white minds 第二部 ―疑念機密―

第二章「茫漠たるよすが」2

「ここが二階だ」
 階段が終わると、一階と同じような廊下が目の前に現れた。違いがあるとすれば、廊下に面して扉が並んでいる点だった。その一つ一つが個室なのだろう。こちらは出入り口とは違いきっちり取っ手がついているし、薄灰色だ。
「部屋は二階と三階にある。四階についてはそういえば聞いていなかったな。後で確認して欲しい。どの部屋も同じ作りだ」
 二階の廊下へと進み出たシリウスは、手近な取っ手を引いた。がちゃりと無機質な音とともに、薄灰色の扉が開く。好奇心と疑心の混じった気が周囲に渦巻くのを感じつつ、滝は部屋の中をのぞき込んだ。
 思わず声が漏れた。部屋は想像以上に立派だった。一人で生活するには十分な広さだし、ベッド、机、棚があるのはありがたい。こればかりは購入して運び込むのは難儀するだろうから、どうしたものかと思っていたところだ。
「最低限必要そうなものは揃ってるんですね」
 側にいる梅花が感嘆の吐息をこぼした。ほっとしたというのが正直なところだろう。宮殿での毛布生活を考えれば十分すぎる設備だ。
「ああ、宿がそんな感じだったからと言っていた。だからうっかり簡素な浴室まで作ってしまったと」
「う、うっかり……」
 段々めまいを覚えてきて、滝はつい額を押さえた。なるほど、レーナが参考にしていたのは宿らしい。どこかの星で見たのだろうか? それにしても一体これだけのものをどのように作り出したのか、甚だ疑問だ。
「うっかりで作る物じゃあないですよね」
「それはあいつに言ってくれ。我々は人間たちの生活について詳しいわけではないからな。他にも必要そうなものがあれば、全てが完成してしまう前に言っておいた方がいいぞ。今ならまだどうにかなる」
 しみじみと呟いた梅花に、シリウスはそう忠告した。これだけあれば十分だとは思うが、他にも何かあった方がよいだろうか? しかし滝にはすぐには思いつかない。首を捻った彼は、周囲の仲間たちへと視線を送った。複雑そうな者、真顔の者、期待に目を輝かせる者、それぞれが思い思いの表情を浮かべている。だが誰もが口を閉ざしたままだった。
「現時点で、他に聞きたいことはあるか?」
 振り返ったシリウスにそう問われ、滝は閉口した。この建物についての詳細は、やはりレーナに尋ねるしかなさそうだ。ならば今何を確認すべきなのか。このままではシリウスは案内を終了して帰ってしまいそうだ。聞きたいことは山ほどあるというのに、滝たちは何も知らない。
「――シリウスさんは、神なんですよね?」
 意を決して滝は口を開いた。不意に、空気が変わった。慎ましやかなざわめきがなりを潜め、沈黙が生まれる。シリウスは不思議そうに瞳を瞬かせて、滝の方へと向き直った。
「ああ、そうだ。なんだ、今さらの確認だな」
「すみません。レーナと、その、知り合いみたいに見えたので」
 滝は言葉を濁した。上の者とレーナが顔見知りなんてことがあるのだろうかと、それが彼の心に引っ掛かっていた。今までの上の言動から推測するに、上はレーナたちについては何も知らない様子だった。それなのにシリウスは違う。まるで旧知の仲のようなやりとりを繰り広げている。
「そうか、知り合いというほどではないな。顔見知りではある。簡単に言えば、利用し合った仲だ」
 顎に手を当て、シリウスは考え込むよう壁の方を睨んだ。想像もしなかった返答に、どう反応するのが正しいのか滝は迷う。つまり、あのレーナを利用したのか。それを耳にしただけでも、シリウスがどれだけの強者なのか思い知らされる。
「それで、彼女を味方につけようと?」
「味方というのも変な話だな。単なる利害の一致だ。あいつが何よりもお前たちの安否を優先しているのは確かなようだし。我々もこれ以上あんな危険な奴を野放しにしておくわけにもいかない。要するにお前たちは一種の人質だ。同時に戦力だ。この意味がわかるか?」
 瞳をすがめたシリウスがこともなげに告げたのは、重たい現実だった。滝は唇を引き結ぶ。胃の底からふつふつと湧き上がるこの感情は何だろう。ただの怒りとも、嘆きとも違う。
「そんな顔をするな。何故お前たちがアルティードらの言うことを聞いているのか、私にはわからないが。お前たちの立場はかなり危うい。だからあいつはこんな馬鹿みたいな建物を作ったんだろう。――これはお前たちの鎧だ」
 こちらへと一瞥をくれたシリウスは、表情一つ変えずに続けた。神にとっては不都合な事実だろうに、何故そんなことまで話してくれるのか。それが滝にはいささか不思議だった。シリウスの立ち位置が掴めない。
「この星でこれから何が起きようとしているのか、私にも確かなことは言えない。状況についてはあらためて説明されるはずだが、それを聞いてよく思案するといい。この星に生まれてしまった不運を呪っても、どうしようもないことは確かだ。――力を持ってしまったこともな。それでも生きたいと思うなら、考えてくれ」
 シリウスの気はどこか神妙だった。残酷なことを突きつけられたようで、滝はますます言葉を失う。何か言おうとしても、声が喉に張り付いて出てこなかった。
 自分たちの置かれた状況については何もわかっていないに等しいが、混乱の最中に置き去りにされていることだけははっきりしている。では自分たちはどうすればいいのか。このまま上の言うことを聞き続けてよいのか? しかし疑問に思うからといって、ここから逃げ出すのも今の滝には考えられなかった。何かが起きると知っていながら見て見ぬ振りをする度胸も割り切りも、彼にはない。
「この戦いは、心が折れた者から負ける」
 ぽつりと独りごちるようなシリウスの声が、沈鬱なる空気を揺らした。滝はひっそりと拳を握り、頷いて静かに目を伏せた。



 シリウスが去った後、神技隊らに残された課題は多かった。廊下に集まった面々を見回しながら滝はため息を吐く。あんな話をされた後に、事務的な問題を片付けるのは気が重い。しかしこれを先延ばしにしてもいられなかった。何をどうしたところで、荷物をこのままにはしておけない。
「部屋、どうしましょうか」
 そんな中、率先して声を上げたのはリンだ。ずいぶんとかさばる袋を床に置いているところを見ると、彼女もそろそろ限界なのだろう。滝は相槌を打つ。だがこの部屋決め、容易く決まるとも思えなかった。
「そうだな、この階には何部屋あるのか……」
「ざっと数えてみましたが二十三部屋のようです」
 と、ぱたぱたと廊下の向こうから靴音が迫ってきた。梅花だ。いつの間にか彼女が側を離れていたことにも滝は気づいていなかった。それだけ動揺していたのだろう。若干の気まずさを覚えながらも、滝は首を縦に振る。
「そうか。ありがとうな」
「いえ。三階も同じだとすれば合計で四十六ですね」
 鬱々とした雰囲気の中でも、淡々と話す梅花はさすがだった。もしかすると、これくらいの話は予想できていたのかもしれない。彼女はシリウスにも何度か会っているはずだ。
「部屋、すぐ決められますかね? それともとりあえず仮決めしておいて、買い出し等を先にすませますか? どの部屋も同じ作りということですから、問題になるのは階くらいかと思うんですが」
 梅花は何故だか滝に確認を取る。この流れも今となっては慣れてきたが、自分が主導権を握らねばならないのはよく考えれば不思議なことではあった。もう若長ではないのだから、その必然はないのだが。
「確かに、階以外には違いはなさそうだな。階段の近くだから便利というわけでもないだろうし……」
「あ、階段なら奥の方にもありました。だからあまり気にしなくてもいいと思います」
 だが今はそんな些細な疑問は捨て置くべきだ。見上げてくる梅花に相槌を打ち、滝は思考を巡らせる。こうなると誰かから希望が出てくることも考えにくかった。こういう方が、何かを決める時は厄介だ。決定打となる指標もないので、誰もが声を上げにくい。
「じゃあストロング、フライングは三階、スピリット、シークレット、ピークスは二階でどうだ?」
 こういう時はこちらで当たり障りのない提案をしてやる方が話が早くまとまると、経験的にわかっている。特に捻りのない案を口にすれば、梅花は瞳を瞬かせた。
 男女分けるのも一つの方法だが、女性の方が明らかに少ないのでそれは諦めた。大体、今までよりは十分に生活空間が確保されているくらいだ。それよりも有事の際に身動きが取りやすい方がいいだろう。滝はそう判断したのだが、梅花には異論があるのか。
「滝先輩は、それでいいんですか? 先輩たちの方が不便になりますが……」
 そこでリンが困惑気味に尋ねてくる。その気には「申し訳ない」と書いてあるようだった。遠慮しているのではないかとでも案じているらしい。滝は苦笑しつつ頭を振った。
「いや、大して違いはないだろ。梅花はどうしても出入りが多くなるだろうし、オレたちよりもリンたちの方がまず動き出しが早いからな。もちろん、隊ごとの方がいいだろう? 何か希望があれば聞きたいとは思うが」
 そう話しながら仲間の方を見遣れば、文句を言う者はなさそうだった。フライングの中には何か言いたげな者もいたが、そこは無視する。彼らの主張を聞いているとまとまる話もまとまらなくなる。大体どうでもいい話題にずれ込んでいく。
「じゃあ、それぞれで部屋を決めることにしましょうか。その後、必要最低限の買い物と、荷物を取りに行くことにしましょう」
 誰からも声が上がらなかったところで、梅花がそう提案した。必要最低限の買い物と聞けば、まず浮かぶのは食料だ。しかし荷物とは何のことを指しているのか? 滝は首を捻った。無世界から持ってきたものは全てここにある。
「それってもしかして、実家の荷物ってこと?」
 滝よりも早く、リンが疑問を口にした。その発想がなかった滝は「ああ」と小さく声を漏らす。滝が住んでいたヤマトの家には、私物はもうない。神技隊に選ばれた時に全て処分した。しかし全員がそうとは限らないだろう。神魔世界に戻ってきた時のためにと、何か残している者がいてもおかしくはなかった。手で運べるくらいのものなら、ここに持ち込んでもかまわないはずだ。
「はい。中には何か残している人もいますよね? 運べるものであれば持ってきてよいと思うんです。その他でも、必要そうな物は買ってきた方がよいかと。特に日常に必要な物は。宮殿と契約しているお店なら後払いができます。何らかの形で給金が出るようにという交渉は済んでますので、心配しないでください」
 梅花は首肯した。耳を疑うような言葉に、周囲に戦慄が走った。滝も一瞬は聞き間違えかと思った。しかしこれだけ皆がざわついているとなると、希望が生み出した幻聴ではないらしい。
「お、お金が出るの!?」
 皆の心を代弁するよう、リンが声を上げる。正直に言えば、そういったものを滝は期待していなかった。せいぜい食費が出れば幸いという程度だ。上はどうも神技隊の生活については全く考えていないようだったので、無理だとはなから諦めていた。それは皆同じだったのだと、このどよめきが証明している。
「はい、もちろんです。ここは無世界とは違いますから、ただ働きはおかしいでしょう? 少なくともここで、神技隊として何かをする限りは、報酬はあってしかるべきです」
 梅花の力強い断言に、何かが報われたような気がした。ミリカの町のような惨状を繰り返したくないという気持ちは確かなのだが、それでも見返りのない中で振り回され続けるのは限界がある。仕事と認められるかどうかは大きい。
「よかったー。じゃあもう少し丈夫な靴を買ってもいいのね」
「そうですね。金額に関しては決定次第伝えます」
 先ほどまでの重たげな空気が、少しだけ軽くなったように感じられた。やはり生活の保障があるのは違う。
「でもそうなると、余計に頑張らなきゃいけない感じになるわね」
 喜びながらもリンがぽつりと呟くのが、滝の耳に届いた。先ほどのシリウスの言葉が再び脳裏をよぎり、滝の中に薄暗いものを残していった。

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