ファラールの舞曲
番外編 彼と彼女の幻想曲-11
魔族たちにも限界が訪れていることに、“彼女”は気がついていた。
秘密裏にずっと進めてきた計画が、ここにきて『救世主』に打ち破られている。しかもその『救世主』をあぶり出そうという計画も、結局失敗に終わっていた。いつにもない焦りが、彼らを襲っているはずなのだ。
だからそろそろ彼らは最終手段に出るだろうと、彼女はそう踏んでいた。前回の戦いを思い起こせば、まず間違いない。焦りが苛立ちを生み、それは長年耐えてきた彼らの、冷静な判断力をも奪っていた。
「来るな」
薄雲に覆われた夜空を眺めて、彼女は独りごちた。神魔の落とし子の存在が頭をよぎった時、魔族はどう動くのか。それは今までの経験から想像できることだった。
潔く諦めるか、さらに時が来るのを待つか、それとも最後のあがきと強硬手段に出るか。選択肢は幾つかあるが、何故か最も無謀な手段に出てくる者が多く、それが彼女にはいささか不思議だった。
おそらくは魔族としての誇り故だろう。頼るべき者を失った今でも、彼らを支えているのはその思いだ。神々とは違うのだと、そう言わんばかりの態度は少々厄介だった。特に集団を統べようとする者の考えは、いつも彼女を困らせる。
大きな窓に背を向けて、彼女は視線を巡らせた。見慣れてしまったゼジッテリカの部屋には、以前は感じた寂しげな空気が、最早存在していない。大切な人形と共に眠るゼジッテリカは、安らかな寝息を立てていた。
人間の成長は、子どもの成長はなんと著しいことかと、彼女は日々思い知らされている。長い時を過ごさねばならない神や人間よりも、彼らの変化は凄まじかった。それは時には問題を引き起こすが、概して好ましい。
逆に変化を厭う者は、時間から取り残される。ほとんどの神や魔族は、既に置き去りにされていた。自身ではそうと気づいていないだけだ。いや、時を巻き戻そうと必死になっていると言うべきか。
彼女は微苦笑を浮かべると、軽く目を瞑った。そして上着の内から金の髪飾りを取り出す。物入れの役割を果たす、特殊な飾りだ。くの字を重ねたような形が特徴的で、中で一種の亜空間と繋がっている。彼女は意識を集中させると、そこから一本の短剣を取り出した。
「これが一番いいかな」
うっすらと目を開いて、彼女は頭を傾けた。左手には髪飾り、右手には華奢な短剣。髪飾りを懐に戻すと、彼女はその短剣をじっくりと眺めた。紋様が彫り込まれた鞘は、淡い月明かりを反射して鈍く光っている。彼女が持つのならばともかく、ゼジッテリカにはまだ大きいだろうか。彼女はそれを上に掲げた。
しかしこれがあれば、ある程度の技までなら弾くことができる。剣が生み出す結界が、ゼジッテリカを守ってくれる。つまり、戦場で彼女も動くことできた。
魔族が数を揃えてくるだろうことを考えれば、それははずせない要素だった。相手の数が多ければ多い程、『瞬殺』は意味をなす。巻き込まれただけの人間たちが、命を落とすことだけは最小限に食い止めたかった。
前もって短剣を準備しておいたのも、全てはそのためだ。護衛だらけのこの屋敷の中で、特殊な剣を作り出すのは不可能に近い。できることはできるのだが、ある程度気を隠したままでは無理だった。“彼”だけではなく、バンあたりにも気づかれてしまう。だが用意周到な性格が、こんな時にも役に立った。
短剣を見つめたまま、彼女は祈るような気持ちで呟く。
「少しでも、傷つく者が減りますように」
吐息が空気を揺らした。魔族が多ければ多い程、護衛たちの被害も増えていく。それがどこまで進むのかは、“彼”がどう動くのかにかかっていた。彼がずっと潜んだままでは、死者が出るのは免れ得ないだろう。
そっと短剣を下ろすと、彼女は口角を上げた。そしてそれを再び髪飾りへと仕舞い込み、頬へと落ちてきた前髪を払いのける。
「あいつ、どこまで動くかなあ」
この間は結界だけだった。バンがすぐ近くにいるためだろう。彼女の動きを制限するのはゼジッテリカの危険度であり、“彼”の動きを阻むのはバンの鋭さだった。だから皆の命は、その日のバンの行動に左右されると言っても過言ではない。
バンを引き離す策でも講じようかと、そう考える自分に彼女は苦笑した。妙な関係だなと、改めて感じざるを得ない瞬間だった。
そろそろ日が沈み始めるかという頃、ついに魔族たちが動き出した。それもいわゆる本陣だ。だが“彼”は全く慌てていなかった。既に準備は進めていたし、その旨を護衛たちにも伝えてある。またファラールへと向かっている魔族の数も、予想範囲内だった。今さら焦る理由は見あたらない。
彼は部屋で一人、ため息をついた。それでも全く気がかりがない、というわけではない。多くの護衛たちが動揺することだけは、どうにも避けられそうになかった。
魔族の総攻撃があると伝えてはいても、これだけの規模だとは思っていないだろう。おそらく先日の戦闘が、人間の知り得る最大規模のものだったはずだ。それが話にならない程の数など、想像もしたくないのが普通。彼自身は予想できていても、他の護衛もというわけではないのだ。
全ては『救世主』の存在故に。救世主を恐れるあまりに、魔族は尻尾を出した。そして全力で屋敷へと向かってくる。彼らは必死なのだ。
「とんでもない奴だな」
改めてそう実感し、“彼”は切れ長の瞳を細めた。だが役に立ってはくれている。これ以上の長期戦は骨が折れることを考えれば、“彼女”には感謝すべきだろう。正体はいまだ掴めていないが、少なくとも現時点では、敵でないことは確かだった。魔族は彼女を敵と認識している。かといって、彼の味方だと断定はできないが。
口の端を持ち上げると、彼は緩く瞼を閉じた。たった今、彼女が動き出した気配があった。ゼジッテリカを外へ連れ出す気だろう。その気がゼジッテリカのものを伴い、瞬く間に屋敷の外へと出ていく。
確かにゼジッテリカの部屋では、万が一の時に身動きが取りづらい。ひとたび戦闘が起きれば、そこはあっという間に足の踏み場もなくなる。それならば外の方がまだましだった。
もっとも、普通の護衛ならば危険だと判断するところだろう。屋敷を出ればいつどこから攻撃されるのか、人間には察知しがたい。しかし彼女はその実力に自信を持っているようだから、躊躇うことさえなかった。彼ももちろん、そこに異論を唱えるつもりはない。
彼女ならば、何があってもゼジッテリカを守り抜いてくれる。期待を裏切ることはない。そう思うからこそ、彼女の動きを阻むつもりは毛頭無かった。屋敷を飛び出したところでかまわない。もうじき魔族がこの星――ファラールへと到着するのだから、屋敷の中にこもることに利点はなかった。
彼は再び目を開くと、窓の外を見た。薄暗い空の中で、赤い点が幾つも瞬いている。魔族たちが転移の技を使ったのだ。とんでもない数だなと苦笑し、彼は窓枠に手をついた。顔を近づけば、夜間近な気配が硝子越しにも伝わってくる。
夕暮れ時の戦闘は、人間たちには不利なだけに気がかりだ。気を頼りに動けない者たちは、目が利きにくい時間帯は苦手だろう。それすら狙ってのことかと、彼は嘆息する。
「さて、私も行くとしようか」
バンもすぐに、ここへと駆けつけてくる。その視線をどう逸らしてやろうかと考えて、彼は眉根を寄せた。あれだけの規模の魔族が来たとなれば、護衛たちの被害は相当なものになるだろう。それを少しでも減らすためには、彼が動くより他なかった。
「矛盾してるな」
護衛されるべき者が、護衛を守ろうとしている。その滑稽さに苦笑して、彼は踵を返した。長い上着が翻り、ばさりと音を立てる。
偽りの舞台は、こんな所にも滑稽な構図を作り出す。だがそれもそう長くは続かないだろう。この戦いさえ終われば、護衛たちは解放だ。彼がその役割を終える日はまだまだ先だが、多くの技使いたちを解き放つことはできる。巻き込まれた人間たちを思い、苦い気持ちになることも減る。
そんな事を考えながら扉へ手をかけると、それは勢いよく開かれた。気でわかっていたことだが、バンの仕業だ。しかし今気がついた振りをして、彼は眼を見開いた。
部屋の前では予想通り、取っ手を握ったままのバンが、険しい顔でたたずんでいた。肩を上下させて息を整える様は、実に珍しい。彼が首を傾げると、バンは眼鏡の位置を正して口を開いた。
「テキア殿、無事で何よりです」
「ええ、私は大丈夫ですよ」
「魔物が、来ました」
「はい、そのようですね。今窓を見て確認したところです」
「とんでもない数ですぞ」
さすがのバンも、この大軍には驚きを隠せないようだった。その額ににじんだ汗を見やりながら、彼は神妙な顔でうなずく。
これで緊張の面もちに見えただろうか? この姿で表情を取り繕うというのは、なかなか面倒なことだった。元々表情豊かでないだけに、テキアを演じる時にも、それだけが気がかりなのだ。もっとも、本来のテキアも彼同様、あまり感情表現は豊かでなかったようだが。
「これは長い戦いになりそうですね」
彼はもう一度背後を振り返った。窓からは、やはり瞬く赤い光が見えた。いや、見えるどころかその数は増しているようだ。背後から、バンの感嘆とも悲嘆とも取れないため息が聞こえてくる。
「長い、で済めばいいんですがな」
バンの言葉はもっともだった。彼は小さくうなずいて、気を引き締めるようにほつれた髪を手で撫でつける。
開いた扉の向こうからは、屋敷内の騒然とした空気が伝わってくるかのようだった。それは長い長い舞曲の、前触れのようにも感じられた。