ファラールの舞曲

番外編 彼と彼女の幻想曲-4

 直接護衛になった彼女は、ゼジッテリカに早々と気に入られた。それは周囲の予想を、鮮やかに裏切っていた。
 彼女の噂はすぐに屋敷内に広まり、異端の護衛として知られるようになった。それは部屋の中にこもりきりでなかったことも関係しているだろう。彼女がゼジッテリカと歩く姿は、多くの護衛に見られていた。
 だが今屋敷の中を騒がせているのはそのことではない。“魔物”が攻めてきたからだ。神たちが魔族と呼ぶ者は、人間たちの間では魔物や魔獣などと呼ばれていた。人間を威嚇するために、獰猛な獣の姿を利用する魔族もいるためだろう。むしろそういった者たちの方が、人間の中では目立っているらしかった。
 今回の魔族襲来は、どうやら様子見の一環らしかった。戦闘はあっという間に片が付き、護衛の被害もほとんどないようだった。それがゼジッテリカにも何となく伝わったのか、隣を行く幼い少女には落ち着きが戻りつつある。そんな様を横目にしながら、彼女は廊下を歩いていた。
 二人が向かう先は、テキアの部屋だった。それはゼジッテリカの部屋からは一分程歩いたところにある。生前サキロイカが使用していた執務室の、隣にある大きな部屋だ。
 用件は至って単純で、ゼジッテリカの無事を知らせることだった。護衛が選ばれて最初の襲撃となれば、彼も気にかけていることだろう。内心がどうであれ、そういうそぶりは見せているはずだ。
 滑稽なことだなと彼女は思う。ゼジッテリカが無事なことは、『気』から彼だってわかっている。また彼が気にかけているのは彼女自身の行動だということも、彼女は知っているのだ。そんな芝居に付き合わされているゼジッテリカには、申し訳ない気分になる。
「ゼジッテリカ、無事だったんだな」
 テキアの部屋へと入った途端、彼は予想通りに立ち上がった。生成色の机の上に、先ほどまで手にしていた書類が放り投げ出される。その様子にゼジッテリカは驚いているようだった。テキアは冷静な人物として有名なくらいだから、予想外の行動だったのだろう。
 彼が早足でこちらへ近づいてくると、ゼジッテリカも小走りで彼のもとへと寄った。しかし彼女は扉の横で立ち止まったまま、一見微笑ましい二人の様子を見守っていた。顔に浮かんでいるのは微笑だが、胸の奥で傷がうずいたような感覚がする。
「うん! テキア叔父様も?」
「私はこの通り何でもないよ」
 膝を折った彼は、近づいてきたゼジッテリカの頭を優しく撫でた。その仕草からは何の偽りも感じ取れない。ゼジッテリカが嬉しそうなだけに、それは彼女にとっては安堵の材料となった。彼は本物のテキアではないが、ゼジッテリカのことを案じているのは同じらしい。彼の穏やかな気が、それを物語っていた。
「よかったっ!」
「心配していてくれたんだな」
 彼は優しく微笑んで、ゼジッテリカの体を抱き寄せた。それは唐突なことだった。顔は見えなくとも小さな背中から、ゼジッテリカの戸惑いが伝わってくる。抱擁など滅多にないことなのだろう。それでも次第に何か納得したのか、その体から少しずつ硬さが消えていった。
「テキア叔父様、ありがとう。シィラがいるから大丈夫だよ」
 彼の腕が離れると、ゼジッテリカはゆっくりと振り返った。青く輝く瞳が、真っ直ぐ彼女へと向けられた。壊れやすい程純粋で、それでいて愛おしい瞳だ。彼女はその視線を受け止めると、薄く微笑みかけた。
 偽ることへの痛みなど、もう昔から感じている。だから今さら自覚して悩むことでもない。むしろ今になって自己嫌悪するなど、馬鹿馬鹿しい話だった。選び取った道を後悔している場合ではないのだ。
「そうか」
 すると彼も立ち上がり、彼女の方へと双眸を向けてきた。その視線をも、彼女は目を逸らすことなく受け止めた。何度か繰り返された目線だけでの攻防だ。疑われていることは明白。その上でゼジッテリカを任されたことには驚いたが、試されていることも彼女は理解していた。
 彼女は神に敵対する意思はない。また少なくとも今のところは、神に不都合な行動を取るつもりもなかった。しかしそうは言っても、普通は信じてもらえない。それは何度も経験済みのことだった。怪しい奴は怪しい。得体の知れない奴を信用はしない。当たり前のことなのだ。
 だから彼女はいつも疑われ、怪しまれ、疎まれ続けてきた。そのことを不満に思いはしない。仕方のない反応だ。いや、何かあった時のことを考えれば正しい対処の仕方とも言えた。
 けれども彼はしばらく彼女を見つめた後、緩やかに破顔した。それは彼女が内心で一瞬困惑する程に、好意に満ち溢れていた。ゼジッテリカを害する意思がないことを、読みとられたのだろうか? 彼女はよくわからないままに、とりあえずいつも通り微笑み返す。
 色々な勘違いを誘発しやすい笑顔だが、こういう時には役に立った。また彼女にとっては、仮面を維持するための有効な手段でもあった。困った時に微笑む癖は、いかなる時にもごまかす手だての一つとなっている。
「ありがとう、シィラ殿」
「いいえ。それが私の仕事であり、願いですから」
「願い?」
 探られる前に言い放つ。情報を与えて混乱させる。それを実行した彼女は、不思議そうに聞くゼジッテリカへと双眸を向けた。彼より先に反応してくれたことには、内心で感謝の意を述べる。その方がはぐらかしやすいのだ。
「願いって、シィラ、何それ?」
「そうですねえ、それは秘密、ということにしておいてください。少なくとも今は」
「えー!? 何かずるいっ!」
 案の定、そう答えるとゼジッテリカは頬を膨らませた。わかりやすく子どもらしい反応は、つい笑い声が漏れる程に可愛らしい。すいませんリカ様と答えながら、彼女は頬に手を当てた。肩の震えにあわせて、顔を縁取る前髪も揺れている。
「もうー!」
 拳を振り上げたゼジッテリカは、さらに唇をとがらせた。しかしその続きが、小さな口から飛び出してくることはなかった。扉を叩くと同時に、部屋の外からテキアを呼ぶ声が聞こえてくる。やや低い男性の声だ。彼女はすぐに扉の側を離れ、壁際へと移動した。この声は、確かギャロッドのものだっただろうか?
 ついで誰かが入ってくることを察知したのか、慌ててゼジッテリカがシィラの傍へと移動してきた。テキアの近くでは邪魔になると思ったのだろう。彼女はゼジッテリカを一瞥すると、扉から隠すようにと軽く背に庇った。
「ギャロッド殿、入っても大丈夫ですよ」
 ゼジッテリカが逃げたのを確認して、彼がそう声をかける。すると扉が重たげに開き、そこからおもむろにギャロッドが顔を出した。灰色の鎧と額当てが目立つ、割と大柄な男だ。ギャロッドは彼女たちを横目にしながら、テキアの前へと進み出た。
「テキア殿もゼジッテリカ様もご無事で何よりです」
「ええ、私たちは平気ですよ。ギャロッド殿もご無事で何よりです」
「当たり前です。護衛が簡単にうち倒されてどうするんですか。しかもオレは隊長ですよテキア殿」
 テキアとしての彼の意識は、完全にギャロッドの方へと向けられたようだった。助かったなと内心思いながら、彼女はゼジッテリカへと目線を落とす。
 ゼジッテリカは怪訝そうな顔で、ギャロッドと彼のやりとりを見つめていた。ギャロッドのことは知らないのだろう。彼女は当人たちには聞こえないように、屋敷外警備の隊長だと軽く耳打ちした。
 そう、ギャロッドは屋敷外警備を担う者だ。魔族との戦闘が終わったので、その報告にやってきたのだろう。つまりもう外の混乱は収まったのだ。
「それもそうですね。しかし隊長が直々にやってきても大丈夫なのですか?」
「心配はいりませんよ、副隊長が外にいますから。彼は人付き合いは苦手で性格に難がありますが、腕は確かです」
「それは頼もしいですね」
 ギャロッドの言葉に、彼は切れ長の瞳を細めた。先ほど見せた穏やかな微笑みとは打って変わった、実力者としての強さを覗かせる顔だ。だからだろうか、ギャロッドが息を呑むと同時に室内に静寂が満ちた。その不穏な空気を感じ取ったのか、ゼジッテリカが彼女の上着の裾を掴んでくる。
「ですがギャロッド殿、これだけは肝に銘じていてください」
「はい、何でしょうか? テキア殿」
「我々を狙っているのは、一体何者ですか?」
「……魔物、ですが」
「そうです。ですから肝に銘じていてください。彼らが護衛に紛れていないとは、誰も言い切れないということを」
 彼の言葉で、部屋の空気は完全に凍り付いた。ギャロッドの体も強ばり、その口から引きつった声が漏れ聞こえてくる。
 牽制された。それはうかつなことはするなという、彼なりのわかりやすい意思表示だろう。自分自身の立場も危うくする可能性すらあるのに、彼はそれをあえて口にしたのだ。
 怯えたゼジッテリカが彼女の手を握ってくる。こうしてゼジッテリカが動揺することも、彼なら理解しているはずだ。だがそれを見越した上で、彼女がどう対応するのか試しているのだろう。やはり厄介な相手だなと再確認しながら、彼女はゼジッテリカの手を握り返した。
「つまり、その、テキア殿は、オレも疑っていると?」
 何とか落ち着こうと努力したのか、ギャロッドがかすれた声でそう聞き返した。“テキア”にそんなことを言われれば、普通の護衛は狼狽えるだろう。怒り出さなかった分、ギャロッドは冷静な方だと言うべきだった。
「いえ、その可能性があるというだけです。彼らの能力については私たちもよく知りませんので。ですからいつの間にか入れ替わってしまった、ということも考えられるんです。だから気を付けてくださいと」
 しかし“テキア”はおもむろに首を横に振った。その口角は、右だけが上がっていた。既に入れ替わっているという事実を知っている彼女としては、内心苦笑せざるを得ない。おそらく彼も似たような気分なのだろう。ただ何と入れ替わっているかだけが、大幅に違うのだ。
「ならば――」
 そこでギャロッドの視線が、ゆっくり彼女へと向けられた。疑念に溢れた眼差しが、若干の怯えを含みながら彼女を捉えた。彼の狙い通り、疑いが増したということだ。誘導成功といったところだろう。
「ならば一番注意しなくてはいけないのは、直接護衛の方では?」
「私を疑っておいでですか? ギャロッドさん」
 震えるゼジッテリカの手が、さらに強く彼女の手を握ってくる。そのことを意識しながら、彼女は微笑をたたえたままギャロッドを見返していた。わかりきっていた流れなだけに、別段驚きもしない。そもそも疑われることには慣れているのだ。今さら動揺しようもない。
「いえ、そういうわけでは。ただ狙う側の立場に立てば、あなたと入れ替わるのがもっとも有効な手かと思いまして」
 すると困惑した様子のギャロッドが、両手を挙げてひらひらとさせた。その口からは苦笑が漏れていて。首が横に振れられると、くすんだ銀髪がかすかに揺れた。触れ合った鎧も重々しい音を立てる。
「確かにそうですね。ですがもしそんなことがあれば、もうリカ様の命はありませんね。それにあなた方のも」
 彼女はそう告げると、子どもがよくそうするように小首を傾げた。実際、魔族が本気になれば人間の技使いは普通ひとたまりもない。それなのに魔族がこんな回りくどいやり方をしているのは、神に見つからないようにするためだった。いや、最近では彼女に目をつけられるのを恐れてのことか。
 魔族殺しなどとありがたくもない名前が噂されるようになって以来、下級魔族は彼女の来訪を恐れるようになった。作戦規模が大きければなお、慎重になった。今回のはいつにない程だが。
「あーそれもそうですね。すいません、試すようなことを口にして」
 しかし幸いなことに、ギャロッドはあっさりそう翻すと恥ずかしそうに頭を掻いた。もともと腹の探り合いをするのは苦手なタイプなのか。取り繕うところのない仕草に、彼女は笑い声を漏らした。ついで右手を口元に当てると、“テキア”の視線を感じながら瞳を細める。
「いいえ、それくらいの方が頼もしいです。ただリカ様が怯えてしまわれるので、そういう発言は場を選んでくださいね?」
 この一連の発端を作ったのは“テキア”なのだし、彼女もかなり鋭いことを口にした。しかし、それらはわかっていてしたこと。ギャロッドがそれを知らずに繰り返しては困ると、彼女は小さく釘を刺した。そして動揺しているゼジッテリカを、有無を言わさず抱き上げる。
 華奢な体格とはいえ、これくらいはできるのだ。彼女は微笑みながらゼジッテリカの顔を覗き込んだ。ゼジッテリカは慌てふためきながら、目を白黒とさせている。彼が抱擁した時の反応といい、こういったことには慣れていないのだろうか?
「リカ様、そろそろ夕食の時間だと思うのですが」
 もうこの場に残る必要はないだろう。そんな意図を込めて、彼女はそう言葉を放った。これからギャロッドは話の続きをするだろうし、さらに他の護衛がやってくる可能性もある。そこに幼い少女を巻き込む必要はなかった。するとゼジッテリカは素直に、嬉しそうに首を縦に振る。
「うん……食べる。シィラは一緒に食べてくれるの?」
「はい、リカ様がお望みであれば」
 彼女の答えに、ゼジッテリカは満足そうに笑った。年相応の表情に頬を緩めて、彼女は抱きかかえる腕に力を込める。
 疑われても怪しまれても悲しくはない。信用されなくともかまわない。けれども偽りの中放られた少女にだけは、心底笑っていて欲しかった。それが今唯一、心に抱く願いだった。

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