white minds 第二部 ―疑念機密―

第三章「誰かのための苦い口実」2

「そういう梅花は平気なのか?」
 カップをテーブルへと乗せ、青葉は探るように聞いてみた。梅花が料理班に選ばれていることは知っていた。どうしたって仕事が多い彼女まで分担に組み込まれているのが気になる点だったが、当の彼女は意に介した様子もなくこくりと頷く。
「ええ、料理班はレンカ先輩が取り仕切ってるから、何も心配ないわね。私たちはみんな補佐みたいなものよ」
「でもお前には、ほら、上とのやりとりがあるだろう?」
 できるだけ軽い調子でそう告げてみたが、人気のない食堂に、その声は思いのほかよく響いた。一つ大きな瞬きをした彼女は、曖昧な微笑を浮かべて頷く。
「それは避けられないわね。実質的な私の役目は、上やレーナたちとの橋渡し役みたいなものよ。まあ、だから料理班にしてもらったんだけど。掃除班が一番大変でしょう?」
 白いカップを手にした彼女は、わずかに視線を逸らした。このところ、彼女はこうした笑みを浮かべることが多い。以前の無表情よりは一歩前進だが、困惑と諦めの混じった微苦笑というものを素直に喜んでよいのか、彼ははかりかねていた。もう一度カップを手にしながら彼は相槌を打つ。
「まあ、レーナたちとのやりとりも、人によっては微妙だからな。――それでも、みんな結局はここに残るんだな」
 様々な思いを飲み込んで、彼は右の口角だけを上げた。この世界の裏事情を知ってしまった神技隊らに課されたのは、途方もない役目だ。しかしだからといって、目を背けても無駄なことはわかっている。この星にいる限り逃げ場がないことも、彼らは思い知ってしまった。魔族に狙われたらあのミリカの町のように、仮初めの平穏などいとも簡単に打ち砕かれてしまう。今の日常が保たれているのは単なる偶然だ。すぐにそれは別の形に取って代わられる可能性がある。
「そうね、出て行く先がないもの。今のところは平和だしね。……ここの中の方が安全というのも、皮肉な話だけれど」
 白いカップから唇を離し、彼女は呟いた。確かにその通りだ。少なくとも突然の襲撃に家屋が破壊される危険性の多寡を考えると、この基地が一番安全だった。
 技にも耐えるというこの謎の建造物に人々が気づいているのかどうか、彼はそれが気に掛かっている。そもそも人が偶然通りかかるような場所ではないし、宮殿も近いため、不用意に近づいてくる者はいないと思うが。それでも空からなら容易に確認することができるだろう。技使いなら気づいてもおかしくはない。
「魔族がまずどこを狙うのかわからないのが困りものね。いきなり宮殿を狙うなんてこと、するのかどうか……」
 ぽつりとこぼれた彼女の言葉に、彼はどきりとした。ミスカーテたちがそうしなかったから、その可能性についてはあまり考えていなかった。魔族が狙っているという『鍵』は宮殿の真下にあるという。ならばいきなりそこを狙うか? いや、先に戦力を削ぎにくるのか? それとも人間たちを襲い混乱を生み出してから動き出すのか? 魔族の考えというものが、青葉たちには読み切れない。
「どうだろうな」
 言葉を濁し、彼はそのまま口をつぐんだ。日常の悩みに心を向けている時は、束の間でも魔族の脅威について忘れられる。しかしこうして何気ない会話の折りにも、すぐに途方もない現実が顔を出した。足下の不確かさを突きつけられるような気分だ。
「まあ、その辺はレーナや上が予想して動いているところなんでしょう。今の私たちにできるのは準備よ。あとは見張り体制の構築くらいかしらね。これは二人組を決めてからじゃないと動けないけれど。……相性についてはレーナに色々聞いてみてるけど、難題ね。答えはないようなものだわ」
 そこで彼女は息を吐いた。二人組の話が彼女の口から飛び出したことで、彼の鼓動は一瞬跳ねる。彼女も悩ましいと考えているのか。動揺をごまかすよう、彼はもう一度珈琲を口に含んだ。
 技使いが単独で魔族と交戦するのはやはり危険が伴うらしい。そんな助言のもと、二人組を作ることは確定していた。問題は誰と組むのかだ。神技隊は五人のバランスを考えて選ばれているため、二人でのバランスとなるとまた事情が変わってくる。何より、元々は魔族と相対するつもりで訓練を受けているわけでもなかった。後方支援が向いている者もいる。その中で最善を目指すためにはどうするべきなのか、答えは出ていない。
「梅花は、オレ以外と組む気?」
 とはいえ、彼の中には既に確固たる答えがあるようなものだった。見張りを含めほぼセットでの扱いとなる人間など、彼女以外に考えられない。ただ、彼女がどう思っているかは不明だ。
 だから意を決して彼が問いかけたというのに、彼女はカップを手にしたまま何とも言いがたい面持ちになった。そして小首を傾げながらこちらを見つめてくる。
「その質問、どう捉えていいのかわからないわね」
 彼女がどこか言いにくそうに告げる声が、食堂の静かな空気を揺らした。胸の奥をぎゅっと掴まれたような心地を覚え、彼は閉口する。彼女にとって自分がどういう存在なのかという、意識しないようにしていた問いが頭をもたげてきた。
「実際問題として、青葉に合わせられる人ってまずなかなかいないと思うの。耐えられるのって、滝先輩やシン先輩みたいに昔からの付き合いのある人じゃないと無理だと思うのよ」
 しかし彼女が口にしたのは実に現実的な話だった。ソーサーとカップの触れ合うかすかな音が、彼の耳に染み込む。
「でも滝先輩はレンカ先輩と組むでしょう? まず間違いなく。シン先輩は……私からはなんとも言えないけど」
 そこで彼女は言葉を濁した。わずかに逸らされた視線が何を語ろうとしているのか、彼には判然としない。振り返ってみると、彼女の目に周囲の人間――主に神技隊の面々がどのように映っているのか、深く考えたことがなかった。彼女はシンの思いに気づいているのだろうか?
「でもたぶん、青葉とシン先輩が組むって話にはならないでしょう? お互いに」
 言葉を選ぶよう慎重にそう告げ、彼女はこちらへと一瞥をくれた。どうやらシンと青葉の関係はそれなりに正確に把握しているようだ。即座に青葉は首肯した。互いの癖はよく把握できているのでそういう意味では問題ないが、心情的にはそうではない。奇妙に張り合ってしまう仲であることは、指摘されるまでもなく明らかだった。
「だから、青葉が嫌じゃないなら、私はいいわよ。たぶん、あなたの動きを邪魔しないようにはできるから」
 寸刻の間を置いてから、彼女はそう答えた。青葉の胸の奥でちりっとまた何かが焦げる。やはり彼女は根本的なところでは変わっていないらしい。そんな事実を突きつけられて、彼は思わずため息をこぼした。
「――そこでどうして、オレが嫌じゃないならって言葉が出てくるんだよ」
 苦々しさの滲む彼の声が、珈琲の液面を揺らす。彼女は不思議そうに首を傾げ、ついで何かに気づいたように眼を見開いた。彼がじっとその双眸を見つめれば、彼女はどこか気まずそうに目を逸らす。
「どうして、かしらね。嫌がられている前提だから、予防線なのかもね。後で文句を言われても困るって。こうして話をすることだって、時々とても現実のものだと信じられなくなるのよ。私と話をしようとする人なんて限られていたから」
 視線を下げながら、彼女はしみじみと噛みしめるよう吐き出した。カップをそっとソーサーに置いた手がぎゅっと握られるのが、彼の目に留まる。
 どうやら彼女はまだ自分が好かれることなどないという思いの中にいるらしい。それが幼い頃からの経験によるものだとはいえ、悲しくも強固でいかんともしがたい呪縛だ。
「オレは、お前がいいんだ」
 そっと彼は彼女の方へ手を伸ばした。硬く握られた拳に軽く指先で触れるだけのことだったが、彼女は弾かれたように顔を上げる。その揺れる瞳に宿ったのは困惑の色だった。そう気づいた彼は、落胆するべきかどうか悩ましく思う。おそらく、こういう言葉は彼女には重すぎる。以前なら眉をひそめられたところだろう。そうではなかっただけ、進歩と受け取るべきかどうか。
「……そう。わかったわ」
 当惑しながらも頷いた彼女は、彼の手を振り払ったりはしなかった。だが彼は、それだけでは満足しない。今までの彼なら、ここで終わりにしておいたところだろう。
「それで、お前はどうなんだ?」
 彼は踏み込んだ。知りたいのは彼女の望みだ。彼女の意志だ。諦めることに慣れてしまった彼女の、ただの了承では意味がない。すると彼女は意外とでも言いたげに、きょとりと目を丸くした。
「……私?」
「そう。お前はどうしたかったんだ?」
 さらに畳みかければ、彼女は何を問われているのかわからないと言わんげに目を白黒とさせる。そしてある瞬間、はたと何かに気づいたようだった。彼女の気に広がった動揺は、彼にも読み取れるほど明白だ。
「――私、自分に選択肢があるって、考えていなかったみたい」
 ぱちぱちと子どものごとく瞳を瞬かせて、彼女はそう告白した。彼は眉根を寄せる。選択肢があるとは考えてもいなかった? それはつまり、まさか、そういうことなのか?
「えっと、それって……」
「私、自分が誰かを選ぶって可能性について、全く考えていなかったの。私は、ただ、はまるべきところにはまればいいとしか思っていなくて」
 狼狽えた彼女は視線を彷徨わせた。その信じがたい申告をどう受け止めるべきか、彼は逡巡する。だがようやく何か大きなものが腑に落ちたような心地だった。
 彼女は今まで、自分が主体的に何かを選び取るということをしてこなかったのだろう。いや、それが自分にも可能だと思っていなかったという表現の方が正しいのか。彼女の行動や役割を決定づけるのは状況と必然性のみであって、そこに彼女の好悪は関係しない。彼女はただ、最善な場所を探していただけだ。だから彼女の意思を問おうとしても無駄だったのだ。
「でも本当なら、私にも、権利はあったのね」
 うかがうようにこちらを見る彼女は、普段の淡々とした言動とは真逆だった。ついで深々と相槌を打つ様には、ようやく今まで自分が行使してこなかったものを理解したといった様相が滲んでいる。生き残るためには、誰かを死なせないためには戦うしかないという逃れがたい状況の中で、その事実を見出したというのは皮肉な話なのか。
「ああ」
 それでも彼女が気がついてくれたことは、素直に嬉しく感じられた。ずいぶんと人間らしくなったといったら誰かに叱られそうだが、それでも「当たり前」だと思っていたことがそうではなかったと気づくのはきっと容易いことではない。
「じゃあ改めて聞くけど。お前はオレでよかったのか?」
 これでようやく何を確認したかったのか伝わっただろうと、彼はもう一度問いかける。問題なのはここからだ。触れていた指先を離して、彼は固唾を呑んだ。食堂の外から伝わってくるかすかな話し声に、ますます気が急く。
「うん」
 彼女はこくりと頷いた。素直に、ごく当然のように、小さく一つだけ。
「断る理由がないわ。それに、青葉の隣は落ち着くもの」
 続けて真顔でそう告げられた彼は、内心でひどく狼狽した。想像していた以上の答えだった。及第点どころではない。そういう意図はないにしろ、自分の立ち位置というものがずいぶんと変わっていたことに気づかされる。
「そ、そうか」
 彼はついと目を逸らした。徐々に近づいてくる廊下の喧噪が、波立った心を落ち着かせてくれることを願うばかりだった。

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