ファラールの舞曲

番外編 彼と彼女の幻想曲-6

 ここしばらくゼジッテリカが落ち込んでいることについて、彼は密かに悩んでいた。護衛殺しに収まる気配がないためだろう。屋敷内にもぎすぎすとした空気が流れ、それがさらにゼジッテリカの心を強ばらせているらしかった。
 いつも傍にはシィラがいるのだが、だからといって屋敷中の空気を変えることは不可能だ。それでもできるなら安心させてやりたい、気にかけて欲しくないと、彼はいつも思っていた。この事件そのものが魔族や神による争いの一環なのだ。また人間たちを巻き込んでいると思うと、どうしても心苦しく感じられる。
 だからといって魔族の企みを潰すためには、避けて通れない道もあった。ゼジッテリカのことばかり心配してもいられない。やることは山積みになっているのだ。そのためしばらく護衛の移動に悩まされいた彼は、今日になってようやく自由な時間を得ることができた。
 もちろん向かう先はゼジッテリカのところだった。少なくとも今のところシィラは、彼の邪魔になる行動を取ってはいない。そのためゼジッテリカについてはほぼ彼女に任せきりの状態だったが、そろそろ様子を見に行った方がいい頃合いだった。彼女が何者かわからない以上、油断は禁物だ。
「またゼジッテリカ様のところですか?」
 今ゼジッテリカは夕食を取っているはずだった。だからせめて一緒に食事をと思ったのだが、問題はこのバンという男だった。直接護衛であるため遠ざけるわけにはいかないのだが、ゼジッテリカはバンのことを苦手としている。しかもバンはシィラに興味を抱いている。彼としてはこの男を連れていくこと自体が、気苦労の種なのだ。
 彼は小さくうなずくと、バンを一瞥した。決して嫌いな性格ではないのだが、厄介ごとを抱えている時は傍にいて欲しくない相手だ。しかしそれを表に出すわけにもいかず、彼は乱れかけた髪を手櫛で整えてうなずいた。
「ええ、しばらく会っていませんからね。それにせっかく時間ができたのですから、たまには食事をと思いまして」
「ほう、水入らずというわけですな」
 彼が素直に答えれば、バンは頬を緩ませて楽しそうに笑った。実際はシィラもバンもいるわけだから、水入らずとはならないのだが。しかしそこをあえて指摘する気にもならず、彼は廊下をただ急いだ。
 本来の食堂は点検中のため、今ゼジッテリカたちは給仕用の食堂にいるはずだった。そこは扉や壁が薄く、護衛するには不適切な部屋だ。その扉が廊下の奥にちらりと見えて、彼は瞳を細めた。扉の前には数人の護衛がたたずんでいる。疲れ切っているのか、気怠そうな様子だった。
 けれども歩調を早めれば、護衛たちも二人の存在に気づいたようだった。慌てて姿勢を正す姿に内心で苦笑いしながら、彼は薄い微笑みを浮かべる。今やファミィール家のテキアという存在は、これだけの影響力を持っているのだ。
「テキア殿、お食事で?」
「ええ。中にゼジッテリカがいますよね?」
「はい、食事中でいらっしゃいます」
 護衛たちに確認を取ると、彼はゆっくりと扉を開けた。薄い割にあまり軽くない扉だ。材質のせいなのだろう。すると音がして気づいたのか、目を丸くしたゼジッテリカが彼を凝視していた。その食事の手はぴたりと止まっているどころか、スプーンは皿の上に置かれたままだ。
「テキア様」
 そんなゼジッテリカよりも早く、立ったままのシィラが彼の名を呼んだ。偽りだらけであるはずなのに、つい微笑み返してしまいたくなる笑顔。その誘惑に負けて頬を緩めると、彼は軽く頭を下げた。その途端にゼジッテリカの肩から力が抜け、ほんの少し口の端がつり上がるのが見える。
「食事中にすいません」
 だが彼に続いてバンが部屋へ入ってくると、ゼジッテリカの表情は見る間に凍り付いた。わかりやすすぎる反応だが、責める気にもなれない。今もきっと後ろでバンは、怪しい瞳でゼジッテリカたちを見ていることだろう。
「どうかなさったんですか? テキア様」
「たまにはゼジッテリカと食事を、と思いまして。ちょうど時間があきましたので」
「え? 本当っ!?」
 シィラに尋ねられて素直に答えると、再び目を見開いたゼジッテリカが立ち上がりかけた。それをシィラの手がそっと押しとどめている。だが揺れたテーブルの上では、皿が軽く音を立てていた。幸いにもスープはこぼれなかったが、危ないところだった。
 彼は二人へともう少し近づくと、顔を覗き込むように少し背を屈めた。彼自身もそうだがテキアもなかなかの長身だ。それに対してまだ子どものゼジッテリカは椅子に腰掛けているし、シィラも小柄だった。こうしないといつも見下ろしてばかりということになる。
「よろしいでしょうかね?」
「いいですよね? リカ様」
「え? あ、もちろんだよっ!」
 確認するシィラの言葉に、ゼジッテリカは勢いよく首を縦に振った。するとそれまで成り行きを見守っていた給仕の女性たちが、慌てた様子で支度を始める。じきに料理は出てくるだろう。またバンが余計なことを言い出さなければいいと、彼は胸中で祈るように唱えた。
 すぐに食事の準備が調うと、彼はゼジッテリカの前の席に着いた。その背後にバンがつく気配があって、ゼジッテリカの視線がテーブルの上を彷徨い始める。スプーンを持つ手もぎこちない動きで、緊張しているのは明らかだった。そんなゼジッテリカの斜め後ろに、シィラは静かにたたずんでいる。
「テキア殿はゼジッテリカ様が不安になってるのではと、心配なさってるのですよ」
 彼の食事が次々運ばれてくると、足音が消えて一瞬だけ静寂が訪れた。するとそれを見計らったように、バンの発言が室内に響く。言わなくてもいいことをと思うとため息が漏れ、彼は呆れた視線をバンへと向けた。
「バン殿、食事の席で余計なことは」
「おや、失礼しました。つい女性の方がいらっしゃると口が軽くなりますな」
 冷たく注意をしても、バンが意に介した様子はなかった。目の前ではゼジッテリカがひたすらスプーンを動かしている。しかし好きなスープのはずなのに、その中身はあまり減っていなかった。その様子を心配そうにシィラが見守っている。
「そうそう、シィラ殿」
 彼が食事の手を進めていると、バンはついでシィラへと話しかけた。沈黙が苦手なこの男は、話し相手として彼女を選んだということか。もめ事の気配を嗅ぎ取って、彼はさらにため息をつきたいのを堪えた。何が飛び出してくるか内心は戦々恐々だ。
「申し訳ありませんが先ほどの話、立ち聞きさせていただきました」
「先ほどの話、ですか?」
「薄い扉でして、耳の良い私には聞こえるんですよね。魔物についての話です」
 するとバンは、一番厄介な話題を持ち出してきた。それは彼らが食堂へ来る前に、彼女たちが話していたことだった。薄い扉越しの話は彼にも聞こえていたのだが、それはバンも同様だったらしい。
 聞かれてまずい話ではないが、突っ込まれると困る話ではあった。人間たちが魔物と呼ぶ存在――魔族については、あまりよく知られていない。それをどうやって手に入れたのかは、技使いであれば興味を示すものだった。無論彼女の正体を探る上で、彼自身にとっても有益な情報となる。
 だがそれを、バンが知るのはいただけなかった。魔族の企みを潰すまでは、彼女にはここに護衛としていてもらわなければならない。
「ああ、そのことですか。知り合いに詳しい方がいるので、その人に聞いたんです」
「ほお。それはずいぶん博識なご友人ですな」
「バン殿」
 だから仕方なく、楽しげなバンに向かって彼は強めに名前を呼んだ。声の中にやや冷たい響きが含まれたのは、致し方ないだろう。ちらりと横目で見れば、バンは片眉を上げながら眼鏡の位置を正していた。そのすくめられた肩からは嫌味くらいしか感じ取れない。
「これは申し訳ありませんでした。ゼジッテリカ様の前では穏便に、ですよね。では話題を変えましょうか。そうそうシィラ殿には恋人はいらっしゃらないのですか? まだお若い方のようにお見受けしますが」
 しかし次にバンが選んだ話題というのは、これまたとんでもないものだった。驚いたゼジッテリカは、スプーンを動かす手さえも止めてしまっている。いや、ゼジッテリカだけではない。食事の手が止まったのは彼も同じだった。
 この質問にどう反応するかで、彼女が神や魔族――もしくはその関係者――であるかどうかがわかると言っても過言ではなかった。この手の話題は神や魔族の間では、あえて触れないようにというのが暗黙の了解なのだ。
 特に神の間では、今もかなり根強く残っている一種の慣習だった。長く生きる彼らにとって、一度壊れた関係を修復すること程難しいものはない。だから全ての関係を曖昧にしておくのが、ある意味生き残り戦略のようなものだった。
 では彼女はどう答えるのか? 彼は不自然な体制のままで、もう一度背後を振り返った。視線の先ではいかにも愉快といった様子で、バンが口角を上げている。
「バ、バンさん?」
「あなたのような美しい方を、若い殿方たちが放っておくわけはないかと思いまして。まあ、わたくしはもうそれなりに年を取ってますが」
「は、はあ」
「実際のところはどうなのですか? ああ、女性にこういう話題は失礼でしたかね」
 聞いておきながら軽く笑ったバンは、細めた瞳を怪しく光らせた。一方聞かれたシィラは困惑顔で頬に手を当て、答えあぐねている様子だった。彼はスプーンを皿の上に置くと、落ち着けと心の中で何度か繰り返す。
「私は流れの技使いですから。ですからそのような決まった方、というのは特に」
「おや、それはもったいないですね」
「はあ」
 結局彼女は、無難に答えることにしたようだった。流れの技使いという表の顔を突き通すならば、納得されやすい理由だ。もっともバンは腑に落ちていないらしく、背後からは探るような気配が漂っていた。できるなら質問を続けるのは控えて欲しいが、そう簡単に諦めてくれるとは思えない。
「そういえばテキア殿も、決まった方がいらっしゃらないことで有名ですよね?」
 だが全てはぐらかされると観念したのか、バンはついで彼へと話の矛先を向けてきた。そろそろ食事が再開できるだろうかと考えていた彼は、再び手を止めて顔をしかめる。
 この手の話題が苦手なのは、神である彼も同様だった。また“テキア”も苦手としていたことを、彼は知っていた。その理由については、ファミィール家を見守り続けた彼だからこそ推し量れるもので。全てはゼジッテリカの母親が原因だった。テキアが彼女に淡い思いを抱いていたことは、その気からも視線からも明らかだったのだ。
 テキアが死ぬまで誰とも結婚しなかった理由は、おそらくそれだろう。ゼジッテリカに愛情を注いでいた理由にも関係しているかもしれないが、そこまでは彼にもわからなかった。
 しかし何にしろ、この場で明らかにできる話でもなかった。彼は苦笑を浮かべると、ゼジッテリカを視界の端に入れたままバンを見やる。
「家の再興がありますから、今はそれどころでは」
「しかし再興するならばやはりファミィール家を盛り立てるのも必要なのでは? あなたとゼジッテリカ様だけではやはり心許ない」
「それは、確かにそうですが」
 バンの言い分も、正論ではあった。ファミィール家の再興のためには人数も必要だ。そのためにはテキアが結婚するというのが手っ取り早いだろう。ゼジッテリカはまだ幼い故に、結婚を考えるのはまだ早い。
 けれども彼はテキアではないのだ。しかも神であるため、人間の子を作ることはできない。バンはとんでもない話題を投げかけてくれたということだ。この場をどう乗り切ろうか考えながら、彼は不快を露わにバンを見やった。
「その辺については、この件が終わったら考えます。今はこの命を守ることの方が大切ですから。それに守る対象を増やすのは、護衛の観点からも問題だと思ってます」
 テキアならばおそらくこの場でこういう態度に出る。そういう予想での返答だった。もちろん彼自身もやや腹立たし思いを抱いてはいた。バンにはほとほと困らせられている。もういい加減にしてくれという気分だった。シィラと腹の探り合いしているだけでも疲れるのに、次々ともめ事を運んでくるのにはまいる。
「ではシィラ殿はいかがですか?」
「……は?」
 それでもバンはめげなかった。いや、めげないどころか、わけのわからないことを言い出してきた。どうして突然彼女の名前がでてくるのかわからない。彼が怪訝そうに首を傾げると、視界の端でシィラが息を呑んでいるのが見えた。わかりやすく喫驚している様というのは珍しい。
「ちょっとバンさん、どうしてそこで私の名前が出てくるんですか!?」
「いや、特定の方がいらっしゃらないというので。それにシィラ殿なら護衛も必要ないかと思いましてね。どうです? 悪くない話だと思いますが」
 シィラは前へと一歩出て、慌ててバンへと抗議の声を上げた。一方バンは飄々とした顔をしているらしい。背後から伝わる気配には余裕があった。だがそうやって冷静に判断できたのは、そこまでだった。バンの提案の意味を飲み込んだ彼は、思わずむせそうになって息を止める。
 すると今のやりとりで、ゼジッテリカも全てを理解したらしい。瞳を見開いてバンやシィラ、彼の顔を見回していた。その動きはまるで小動物のようだ。
 ここでどう反応すれば正解なのか、彼には判断できなかった。女性を傷つけるような発言は、まず“テキア”はしない。かといってその提案を呑むこともしない。また今の発案がゼジッテリカに希望を与えているという事実も、彼には気にかかっていた。
 それは唯一シィラがここに残る可能性なのだ。いずれ護衛がいなくなることを、ゼジッテリカは恐れているようだった。今までの寂しい生活を考えればその気持ちはわかる。特に四六時中一緒にいるシィラがいなくなるのは、ゼジッテリカにとっては耐え難いことだろう。
 そう思うとますますどう答えるべきなのか、彼にはわからなくなった。胸の奥で小さな痛みがうずき、思わずため息が漏れる。彼は困り顔で視線を落とすと、ゼジッテリカの様子を密かにうかがった。予想通り、喜びと悲しみが入り交じったような複雑な顔をしている。
「バンさん、私のような者ではテキア様には不釣り合いですよ」
「おやそうですか? しかしゼジッテリカ様も懐かれてるようですし、その方が今後のためにもよいかと思ったのですが」
 彼よりも先に、反応したのはシィラだった。慌てて首を振る様は、流れの技使いとしては妥当なものだろう。ファミィール家に入るだなんて話は、まず予想外だ。もちろん密かに喜ぶ者も多いだろうが。
「考えておきます」
 結局彼は、テキアがよくそうしていたようにはぐらかすことに決めた。顔を上げてそう告げれば、背後からバンの驚きが『気』にて伝わってくる。一方シィラはというと、同じように目を丸くして彼を見上げていた。彼が神であるとおそらく彼女は確信している。だとすればこの対応は想定外のはずだった。
 いや、これが冗談であると見抜いている可能性もあった。気から感情を読みとる能力に関して、彼女がどの位置にいるのか彼は知らない。その能力が高ければ、喜怒哀楽はもちろん好悪の感情も筒抜けといってよかった。それが何に由来するものかまでは読みとれないが、ある程度のことはわかる。
「テ、テキア様?」
「そんなに驚かないでください、シィラ殿。冗談ですよ。この家のことをそう軽々と押しつけるつもりはありませんから」
「あ、あの……」
「いい話だと思ったんですがねえ」
 彼は彼女に微笑みかけた。彼女に対して抱いているものは、好悪でいえばおそらく好に近い。彼にもそういう自覚はあった。得体の知れない相手ではあるが、共通点が多いのだ。正体を偽るという面倒な手段を執っているところはもちろん、ゼジッテリカへの対応にもよく似た匂いを感じる。
 だとすれば彼女が戸惑うのもまた、わかる話ではあった。正体を探っている者から向けられた好意は、気味悪く思うくらいだろう。逆に彼女は全ての者に対して好の感情を発しているから、彼をどう捉えているかはわからなかった。
 もっとも何にせよ、今はゼジッテリカの動揺を静めるのが先決だった。ゼジッテリカを落ち着かせたくてやって来たのに、バンのせいでこれでは逆効果だ。彼は背後を振り返ると、バンへと鋭い視線を向けた。
「これ以上ぶしつけな質問は控えてください、バン殿」
「いやいや、申し訳ない。ちょっと気になっていたものでして。大丈夫ですよ、他言はしませんから」
「当たり前です。ゼジッテリカのことも考えてください」
 どうしてこうも事は上手く運ばないのか。そんな思いを胸に、彼は小さく嘆息した。この場で冷めただろう料理を口に運ぶのは、想像するだけでも憂鬱なことだった。

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