white minds 第二部 ―疑念機密―

第五章「遠回りな求愛」15

「あの、五腹心と、戦ったことがありますか?」
 目を瞑ればすぐにでも蘇るあのイーストの姿。思い出すだけで心の底が冷え切るような、強烈で純粋な気。ミケルダはかすかに身震いした。
 話には聞いていた、圧倒的な力の持ち主だ。そんな彼らに対抗できたのは転生神のみという話だった。
 五腹心に抗い、散っていった仲間たちは数多いる。あの気を目の前にして生きて帰った者はどのくらい存在するのだろう? それが正直な疑問だった。
「いや、私はない」
 すぐさまアルティードは頭を振った。アルティードでさえそうなのかと、ミケルダは息を呑む。――いや、顔を合わせずにすんだからこそ、生き残っているのか。
「……オレたち、全く歯が立たなかったんです。ろくに動けもしなくて」
 どうにか吐き出した言葉はぎこちなかったし、声は乾いていた。あれだけの魔族を前に何故人間たちが反応できたのか、その方が不思議だった。
 たじろいでしまうのは、気を鮮明に感じ取ってしまったからなのか? いや、気の感知でいえば梅花の方が上だ。やはりそういう問題ではない。
「それはお前たちだけに限った話ではない。大概の者はそうだ。……魔族でもそうだという」
「でも、それじゃあ、オレたちは死にます。神技隊も死にます」
 ミケルダが声を絞り出すと、アルティードはかすかに瞳をすがめた。急く気持ちを必死に抑え込みながら、ミケルダはどうしたらこの思いが伝わるのかと言葉を探す。
 失いたくはない。巻き込んだ人間たちの誰かが死ぬようなことがあれば、自分は平静でいられないだろう。カルマラやラウジングが死んでもそうだ。だからどんな相手を前にしても動かなければならないのに、あの鮮烈な気はそれを阻む。
「まずはあの気に慣れないといけないな」
 しばし何か考えるよう視線を彷徨わせてから、アルティードはそう答えた。ミケルダは瞳を瞬かせる。慣れる? あれだけの気に慣れるなどということが可能なのか? 到底信じがたかった。
「同じ魔族でも、あれだけの気を前にすると萎縮する。神でもそうだ。とんでもない気の持ち主の本気には、同様の反応をしてしまう。シリウスが気を抑えなければ、かなりの圧迫感があることは知らないだろう?」
 そう付言されてミケルダは口をつぐんだ。シリウスの本気というものを、おそらくミケルダたちは見たことがなかった。それだけの相手が地球にはいない。いるような状況は最悪だから、当然だが。
「だがあいつの気も、繰り返し傍にいることで慣れる。どんな強い者でもそうだ。ただ普通はその機会に恵まれないだけだ」
 そこまで説明したところで、アルティードは苦笑をこぼした。ミケルダはくしゃりと顔を歪めて笑う。
 そう言われればそうだ。慣れるほどに五腹心と相対して生き返ってくる者など希有だろう。慣れることはできる。しかしその前に死んでは意味がない。
 ならばどうすればよいのか? まさかシリウスに練習に付き合ってもらうわけにもいかない。
「シリウスといえば、先ほど連絡が来た。どうやら魔族は宇宙でも活動を開始したらしい」
 そこで不意に、アルティードが話題を変えた。それはあえてのことだったのか、それとも本来伝えたい内容だったのか。ミケルダは思わず立ち上がる。
「宇宙でも!?」
「ああ。五腹心レシガが部下を率いていたと。接触したと聞いた。これは偶然ではないな」
 首肯するアルティードから、ミケルダは視線を外した。目眩を覚えそうだった。五腹心の一人、レシガが動いた。蘇ったらしいという噂だけは耳にしていたが、まさか本当だったとは。
 五腹心が次々と目覚めているという事実に背筋が凍る。このまま五人が揃ってしまったら一体どうなるのか。
「そうなると、イーストとレシガ、どちらかが陽動だった可能性がある。五腹心が本格的に活動を開始したとなれば、シリウスに戻ってきてもらいたいところだが。それも状況を見てからでないと危険だな。宇宙もないがしろにはできない」
 アルティードの拳が握られるのが、ミケルダの視界に入った。歯がゆいのはアルティードも同じなのか。そう気づくと、少しだけ気持ちが落ち着いてくる。
 太刀打ちできない相手をどうにかしなければならない戦いは、今に始まったわけではない。絶望的な状況にはあるが、諦めているわけにもいかなかった。
 ――もし、ここに、転生神がいれば。
 それでもそう考えてしまうのは止められなかった。ミケルダは唇を引き結び、小さく首を縦に振った。



 静かな夜だった。中央制御室の中の人気は乏しく、モニターに映し出される星々の煌めきばかりが目に入る。
 滝は大きく息を吐いた。怪我の確認に、崩れてしまった当番制の姑息的な対応など。やることは細々としているが、気が休まる暇がなかった。それは想像していたよりも応えるらしい。仲間たちの訪いが途切れると、どっと疲れを覚える。
「滝?」
 かすかに空気が揺れるような音がして、背後の扉が開いた。やおら振り返ると、籠を抱えたレンカが微笑んでいた。彼女も怪我人の確認や食事の支度等で走り回っていたはずなのに、そんな気配を微塵も感じさせない。
「お疲れ様」
「それはレンカもだろ?」
「こっちはお手伝いしてくれる人がたくさんいるもの。大丈夫。でも指示を出すのも決めるのも滝だけでしょう? 常に判断を迫られるのって結構疲れるものよ。滝が一番大変だわ」
 レンカが近づいてくると、慣れ親しんだ珈琲の香りが漂った。いや、そこに何か別の甘い香りが混じっている。怪訝に思って首を捻ると、レンカはくすりと笑った。
「糖分も補給しないとね。あと数時間は寝られないでしょ?」
「……本当は朝までと言いたいところなんだけどな。でもレンカまで巻き込むわけにはいかないしな」
 苦笑した滝は肩をすくめた。これだけ皆が疲労している状況となると、当番を細かく分けて乗り切るしかなかった。朝まで誰かに任せるというのは現実的な案ではない。だからこの時間は滝たちが当番を担当していた。
 今後も大規模戦闘の度にこのような調整が必要になるのだろうか? そう考えるだけで気が重くなる。
 体力も、回復力も個々人によって違うし、怪我や疲労度もその時々の戦闘によって変化するだろう。前もって決まりを作っておいても役に立たない。
「あ、ほら、またその考え。自分だけなら無理が利くと思ってる。滝の代わりはいないんだから、長期的に考えて動かないと駄目よ。頼れる人たちがいるんだから、もう少し肩の力を抜かないと」
 傍にある小さなテーブルに籠を乗せ、レンカはそう指摘した。何度も言われていることだ。滝は耳の後ろを掻きつつ、そっと目を逸らす。
 つい自分が頑張らなければいけない気持ちになるのは悪い癖だった。任せるというのがそもそも苦手なのだろう。
「まあ、レーナは寝てるから。彼女に頼るわけにはいかないんだけどね」
 籠からカップを取り出しつつ、レンカは微苦笑を浮かべた。思わず滝は眉をひそめる。
 その話は先ほど梅花から聞いたばかりだった。寝なくても平気だというレーナが眠っているという事実は、想像していた以上に滝に衝撃を与えた。無意識のうちにどこかで依存していたのだろう。
 彼女ならばなんとかしてくれる。それはイーストと相対している時とて、頭の片隅にでも残っていたに違いない。
「やっぱりあちらは、レーナの本気を恐れているのかしら」
 こぽこぽと珈琲の注がれる音が空気を揺らす。独りごちるようなレンカの言葉を、滝は胸中で繰り返した。
 全く本気を出していないように見えた五腹心イースト。挨拶と言っていたくらいだから、本気でこちらを潰すつもりはなかったのだろう。それはつまり、まだレーナの本気を引き出したくないという意味なのか?
「どうだろうな」
「少なくとも彼女を引き入れたいという意志はあるみたいね。それを考えると、おおっぴらには敵対したくないのかしら」
 レンカの推測を聞き、滝は黙り込んだ。そこが不思議な点だった。他の魔族らはあれだけレーナたちのことを敵視していたというのに、イーストは違う。そう考えると、相手が何を企んでいるのか予測するのは一筋縄ではいかない。
「はい」
 思考をあちこちに彷徨わせていると、紺色のカップが差し出された。はっとした滝は慌ててそれを受け取る。鼻腔をくすぐる香りが、じんわりと胸の内にも広がるようだった。
「そうなると、やっぱりレーナの動向が鍵を握ることになるのよね。彼女ができるだけ戦闘に出ない方がいいって言っていた意味もなんとなくわかるわ」
 籠をのぞき込みながらレンカはそう続けた。珈琲を一口含んだ滝は小さく唸る。
 レーナがいなければどうにもならない事態がある。しかしできる限り出し惜しみはしたい。――つまり彼女は切り札だ。奥の手だ。使いどころを、使い方を間違えた瞬間に、滝たちの敗北は決まる。
「じゃあ逆にあちらの立場になれば……」
「ええ、レーナを早く炙り出したいって思ってるわよね、きっと。それもできる限り少ない戦力で」
 真顔でレンカが籠から取り出したのは、無世界で見たパウンドケーキというものに似ていた。白い皿に乗った数切れは、どれも微妙に色が違う。
 そういえば彼女は無世界にいた時にあれこれと本を見比べては何かを研究していた。もしかしたら神魔世界で再現する方法だったのだろうか?
「はい。珈琲だけじゃあだめだからね」
「あ、ああ」
 テーブルの上に置かれた皿を見下ろしつつ、滝は眉をひそめた。話している内容と目の前のこの状況がちぐはぐで、違和感がある。
「本当は明日のおやつのはずだったんだけど。この調子だとみんな睡眠時間もばらばらになりそうだから切ってきたの」
 レンカの説明に、なるほどと滝は相槌を打った。食事とは別に、この頃の彼女はおやつ作りも始めていた。本格的に雪が積もってしまい、買い物に行く頻度が減ったせいもあるだろう。
 美味しいものを求める人々は多いのに、それに応えられる状況にないからだ。もちろん、作るのが好きだという理由もあるには違いないが。
 知らないうちに支えられている。同じように、滝の見えないところで各々が他の者たちを支えたりしているのだろう。
 どこかの誰かが欠けるというのは、そういった見えない均衡が崩れることを意味している。それは知らぬ間に日常を脅かし、破壊する。目に見えぬ病のようなものだ。
「レンカは食べたのか?」
 ケーキを一切れ手に取り、滝は顔を上げた。労ってもらうばかりでは、レンカを気にかける者がいなくなる。するときょとりと目を丸くした彼女は、指摘されて初めて気がついたとばかりに手を打った。
「そういえば、夕方から何も食べてなかったわ」
「……あのなぁ」
 あまりのことに呆れすぎると、怒る気力も湧かなくなる。ついこぼれ落ちた苦笑が、夜の静寂へと染み入った。これだから一人では駄目なのだ。いつだったか誰かに言われた言葉が、脳裏で響いた。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆