「二酸化炭素」

「二酸化炭素なんてなくなればいいのに」
 アイスを口にした俺は空をにらみつけた。雲の存在を無視するような太陽の光に、体中からどっと汗が噴き出る。
「どうしてー?」
 するととなりのベンチに腰掛けた真美姉ちゃんが首を傾げた。真美姉ちゃんの手にはバニラのアイス、俺のはミント味だ。自分で払うって言ったのに姉ちゃん無視して払っちゃうからさ。気合い入れていっぱいにしてきた財布が重たいままだ。
 あーあ、俺だってもうお小遣いちゃんと使えるのになあ。まだ子ども扱いするなんて。
「だって二酸化炭素のせいで温暖化になるんだろ? 授業で習ったし」
「でもなくなったら困るんだよ」
「何で?」
 俺は真美姉ちゃんを見上げた。背はもうずいぶん近くなったと思う。それでもまだちょっとだけ真美姉ちゃんの方が高かった。ベンチに腰掛ければ差はあんまり感じなくてすむんだけど。
「実君、酸性とかアルカリ性とか知ってる?」
「そんなの知ってるよ! 理科で習ったし、酸性雨の問題だって聞いた」
 真美姉ちゃんが俺の顔を覗き込むようにする。俺はちょっとだけ体を離して少し声を大きくした。真美姉ちゃんの黒い目がぱちぱちと瞬きして、ふわふわとした髪が揺れる。
「人間の体ってほとんど水でできてるってのは?」
「それもテレビで聞いたことある!」
「あのね、実君。じゃあどうして体は酸性になりすぎたりアルカリ性になりすぎたりしないんだと思う?」
「え?」
 俺は目を丸くして真美姉ちゃんを見つめた。姉ちゃんは何故だか嬉しそうに首を傾けて、赤い唇から笑い声をもらす。長いまつげがちょっとだけ震えてた。
「それはね、二酸化炭素で調節してるからなの。二酸化炭素だけじゃあないけど。だから二酸化炭素がなくなると人間は死んじゃうんだよ。なくなったら困るの」
 真美姉ちゃんの手が俺の頭に伸びてきて、切ったばかりの髪をわしゃわしゃと撫でた。くすぐったくて恥ずかしくて俺は身をよじる。もう低学年でもないのに、いつも姉ちゃんはこうだ。俺だってもうすぐ中学生なのに。
「なくなっていいものなんて、ほとんどないんだよ」
 言い聞かせるような声は、やっぱり俺を子ども扱いしたものだった。でも言い返せなかった。真美姉ちゃんの方がずっともっと高いところにいる気がする。近づいたと思ってたのに、また離れたような。
「あ、アイス溶けちゃうね。実君、食べないと」
「真美姉ちゃんもな」
 俺はミントのアイスにかぶりついた。真美姉ちゃんに背を向けるようにして、一気に口の中へと流し込む。
 なくなっていいものなんてない。この気持ちだってきっとそうだろう。
 俺はまた空をにらみつけた。

 

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