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灰色のレイニー

土佐岡マキ

 あ、と出そうになった声をすんでのところで押しとどめる。
 記憶の中の印象とは随分異なるが、たとえ一瞬でも間違えない。
 ――彼だ。
 ハルが覚えている彼は、いつも体格に合わない服を着ていたし、常に黒ずくめだった。今日の彼は、ぴったりしたサイズのジャケットと細身のパンツ姿で、美術館でも街中でも変に目立たない普通の格好だ。そのせいで気付くのが遅れた。
 どうしてこんなところで鉢合わせになるんだ。意味のない自問だった。問わずとも、相手の事情は大体想像がついたし、想像して一気に嫌な気分になった。
 大丈夫だ。目は合わなかった。相手に気付かれる前に、と踵を返す。
 見つかってはいけない。接触すると碌なことにならない。そう思えば思うほど、体の動きが硬くなる。
 ぎこちない動きで、ハルはようやく美術館の外に出た。

 しかし、うまく躱せたというのは、錯覚に過ぎなかったと思い知ることになる。
「よお、ハル。元気だったか」
 駅へ向かう途中で、背中から声がかかった。そう簡単には忘れられない声だ。特徴があるわけではない。ただ、付き合いの長さゆえに。
 ここで振り向くのは、相手の思惑に従うことになりはしないか。躊躇いを覚えたが、足を止めた以上、聞こえないふりはもうできない。それに、相手の様子が分からないほうが不利だ。
 そう結論づけて、体の向きを変える。数メートル先に、若い男が立っていた。
「ようやく会えて嬉しいよ」
 どの面下げてそんなことを、と言いかけてやめた。この場合、合わせる顔がないのは、彼からずっと逃げ続けていたハルの方だ。
 精一杯の怖い顔をして、真っ直ぐ相手を睨みつける。
 彼は怯むことなく、喉の奥でくぐもった笑いを漏らした。ハルの虚勢は見抜かれてしまっているのだろう。
「久しぶりだが……変わってないな、お前」
 頭から足の爪先まで、余すところなく見られている。
 不躾な視線に苛立ちを隠さず、ハルは吐き捨てるように、男の名を口にした。
アメ
 ハルの剣呑さに気付いていないかのような朗らかさで、雨は笑った。
「覚えてくれていて良かったよ。俺のことなんて、ハルはすっかり忘れてるんじゃないかって思っていたから」
 忘れられるわけがない。十年近く、奇妙な日々を共に過ごした相手だ。
 しかし、ただ懐かしむだけの関係でもいられない。
「あそこで何してたの」
 刺々しくなった言い方は、肩をすくめるだけで受け流された。

北の森に梟が鳴く

藤原湾

(しかし、このキョウという女は何なのだ)
 ジン民族について知ることは少ない。というより、アホトニクは北の奥深い森に居を構えているためか、他の国のことはあまり分からないのだ。だからこそというべきか、彼女がアホトニクの王族を知っており、言葉を流暢に操ることに戸惑った。しかしそのことより、サヴァには気になることがあった。
「……まさか女性の方が代表としてやってくるとは」
「嫁にでもして欲しいと差し出されたか、なんて思われたでしょうか」
 自虐的な音は含まないその台詞に、王族の館を案内するために先を歩いていたその足を止めて振り返る。静寂がしばし横たわった後、サヴァは一言だけ返す。
「――よく分かりましたな」
「図星でした? よくあることですけど、仮にも一族の代表としてやって来た者に失礼なお話ですね」
「これは手厳しい。その点は申し訳なかったと深く反省している。この後のもてなしは、お詫びも兼ねて盛大に行おう」
「ふふ、私は王にお会いして族長の意志を伝えられたらそれで良いのですけど」
 キョウは笑みを浮かべて、厳しいことを告げる。
 サヴァはこの女の相手には不足だと言われたことに、眉をひそめた。一国の王に直接面会しようとするなら、そちらも長が直接出向くべきなのではないのか。
「……私がなぜ、ジン民族の代表としてやって来たのか、不思議にお思いですね?」
 顔色を読むのが得意なのか、彼女がそう言うので頷いておく。彼女に誤魔化しはあまり通用しないだろう。
「族長は高齢で出向くことが叶いませんでした。また子供がおりませんので。私は族長の血縁なのです」
 血縁、という言葉に、どこの国も入り乱れた家族関係があるのかもしれないと考えた。アホトニクも当代の王が色好みのため、腐る程の王子と王女が住んでいる。サヴァは十八番目だが終わりではなくまだ下に腹違いも含めてたくさんの王子がいるのだ。
「もしかして、あえてなぜ女が来たと思っていますか?」
「……私達がそれほどまでに信じられぬかな、ジン民族の方々は」
 この女性は侮ってはいけないらしい。サヴァはそう考えて口を開く。

ラブラドライトの献身

志水了

「……おそらく皆が思っていることだが、今回の件、どうやらネズミがいるようだ……」
 半透明の磯山の顔が、険しさを増す。もし警視庁で本物と対面していたら、顔がひきつっていたかもしれない。
 だが、それほどに重大な事態だった。ネズミ、つまり内通者がどこかにいる、おそらくは、この部屋の中にもいるのだ。
 沈黙のさなか、口火を切ったのは日隈だった。
「ネズミがいる、というのは、警察内か、湾岸地区にか、どちらでしょう?」
「……現時点ではどちらにもあり得るとしか。警視庁内にいる可能性は高いでしょう……この計画を知っているのはサイバー犯罪対策課でもごく一部であることが、問題です」
「そうですか……」
 日隈の言葉は、重くのしかかる。今回、湾岸地区といくつかの企業とのあいだで湾岸地区の買収の計画があったことや、日隈の襲撃計画があったことを事前に知らされたのは磯山班とサイバー犯罪対策課でもごく一部だ。
 つまり、部屋の中に内通者がいる。
 光美はそっと椿原の顔をうかがっていた。今、この部屋にいるなかで、唯一の湾岸地区出身でない男。
 椿原は、ただ薄く笑みをのせているだけだった。

スケジュール・パズル

森村直也

 ――勝負だ。
 野津友広は受信を告げたメールソフトを終了する。作業用パソコンをスリープさせ、斜め前の席に座る岩藤の様子を見やる。岩藤はモニタに向かい涼しい顔で作業している。
 飲み終えた缶を取り上げ足元の荷物を持つ。挨拶して立ち去れば、野津の勝ち。
「お先しつ――」
「メール」
 涼しげな声が当然のように被された。口元が思わず引きつる。岩藤を見る。切れ長の細い目を眼鏡の奥で更に細めて、岩藤久子は艶やかに笑む。
 背筋を寒気が走って行く。
「いや、僕、もう帰ろうかと」
 鞄をちょいと持ち上げてみる。うん。岩藤は軽く頷く。じゃぁ。踵を返そうとして。
「メール、来てるの」
 岩藤は笑みを更に深めていく。
「今日、用事あるんで」
「私も今日は帰りたいの」
 前席で上目遣いの桜井は諦めろと目で諭す。左隣で集中したふりの田中は同情色を横顔に。
 それでも。
「すません!」
「野津、逃げるな!」
 立ち上がる気配、飛ぶ罵声。フロアの視線が集まってくる。
 わかっています想像出来ます件名は見ました荷物の受け取りなんです今日を外したら土曜日まで受け取れないんですだから今日だけは勘弁を!
 叫び声が心の中だけで響き渡る。
 岩藤の声と同僚達の視線を振り切り、野津はエレベーターへとダッシュする。

 逃げられた。
 岩藤久子は舌打ちしつつ椅子に座る。目の前の画面には、不穏な件名のメールがある。
 騒ぎが終わったと判ると集まった視線は三々五々散っていく。背中でそれを感じつつ、開いたメールの本文を読む。いちいち動じているほど可愛い神経は持ち合わせていない。
『旧システムの動作に関する確認依頼』
 維持管理体制に移行している旧システムへの問い合わせだ。担当は、岩藤と野津。そして製造プログラミングチームに数名。
 本文を読み進める。発生事象、想定動作、発生条件、発生確率。知らず奥歯を噛みしめる。
「旧側ですか?」
「そう」
 苦味入りの笑みを含んだ桜井の声は忌々しいが、この程度は日常でもある。
「頑張って下さいー」
 同情色の田中の声は軽く頷きやり過ごした。

青髭に捧げる狂詩曲

立田

 彼の妻のために演奏してもらいたいのだとオーナーは説明した。
「妻は病気だ」
 人前に姿をあらわせない。彼女は音楽が生きがいだったから、せめて聴かせてやりたいと思って。彼は重い内容をさらりと言った。この家は防音措置もしてあるし、隣の家ともじゅうぶんに距離があるから、演奏の音はおさえなくていいとも言った。
 私達は、私の仕事場となる部屋で向き合った。クローゼットというけれど、じゅうぶんに大きい。わたしのために、まんなかに椅子が置かれていたが、それ以外にはオーナー夫妻の衣類もなにもないがらんとした空間だった。
 彼はそこでいくつか私に約束させた。
 主寝室につながる扉を開けないこと。彼は、彼が家にいない日中にわたしが稼働するように設定するので、稼働時間内に準備と彼の妻のためにの演奏をして、時間になったらケースに戻ること。家の外に出ないこと。
「君が起きているのは一日三時間程度だから、演奏以外のことはほとんどできない。悪いね」
 彼はすまなそうに言った。「かまいません」とそもそも体力がない私は答えたものの、とっさに思いついて交換条件を出した。
「もうしわけないのですが、私の演奏のための支度を絶対に見ないでください」
「いいよ」
 オーナーであるうえに、しかも軍人であろうというのに、私などから要求をつきつけられても、彼はまったく気にする様子もなく引き受けた。ああ彼はほんとうに私には興味がないのだな、と私は安心した。
「演奏する曲のご希望はありますか?」
「きみが自由に決めてくれていいよ」

(RE)START

汐江アコ

 僕を警告するかのように、ピリリと携帯電話が鳴り始めた。夜なのに一体誰だろうか。
『お世話になります。小笹です。昼間はありがとうございました』
 数時間前に喫茶店で顔を合わせたばかりの新担当から入電だった。なぜ彼女からと思ったが、携帯番号を教えたんだったか。
「小笹さん。これからよろしくお願いします。それにしても、こんな時間にどうしましたか」
『先生、今はご自宅ですか?』
「ええ、まぁ」
『あの……できれば先生の仕事場を一度見てみたいと思いまして。……今から』
 僕は思わず「は?」と言ってしまった。“今から”とは、果たして今の時刻を彼女は認識しているだろうか。長針は二十二時を指そうとしているというのに。
「……時間的にあまり好ましくないですね。それに今はうちの中も荒れ地になっているし、見たって面白くないですし」
 片づけるということが得意ではない僕。近所から聞こえてくる、母親が子どもに叱る声。「片付けなさい」。まるで僕に言われているような気がしてしまう。その台詞が聞こえてくるといつも居心地が悪くなるのだ。
『構いません。見たいのは部屋ではなく、先生の仕事風景ですから』
「いや、今実は家にいなくて」
『家にいると先ほどおっしゃられたと思いますが』
 少し前の自分の迂闊さを恨む。
 先ほどの対面から、彼女は芯のある娘という予感はしていたけれど、当たりだ。その上冷静で、理詰めしてくる。いや、僕の嘘が下手なのはあるが。いずれにせよ、僕は経験則で分かる。元妻が似たようなタイプだった。着々と逃げ道を塞ぎ、追い込み、チェックメイトをしてくるのだ。
「……申し訳ないですが、日を改めて」
『いいえ、今日伺わせて下さい』
 最近の若者がわからない。僕の言語がおかしいのか。彼女の親は一体どういう教育をしたのだろう。
「そうは言っても無理なものは無理ですよ」
『そうですか。……仕方ありません』
 流石に観念したようだ。グイグイ来るのはいいけど、TPOをわきまえないとダメ。若いからというのは理由にならない。
「申し訳ないです。時間も遅いし、やはり今日は帰ったほうがいいですよ」
『それは結構です』
 うーん、彼女は一体どうしたいのか。僕の部屋を見たいんじゃないのか。いまいち彼女の考えが分からない。……ひょっとしたら彼女は異常な精神性を持っているのかもしれない。
 そんな僕の悪い予感は的中した。
『これからお邪魔しますから』

色利かし

藍間真珠

「本当ですか? 正直に仰ってください。婚約破談についてのお話だったのでは?」
 小首を傾げる彼女に、慌ててアサンドロは首を横に振った。彼女はただ心配しているだけなのか? それとも探りを入れるための一言なのか? 相手の真意を汲み取るのが商談時には重要となるが、彼はこれが苦手だ。ロガンツォの方が得意なようだった。
「違うんです。ああ、すみません。これは僕の独断なんです」
 嘘を吐く時は、本当のことを混ぜた方がよい。いつだったか、社内の誰かが口にしていたことをアサンドロは思い出す。
「ロガンツォのことが心配で。彼は……その、愛情表現が下手なので、気を悪くされる方も多くて。だからあなたがロガンツォのことをどう思ってらっしゃるのか、確かめたくて」
 申し訳なさそうに肩をすくめた彼は、我ながらなかなかの演技だと内心で自画自賛した。彼女が目を見張るのを視界に入れながら頭を垂れると、またクロボエの鳴き声がする。まるで何か警告しているように聞こえるのは、疑心暗鬼になっているせいだろうか。
「私、ロガンツォ様は、とても聡明な方だと思っています。そして誰に対しても公平ですし、偏見をお持ちでもない。お仕事に対しては大変貪欲でいらっしゃるようですが、誰かを陥れるだとか、恣意的に接するのはお嫌いですよね。すごく難しいことだと思うんです」
 悠然と相槌を打つ彼女から思いも寄らぬ言葉が飛び出し、彼は絶句した。ロガンツォのことをそのように表現する人に初めて会ったような気がする。
 いや、いつだったかロガンツォの姉と話をした時に、似たようなことを口にしていたのを思い出す。いまだにアサンドロにとっては理解できぬ点でもあった。女性にしかわからない何かがあるのか? ロガンツォは才能を見出すのは得意だが、人の気持ちをおもんばかるのは不得手なはずだ。
「そうでなければ、こんな田舎に住んでいる私などに声をかけません。でも今のを聞いて、ロガンツォ様が少し羨ましくなりました。アサンドロ様にそんなに思われているなんて」
 そこでふわりとグリィタは顔をほころばせた。突然気恥ずかしさがこみ上げ、アサンドロは視線を逸らす。当然だ。ロガンツォはアサンドロにとっての全てだ。居場所のなかったアサンドロに役割と志をくれた人だ。ロガンツォのためなら、アサンドロは何だってする。