white minds 第二部 ―疑念機密―

第一章「戦線調整」4

 どうしてこんなことになったのだろう。以前にも同じような心境に至ったことを思い出しながら、青葉は空を見上げた。
 今日は快晴だ。見事な青空にうっすらと雲がかかる程度で、少し歩くだけで汗が噴き出る陽気だった。小春日和というのはこういう気候のことを言うのだろうか。行楽にはうってつけな日だ。
「これ美味しいー」
 声のした右手へと視線をやれば、ソフトクリームを手にしたようがにこにこと笑顔を振りまいている。その背後を、きゃーきゃーと騒ぐ子どもたちが通り過ぎていった。敷地内を流れる陽気な音楽にも負けず、周囲の者は楽しげに歓声を上げている。浮いているのは青葉たちくらいなものだろう。
「アサキの方は?」
「こっちは普通のバニラでぇーす。こっちも美味しいでぇーす」
 いや、青葉たち全員が浮いているわけではない。ようは完全にこの賑やかな場に馴染んでいた。その適応力のすさまじさに驚くべきなのか否か、青葉には判断できない。
 この場にいるのが自分たちだけなら、もう少しこの空気を味わうこともできたかもしれない。青葉とて本来ならこのまたとない機会を楽しみたいところだった。そう思いつつ彼が後ろへ一瞥をくれると同時に、ようがまた嬉々とした声を上げた。
「本当楽しいねー。こんな場所があるなんて、無世界ってすごいな。連れてきてくれてありがとう、乱雲さん」
 くるりと振り向いたようの視線の先で、乱雲がふわりと微笑んだ。「楽しんでもらえてよかったよ」と答えながらゆったり近づいてくる様が、青葉の目には妙に眩しく映る。
 ――どうしてこんなことになったのか。青葉は再びそんな疑問を胸中で繰り返した。
 遊園地へのお誘いは、乱雲たちの方からだった。挨拶へ行くタイミングをうかがっていた矢先に向こうから訪ねられ、喫驚したあの日のことは忘れられそうにない。梅花曰く「みんな急に気を隠さなくなったから、何かあると思ったんでしょう」だそうだ。確かに、無世界に戻った途端に神技隊が突然気を隠さなくなれば、訝しんでもおかしくはないのか。
 だが成り行きとはいえ、まさかこんな事態になるとはいまだに信じがたい。もちろん梅花も予想はしていなかっただろう。
 青葉は恐る恐る左手を見遣った。普段以上に青い顔をした梅花は、所在なげにひっそりとたたずんでいる。この賑やかで活気に満ちた空間が、彼女としては居心地が悪いに違いない。大概の乗り物の誘いを彼女は拒否していた。
 遊園地の同行というのが一体誰の発案なのか、気にならないわけではなかった。それでも青葉には尋ねる勇気がなかった。今は流れに任せて、ただ何事もなく一日が終わるのを待つばかりだ。そういう観点では、ようが率先して楽しんでくれているのは非常に助かる。お気に入りのレモン色のパーカーを着ているところを見ても、彼がどれだけこの日を楽しみにしていたのかは明らかだった。
「なかなか来られる場所でもないから、晴れてよかった」
 はしゃぐようを見守る乱雲の眼差しは温かい。こうした機会が設けられたことを純粋に喜んでいるのだろう。一方、青葉の心中は複雑だ。今は水を差さないようにするのが精一杯だった。何度ため息を飲み込んだことか。
「うん、本当によかった。楽しいなー。神魔世界にはこういうのないからねー」
「オレがこっちに来て一番驚いたのがこの遊園地なんだ。まさか遊ぶための設備がこんなに整ってるなんて思ってもみなくて」
 喧噪の中、ようと乱雲の朗らかな会話が続く。確かに神魔世界ではこんな設備は実現しない。技使いの子どもたちに破壊される恐れがあるため、まず安全が図れない。そもそも神魔世界では機械で何かを作るということが一般的ではなかった。できたとしても維持するのは難しいだろう。
 そういう意味では、この遊園地という設備は無世界の象徴にも等しい。乱雲が驚いたのもわかるし、神技隊を連れて行きたいと思ったのも理解できる。
 しかし乱雲の家族とシークレットで、というこの状況は望ましくなかっただろう。もっとも、仲間たちが興味を示さなかったら梅花は了解しなかっただろうから、乱雲の作戦だったのかもしれないが。
「梅花、顔色悪いですけど大丈夫でぇーすか? サイゾウも青いでぇーす」
 そこで後ろを振り返ったアサキが困ったように声を上げた。言われてみると、梅花だけでなくその後ろにいるサイゾウの顔も土気色になっている。先ほど乗ったマシンの影響だろうか? 空を飛べる技使いだから上空で振り回されることくらい平気かと思ったのだが、こういったものはまた別らしい。
「だ、大丈夫……と言いたいが、くらくらする」
 わずかに目を背けたサイゾウの顔は虚ろだ。考えてみると、サイゾウは普通の乗り物でも酔いやすい方だった。それなのに絶叫系などと言われているマシンに乗り込んだのはまずかっただろう。ようの誘いを断れなかったサイゾウが悪い、と言い切ってしまうのはかわいそうか。
「無理はしない方がいいよ。オレもどちらかと言えば苦手なんだ。自分の思い通りにならないのって、結構堪えるよな」
 どことなくぎこちない空気が流れたところで、すかさず乱雲が助け船を出す。先ほどからずっとこの調子だ。ぎすぎすとした雰囲気が広がらないように、彼は常に気を遣っている。神経がすり減ってしまうのではないかと心配になるほどだ。
 その原因の半分ほどは、ありかやあすず、梅花の距離感のせいだろう。遊園地に来てから、彼女たちはほとんど言葉を交わしていない。そもそも梅花は他者とのやりとりを最低限にするのが常だが、それを知らない彼女の家族の目にどう映っているのかは推して知るべしだ。いらぬ勘違いをされている可能性は高い。ありかが率先して飲み物を買いに行ったのも、息苦しさに耐えかねたからに違いなかった。
「私のことは気にしないで。単なる人酔いだから」
 アサキの視線を感じたらしく、梅花は言葉少なにそう答えた。いつも通りの淡々とした物言いだった。確かに彼女は人混みが苦手だ。好き勝手に走り回る子ども、振り回される親たち、若者の集団が思い思いの行動を取るこの園内は、彼女の得意とするような場所ではないだろう。雑多な気の集まりのようなものだ。
「そうでぇーすか? でも心配でぇーすー」
 アサキは笑顔を取り繕いながらきょろきょろとする。ありか、あすずが戻ってこないか密かに確認しているのだろう。買い物に行っただけの割に遅い……と勘ぐってしまうのは、青葉の中に懸念があるからかもしれない。
 すると梅花は鞄を抱え込むように手に力を込めた。
「ええ、こんなに人がいるとは思っていなくて」
 囁くように付言した梅花は、かすかに瞳を細めた。軽く髪を結わえた今日の彼女の服は、そのほとんどがリンから押しつけられたものだ。昨日憂鬱そうな顔で服選びに悩んでいたのは知っている。結局は動きやすさを優先した結果、以前に力説された組み合わせになったようだ。見目にこだわらない梅花がそうまでしてこの日に立ち向かおうとしていた心境を考えると、この現状に青葉の胸も重くなる。
「本当でぇーすね。人がいっぱいでぇーす。あの乗り物なんてすごい列でぇーす!」
 何事もなくこの日を乗り切り、心残りなく神魔世界へと向かわせたい。そんな青葉の願いが伝わっているはずはないのだが、アサキもどことなくそわそわ落ち着かなかった。いつもより声が高いのは、緊張を隠そうとしているせいだろうか。
「そうね。人気なのかしら。お金払ってもらってるんだし、気になるものがあるなら私は気にしないで乗ってきて」
 控えめに告げる梅花の声は、すぐさま周囲のざわめきに掻き消された。シークレットの面々にはもちろん金銭的余裕がないため、全て乱雲に払ってもらっているという大変心苦しい状況だ。今までの梅花なら全力で断っていただろう。そうしなかった理由は、きっとあの日の乱雲の表情にあるに違いない。
「こんな機会二度とないわ」
 梅花はうっすら口元を緩める。彼女の言葉を乱雲がどのような思いで聞いているのか、青葉には推し量ることもできなかった。アサキがどこか複雑そうに顔を歪ませたのも、乱雲の気持ちを想像しようとしたからだろう。梅花の両親についての話は、戦闘用着衣を受け取る際におおよそ説明済みだ。だがそれ以上の細かい事情については話していなかった。それでもアサキなら、この空気から何か感じ取るものがあるだろう。
「うーん、アサキは何でも気になりまぁーすが。皆はどうでぇーすかねぇ? どうせなら皆で乗りたいでぇーす」
 沈黙を避けるように、アサキは周囲へと視線を巡らせた。遊園地は広すぎてどこにどんな乗り物があるのか把握することも困難だ。もう少し酔いにくい乗り物もあるのだろうか?
「そうなると、まずサイゾウが乗れるかどうか……」
 青葉はちらと右手を見遣った。すると若者たちの集団がたわむれているその向こう側に、ありかとあすずの顔が見えた。ペットボトルと紙コップを持った姿は、軽快な服のせいもあってこの空間に溶け込んで見える。姉とは違い、あすずの服装は華やかな色合いが多い。ここにも何度も来たことがあるというから、こうした娯楽施設が好きなのかもしれない。
「ああ、おかえり」
 二人が近づいてきたことに気づいて、乱雲が振り返った。鞄を掴む梅花の手にますます力が入るのが、青葉の目に映る。
「遅くなってごめんなさい」
 ゆったり近づいてきたありかがにこりと微笑んだ。その斜め後をついてきているあすずは、不満と気恥ずかしさを足して二で割ったような気と顔をしていた。おそらく今回のこのお出かけを一番複雑に思っているのはこの少女であろう。何故自分が巻き込まれているのかと感じていても不思議ではない。
「結構並んでいて」
 ありかが頭を傾けると、長い茜色のスカートが揺れる。あすずが遅れていないことをちらと確認するその横顔には、やはり何らかの期待が滲んでいた。
 姉妹仲良くなって欲しいという乱雲たちの気持ちもわかる。しかし思惑を向けられた娘たちの心中は、置き去りなのではないか。青葉はついそう懸念してしまう。
 しかし、ここでこのまま言葉を交わすことなく終わればどうなるか。何も言わずに離れることになれば、彼女たちはどう思うのか。もう二度と会えない可能性さえあるのだ。そう考えれば、強引にでもこの場を用意したことに対して、自分勝手だと責める気にもなれなかった。そもそも、半分部外者な青葉にあれこれ口出す権利などないのかもしれない。
「今日は一段と暑いわね。人も多くて」
 一歩前へ進み出たありかは、お茶のペットボトルを乱雲へと二つ手渡す。その横を、忽然とあすずがすり抜けた。あ、と思う暇もなかった。二つに結われた黒髪が、青葉の目の前を軽やかに通り過ぎる。
「はい」
 強ばった声を出したあすずは、紙コップを真っ直ぐに差し出した。その先にいたのは梅花だった。一瞬、時間の流れが止まったように感じられた。青葉は思わずありかや乱雲へと一瞥をくれる。しかし二人とも呆気にとられた顔をしていた。つまり、このタイミングでの行動というのは、二人の差し金ではないらしい。にわかに広がる緊張感に、自ずと青葉の喉は鳴った。
「あ、ありがとう」
「……私も、酔いやすいから」
 戸惑う梅花に、あすずは素っ気なく答える。それは人にという意味だろうか。乗り物にという意味だろうか。
「これ」
 ぐいと押し出された紙コップを、梅花は静かに受け取った。蓋に突き刺さっている赤いストローがかすかに揺れる。
 コップを一瞥する梅花の気には当惑しか含まれていなかった。一方、あすずの気にはあらゆる感情が入り交じっており、この行為が苦渋の決断から来るものであることを匂わせている。両親から何か言われていたのか? それとも以前の自分の言動を後悔しているのか? 何にせよ、今この瞬間、この少女はあえて一歩を踏み出したのだ。
「ここで飲むレモンスカッシュ、一番好きなの」
 そっぽを向いて付言したあすずは、すぐさま踵を返した。その小さな背中を梅花はじっと見つめてから、手にした紙コップへとまた視線を落とす。表情は大きく変わらないが、気には動揺が表れている。しかし、技使いではないあすずには伝わっていないはずだ。振り向く素振りもなく乱雲のもとへ走って行くあすずを横目に、青葉は固唾を呑んだ。胃の底に張り付くような緊迫感が、胸をひりひりと焼く。
 周囲から視線が注がれていることも、梅花は気づいているだろう。皆が複雑な気でもって成り行きを見守っていることも、わかっているだろう。それでも意を決して、彼女はおずおずとストローに口をつけた。
「――美味しい」
 ぽつりと落とされた感想は、あすずには届いていないはずだ。それでも辺りを包む空気が和らいだことは感じ取れただろうか?
 青葉はそこはかとないむずがゆさを覚え、首の後ろを掻いた。この日の味はきっとずっと梅花の中に残るのだろうと、そんな予感があった。



「ねえアース、レーナはさっきから何やってるの?」
 涼やかな風が吹き渡る中、退屈だと言わんばかりにイレイの問いかける声が鼓膜を揺らした。適当に剣の素振りをしていたアースは、手を止めて振り返る。
「ほら、あそこ。ずっとああしてる」
 草原の中で、イレイは前方を指さしていた。その先では、大きな紙を地面に広げたレーナが腕組みをしている。そこだけ草が刈り取られているのは、先ほど彼女が技を使ったからだ。アースは「ああ」と気のない声を漏らしつつ瞳をすがめる。
「設計図を作ってるんだそうだ」
 イレイは先ほどまでそこらをぶらぶら歩き回っていたから、話を聞いていなかったのだろう。シリウスに尋ねられたレーナが笑顔で答える様が、アースの脳裏に蘇る。何度見ても不愉快な光景だ。
「設計図って、基地の?」
「だろうな」
 アースは剣を草原に突き立てると、軽く肩をすくめた。場所を定めてからというもの、レーナはずっとあの調子で紙を睨み付けていた。彼女が黙り込んでいるので、その傍にいるシリウスも無言だ。退屈そうにぼんやり遠くを眺めているようにも見えるが、彼に隙がないことはアースにもわかる。
「まだかかりそうなんだね。暇だなー」
 唇を尖らせたイレイは、片足をぶらぶらと振った。大きな靴に蹴られた長草がざわざわと音を立てる。だからといって話し相手に選んでもらっても困るのだがと、アースは顔をしかめた。
「ならば、ネオンやカイキと一緒に海へ行けばよかっただろう」
「海ってあの森の近くでしょう? 僕、あそこは飽きたな」
 ふてくされたイレイの声が、静かな空気をまた揺らした。ここはただひたすら広がる空と緑があるばかりで、目新しいものなどない。カイキたちがいなければ暇を持て余すのは当然なのだが、それをイレイに指摘しても無駄だろうか。
「ねえねえレーナ」
 耐えかねたイレイはぴょんと飛び跳ねると、そのままレーナの方へ寄っていった。邪魔するべきではないと言いたくなるが、そうするより早く彼女は顔を上げる。笑顔で小首を傾げる様相はいつも通りだ。
「どうかしたのか?」
「僕暇だよー。ここじゃ何もできない。町へ行くのはそこの青い人が駄目だって言うし。何かないの?」
 立ち止まったイレイは、びしりと傍にいるシリウスを指さした。青い人というのが自分を指していることに気づいたシリウスは、苦笑しながらイレイへと一瞥をくれている。アースらはシリウスに話しかけるつもりなどなかったが、イレイだけは別だ。彼は相手がどんな立場の誰であれ意に介さない。自分の用件の方を重視する。
「当たり前だ。私はお前たちの見張りだからな」
「え、じゃあ何で海はいいの!?」
 イレイの素っ頓狂な声が辺りに響いた。気怠げな目を向けることが多いシリウスも、イレイが相手だとどことなく苦笑を飲み込んだような顔をするのが意外だ。イレイはずんずんとシリウスの方へ詰め寄らんばかりに近づいていく。
「何が違うの!?」
「海沿いであれば、技さえ使わなければ他者への影響は皆無だ。あそこに人間はいないからな。まあケイルたちに言わせれば本当はよくないんだろうが」
 シリウスは一瞬だけ空へと目を向けた。まるでそこに誰かがいるような眼差しは、レーナが遠くを見ている時のことを彷彿とさせる。アースの奥底で、また何かが焦げ付いた。気がついていたことだが、この二人はどこか似ている。

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