ウィスタリア

第一章 第三話「俺には一切期待するな」

 ニーミナへと潜入してから、一体何日が過ぎたのだろう? それまでの旅路を思うと、気が抜けるほど穏やかな時間が流れていた。仕事をする必要もなければ食を心配することもない。命を狙われることもない。傷を癒すことだけに専念する日々。
 ウルナは教会への滞在許可だけではなく、あてがわれる部屋、毎日の食事までも手配してくれた。ここまで親切にされると疑念と申し訳なさが入り交じり、ゼイツは複雑な気分になる。また、記憶を取り戻す手伝いだと、彼女はこの教会についても色々なことを教えてくれた。聞いたこと全てを頭に入れるだけで、彼は精一杯だった。
 この教会の仕組みは、彼の知るどの組織とも異なっている。ウィスタリア教の単なる大きな教会だと思っていたが、どうも違うらしいということが朧気にわかるだけだった。何のためにここまで大きくなっているのか、どういった人々がここにいるのか、掴みきれない。
 だが弱音を吐いてばかりもいられない。居場所が確保できたならば、できれば一人の時間は探索に使いたかった。禁忌の力について調べ、その真実へと近づくのだ。しかし現状では不可能に近かった。
 ウルナがいない時間、彼の側には大抵クロミオがいた。まだまだ子どもであるクロミオは、はじめこそ知らない人間を警戒していたものの、害がないとわかるや否や遊び相手と認定してきた。ゼイツにはたまったものではないが、無視することもできない。結局、調査に乗り出すこともできず、ただ教会への正式移住手続きだけが順調に進んでいた。
 その朝も彼は、あてがわれた小部屋で目を覚ました。左腕の痛みはずいぶんとよくなっている。痺れはまだ残っているが、日常生活範囲であれば手を動かすことも可能だった。化膿していなかったのも幸いだったのだろう。先日の『暴発』のせいで、どうも医者は忙しくてすぐにはかかれないらしい。そのおかげで、どうにか医者に診られることなくすんでいた。
 掲げた左手をじっと眺めてから、彼は身支度を始めた。あまり遅くなると、ウルナが朝食を持ってやってきてしまう。少なくとも拳銃と短剣は、彼女が来る前に身につけておきたかった。
 部屋にはベッドと棚、そしてテーブルと椅子がある。ウルナたちの部屋と似たような作りで、印象もほぼ一緒だった。違いは広さくらいだろうか。この部屋にいると、色を持つものが自分だけではないかという錯覚に陥る。
 余っているからとウルナが持ってきてくれた小さな鏡を、彼はそっと覗き込んだ。ややくすんだ金の髪も、深い緑の瞳も、焼けた肌も、記憶にあるものと変わらない。だがここにいると自分だけが場違いなほど鮮やかで、薄暗い世界から浮いているという感覚を拭いきれなかった。ウルナもクロミオも不思議そうにはしていないから、恐れから来る感覚だとは思うのだが。
「ゼイツ、起きてる?」
 彼が微苦笑を浮かべた瞬間、戸を叩く音が聞こえた。ウルナの声だ。彼は「ああ」と返事をして扉へと向かう。もう朝食を持ってきたのか。いつもより早い気がするなどと考えつつ、彼は取っ手を握った。今朝の冷え込みのせいか、昨日よりも冷たく感じられる。
「おはよう、ゼイツ」
 扉を開けると、廊下にいたのはウルナだけではなかった。その後ろにはクロミオと、そしてもう一人の男がいた。ほぼ黒に近い焦げ茶色の瞳には、鋭い光が宿っている。長い黒髪は頭の上で一本にまとめられており、それが灰色の上衣に触れて揺れていた。ぱっと見では薄暗い印象だが、視線の強さだけが際だっている。
「……おはよう」
「今日は彼を紹介しにきたの」
「ラディアスだ」
 ウルナが軽く後ろを振り返ると、男性――ラディアスが口を開いた。臓腑に響くような低い声に、ゼイツはただ首を縦に振る。彼は何者なのだろう? 眼差しから判断するに、どうも好意的ではないようだが。
「この中のこと、ゼイツもまだまだわからないところがたくさんあるでしょう? 私たちだけでは心許ないと思って。知り合いは多い方がいいものね。服も貸してくれるって」
 微笑むウルナとは裏腹に、ラディアスの表情は硬いままだった。ゼイツは「ありがとう」とだけ答えて、内心で嘆息する。厄介なことになった。傍にいるクロミオも笑顔なところを見ると、悪い人間ではないのだろう。しかし異端者であるゼイツにとってもそうとは限らない。
「ラディアスは古代品発掘班所属なの。ほら、ラディアス。彼がゼイツよ。よろしくね」
「ああ」
 ラディアスは言葉少なに頷いた。だが、どう考えても「よろしく」してくれる者の表情ではない。何故ウルナは彼を連れてきたのだろう? やはりゼイツのことを疑っているのか? それとも単なる好意なのか? ゼイツには判断できなかった。
「それじゃあゼイツ、ちょっと早いのだけれどクロミオをお願い。朝食をとって待っていてね。私は姫様のところへ行かないといけないし、ラディアスも今日は朝から仕事だから」
 そう告げてウルナが一歩後ろへ下がると、籠を抱えたクロミオが前へ進み出てきた。面倒を見ろということか。黒い瞳を輝かせたクロミオの頭を、ゼイツは軽く撫でた。ラディアスについても、クロミオなら何か喋ってくれるだろう。いつも話相手を欲しているようだし。
「わかった」
「よろしくね」
 笑顔で去っていくウルナと、そして無言で立ち去るラディアスの後ろ姿を、ゼイツは黙って見送った。会話を交わしている様子はないが、並んで歩く二人の距離から予想するに、それなりに親しいようだ。彼らが振り返る気配がないことを確認して、ゼイツはクロミオを部屋へと招き入れた。クロミオは当然とばかりに軽い足取りで中へ入ってくる。
「さて、朝食にするか」
「うん!」
 クロミオは嬉しそうに籠を掲げた。ウルナの弟であるクロミオは、八歳になったばかりのまだまだ遊びたい盛りだ。元気が有り余っているらしく、一つ一つの動きが軽やかでかつ大袈裟。食欲も旺盛だが、体格はウルナと同じく華奢だった。ゼイツはクロミオの持つ籠を取り上げると、中を覗き込む。
「今日は何なんだ?」
「アムノミのパン! お茶もあるよー」
「そうか。いつもありがとうな」
「それは僕じゃなくてお姉ちゃんに言ってね。お姉ちゃんが用意してるんだから」
 嬉しそうにするクロミオに、ゼイツは「ああ」とだけ答えた。何故ここまで親切にしてくれるのかという疑問は口にせずに、テーブルへと向かう。慣れ親しんだ様子で椅子に腰掛けたクロミオは、扉へと一瞥をくれてから籠に手を伸ばした。ふかふかのパンを小さな手のひらが掴む。
「あのさ、ゼイツさん」
「何だ?」
「ラディアスさんのこと悪く思わないでね」
 小さくちぎったパンを口に含む前に、クロミオはそう言う。息を呑んだゼイツは、それでも表情には出さずにお茶をコップへと注いだ。少しだけ欠けた透明なコップに、深い茶色の液体が満たされていく。
「ラディアスさん、昔からあんな感じなんだ。なかなか笑わないし」
「そうなのか。昔からってことは、長い付き合いなんだな」
「お姉ちゃんとラディアスさんは、小さい頃からの友達なんだ。僕が生まれる前からね」
 クロミオからラディアスの話を切り出してくれたおかげで、順調に情報を得ることができそうだった。どうも先ほどの態度はゼイツが原因ではないらしい。クロミオが生まれる前からとなると、いわゆる幼馴染みというやつか。それでは本当に好意で連れてきてくれたのだろうか? それともウルナに何か考えがあるのだろうか? 判然としない。
「素っ気ないんだけど、でも本当は優しいんだよ。本を読んで聞かせてくれたりもしたし。お姉ちゃん、神話の本だけはなかなか読んでくれなかったしさー」
 お腹がすいていたのか、クロミオは次々とパンをちぎっては口へ放り込んでいく。まずは喉を潤そうとお茶を飲んだゼイツは、籠の中をもう一度覗き込んだ。十分な量はあるから、足りなくなるということはなさそうだ。クロミオの表情をさっと盗み見て、ゼイツは気になった単語を繰り返す。
「神話の本?」
 そう聞いてぱっと浮かんだのはウィスタリア教のことだった。教典のようなものであれば神話とは呼ばないかもしれないが、関係があってもおかしくはない。それはこの国を知る手がかりになる可能性がある。パンを一つ手に取り、ゼイツは椅子に座り直した。
「ゼイツさん知らないの? それともこれも忘れちゃったの? ほら、青い男を倒す話!」
「青い男? ああ、その話か」
 不思議そうに首を傾げたクロミオへと、ゼイツは笑顔を向けた。期待通りにはいかないかと、柔らかいパンをかじる。それならばゼイツも小さい頃に読んだことがあった。子ども騙しの空想、単なるおとぎ話だ。とんでもなく強い悪い男をみんなで協力して倒しましたという、ありふれた話。
「うん! 僕の家にあるのはボロボロだったから、ラディアスさんが貸してくれたんだ」
 いかにも純粋といった瞳を輝かせて、クロミオは笑った。少なくともクロミオにとってはいい兄代わりだったようだ。ラディアスは幾つだろうか? 先日、ウルナは二十四歳になったと言っていた。年上だったことは少し驚いたが、一歳であればそう違わないか。
 ラディアスも彼女と同じくらいだと仮定すると、クロミオが物心ついた時には大人も同然に見えただろう。兄というよりは父親のような存在かもしれない。
「そうなのか、よかったな」
 適当に答えて相槌を打ちながら、内心でゼイツは首を捻った。考えてみると、ウルナたちの両親についての話を聞いていない。あの部屋に住んでいるのは二人のようだから、教会にはいないのか。ではどこにいるのか。
『ここにいる人々は皆、帰るべき場所を持たぬ者たちばかり』
 不意にウルナの言葉が思い出される。あれが本当であるなら、両親は既に亡くなっているのだろうか? ここにいるということは、ラディアスもそうなのか?
 落ち着いてよくよく考えてみると、やはり教会についてはわからないことだらけだ。何があるのか、誰が住んでいるのか、普段皆は何を行っているのか、知らないことばかりだった。ラディアスは古代品発掘班所属だと言っていたから、古代品を探しているのは確かなようだが。それならどの国も同じだった。
 前時代、その前の時代の遺物は貴重だ。技術も知識も資源も失われつつある現在では、過去に縋り付くしかない。
 情報が足りない。ゼイツはパンを飲み込むと、再びコップを手に取った。少しでも早く動き出したい。はやる気持ちを押さえて、彼は笑顔のクロミオを眺めた。



 クロミオが勉強をしに出かけると、ようやくゼイツは自由な時間を得ることができた。まだウルナはやってきていない。仕事が忙しいのだろう。ウルナはこの教会に住む『姫様』の付き人をしているという話だった。
 彼はまだその姫様とやらに会ってはいない。教会に姫が住むというのも不思議だし、それがどういった意味を持っているのかも知らなかった。そこにこの国の秘密を解く鍵があるのではと考えたりもしたが、簡単に接触できるとも思えない。だがそのうちウルナから話を聞くことができるのではないかと、その点については楽観視していた。彼女は口が軽い。
 それでも、とにもかくにも些細なことでも情報が必要だった。ウルナやクロミオが戻ってくる前に、少しでもこの教会の構造を把握したい。彼は拳銃と短剣を衣服の内側に隠すと、部屋を飛び出した。
 しかし、ひたすら白が広がるばかりの廊下には目印となるようなものはなく。必然的に勘に任せて歩くしかなかった。
 この教会に住む権利を得ることで、誰かに見つかるのを恐れずにすむようになったのは幸いだ。何をしているのかと尋ねられたら、記憶を取り戻すために歩き回っているとでも説明しておけばいいだろう。ただし、ウルナの勘違いに乗っかっている以上、『暴発』の真実に近しい者に知られないよう気をつける必要があった。
 教会の広さを考えると、そこに住む者の少なさには驚かされる。いや、昼間の静けさには、と限定した方がいいか。細長い廊下を歩く者はほとんどいない。普段は皆どこで何をしているのだろう? 妙な詮索を避けることができるのはありがたいが、この静寂は不気味だった。
 腑の底から湧き上がる嫌悪感にも似た恐怖が、彼の体に浸透していく。ここに確かに立っているという感覚が薄い。生きている物の気配が乏しい。ただ見知らぬ場所にいるということだけでは説明できない違和感に、身の毛がよだった。
 罅の入った窓硝子の向こうには、ひたすら緑が広がっている。淡い日光を浴びて、強い風に吹かれて揺れる木々が、ここにある唯一の現実感だと言っていいかもしれない。
 クロミオはよく庭で寝転んで空を見上げると話してくれたが、そうしたくなる気持ちもわかる。この建物にいると息が詰まった。ジブルのどの場所も決して居心地がよかったとは言えなかったが、ここよりはましだとゼイツは断言できる。
 堅い床に反射する靴音が冷たい。自身のものなのに他人行儀に響く。似たような扉を横目に彼は前へと進んだが、いっこうに変化は訪れなかった。誰かの声も、足音も聞こえない。見える景色も変わらない。同じ場所を歩き続けているような錯覚に襲われ、意識せずとも呼吸が速くなった。
 こんな場所でよくウルナたちは生きているなと、感心したくなる。それとも慣れ親しんでしまえばこの光景も苦にはならないのだろうか? 白い床に移り込む自分の姿を、彼は何とも無しに眺めた。くすんだ金の髪も、苔色の上衣も、歪みながら曖昧に像を描いている。
 すると不意に、彼の耳は足音を拾った。それは待ち望んでいたような、それでいて恐れていたような硬い響きだった。思わず立ち止まり、彼は顔を上げる。一体誰だろう? 半ば無意識に拳銃のありかを確認してから、彼は唇を結んだ。少なくとも今はこれを使っては駄目だと言い聞かせて、不安を押し込めようとする。
 細長い廊下の先、右の角から姿を現したのは見覚えのある男だった。ラディアスと名乗った、あの人当たりの悪い男性だ。安堵していいのか悪いのか判断できず、ゼイツは曖昧な笑みを浮かべた。立ち止まってしまったために、その場を動くきっかけが見つからない。親しげに話しかけることもできない。どうしようもなく、ただゼイツは困った風に頭を傾けた。
 ラディアスは真っ直ぐこちらへと歩いてきた。その表情は今朝見たものと何ら変わりない。無表情にも、怒っているようにも見える冷たい眼差しが、ゼイツへと向けられていた。歩調も一定でよどみがない。それはこの殺風景な光景とよく調和していた。
「ゼイツといったな」
 手を伸ばしても届かない距離で、ラディアスは足を止めた。探るような視線には敵意以上の何かを感じる。背筋を正し、ゼイツは首を縦に振った。ここでラディアスを刺激するのは危険だと直感が告げている。
 こうして向き合うと、今朝印象に残っていたよりもラディアスは背が高い。ゼイツよりは上だし、ウルナとであれば頭一個分は違うだろうか。ただし筋肉質ではないため、ひょろりと細長く見える。ゼイツが黙したままでいると、ラディアスは嘆息混じりに口を開いた。
「ウルナがどうしてお前を助けたのかわかるか?」
 端的な問いかけは、それでいて核心を突いているように思えた。答える術を持たないゼイツは「いや」とだけ言って首を横に振る。
 正直な返答だ。それがわかっていればもっと動きやすい。ただの親切でここまでしてくれるのだと、軽々と信じられる程ゼイツも人がよくはなかった。かといって予測がつくわけでもない。せいぜい、ウィスタリアの教えか何かだろうかと考えるくらいだ。だがラディアスの表情を見る限り、それだけではなさそうだった。特別な理由があるのか。
「それならいい」
「ラディアスは知っているのか?」
「そうだとしても話すつもりはない。ウルナはああ言っていたが、俺には一切期待するな。一人で頑張ることだな」
 どこか呆れたような色を双眸に浮かべると、ラディアスは息を吐いた。そしてこれ以上話すことなどないと言いたげに、ゼイツの横を擦り抜けていく。近づいてきた時と同様、一定の歩調で靴音は遠ざかっていった。唖然と立ち尽くしていたゼイツは、しばらくしてから肩越しに振り返る。灰色の広い背中で揺れる黒髪だけが、生き生きと跳ねていた。
「な、何だよそれ……」
 ラディアスの姿が廊下に溶け込んだところで、呆然とゼイツは呟いた。左腕の傷が、不意にまたうずいたような気がした。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆