかし一つ、大事なことを忘れていた。彼女は歩みを止めて振り返ると、もう一度彼を見上げた。青い髪が風に吹かれて揺れ、葉がさざめく。何を言われるのかと身構える彼に彼女はまた微笑みかけた。
「名前」
「……名前?」
「お前の名前、教えてくれないか」
彼女の名前なら彼は知っているだろう。だが彼の名を彼女は知らない。もし道が交わることがあれば、その時名を知らないのは少々不便だった。いや、“もし”ではない。それがいつかはわからないが、そのうち交わることになるだろう。彼女はいずれ地球を訪れる。その時は彼も呼び戻されることになるはずだ。
彼女の視線を受けながら、彼はしばし思案した。何か裏があるのではと推し量っているというわけでもなさそうだが、予想外な申し出だったようだ。しかし彼が迷っている時間はそれほど長くなかった。かすかに口角を上げると、彼は口を開く。
「シリウスだ」
躊躇いのない眼差しが彼女へと向けられた。その名を刻み込むように心の中で繰り返し、彼女は相槌を打つ。
「わかった。じゃあシリウス、彼女をよろしく頼むな」
「ああ。しかしもう大丈夫だろう、彼女は」
「うん、そうだな。じゃあまた」
彼女は心底嬉しそうに微笑むと、踵を返し歩き始めた。ゼジッテリカはもう大丈夫だ。“テキア”が離れたその後も、ちゃんとやっていけるだろう。そう確信しているのが自分だけではないことに幸せを覚えながら、彼女は草の感触を楽しんだ。穏やかな風に吹かれて、長い黒髪が背中を撫でる。
ファミィール家は、ファラールは、もう大丈夫だ。
胸中でそう囁いて、彼女は精神を集中させた。途端に体を包み込む重力が消え、その存在が無に近い空間へと溶ける。あらゆる感覚が瞬時に失われた。
「任せたよ」
彼女の偽りの舞曲は終わった。あとは残された彼が締めくくってくれるだろう。
ファミィール家の今後を思いながら、彼女は次の景色が現れるのを待った。