white minds 第二部 ―疑念機密―

第一章「戦線調整」9

 買い物を終えたよつきは、店の中を見回した。平日のデパートは比較的すいているが、それでも一目で仲間の姿を見つけられるほど閑散とはしていない。そもそも、違う階にいる可能性もある。仲の良さそうな老夫婦が通り過ぎるのを待ちながら、彼は気を探った。
 目視は無理でも気が感じられれば問題はない。今までは敵の襲来に備えて隠す必要があったため、この手段が使えなくなっていた。が、今は違う。やはり気は便利だ。上の階にジュリがいることを突き止めた彼は、階段へと向かった。エスカレーターと呼ばれる移動装置があるのはわかっているが、あれはいまだに慣れない。
「ああいうのって、タイミングが掴めないんですよねぇ」
 苦笑しつつ、彼は紙袋を持ち直した。この中に入っているのは、心ばかりの山田家へのお礼の品だ。よつきたちが選んだものなどあの裕福な一家にとっては大したものではないだろうが、何もなしにお別れというのは憚られる。だからジュリと相談し、ささやかながらでもお礼を渡すことに決めた。
 ジュリは別に見たいものがあるというので、よつきがまず贈答品のコーナーへ向かうことになった。あれこれ考え悩んだ末に選んだのは、旬の果物だ。これなら彼らでも高級品か否かがわかりやすい。ここにあるのはそれ用の扱いになっているものだけだ。
「あ、いたいた」
 階段を上って辺りを見回せば、会計をしようとしているジュリの姿が目に飛び込んできた。その穏やかな横顔からは、こちらに気がついた様子は感じ取れない。珍しいなと思いながらも、彼は小走りで近づいていく。彼女の方が気の動きには聡いはずなのに。
「ジュリ」
「あ、よつきさん。もしかしてもう終わったんですか?」
 声をかけた途端、はっとしたようにジュリは振り返った。微笑んだよつきは、今まさに包まれようとしている品へと視線を落とす。女性用の服だった。いや、少女用と言ってもよいかもしれない。春の花を思わせる暖かく華やかな色合いは、普段彼女自身が選ぶようなものではない。彼は素早く周囲を見回した。ここは主に子ども向けのものを扱っている階だ。
「もしかして、誰かにプレゼントですか?」
 可能性としてはそのくらいしか思いつかないが、確信は得られなかった。山田家の長男はまだ子どもだったが、しかし購入したのは男児用ではなさそうだ。だとすれば一体誰に? よつきが首を捻ると、ジュリはくすぐったそうに笑った。
「はい、妹に。いつ会えるのかはわからないんですが」
 包まれたプレゼントを受け取ったジュリは、はにかみながら首を縦に振った。そういえば彼女には妹がいたと以前に聞いていた。けれどももっと年の近い妹だと思い込んでいた。
「こちらの服は可愛らしいでしょう? せっかくですから、持って行こうかと」
「そこで自分のは選ばないんですね」
「いつ何が起こるかわからないのに、着飾っても仕方ないじゃないですか」
 ジュリは一瞬店員の方へと目を向ける。声が聞こえる距離であることを考えて、言葉を選んだのだろう。確かに、こんなところで物騒な単語を口にするわけにはいかない。詳しい話は買い物が終わってからだ。
 彼女が歩き出すのにあわせて、よつきはその横に並んだ。「ありがとうございました」という店員の挨拶を背中に受けながら、彼はそっと彼女の顔を盗み見る。
 妹は何歳なのだろう。神魔世界で今、誰と一緒に生活しているのだろう。半年も共にいたというのに、何も知らないのだと思い知らされたようだった。レーナたちの来襲に、神魔世界に呼び戻されてからの魔族との攻防。仲間のことなど考える暇がなかったのは確かだが、それでも機会はあったはずだ。ジュリが大切に抱えた包みを見れば見るだけ、その思いが強くなる。
「普通の服だと、あっと言う間にぼろぼろですからね。だから私のはどうでもいいんです」
 店員から離れたところで、ジュリはふっと苦笑をこぼした。その明るい茶色の髪がふわりと揺れる。それを最後に切ったのがいつなのか、よつきは全く覚えていなかった。彼の髪はいつも、放っておくと見かねた彼女が切ってくれていたのに。
「その分も、本当は、妹には普通の生活を送って欲しいんですけど」
 階段へと向かうジュリの足取りが若干速くなった。普段通りを装う彼女の気に滲んだのは自嘲気味な色で。よつきは青い瞳を瞬かせる。普通の生活とは、一体どういうものを指すのだろう。ふと脳裏をよぎる疑問に薄ら寒い心地になる。
 奇病が流行った時点で、もう既に彼らから「普通」は奪い去られている。少なくとも彼女のいたウィンや、彼が住んでいたアールはそうだ。だが奪われたのは皆が同じだったから、それが新たな「普通」になっただけだ。
 そして神技隊らは、今また新しい生活に移ろうとしている。無世界での日常が終われば、予想もできない日々が待ち受けていることだろう。これからの生活にどれだけ平穏な時間があるのか、彼には判然としなかった。ならば彼女は妹に一体何をどう告げるつもりなのだろう。神魔世界に戻ってきても、自由には会えない。
「でも嘘吐きにならずにすんだのはほっとしてます」
 通路が終わりを迎えるところで、くすりとジュリは声を漏らして笑った。かつんと小気味よい靴音が踊り場で跳ね返る。彼女の顔をのぞき込み、よつきは眉をひそめた。
「嘘吐き?」
「無世界に来る時に言ったんです、きっとすぐに戻ってくるって。無理だってわかっていたのに……。けれども本当のことになってしまいましたね」
 独りごちるようなジュリの声が、人気のない静かな空気に染み入った。聞き慣れているより高い声が、彼女の強がりを象徴しているようだ。おそらく口にせずにはいられなかったのだろう。それだけ彼女の中でしこりとなるような後悔だったに違いない。よつきは閉口した。軽々しく同意もできないが、それ以外のうまい返答も思い浮かばない。
「すぐに渡せるといいですね」
 かろうじて声になったのは、ささやかな願望だ。当たり障りのない、新たな傷を作ることのない、優しい希望。毒にならないかわりに、何の慰めにもならない言葉。しかしだからといってジュリが落胆することもない。彼女はまた微笑んで頷いた。
「はい、そう願ってます」
 その声が実に柔らかく響いて、よつきの胸を静かに叩く。何も知らされず翻弄されてきた彼らには、祈ることくらいしか許されていない。せめてこれから一体何が起こるのかわかれば、どう振る舞えばいいのか選べるのだが。
「その前に、まずはそちらで喜んでもらえるかどうかが心配ですね」
 と、ジュリの声音が変わった。苦笑交じりに告げる彼女の視線の先は、よつきの持つ紙袋に注がれている。「ああ」と彼は声を漏らした。確かに、こちらの贈り物の方が先だ。
「そうですね。彼らの口に合うとよいのですが」
「大事な方をよつきさんに任せちゃってすみません」
「いや、いいんですよ。わたくしもよくわからなかったので、店員さんの言う通りにしてしまいました。だから時間も掛からなくて」
 申し訳なさそうに頭を下げたジュリに、よつきは笑ってみせた。本当は彼女が合流するまで待つつもりだったのだが、結局彼の買い物が先に終わったのはそのためだ。自分たちには判断基準がないのだから、あとはその場で得られる情報に従って選択するしかない。売り場から受ける謎の圧迫感を前にうろうろするのが苦痛だったというのも理由の一つだが、それは胸の内にしまっておく。
「こっちにいるのもあともう少しですからね。最後まで心を尽くしましょう」
 優雅な屋敷生活の終わりを感じながら、よつきは手のひらに力を込めた。かつりと階段に響いた靴音が、そこはかとなく重たげに鼓膜を揺らした。



 宮殿に戻るだけでほっとするという経験はそう多いものではない。無駄に体に力が入っていたことを自覚しつつ、青葉は息を吐いた。重力が強くなったのではと勘違いしたくなる疲労感が辛い。そして気のせいか頭まで重い。
 基地だというあの建物の前でのやりとりは、思い出すだけでも肩がこった。まるで地雷原を歩いているような心地だった。同じような経験はもう二度としたくないと、彼は心底そう思う。
「大丈夫? 青葉」
 すると、前を歩いていた梅花がつと振り返った。長い髪が揺れる様は、相変わらずこの白い空間では目立つ。人以外に色を宿すものがないせいだろう。入口の傍は人通りもないため、なおさらだ。
 それにしても彼女がわざわざ声をかけてくるということは、よほど自分は疲れの滲む気でも漂わせていたらしい。内心で反省しつつ、彼は頭を振った。
「あー平気。ただ、あれが今後も続くのかと思うと気が滅入るな」
「……そうね」
 彼が正直なところを口にすれば、彼女も一瞬だけ躊躇ってから頷いた。念のため周囲をうかがっているのは、他の人間の耳に入れたくない話だからだろう。おそらく神技隊の事情については、どこにも伝わっていないに違いない。
「カルマラさんがいたのはたまたまだからいいけど。シリウスさん……一体いつまであそこにいるのかしら」
 歩調を落とした彼女は困ったように囁いた。彼はその隣へと並び、深く相槌を打つ。問題はそこだ。レーナとシリウスの会話は、軽妙なようでいて危なっかしくてひやひやする。そこに辛辣な表現が入り交じっていること自体はともかくとして、周りへの影響がすさまじいのが厄介だった。当人たちは楽しげでも、それだけでは収まらない。
「まさかずっとなんてことは……」
「ないと思いたいわね」
 しみじみと呟く梅花の声に、青葉は嫌な予感を覚えた。彼女は既に半分諦めている。少なくともしばらくシリウスはあそこにいるつもりなのかもしれない。そもそも彼は何のためにあの場に張り付いているのか、聞きそびれてしまった。監視でもしているのだろうか? 上にとってレーナは信頼できる者ではない。――いや、自分たちにとっても同じだ。
 青葉は瞳をすがめた。よそよそしく刺々しい宮殿の空気を吸い込むと、熱を持っていた頭の奥が冷えていくのを感じる。上――正確にはシリウス――がレーナと交渉し、協力することは決まったが、神技隊が納得しているかといえば否だろう。しかし上の言うことを拒否することもできない。大体、どうして神魔世界に呼び戻されるのかさえ曖昧だ。
 梅花へと一瞥をくれれば、なにやら神妙に考えこんでいる様子だった。歩みこそ落ち着いているが、その胸中はいかほどのものだろう。レーナが作るあの基地に住む日常を考えるだけで、青葉は胸の奥がざわつくというのに。
「ところで梅花、これからどこに向かうつもりだ?」
 その不安から目を逸らしたくて、彼はまず現実的な問いかけを放った。基地を離れて宮殿に戻ってきたのはいいが、梅花がこれから何をするつもりなのか確認していなかった。
「リューさんのところ。住居のことは確認できたけど、それ以外のことはわからないでしょう? できるなら先手打っておかないと」
 彼女はこちらへ双眸を向けることなく即答した。それもそうかと思いながらも、青葉は首を捻る。多世界戦局専門長官であるリューは、今回の件についてどれだけのことを知らされているのだろう? おそらくほとんど関与していないに違いなかった。だが他に聞く相手もいないのは確かだ。少なくとも神技隊への連絡を任されているのは間違いなくリューだった。
「まず確認しなきゃいけないのは生活費なのよ」
 しみじみとした梅花の声音に、青葉は絶句した。そういった心配が頭の中から消え去っていたことを自覚せざるを得なかった。無世界では自らで稼がなければどうしようもなかったが、神魔世界ではそうではない。これはどう考えても、明らかに、上からの命令だ。つまり宮殿の仕事だ。給料が払われてしかるべきである。
「どうも物品支給する気配とかなさそうだし、それなら無報酬というのは困るわよね。どれだけ危険に晒されるのかもわからないのに」
 抑揚の乏しい淡々とした言い様だが、彼女が半ば呆れ半ば憤っているのは感じ取れた。珍しいことだ。無理を言われるのは慣れているからどうでもいいという態度を取ってばかりいたが、さすがに今回は別なのか。それとも、他人まで関わることだからなのか。――おそらく後者だからだろうと、彼は推測する。
「まあそうだな。衣食住は大事だからな」
「……そうね。せめて安定した食事の確保だけは早急にと、念押ししておかないとね」
 歩きながら彼女は軽く肩をすくめた。宮殿での日々を思い出したのかもしれない。先日、皆が負傷している時とて、神技隊の食事の用意のことなど誰も考慮してくれなかった。彼女が動かなければどうにもならなかった。上はどうやら、その辺りの視点が抜け落ちているらしい。
 先ほどのレーナの話を考えれば、十一月に入った頃には神魔世界に呼び戻される可能性が高い。それまでにできる限りの不安は解消しておきたいところだ。
 そう考えるのと同時に、こんなことまで気を回さなければならない現状に辟易とする。自分たちの立場とは一体なんなのか。冷たい宮殿の中を歩くのと同じくらいに、腑の底が重くなる。
「先に話を通しておかないと、結論が出されるまで時間が掛かるだろうし」
 話しかけるというよりも独りごちるような梅花の顔を、青葉はちらと見た。こうして他者のためにとあれこれ考えている時の彼女の気は、ひどく静かだ。自分自身やレーナのことが関わらなければ、どんな理不尽でも、彼女は冷静に受け止めて解釈しようとする。そしてその中でできる限り最良の道を選び出そうとする。わずかに歩調を落とした彼は、ぐっと息を呑んだ。
「梅花」
 呼びかければ、怪訝そうに振り返った彼女は足を止めた。さらにこの廊下を進めば、人の通りがぐっと増えることを彼は知っている。尋ねるなら、その前でなければならなかった。
「どうかしたの?」
「……遊園地で、ちゃんと話せたのか?」
 彼も立ち止まった。彼女が固唾を呑むのと同時に、空気が一気に張り詰める。今日になって突然踏み込まれるとは思わなかったのだろう。彼女の気に動揺が滲んだ。
 彼とてずっと迷っていた。だが今日を逃せば永遠に有耶無耶となるような予感があった。次々と迫る謎と、やらなければならない数多の出来事の海に流されてしまう気がする。
「よく、見てたわね」
 逡巡の後に、彼女は肩を落とした。気づかれているとは思わなかったらしい。彼は曖昧に首を縦に振る。
 遊園地での別れ際のこと、彼女がありかに呼び止められていたのは目にしていた。さすがに後をつけるわけにも耳を澄ませるわけにもいかなかったが、ずっと気に掛かっていた。何らかのやりとりがあったのは確かだろう。あれから梅花は何も言わなかったし、おかしな様子も見受けられなかったから、悪い話ではなかったのだと思いたいところだ。
「別に、そんな大層な話ではないわよ。みんなを待たせるわけにもいかなかったし」
 彼女はそっと視線を外す。廊下の向こうから伝わる喧噪をじっと見据えるような横顔を、彼は黙って見つめた。周囲から受ける「円満」を望む期待は、きっと彼女には重いのだろう。それは家族と関わる度に、彼女が見せる眼差しからも読み取れた。どうにかその重圧から解放してやりたいとも思うが、そのためにはどうすればよいのか彼には判断がつかない。
「ただ、手紙を書く約束をしただけ」
 ふっと彼女は息を吐き出した。思わぬ話に彼は眼を見開く。世界をまたいで私的に通信するなどまず許されないが、手紙を送る手段ならあるのだろうか? 彼女がわずかに視線を落とすと、ふわりと髪が揺れた。白い指先が、彼女の上着の裾を掴むのが見える。
「今さらだけど、手紙って便利だなって気づいたのよ。文字には気が宿らないでしょう? 余計な情報を感じ取らなくてもすむし、他の誰の目を気にすることもない。何をどう伝えるのか吟味することもできる。写真も同じで、そこからは気が感じ取れないから、写っているものが全てなのよ。不思議よね。たったそれだけのことなのに、救われたような気持ちになるのって」
 ふいと彼女の声が和らいだ。ああ、そうかと彼は頷く。彼女を苦しめる多種多様な気の圧迫感も、彼女が気の感知に優れているが故に生じる痛みも、別の物を介したやりとりになれば薄らぐのだ。文字でしか情報が読み取れないことは不便かもしれないが、それが彼女には救いとなる。付随するあらゆるものに心を削られなくてもすむ方法なのだ。

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