ウィスタリア

第一章 第七話「これ以上、失えない」

 ルネテーラと顔を合わせたことで事態が進展するかと思ったが、そううまくはいかなかった。その後のゼイツを待っていたのは、相変わらずの代わり映えのない生活だった。ウルナはルネテーラについてはあれ以上何も言わなかったし、どこで会ったのか、何故聖堂へ行ったのか尋ねてもこない。正直ゼイツは落胆したくらいだ。
 穴掘りという単調な仕事も変わらず続いている。遅々として進まない作業に苛立ちを覚えていたが、途中で『削岩機』と呼ばれる遺産が登場してから、見事な速度で穴が広がった。何故もっと早く出さなかったのかと文句を言いたくなる違いだ。今までの彼らの努力は何だったのだろうか。意味はなかったのではないか。
 だが穴が完成すれば、何かが始まる。少なくとも変化はある。禁忌の力についていまだ何も掴めていないが、動きがあれば手がかりにはなるはずだ。それを期待して彼は作業を続けた。仕事をこなし、クロミオの相手をし、ウルナの話を聞き、記憶喪失のふりをし続けた。堪えることも、待つことも慣れていた。
 そして、その日はやってきた。
 横穴が完成したのでもうこれ以上掘らなくてもいいと言われたのは、ゼイツがいつものように作業場へやってきた時だった。珍しくもよく晴れた、気持ちのよい朝だ。吹き荒ぶ風がなければ最高だっただろう。
 彼が巨大な穴の中へ降りると、そこには一人の男がいた。最初にこの場所へと案内してくれた初老の男だ。彼は「作業は終わった。もうここへ来る必要はない。今すぐに帰りなさい」とだけ告げてきた。その硬い声音に感じるものがあり、ゼイツは大きく頷くと立ち去る振りをする。
 隠れる場所のめどはあったし、幸いにも乾いた風が砂を巻き上げ視界は不良だった。男の視線が逸れたのを確認しながら、のんびりとゼイツは歩く。できる限り足音を立てないよう、呑気に見えるよう、違和感を抱かれないよう向かい風に時折足を止めたりなどして、彼は機会を見計らった。
 道具置き場の隅には、幾つか隙間があった。男がこちらを見ていないことを再度確かめ、ゼイツはその隙間の一つに身を滑り込ませる。そして息を潜めた。男が「今すぐに」と強調したところをみると、おそらく今日中にここで何かが行われるに違いない。そう確信してゼイツは隠れて待つことにした。
 しばらくはゼイツと同じように仕事のためにやってくる者たちがいた。彼らは皆ゼイツと同じことを言われたらしく、おとなしく穴の向こうへと帰って行った。
 そういったやりとりが何度行われただろう? 数えるのに飽きてきた頃、初老の男が動き出す気配があった。声は聞こえなかったが、蹴散らされた小石が転がり、砂利を踏む音と共に近づいてくる。息を殺して、ゼイツはそれらが過ぎ去るのを待った。馴染んだ土の匂い、金属の臭いに包まれながら、じっと身を潜める。
 男はゼイツには気づかないまま、穴を出る道を上り始めたようだった。やがて足音は聞こえなくなり、ただ風の唸り声だけが辺りを満たしていく。速まった鼓動を意識すると、耳鳴りがした。喉の奥が詰まる。
 それからしばらく、動きはなかった。誰も横穴へと近づいては来なかった。巨大な穴の底へと差し込む日差しの強さで、時間を推し量ることしかできない。今日は雲がほとんどないのか、燦々とした陽光が辺りを照らしているようだった。ゼイツの位置からでも、深い穴を焼かんばかりに陽が差し込んでいるのがわかる。道具置き場に隠れていなければ、その熱によって彼も炙られていたことだろう。
 風も次第に弱まっていき、痛々しい静寂が辺りを覆い始めた。時折微風が砂を巻き上げることはあるが、それだけだった。鼓動が、呼吸が全ての音であるかのように思えて、妙な心地になる。唾を飲み込む度に、それが体に響くのさえ耳に障った。
 喉が渇き、ひりひりと痛む。唇を噛むと血の味が滲む。空腹を訴える体を無視して、彼はひたすらその場で待った。ニーミナへと辿り着く前、食料を心配しながら歩き続けていた頃は、この程度の飢餓は大した問題ではなかった。教会に住むようになって緩みきっていたのだろうと、挫けそうになる心を叱咤激励する。
 やがて日は傾き、次第に薄暗さが広がった。まだ夕闇が迫るには早いはずだが、陽の光が穴の奥へ届かなくなったためだろう。濃い影が地を覆って、焼かれそうになっていた土が徐々に冷えていく。日陰に身を潜めていた虫が、どこからともなく這いずり出てくる。その様を彼はじっと眺めていた。
 人の気配を感じたのは、ちょうどその頃だった。まず見えたのは見知らぬ男の足だった。それが横穴の方へと向かっていくのを確認して、ゼイツは息を呑む。後を追いたい衝動に駆られた。だがまだ焦る段階ではないと自らに言い聞かせ、その場にとどまる。男は一人とは限らない。いや、『何か』が起こるのならば、もっといると考えた方がいいだろう。
 次に現れたのは数人の男女だった。彼らは何やら深刻な話をしているらしく、声を潜めて言葉を交わしていた。さざ波のような会話と共に流れていく空気を、ゼイツは肌で感じる。熱を失った微風が辺りの砂を撫で、不快な音を立てた。
 それから、しばらくは誰もやってこなかった。横穴から出てくる者もいなかった。ただ予感を伴った不穏な気配だけが、彼にも感じられる。
 今、一体あの横穴で何が行われているのだろう? もう研究は始まっているのか? そろそろ外へ出ても大丈夫だろうかと、彼は考え始める。焦る気持ちが抑えきれなくなり、息を潜めるのが辛くなった。もう喉の渇きも空腹も感じない。ただ得体の知れない飢餓感だけが、腹の奥底で渦巻いている。
 恐る恐る、古びた削岩機の陰から彼は顔を出した。その途端、信じられないものが目に入った。ウルナの横顔だ。幻ではないかと瞬きをしたが、それが消え去ることはない。彼は瞠目した。どうして彼女がここにいるのだろう? 予想外だ。
 ウルナの前を歩いているのはまだ子どもと呼んでもよい小柄な少女で、奇怪な鎧のようなものを身につけていた。もっとも、奇怪と言っても彼は本物の鎧など見たことがない。本の中の話だ。ただその白い鎧はどう考えても、少女の身を守るための物とは思えなかった。動きやすさを考慮したのだとしても隙間が多すぎる。あれでは何も防ぐことができない。
 ウルナはというと、普段とそれほど変わらぬ恰好だった。ただし色が違った。肩にかけた大判の布の下から見えたのは、薄紫色の長衣だった。一度だけ見た絹という布を思わせる輝きは、殺風景な穴の中では目立つ。これからここで何かが行われることは明白だった。少なくとも普段とは違う特別なものが、この先に待ち受けている。
 歩くウルナの後ろには、背の高い女性がいた。豊かな黒髪を頭上でまとめ、樺茶色の衣服で身を包んだ壮年の女だ。どことなくウルナと横顔が似ている。三人は口を開くことなく、黙々と横穴へ向かっているようだった。ゼイツの位置からではその表情ははっきりとはわからない。彼はその場で固まり、遠ざかっていく彼女たちの後ろ姿を見送った。
「どうして」
 声はほとんど漏れなかった。それは喉の中だけで響き、微風に紛れた。彼は固唾を呑むと、他にも誰か通りかかるのではと慌てて物陰に隠れる。早鐘のような鼓動がその存在を主張していた。胸が痛い。
 しばらくもしないうちに、また数人の男女が通り過ぎた。また少しすると、やはり何人かの男女が横穴へ向かったようだった。一体、あそこにどれだけの人が集まるのだろう? 気配だけでは正確な数がわからず、ゼイツは顔をしかめた。ルネテーラやラディアスもいるのだろうか? 仮初めの日常が崩れた音を聞いたような気がして、動悸がする。
 不意に、地響きが生じた。思わず削岩機にもたれかかったゼイツは、眼を見開いて辺りを見回した。まさか『暴発』とやらなのか? 今すぐ飛び出したい衝動に駆られながらも、彼は何とか踏みとどまり耳を澄ませる。もしそうであれば、横穴から誰かが飛び出してくるはずだ。それに騒々しい声も聞こえてくる。
 しかしいくら待てども、誰かが動く様子が見受けられなかった。それどころか風が止むと音一つ聞こえなくなり、不気味な静寂が押し寄せてきた。日もずいぶんと傾いている。まだ沈むには早そうだが、深い穴の底はかなり薄暗くなっていた。慣れた目だからこそ、どこに何があるのか判別がつく程度だ。
 意を決して、彼はまた辺りをうかがうことにした。慎重に気配を殺して、まずは削岩機の陰から顔を出す。そして音を立てないようにそこから這い出した。
 近くには誰もいなかった。名前も知らぬ虫が這っている他は、生き物の気配もない。ただゼイツたちが掘っていた横穴の方からは、かすかに明かりが漏れていた。彼は岩壁伝いに、そちらへと向かって歩き始める。
 底冷えするような風に運ばれて、誰かの声が聞こえる。注意深く足を進めながら、彼はまた耳をそばだてた。女の声だろうか? やや低めではあるが凛としたものが、異様な空気を揺らしている。
「ニーミナに幸あらんことを」
 かろうじて聞き取れたのは、そんな言葉だった。拳銃と短剣のありかを再度確認して、ゼイツは瞳をすがめる。これからここで『研究』が行われるのだろうか? 刺々しい緊張感のようなものが彼にも伝わってくる。
 ようやく穴の縁へと辿り着いた彼は、おもむろに中をのぞき込んだ。人が何十人いてもなお余裕あるその横穴は、削岩機なしでは作られなかっただろう規模だ。それは大きな広間と呼んでもよい、一つの場だった。今は十人程度の男女が、中にたたずんでいる。
 中央には奇怪な鎧を身に纏った少女がいた。か細い足には鎖が巻き付けられており、その先には金属でできたと思われる球が繋がっている。動きを制限するためとしか思えなかった。だがそんな少女の手には、いびつな形の短剣がある。短剣と言っても、彼女が持つにしてはやや大きかった。また、無理やり折り曲げたような刃は実戦向きには見えない。異様だ。
 少女から十歩ほど離れたところには、あの初老の男性がいた。男の手はぐったりとした四つ足動物の首を掴んでいる。子どもでも抱えることができる大きさで、ふさふさとした毛は遠目にもさわり心地が良さそうだった。しかし今はもう吠える気力もないらしく、時折悲しげな声を漏らすだけだ。
 鎧の少女より数歩後ろには、ウルナと壮麗の女性がいる。他の人間は彼女たちよりもさらに十歩は後ろを取り巻くように、無言でたたずんでいた。実に妙だ。誰も口を開くことなく、動くこともなく、ただ少女と初老の男を見つめているだけだった。
「ウルナ」
「はい、叔母様」
 沈黙を打ち破ったのは、ウルナの隣にいる女性だった。ウルナの返事によると、どうもその女性は叔母にあたるらしい。叔母がここにいるなどとは初耳だ。クロミオだって今まで口にしていなかった。ゼイツが困惑しながら様子をうかがっていると、ウルナの薄い唇がまた動いた。
「ニーミナに幸あらんことを」
 頷いたウルナは、やおら左目を覆う黒い布を手に取った。その下の『瞳』を、彼は初めて見た。闇を凝縮したような黒が、そこにはあった。黒々とした石のようにしか見えなかった。だがその石を、今は薄緑の光が覆っている。発光していると呼ぶには輝きが弱かった。だがそれが自然のものではないことは明らかだった。時折揺らぐように弱まり、また強まる薄緑の光を、彼は食い入るように見つめる。
「ウルナ、石が輝いているわ」
「はい、緑石が反応しています」
「今日こそ、今日こそ成功するに違いないのよ!」
 淡々と返したウルナに、ウルナの叔母は力強くそう告げる。生気のこもった、どことなく恐れを感じるような強い語調に、彼は思わず息を呑んだ。
 緑石とは一体何なのか? その輝きが意味することとは? だがそんな疑問よりも肌に触れる異様な空気の方が、彼にとっては驚異だった。緊張感溢れるただの静寂なはずなのに、明確な意志を持って突き刺さってくるものを感じる。
「カーパル様、そろそろ」
 拳を握ったウルナの叔母――カーパルというらしい――へと、後ろで控えていた男の一人が声をかけた。カーパルは首を縦に振ると、今度は前方にいる初老の男へと視線を向ける。
「始めなさい」
 端的な合図だった。声に感情は込められていなかった。しかし、目を疑うようなことが始まった。頷いた男が手を離すと、か細く泣いていた小さな生き物が地面へと落ちる。その腹を、男は思いきり踏みつけた。
「ミーズ!」
 剣を握ったまま少女が金切り声を上げる。だが一歩を踏み出そうとしても、足に巻き付けられた鎖が音を立てるだけだった。前へと伸びたやせ細った腕は空を掴むのみ。少女の目の前で、腹を踏まれた小さな動物は両足を震わせた。吠えることもない。
「やめてっ――!」
 懇願する少女の声が、穴の中で反響する。しかし男の行為を止めようとする者はいない。上着の内側から取り出したナイフを無表情に振り上げても、慌てる人すらいない。
 声なき悲鳴に、ゼイツは耳を塞ぎたくなった。男のナイフがまずは前足一本、次は後ろ足一本目掛けてと、決まり切った作業であるかのように単調に振り下ろされる。体を震わせた小さな生き物は、無抵抗にそれを受け入れていた。じわじわと溢れだした鮮血が、乾いた地面を染めていく。長い毛も濡らしていく。
 重い金属の球を引きずり、少女が一歩前へと出る。だが男の動きは止まらない。もう一度小さな腹を踏みつけると、幾つかの色が混じった液体がどこからともなく滲みだしてきた。いっそひと思いに殺してやれと叫びたいのを堪えて、ゼイツは唇を結ぶ。
 手を伸ばした少女の双眸から、涙がこぼれ落ちた。同時に握っていた歪な短剣が、うっすら白い光を纏い始める。少女の体を覆う奇怪な鎧も、ほんのわずかだが発光しているようだった。
「ミーズ――」
 踏みつけられた生き物が鳴くことはない。震えているのかどうかも、ゼイツからはわからなかった。だが、もう助からないだろうということは理解できた。男の行為を誰もが見守っている中で、少女だけがまた一歩、前へと進み出る。今にも折れそうな足首に血が滲んでいるのがゼイツにも見えた。球の引きずられた跡も痛々しい。
 男の最後の一振りは、か弱い生き物の首へと命中した。もう、少女は叫ばなかった。ナイフを引き抜いた途端、小さな体から真っ赤な血が湧き上がるようにこぼれだした。「ああ」とゼイツは口の中で独りごちる。腑の底がぎりぎりと痛み、酸味のある吐き気がこみ上げた。
 刹那、突然身を翻した少女は、カーパル目掛けて走り出した。いや、走り出そうとした。金属の球に邪魔をされて踏みとどまった細い体からは、ゼイツには怒りしか見えない。細かく震える両の手を前へ突き出すと、歪な短剣の光がさらに強まった。
「これで、あなたは」
 どこかを噛んだのか、少女の唇から血がしたたり落ちる。見開かれた眼からは、今も透明な涙が溢れ出している。視線だけで殺せそうな鮮烈な眼差しは、身じろぎもしないカーパルを捉えた。
「あなたは満足なのでしょうっ!?」
 妙な形に抉れた足で、少女は地を蹴った。と同時に手にしていた短剣を投げつけた。少女の力ではなしえないだろう速度で、それはカーパル目指して飛ぶ。
「なっ!?」
 ゼイツはかろうじて叫ぶのだけは堪えた。他に声を上げる者はいなかった。だが動きはあった。光を失った短剣に向かって、何も言わずにウルナが動く。歪な白い刃が、カーパルの前に立ちはだかったウルナの左肩に突き刺さった。ずり落ちた大きな布の下で、薄紫の衣に赤い染みが広がる。それは薄闇の中でもあまりに鮮やかで、一瞬綺麗だとさえ思ってしまうほどだ。
「カーパル様!」
 そこでようやく誰かが声を発した。けれどもウルナは悲鳴を上げるどころか呻きさえしなかった。短剣へと一瞥をくれてから、彼女は深々とため息をこぼす。まるで痛みなど感じていないかのように、かすかに眉をひそめたくらいだ。驚きもしていない。
「これで、満足などするはずがないんです」
 抑揚の乏しいウルナの声が、穴の中に響く。ガクガクと体を震わせて瞠目した少女に、ウルナはうっすら微笑んでみせたようだった。ゼイツは一歩、穴の中へと進む。動悸がする。耳の奥で脈打つような音が強く聞こえた。
「これでは足りないんです。それはあなたもわかるでしょう? 感じるのならば」
 ウルナは言葉を続ける。その後ろで顔を青ざめさせていたカーパルが、一歩後ずさった。ゼイツにはよろめいたようにも見えた。背後に控えていた者たちのうち二人の男が、そんなカーパルの肩を支える。だが誰もウルナに駆け寄る者はいない。刺されたのはウルナなのに。
「足りないんです、まだ。叫んでも、抵抗しても、恨んでも。まだ満足できないんです。――そして叔母様、剣だからと油断されては困ります」
 ゆらりと振り返ったウルナは、カーパルを見た。その向こうでは、膝を折った少女へ残りの男女が群がり始めていた。静寂に包まれていた穴が、にわかにざわめきを取り戻す。異様な光景をゼイツは呆然と眺めた。これは何なのだろう。
「……助かったわ、ウルナ」
「ちゃんと鎧を身につけてください、お願いします。叔母様は一人しかいないんです。研究で多くの者が命を失っていることは、知っていますよね?」
「ええ、わかっているわ」
「焦っても駄目です、叔母様。私たちはこれ以上、失えない」
 存在そのものが希薄になったかのように、ウルナが遠かった。大仰に頷いたカーパルへ、この場を離れるようにと男たちが促す。その向こうから突然、狂ったような少女の叫びがこだました。それは言葉をなしていない。人間の声とも思えない。ただ魂を揺さぶる悲痛な音が、空気を揺るがしていた。
 ゼイツはまた一歩前へと踏みだし、胸元を押さえた。考えがまとまらない。思考できない。しかし体は引き寄せられるように、前へ前へと進んだ。どうしてウルナは平気そうな顔で立っているのか。誰も彼女を心配しないのか。深々と突き刺さった短剣が、皆には見えないとでも言うのか?
 離れていくカーパルから視線をはずすと、ウルナは少女がいるだろう方を向いた。そして突然、その場に崩れ落ちた。あまりにも唐突だったため、一瞬ゼイツは自分の目を疑った。だが間違いない。それまでなんてことないような顔で立っていたウルナが、今は地に伏している。その衝撃で刃がさらに食い込んだのか、それとも抜けたのか。伏せた彼女の左肩で、赤い染みがさらに広がっている。
「――ウルナ!」
 思わず彼は声を上げた。渇いた喉から絞り出した。そうしてから最悪のことをしでかしたと自覚し、戦慄する。カーパルたちの眼差しが彼へと向けられたのがわかった。しかし、彼の足は止まらなかった。むしろ穴を出ようと歩き出していたカーパルたちへと向かい、地を蹴って走り出す。いや、彼が目指したのはウルナの方だ。
「誰かいるぞ!?」
 少女の慟哭が続く中、異変に気づいた者たちのざわめきが徐々に広がった。それでもゼイツが踵を返すことはなかった。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆