ウィスタリア

第四章 第四話「愛しているのでしょう?」

 戦艦が穴の中に埋まっている限りはこれ以上の情報は得られないと、しばらくの観察の後にセレイラは判断した。そのためゼイツたちは教会へ戻ることにした。思ったよりも時間が経っていたらしい。日こそ沈んでいないが、横穴を出ると巨大な穴の底はかなり薄暗かった。雪の上を撫でる風も、穏やかではあるが冷たい。
 それでも帰り道、セレイラの足取りは軽かった。宇宙で何が起こっていたのか知り事態に押し流されようとしているゼイツたちとは違い、歩く彼女の背には喜びが満ち溢れている。陽光を浴び揺れる髪は、それを象徴するがごとく舞っていた。
 部屋への戻り方がわからないセレイラをラディアスが送り届けることになり、ゼイツはウルナと二人で奥の棟へ帰ることとなった。相変わらず人気のない廊下の空気は冷え冷えとしている。床、壁、窓、天井、あらゆる場所から放たれる冷気が、体温を奪っていく。ニーミナの春は遅いという。降り積もった雪の下から土が顔を出すのは、もう少し先のことらしい。
 何気なく回廊の真ん中で立ち止まり、ゼイツは窓を見やった。先日の火事の騒動が嘘のように静まりかえった銀世界で、再び雪がちらつき始めている。風がないためか、大きな雪片は緩やかに地上へ引き込まれているように見えた。
「また雪ね」
 ぽつりと、背後でウルナの声がした。肩越しに振り返ったゼイツは口角を上げる。同じく足を止めて外を見つめているウルナの横顔は、驚くほど穏やかだった。クロミオの無事を必死に祈っていた姿とはほど遠い。ようやく平穏が訪れようとしているのだと、そう信じたくなる姿だ。
「そうだな」
「慣れているはずなのに、それでもため息が出るわ」
「ウルナでも?」
「私たちは、いつも長い冬に怯えていたから。いつになったらこの雪は溶けるのかしらね」
 独りごちるウルナの声が白い壁で反響する。この建物が何に似ているのか、今になってゼイツの心に一つの答えが浮かんできた。雪だ。静かに淡々と世界へ浸透する姿も、温かく包み込むようでいて時に冷たく突き放す姿も、不意に圧倒的な存在感を示す姿も、どことなく似ている。
 遠い目をしているウルナを見つめながら、ゼイツは瞳を細めた。春を迎えたニーミナを肌で感じたいという衝動が、突然彼の内に湧き上がってきた。つぼみが花開くように生気を取り戻す人々を見てみたい。死んだように眠っている国が息を吹き返す姿を、この目に焼き付けてみたい。そんな願いを込めて、彼は静かに相槌を打つ。
「ああ、いつになるんだろうな」
「この冬は長くなりそうな気がするわ」
「そうなのか?」
「勘でしかないけれど。……セレイラさんたちは、春が来る前にここを発つのかしら?」
 しかし何気ない調子で続けたウルナの言葉が、ゼイツの胸に深く刺さった。何かが重くのしかかってきたようで、彼の心に波紋が生じる。セレイラがこの星を離れるということは、一つの決着がついた証だ。時が動き出す印だ。ゼイツは襟足に指を差し入れ、頭を傾けた。
 全ては連合の会議、その結果次第だった。恐慌状態から一変、交渉を持ち掛けられ狼狽える連合がいつ結論を出すのか、ゼイツには予測できない。そもそもセレイラは研究したいとはいうが、具体的には何をするつもりなのだろう? あの戦艦を掘り起こすのか? そうしたとして、次はどうするのか?
「どうだろうな」
「研究って、どうするつもりなんでしょうね。さすがに、戦艦を宇宙へ持って行くわけにはいかないでしょうし」
 ゼイツと同じことをウルナも考えのか。瞳をすがめた彼女の手が、そっと窓枠へと触れ、離れた。あの白い戦艦を運ぶことは、いくらセレイラでも無理だろう。自由に動かすことができるのならばともかく、あれだけの重量の物を運ぶのは困難だった。少なくとも、地球へと降り立ってきた灰色の宇宙船には不可能だろう。もっと大きな船が必要だ。
「そりゃあそうだな。埋もれてはいるけど、あの戦艦もなかなか大きそうだし」
「それでは、ずっとここにいるつもりなのかしら?」
「ずっと、ってのはないんじゃないか? 研究するにはそれなりの環境も必要なんだろうから、一度はイルーオとかいう星に戻らないと」
 言葉を交わしながら、ゼイツは徐々に不安がこみ上げてくるのを自覚した。ウルナが何を思っているのか朧気ながらも推測できる気がして、胸の奥に重い物が溜まっていく。まさかという言葉が脳裏を渦巻いた。
「環境……そうよね、この星にはろくな物がないものね」
 雪面を見つめるウルナが遠い。それでも、今にも消えてしまいそうな儚さはない。彼女の輪郭はこちら側にはっきりと立ち現れており、かつてのような危うさは見受けられなかった。しかし、ゼイツは手を伸ばすことができない。息を呑み、彼女の横顔を凝視するしかなかった。
「イルーオってどんな星なのかしら?」
「ウルナ、まさか」
「私、もう少し広い目で世界を見てみたいと思うのよ」
 ゆっくりと、ウルナはゼイツの方へ向き直った。柔らかな光をたたえた右の瞳が彼を見上げてくる。緩く波打つ黒い髪の陰で、口の端がかすかに上がった。彼の喉の奥を唾が落ちる。徐々に速まっていく鼓動が痛い。
「知らないことが多すぎたの。初めて、知りたいと思ったの。私、ずっと薄い膜の中から外を見ていた」
 ゼイツは目を逸らしたい衝動に駆られた。だがウルナは決して視線を外さなかった。この一連の事件が強い衝撃を与えたのは、彼だけではなかった。彼女の中にも何かが生じていることはわかっていた。しかしそれに直面した今、激しく動揺している自分自身に、彼は戸惑う。一体何に対して狼狽えているのかはわからない。ただ、平静ではいられない。
「思いこみって怖いのね。様々な国の人が集まるような会議でさえ、恐怖に陥ったら真実が見えなくなる。悪い方、悪い方へと考える。そうしなければ、万が一の時に動けないというのもあるのかもしれないけれど」
「ウルナ……」
「何かが見えていたら違ったのかもしれないと思うと、ますます知らないことが怖くなるの。そうやって誰かを恨むことが恐ろしくて、そうなってしまう自分が嫌で」
 ウルナはかすかに目を伏せた。それはカーパルに対する感情のことだろうか? それとも別のことも含んでいるのか? ゼイツは閉口した。本当は彼のことも恨んでいたのではと、改めて考える。この国へと潜入してきたよそ者のことを、彼女はずっとどう思ってきたのか? あえて聞かずにいたことが、今さらながら彼の心に一石を投じた。
「浅はかだったと思うのよ。叔母様のことだけじゃない。私、ずっと追いかけていたというのに、女神様のこともわかっていないんだって気がついて」
 やおら伸ばされたウルナの手が、冷気を纏う窓へと触れた。わずかに白く曇った硝子をなぞる指を、ゼイツは黙って目で追う。血の気の乏しい細い指先は、何も描かない。模様にもならない透明な軌跡の向こう側で、風が不意にひゅんと鳴いた。舞い上げられた白い雪片が、渦を描くように踊る。
 先日から思っていたことだが、以前と比べてやけに彼女は雄弁だ。何かが吹っ切れたのだろうか? それが彼にはやけに恐ろしいことのように思えてくる。彼はこんなところで足踏みしているというのに、彼女ばかりが前へと進んでいるようで、情けなさも覚えた。この例えようのない心細さは、一体何なのだろう。
「叔母様の言葉を聞いて、はっとしたの。叔母様はそれだけ女神様のことを理解しようとしていたんだって」
 窓硝子を伝う滴へと、ウルナは視線を向ける。ゼイツはため息を飲み込んだ。廊下で反響した彼女の声が、彼の鼓膜に染み込んだかのようだ。彼は襟足から手を離すと、密かに拳を握った。少しでもまともな言葉を返したくて、内に広がる波紋を押しとどめようと努力する。しかし、それでもなかなか彼の喉は震わない。
「ウィスタリア教にはね、教典はないの。この世界には、女神様の言葉さえ残されていない。女神様が何をしたのか、何を求めたのか、そこからその心に思いを馳せることしかできないのよ。そうやって女神様の愛に寄り添うことが私たちの努め。女神様の思いはこの世界を救い、それはいつか私たちの幸せに繋がる」
 ゼイツが言葉を継げずにいる中、ウルナはそう続けた。ウィスタリア教について、この時彼は初めて説明を受けた。そして何故今までこの教えの手がかりすら掴めなかったのかを、即座に理解した。彼が想像していたものとは違い、そこに確かな物は何一つなかった。あのおとぎ話と同じくらいに曖昧で、虚ろで、頼りない世界だ。それでも女神の実在を疑っていないから、ニーミナの民たちは信じている。
 だが彼もそれを馬鹿げた言い伝えだと笑って切り捨てることができなかった。あの薄紫色の豹を見てしまった今は、冗談にもできない。少なくとも彼の住むこの世界には、未知なる何かがまだ潜んでいた。ただ彼の手には届かないだけだ。
「私も、寄り添っているつもりだった。でも、まだまだだったの。女神様にはまだ遠い。きっとクロミオの方が近いわ。私はもう少し外を知らなければいけないのよ。女神様が愛しているのは、この国だけではないもの。私の知る世界は狭すぎる」
 ウルナは窓硝子からそっと手を離した。そしてもう一度ゼイツを見上げてきた。深い黒の瞳に見据えられて、彼は息を呑む。戸惑う彼の姿は、彼女の目にどう映っているのだろう? それがやけに気にかかった。
「ゼイツはニーミナに来てどう思った? やっぱり生まれ育った国とは違うでしょう?」
「それは、まあ」
「私も外を見たいの。だから叔母様が許してくれるのなら、イルーオに行ってみたいと思ってる」
 はっきりと、ウルナは言い切った。躊躇う素振りはなかった。懸念を肯定されたゼイツは、胸の重りが増したことを自覚する。彼女はただセレイラに協力したいだけではなかった。イルーオにさえ付いていく覚悟を持っていた。いや、願っているのか。彼は無理やり口角を上げようとしたが、歪な形にしかならなかった。それでもため息が漏れそうになるのだけはどうにか堪え、さらに強く拳を握る。
「――そうか」
「ゼイツも、そろそろジブルに戻った方がいいんじゃない? あなたはきっと、あなたが見たものを話す必要があるわ。いつまでもここに囚われていては駄目」
「ああ……それじゃあお別れだな」
 声に出すと息苦しさが増す。あまりに自身の声音が情けないことに気づき、ゼイツは失笑しそうになった。何が嫌なのかはわかった。単に離れがたいだけだ。ウルナが前を向いて一歩を踏みだそうとしているのに応援できないのは、そのせいだ。子どもみたいな感情だった。置いてけぼりにされるのを恐れる、か弱い少年のようだ。
「寂しいわね」
 けれどもウルナが思わぬことを口にするものだから、ゼイツはつい眼を見開いた。何か言わなければと思うのに声にならず、喉の奥で空気が震えるのみ。彼女は不思議そうに頭を傾けてから、小さく相槌を打った。鎖骨辺りで束ねられた髪が、緩やかに揺れる。
「でもまた会えるわ。きっと、会える。私はもっと大人になってあなたに会いたいのよ。曇った硝子を通してでなく、もう少し澄んだ目であなたを見てみたいの。駄目かしら?」
 ウルナが浮かべた柔らかい微笑は、ゼイツの胸の奥を掴んだ。そこには、あらゆる疑念も不安も払拭するだけの力があった。理屈などない。それなのに嘘偽りはないのだと、根拠もなく信じることができるだけの笑顔だった。彼は思わず破顔する。そんな風に言われてしまうと、駄目だとは答えられない。
 確かに、彼はもう一度ジブルと向き合うべき時を迎えたのかもしれない。祖国に裏切られたと投げやりになってばかりもいられない。何が待ち受けているのかはわからないが、居場所がないということもなさそうだった。彼が見た幻のような光景は、フェマーが証人となってくれるだろう。「信じろ」というう父――ザイヤの言葉を、今になって思い出す。ゼイツはもう少し、彼自身の可能性を信じてみてもいいのかもしれない。
「そうだな。俺ももう少し、大人にならないとな」
 ゼイツは首を縦に振った。一回り大きくなったウルナの目に少しでも成長した姿が映るように、彼も努力しなければ。そう考えると、待ち受けるだろう困難にも嫌気が差さなくなる気がした。ニーミナで荒波にもまれたことを思えば、どれも些細なことに違いない。
「大人に? ゼイツはもう十分に大人だと思うけれど」
「そ、そうか? 俺は何も決められない人間だ。決断しないまま狼狽える子どもさ」
「……決めることだけが最善じゃあないわ。本当は立ち止まった方がよかった時もあったのよ、きっと。それなのに、私は周りも見ずに歩き続けてしまった。振り返りもしなかった」
 ウルナは感慨深げに首を縦に振ると、わずかに右の瞳を細めた。彼女にはゼイツは大人に見えていたのだろうかと思うと、不思議な心地になった。単なる慰めの言葉とも思えない。誰もが自分自身のことを情けなく感じるのだろうか? 少しだけ、彼の気持ちも軽くなった。一歩を踏み出す勇気も湧いてくる。
「それじゃあ私は、叔母様のところへ行ってくるわ」
 一度大きく頷き、ウルナはさらに口の端を上げて踵を返した。ふわりと揺れた黒い髪、茶色い布、生成色のスカートを、ゼイツはなんとなしに眺める。遠ざかっていく靴音は軽やかだった。ゼイツは握りしめていた拳へと目を向け、苦笑を漏らす。
「俺は立ち止まりすぎてるから、たまには走った方がいいのかもな」
 彼はゆっくり手のひらから力を抜く。ウルナはこのままイルーオへと行ってしまうだろうという確信が、彼の内に芽生えていた。連合の会議で、おそらくセレイラの提案は呑まれるだろう。そしてきっとカーパルはウルナの申し出に否とは答えないだろう。結果は出ていないのに、ゼイツの中でそれは既に確固たる未来として存在していた。理由はわからない。
 ウルナが行くとしたら、クロミオも行くのだろうか? ラディアスはどうするのだろうか? ルネテーラは? ゼイツは指先の動きを確かめながら、一度瞳を閉じた。わからない。だがどうなるにせよ、ゼイツには関与できない話だ。彼はニーミナの人間ではない。彼の戦場はここにはない。
「そうだな、俺はジブルの人間だ」
 自らに言い聞かせるよう囁き、ゼイツは肩をすくめた。そしていつまでもここにいてはよくないと、背後を振り返った。まだ部屋の片づけが残っている。
 しかし、彼はすぐに歩き出すことができなかった。踏み出しかけた足が硬直し、吐き出しかけた息さえ飲み込まれる。白い廊下の向こうには、見知った姿があった。檸檬色のドレスを身を纏ったルネテーラが、両手を組んでたたずんでいた。
「ルネテーラ姫?」
 彼女がどうしてこんなところにいるのだろう? 勝手に外に飛び出してはまたウルナに怒られるのではないか? 疑問は幾つも頭に浮かんだが、それはどれも声にならなかった。思考も回らない。彼が立ち尽くしていると、ルネテーラは神妙な足取りで近づいてきた。反響する靴音の甲高さが、何故だか居心地の悪さを加速させる。
「ゼイツ」
「ルネテーラ姫、どうしてこんなところに?」
「クロミオが飛び出してしまって、それで慌てて」
 どうにかゼイツが問いかけると、ルネテーラはそう説明して眉根を寄せた。先日の火事でこりたと思ったら、またクロミオは好き勝手に走り回っているらしい。元気が有り余っているのはよいことだが、まだ落ち着ききっていないのにと思うと複雑だった。沈み込まれていても、それはそれで心配になるが。
 ゼイツが黙していると、すぐ傍までやってきたルネテーラは窓へと一瞥をくれた。煌めく銀糸の陰で、紫の瞳が瞬く。ウィスタリアの象徴たるその双眸に何が映っているのかと、彼も外を見やった。だが先ほどと何ら変哲のない風景が広がるばかりだ。
「あの、ゼイツは、国へ帰るのですか?」
 思わぬ質問に、ゼイツは体を強ばらせた。鼓動が止まったかのような錯覚に陥った。ウルナとの会話を聞いていたのだろうか? 彼は答えあぐねて瞠目し、恐る恐るルネテーラの方を振り返った。一体どの辺りから立ち聞きしていたのだろう? ウルナは気がついていなかったのか? 混乱しそうになる頭を、彼は必死に働かせた。ここにいて欲しいとルネテーラに言われたのはいつのことだったか。ずいぶんと昔の出来事のように感じられる。
「その、俺は……」
「それで、いいのですか?」
「いや、それは……」
「あなたはウルナのことを愛しているのですか?」
「――え?」
 しかし立て続けに予想もしなかったことを尋ねられ、ゼイツは気の抜けた声を漏らした。何を聞かれたのか、一瞬把握できなかった。いや、言葉として理解はできても、何故そんなことを問われたのかとますます混乱するばかりだった。この話の流れでどうしてそうなるのか? ウルナに言われたから帰るとでも思われたのか? どう返答すればよいのかと彼が視線を彷徨わせていると、ルネテーラは嘆息した。
「もしかして、とは思っていたのですが」
「あ、あの、いや、ルネテーラ姫?」
「自覚なさっていなかったのね」
 ルネテーラの呆れた声を、ゼイツは初めて耳にした。頭を傾けたルネテーラは、全てを見透かすような眼差しをゼイツへ向けてくる。頭を芯からぐらぐらと揺さぶられ、彼は何度も瞬きを繰り返した。改めて自分の行動を振り返ってみると、そう受け取られてもおかしくはないように思える。だが自分では、そのようには感じられない。
「愛しているのでしょう? あなたほどウルナを中心に物事を考えているのは、きっとラディアスくらいだわ」
 ゼイツが答えに窮していると、さらにルネテーラは追求してきた。ラディアスと思考や行動が似通ってきたことに関しては、ゼイツも自覚している。だが、だからといって話が飛躍しすぎだ。愛というからには、もう少し甘いものがあってもよいと思う。今の彼には、重苦しさしかない。
「これだけ言っても、まだわからないのですか?」
「わ、わからない……」
「さすがに呆れますわ。目の前のことしか見えていないのね。頭で考えすぎなんです」
 顔をしかめたルネテーラの様子は、怒っているように見えた。嘆いているようにも見えた。ゼイツはあの時のルネテーラの告白を思い出す。怒りの矛先としてはおかしい。こんな問い詰め方をしても、ルネテーラには何もいいことがない。では彼女は何故こんなことを口にしているのか?
「きっとあなた以外の人は気づいています。ラディアスたちはもちろん、ウルナも。わたくしは見えない振りをしたかったのだけれど、これでは無理そうですわね」
「あ、あの、ルネテーラ姫――」
「今は何も聞きたくありません。どれだけ言葉を重ねられても、きっと不愉快にしかなりませんわ。だから次に会う時までに考えていてください。あなたのその感情に、名前が付けられるのかどうか」
 あらゆる反論を封じられた気分で、ゼイツは唇を引き結んだ。ルネテーラの真っ直ぐとした視線が痛い。何か大切なものを忘れているような心地になる。どうすればいいのかと尋ねたたくとも尋ねられず、彼は目を逸らした。
「わたくしのこの気持ちも、本当は何なのか。もう嫌になってしまいますわ。ウルナは何を考えているのか……」
 もう一度、ルネテーラはため息を吐いた。ゼイツにとっては、ウルナだけでなくルネテーラも何を考えているのか不明だった。ただ悪意がないことは感じ取れる。そしておそらく、一番愚かなのは彼自身なのだろうということも。やはり一番子どもなのは彼だ。彼にだけ見えていない世界がある。
「本音を言えば、あなたにはここにいて欲しい。でもジブルに帰るべきだと、今の言葉を聞いて強く思いました。離れたらわかることもあるでしょう。時間も、距離も、私たちには必要なんです」
 ルネテーラは唇を噛んだ。ゼイツは相槌を打った。予期せぬ物事の連続に思考が流されていて、みんな気持ちの整理がついていないのかもしれない。何かが変わるのは恐ろしいことだ。『当たり前』が消え去るのは怖い。それでも欲しいものがあるなら、歩き出さなければならない時もある。
「そう、だな」
「わたくしだって、みんなに幸せになって欲しいもの。――全員が幸せになることって、難しいのですね」
 しみじみと吐き出されたルネテーラの呟きは、ゼイツの胸にも染みた。だからこそ試行錯誤しなければならないのだと、頭の隅で誰かが囁いていた。



 草原に暖かい風が吹き込んだ。頬をくすぐる長草から身を守るために、クロミオは右の腕を掲げる。春を通り越して夏が訪れたかのように思えた。突き刺さる空気の冷たさに震えることもない、強風に押し流されることもない。全身を包みこむ流れに身を任せたくなる。日差しさえも優しい。
「戻ってきたんだ」
 この感触は久しぶりだった。そしてここに来ることも久しぶりだった。腕から顔をのぞかせ辺りへ視線を彷徨わせると、見覚えのある光景が広がっている。夢の中で、いつも女神に会う場所だ。だが奥の棟で火事にあって以来、ここへやってくることはなくなっていた。もう来られないのかと諦めかけていただけに、喜びはひとしおだ。
「ねえ女神様」
 風が弱まるのを待ち、クロミオは歩き出した。何度もお礼を言おうと機会をうかがっていた。あの時、一人雪の中で倒れていた彼を助けてくれたのは女神であると、そう信じていた。だからありがとうと伝えたかった。きっと危険を冒して駆けつけてきてくれたのだろう。本来、女神はこの世に現れていい存在ではない。
「いるかな?」
 そのまま真っ直ぐ草原を抜けると、見慣れた湖が目に入った。だがそこには誰もいなかった。女神はいないし、薄紫色の豹も見かけない。落胆したクロミオは、それでもとぼとぼと畔を目指して歩いた。光を反射してきらめく水面を眺めていると、いつも少しだけ気分が浮き上がる。だから彼は湖畔に座り込んだ。そうして自分の姿を見下ろす。半袖の上衣に黒いズボンと、記憶にはない恰好だ。夏の装いだった。
「変なの。……女神様、今日も来ないのかな?」
 最後にここを訪れた時も、女神はいなかった。その事実を思い出してクロミオは瞳をすがめる。もしかしてもう二度と会えないのではないか? その可能性に行き着くと、全身が震えた。彼は座り込んだまま膝を抱え、顔を埋める。
「お礼を言いたかったのに」
 何度も助けてもらってそのままというのはよくない。そんなことで女神は気を悪くしたりしないだろうが、クロミオの気が済まない。ウルナにも怒られる。どうしたものかと呻いていると、再び暖かい風が吹き荒れ、クロミオの髪を、服を揺らした。膝を抱え込んだまま、彼はそれをやり過ごす。
 違和感を覚えたのは、風が止んだ時だった。背中に柔らかい何かが被さったことに気がつき、クロミオは顔を上げる。その途端、背後から細い腕が回された。
「女神、様?」
 背中から包み込むように抱きしめられ、クロミオは眼を見開いた。振り返ることはできないが、そこにいるのが女神であると彼は確信した。腕の細さ、白さ、頬に触れた髪の艶やかさは、まさしく女神のものだ。大体、この場に現れる者は女神しかいない。他の誰も、この湖を訪れることはできない。
「あのね、女神様、ありがとうっ」
 だから急いでクロミオは言いたかったことを口にした。また女神が消えてしまわないうちに伝えたかった。どうして助けてくれたのか、どうして気にかけてくれるのか、尋ねたいことは山ほどある。それでも物事には順番があった。後悔しないために、大事なことから口にしなければならない。
「何度も何度もありがとう。僕はもう大丈夫だから」
「本当に?」
 必死に言葉を継ぐと、静かな問いかけがクロミオの鼓膜を揺らした。久しぶりに耳にする女神の声だった。少女と呼んでも差し支えない高さの、それでも凛とした響きを感じさせる声が、彼の体に染み入る。半ば機械的に彼は首を縦に振った。
「うん、大丈夫」
「もう自分を、責めてはいけないよ」
 ふんわり体に染み込む優しい声音には、何故だか物悲しいものが含まれていて。急にクロミオは泣きたくなった。胸が締め付けられ、呼吸が速くなる。息が苦しい。この感覚は何だろう。危うげなウルナを見上げていた時と同じように、寂しさが募る。
「もう、消えたいと思ってはいけないよ」
「女神様――」
 泣いているのかと問いかけようとして、クロミオは唇を引き結んだ。尋ねてはいけない気がして、それでも何か言わずにはいられなくて、彼は言葉を探す。女神の悲しみが直に背中から伝わってくるようだった。
 どうして自分を助けてくれたのか、不意に彼には理解した。悲しかったからだ。泣きたかったからだ。女神の力は世界を震わせるが、逆に女神は世界からいつも震わされている。いつだったか誰かに教えてもらった言葉を、彼は思い出した。女神は世界に影響を与えると同時に、影響を受けていると。
「女神様は、一人なの?」
 たった一人きりで世界中の悲しみまで引き受けているのかと思うと、クロミオの胸は張り裂けそうになった。それは寂しい。苦しい。こうして彼を慰めてくれている彼女こそ、本当は誰よりも愛を必要としているのかもしれない。しかし、背中越しに伝わって来たのは否定だった。首が振られたのか、長い黒髪が彼の頬にも触れる。
「そうなんだ、よかった」
 クロミオはほっと息を吐いた。女神が一人でないのならば、少しは救われる。一緒にいてくれる人がいるのならば、辛くとも寂しくはない。もちろん、それでも彼が迷惑を掛けたことには変わりないだろう。きっと案じてくれていた。
「でも女神様、ごめんなさい。悲しませちゃってごめんなさい。僕のせいだよね。ごめんなさい」
 回された腕を、クロミオは両手で抱き抱えた。彼のものとそう変わらない華奢な手首を見下ろしていると、ますます泣くたくなってくる。こんな細い体で皆の祈りを引き受けているのだろうか? だがすぐに彼は思い直した。これではいけない。また心配かけてしまう。だから女神は彼から目を離せないに違いない。もっと、強くならなければ。
「だけど大丈夫、もう大丈夫だから。お姉ちゃんも、わかってくれたから」
 クロミオが一番不安に思っていたことを、ウルナも理解してくれた。だからもう恐れることはないのだと、彼は繰り返した。もう気に病むことはないと。案ずる必要はないと。すると安堵したようにするりと腕が解かれる。離したつもりもないのに暖かい感触が消え去り、彼は瞬きをした。まるで魔法だ。彼は慌てて座り込んだまま振り返る。
「女神様?」
 ほんのわずかだけ、女神の顔が視界に入った。白い肌に長い黒髪は想像の中と同じだ。しかしそんなことより、一瞬だけ見えた双眸の方が、クロミオの心を奪った。闇のような黒だった。どこまでも深く何かを見通すような黒い瞳は、やはり人間のものには思えない。あの瞳に見つめられたら息を止めてしまうかもしれない。だから女神は顔を見せないのだと、彼は確信した。ただ可愛らしい少女とは違う。作り物とも違う。生々しい美と異形めいた透明感が、そこには共在している。
 女神はすぐさまクロミオに背を向けた。あの豹と同じ薄紫色のスカートから伸びた脚が、軽く土を蹴る。白い衣服の上で揺れる長い黒髪を、クロミオはぼんやりと眺めた。流れる川を思わせる艶やかで真っ直ぐな髪を見つめていると、つい手を伸ばしたくなる。しかしそれ以上は指一本曲げることもできず、彼はかろうじて口だけを動かした。
「もう行っちゃうの?」
 二度と会えないのではという不安が、一気にこみ上げてきた。大丈夫だと告げた意味を、クロミオは今になって理解する。それはもう助けてくれなくてもいいということだ。女神と会わなくてもいいということだ。
「ねえ女神様」
「いや、いつでもどこかに」
 緩やかな風に乗って、かすかに女神の声が聞こえる。クロミオは瞳を瞬かせ、力を振り絞り大きく右手を挙げた。そうだ、女神はいつでもこの世界を見守っている。姿が見えなくともどこかにいる。そのことをすっかり忘れていた。こうして会っている時だけが全てではないのだと、頭から抜け落ちてしまっていた。
「うん!」
 掲げた手を精一杯振って、クロミオは頷いた。そして振り返る素振りのない後ろ姿へ向かって、もう一度心の中で「ありがとう」と叫んだ。

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