ファラールの舞曲
第八話 「思惑」 (前)
灰色の空が続く下に、一人の男がたたずんでいた。白にも見間違えそうな銀の髪は肩よりも長く、それが時折生温い風に揺れている。
彼の足下に広がるのは、荒野と呼ぶのに相応しいすすけた大地だった。そんな中だからこそなお、彼の空色の衣は艶やかに浮き立って見える。誰だろうとその場にいれば、目を向けずにはいられなかっただろう。しかし男以外に生きる者の姿はなく、ただ生温い空気の動きだけが彼を取り巻いていた。
ひゅんとまた、風が泣いた。それでも彼の瞳は真っ直ぐ、遠くを見据えていた。遙か彼方の見えない先をただじっと、何かをつぶやくこともなく見つめ続けている。その眼差しに迷いはなかった。衣服と同じ空色の双眸は、揺れることなく彼方だけを捉え続けている。
そのようにして一体どれくらいの時間が流れただろうか。そこへ足音を立てずに近づく、別の男の姿が現れた。黒い髪を腰まで伸ばした、背の高い男だ。銀髪の男と同じ空色の衣を身につけて、焦ることなく歩みを進めている。
彼は銀髪の男に近寄ると、そこで声を発することなく跪いた。目にも鮮やかな空色の衣が地に色を与える。銀髪の男は視線はそのままに、その薄い唇をやおら動かした。
「準備はできたのだな」
「はい」
「で、気づかれた様子は?」
「どちらに、ですか?」
「どちらにも、だ」
「それは五分五分といったところですね」
二人は短く言葉を交わした。それでも意思疎通は図れているらしく、うなずく銀髪の男に黒髪の男は苦笑してみせた。生温い風が、二人の間を通り抜ける。それにあわせて揃いの衣は舞うように揺れ、はたはたと心地よい音だけを耳に届けた。
まるで二人の周りだけが別世界のようだった。色あせた世界の中でも、そこだけが生を持って鮮やかに色づいている。その主の一人である銀髪の男は、しばし思案してからようやく振り返った。
「ではあちらの方はどうだ?」
「あちら? ああ、『あれ』のことですか」
「そうだ。あいつがどこにいるのか足取りは掴めているのか?」
「いえ、残念ながらそれは。現在も調べている最中です」
簡潔な返答に、銀髪の男は顔を歪めて小さく舌打ちした。しかし黒髪の男は縮こまることなく、ただ頭だけを垂れて言葉を続けている。
苛立つのは仕方ないが、しかしわかりきっていることでもあったからだ。『あれ』が姿をくらまそうと思えば、それを追いかけるのは容易いことではない。足取りが掴めていたのは『あれ』が意図してやっていたからだ。諦めるのなら今の内だと、そう宣告して回っているつもりなのだろう。
「では引き続き頼む」
「わかりました」
苛立った声で告げる銀髪の男に、黒髪の男はすぐさま答えた。計画のためにもっとも警戒しなければならない存在、それが何なのかを二人はよくわかっていた。今焦ってはならない。それではすぐに水の泡となってしまう。
再び風が吹き、彼らの髪を、衣服を揺らした。銀の髪の男はもう一度、遙か彼方へと双眸を向けた。
美味しいはずの料理もあまり進まず、ゼジッテリカはため息をついた。先ほどからこれの繰り返しだ。フォークを持つ手も重く感じられて、なかなか口元へと運ぶことができない。
「リカ様」
そして小さなため息の度に、隣のシィラは心配そうな視線を向けてきていた。既にシィラは簡単な食事をあっという間に済ませている。護衛としては当たり前のたしなみらしいが、今のゼジッテリカには絶対不可能な真似だった。
本当は、言いたいことがある。けれども胸の内を吐き出すのにも勇気がいり、どうしても唇が言葉を紡いではくれなかった。返事をするのも億劫なのだ。仕方なく白いテーブルクロスを見つめて、ゼジッテリカは再度嘆息した。やはり食べることはできそうにない。
「リカ様」
するとシィラの手が伸びてきて、頬へと落ちていた金髪を耳にかけた。その優しい手つきが記憶の底にある母親のそれを思い起こさせる。
だからだろうか、ゼジッテリカは安堵を感じてゆるゆると息を吐き出した。と同時に喉が震えて、口から言葉がこぼれ始める。それまで何度声を発しようとも出てきてくれなかったのに、驚く程あっさりとそれは飛び出してきた。
「ねえシィラ、私のせいで死んじゃった人がいるんだよね?」
重々しい現実を、ゼジッテリカは尋ねた。廊下を行く途中で小耳に挟んでしまったのだ。護衛の誰かが死んだのだと、殺されたのだと。それが魔物によるものなのかはわからないが、殺されたことは確からしかった。
自分を守るために誰かが死んだのだ。
その事実を眼前に叩き付けられたようで、ゼジッテリカの息は止まりそうになった。護衛を雇うという意味に、ようやく気づかされた気持ちになった。そこらの悪人を相手にする護衛ではないのだ。魔物から守るという、ある意味自殺に近い仕事を皆は引き受けている。
「それはリカ様のせいじゃないですよ」
シィラはすぐにそう答えた。その春の温もりを感じさせる声に、わずかだけ体から力が抜ける。まるで危険な薬のようだ。けれども、いや、だからこそ、この優しさに甘えすぎてはいけない気になる。手からこぼれ落ちそうになったナイフを握り治して、ゼジッテリカは顔を上げた。
「でも、私やテキア叔父様を守るために殺されたんでしょ?」
「それがお仕事、といったらおかしいかもしれませんが。それをわかって皆やってきていますからね。危険だとわかってなお、覚悟して集まった者たちなんです。だからそれをリカ様が気にすることはないんですよ」
「でも……」
シィラの言うことがわからないわけではなかった。危険だからこそ、その報酬としてとんでもない金額が用意されているのだ。皆それを理解しながらファミィール家にやってきている。しかしそれでも誰かが死ぬということは、ゼジッテリカには怖いことだった。母や父と同じように誰かが忽然と消えることを、当たり前だとして受け取ることはできない。
「護衛とはそういうものですよ。命が奪われるかもしれないリスクを覚悟の上で引き受けてるんですから」
再度シィラはそう言い聞かせてきた。そこでふと重大な事実に気がつき、一人衝撃を受けたゼジッテリカは息を呑む。そしてシィラの顔をおそるおそる見上げた。彼女はいつも通り、微笑みを浮かべながらゼジッテリカを見下ろしている。
「シィラも、だよね?」
「ええ、もちろんです。何にかえてもあなたをお守りしますよ」
シィラはうなずいたが、そういうことを聞きたいわけではなかった。ゼジッテリカは視線を彷徨わせながら、何をどう言えばいいのかわからず途方に暮れる。
「リカ様?」
「その、シィラも、お金がいっぱいもらえるからこんな危険な仕事してるんだよね?」
ゼジッテリカはおずおずと、胸にわいた疑問を口にした。皆が魔物相手の仕事を引き受けているのは、莫大な報酬が用意されているからだ。つまりリスクよりも得るものを重視したということなのだろう。だがその発想がどうもシィラには似合わなかった。シィラは優しすぎる天使みたいで、即物的なものとは結びつけにくい。
「ああ、そういう意味ですか。実は私の場合は違うんですよ」
「え?」
だからそう言われた時、ゼジッテリカの心は空気のように軽くなった。やはり違うのかと、願望が打ち砕かれなかった喜びに体が軽くなった。その黒い瞳を見上げれば、シィラは微苦笑しながら左手の指先を口元へと持っていく。
「本当は別の目的があるんですよ」
「ほ、本当?」
「ええ、実はお金は余るくらいあるんです。あまり使いませんから。でも魔族の企みを阻止したくて、ここにきたんです」
秘密ですよ、と付け加えてシィラは片目を瞑った。ゼジッテリカはこくりとうなずいて、どう喜びを表現しようか迷う。殺された人のことを考えれば、素直に喜んでいいのかわからない。けれども先ほどよりはずっと気持ちが軽かった。今なら食べ物も喉を通りそうな気がする。
「じゃあ、その目的のために私を守るの?」
「そうとも言えますね。でも違うとも言えます」
「え? わ、わかんないよそれ」
確認するように尋ねれば、予想に反してシィラはそう言葉を濁した。そこでごまかされると思っていなかったゼジッテリカは、目を丸くしてシィラの袖を掴む。乱暴に皿に置かれたナイフが音を立てた。するとシィラは困ったように微笑み、もう一度ゼジッテリカの髪を撫でてくる。
「守るのは手段でもあるんです。私はできるだけ多くの者が、不幸にならないようにと願っていますから」
そうシィラが言い終えた時だった。突然食堂の扉が音を立てて開き、乾いた足音が室内に響いた。ゼジッテリカは慌てて振り返ったが、シィラは落ち着いた様子で撫でていた手を下ろす。
「テキア叔父様っ」
食堂へ入ってきたのはテキアだった。喜びの声を上げたゼジッテリカは、しかし彼の背後にいる見知らぬ男を見て体を強ばらせる。
それは見たことがないどころか、怪しすぎる男だった。背はテキアより低いが、異様な圧迫感を覚える姿をしている。その奇妙な長衣は光を受けて輝く黄土色で、全体的にゆったりとした作りだった。また小さな眼鏡がやけに目を引く。しかもそれだけでも十分警戒すべきなのに、彼はその緑の瞳を光らせて薄く微笑んでいた。怪しいを通り越して怖い。
「リカ様」
知らぬ間に震えていた体を抱きしめると、シィラの手がそっとゼジッテリカの腕に添えられた。ゼジッテリカは首を縦に振って、その手に自身のものを重ねる。
「ゼジッテリカ、食事の邪魔をして悪いな」
近づいてきたテキアは、そう口にするとほんの少し瞳を細めた。強ばった顔で何とか首を横に振ったゼジッテリカは、シィラの手に触れたままテキアを真っ直ぐ見上げる。こうしているとちょっとだけ勇気がわいてきた。テキアが平気そうにしているのだから、後ろの男も怖くはないのだろう。変な恰好だが、きっと見た目だけなのだ。
「あの、テキア叔父様、その後ろの人は?」
「ああ、そう言えばゼジッテリカはまだ会っていなかったね。彼は私の直接護衛をしてくれているバン殿だ」
「初めまして、ゼジッテリカ様」
バンという名前らしいその変な男へ、ゼジッテリカは頑張って微笑みを向けてみた。直接護衛ということはゼジッテリカにとってのシィラと同じだ。つまりこれからずっとテキアとバンは一緒、ということになるのだろう。その度に怯えていたのでは話にならない。ここはたぶん、ファミィール家の人間として振る舞うべきところだ。
「どうも、初めまして」
そう答えて、ゼジッテリカはシィラの手を離した。バンから視線を逸らさないよう努力するのは、骨が折れることだった。