white minds 第一部 ―邂逅到達―

第七章「受容と瓦解と」7

「お帰り!」
 レーナが洞窟に足を踏み入れると同時に、朗らかな挨拶が響き渡った。この声はイレイだ。視線を向ければ、飛び上がるようにして立ち上がったイレイが大きく両腕を振っている。彼がそうしても余裕がある程度に、この穴は大きかった。数十人は優に入れるだろうか。リシヤの森の裏――海側には、こうした洞窟が無数にある。おそらく、そのほとんどが大戦の名残だろう。『鍵』の周囲が最も激しい戦乱の場となっていたと、噂には聞いている。
「元気そうだね、よかった」
 イレイが快活な足取りで近づいてくるのを見遣り、レーナは岩壁に触れたまま薄く微笑んだ。ここらは空間の歪みが強いので、彼らには彼女の気配が掴めない。神から気を隠さなくてもすむのは利点だが、仲間の安否も把握しづらいのは難点だった。いつものこととはいえ、心配をかけるのは申し訳がない。
「ああ、ただいま。こちらは特に何事も?」
「なかったよ!」
 レーナからは彼らの気がわかるので、問題がなかったのは把握済みだが。それでも念のため確認するのは通例だ。笑った彼女がポンと軽くイレイの腕を叩くと、嬉しげな顔をされるのもいつも通り。イレイはいちいち反応が大袈裟だ。今にも踊り出しそうな動きをしたせいか、洞窟奥からカイキとネオンの笑い声がする。
「ちゃーんとおとなしくしてたから!」
 イレイが胸を張るのとほぼ同時に、背後からアースが近づいてくるのに気がついた。砂利を踏む靴音が鋭い。彼の機嫌が悪いことは先ほどからわかりきったことだったが、どうやら加速させてしまったらしい。気に苛立ちが満ちている。どうしたものかと考えながら振り返ろうとすると、ふわりと肩を抱えるように抱き寄せられた。
「こちらは大ありだがな」
「あは、アースは怒ってるね。レーナまた何かしたの?」
「いや、われは何も――」
「あのよくわからん人間どもをご丁寧にも治してやっただろ」
 体に回された片腕を見下ろし、レーナは微苦笑を浮かべた。彼女が体勢を崩さない程度の力加減は、ひとえに慣れによるものだ。この状況はイレイも見慣れてしまっているせいで、今さら動揺する素振りもなかった。たった数ヶ月のことなのに、繰り返される日常は確実に彼らの中に浸透している。
 この実に気安い接触については今さら何も言うつもりはないが、たったあれだけの「治療」に機嫌を損ねられのは悩ましい。これから先が思いやられる。手を振り払うとますます事態が悪化するのは明白だったので、彼女は仕方なく彼の手を軽く叩くに留めた。
「大したことじゃあない。それに、あれだけ精神が減ってしまっては回復に時間が掛かる。昏々と眠っても難しい。それではこっちが困るんだ。だからちょっと注いでやっただけで……」
「え、レーナは他の人に精神あげちゃったの? それはアースも怒るよー」
 どうにか事態を打開したいと言葉を紡いだのが、逆にあだとなった。イレイを味方につけるのに失敗した。完全なしくじりを自覚したレーナは、助けを求めるよう奥のカイキたちに視線を送る。だが予想通り、首を横に振られるばかり。二人の気は「諦めろ」と言っている。否、「それはお前が悪い」かもしれない。
 こういった技に関しては、彼女の当たり前と彼らの当たり前のずれが大きい。これくらいのことは本当に何てことないのに、無闇に心配されると困りものだ。彼女は首を捻りながら逃げ道を探す。
「いや、そうは言ってもこれくらいはな……」
「お前の減った精神はどうなるんだ」
 アースの声に苦々しさが混じり、もう一方の手で頭を撫でられた。長めの前髪が視界の端で踊る。そのまま頬に手を添えられ顔をのぞき込まれると、視線を逸らすことも難しかった。近すぎると文句を言っても、耳元で話すのも止めて欲しいと言っても、結局は無意味なのがわかっていたので、レーナは仕方なく曖昧に微笑む。するとますます彼の眉根が寄った。どうやらこの対応も不正解らしい。
「われの精神なら大丈夫」
 ならば次の手を考えなければいけない。そもそも、精神が減ったといっても誤差の範囲内だ。千あるうちの一にも満たない量なのだが、そう説明したところで受け入れてはもらえないだろう。彼女の底抜けの精神容量については、おそらくそうそう理解はされない。
「これくらいならすぐに回復するから。ほら、ここにはアースたちがいるし」
 だから破顔してそう答え、レーナは周囲へ視線を巡らせた。決してごまかしでも嘘でもない。大切な者たちと共にあるという喜びは、最大級に近い幸福だ。長らく続いてきた孤独、積み重ねてきたものを振り返ってみても確信できる。「幸せ」という感情は、精神を回復させる最大の効果を持つ。一度に使用できる精神量についてはまだまだ制限はあるが、蓄えについての不安は全くない。
 それなのに、目の前にいるイレイは何とも言い難い顔をした。背後のアースも急に黙り込んだ。向こうに見えるカイキとネオンも何故か真顔で硬直している。またもや選択を間違えたようだ。
「……そういうことさらっと言っちゃうのが、レーナのずるいところだよね」
 皆を代弁するようにイレイが苦笑した。ほぼ同時にアースの重たげなため息が降り落ちてきて、頬に触れていた手が離れる。ずるいなどと言われるのは、レーナとしては心外だった。正直に告げただけなのにその言い様とは。彼女はかすかに頭を傾け、考え込む。どうすれば正しい距離が保てるのか。
「本音を言っただけなのに」
「それ! そういうのが駄目なの! ……レーナが本気だってのは僕でもわかるよ。レーナの気、真っ直ぐ過ぎて怖いし」
「そんなに?」
「そんなに」
 イレイの後ろでは、カイキとネオンが何度も首を縦に振っている。アースが口を挟まないところをみると同意ということか。これでも気を抑えているからましだなんて口にすべきではないなと、レーナは判断した。自分の気がどれだけ特殊で、純度が高く、影響力が大きいかは自覚しているつもりだったが、それでも少々考えてしまう。梅花も心配だ。
 かつて五腹心の一人――レシガがそんな話をしていたなと不意に思い出す。強い気というのはそれだけで毒にもなり得る。行き過ぎると触れ合うことさえ難しくなる。接触欲が強い質だと辛いだろう。
 思案しながら応えを求めていると、不意にイレイと目が合った。かすかな懸念と不満の滲んだ眼差しは覚えがある。彼らが根本的なところで抱いている不安定さの象徴だ。
「別に、レーナを責めたいわけじゃあないんだよ。大体、僕らは何でもレーナに聞いてばかりなのにさあ」
「それは仕方ないだろう? われは苦ではないし。それに、こうしてお前たちと一緒にいられるだけで十分――」
「あーそういうの! それがずるいの! そんな風に言われたら離れられなくなるじゃないっ」
 イレイは子どものように頬を膨らませた。一抹の不安もどこかへ消し去られたような、そんな顔だった。だがレーナは別に彼らを手放したくなくてそう言ったわけでもないし、喜ばせたいわけでもない。ただの本心だ。大切な者と一緒にいるという幸せはずっと遠くにあった。永遠に手に入らないものだと思っていた。知らない振りをする必要も、敵対する必要も逃げる必要もない関係というのは、たとえ多少の苦痛が伴ったとしても幸福なことには間違いない。
「以前にも言ったが。われにずっと付き合っていなくてもいいんだぞ」
 けれども気持ちがこぼれすぎるのはまずいと知っている。幸福の中に浸っていてはいけない。一度絡め取られてしまうと「最悪の場合の判断」ができなくなる。優先順位を間違えてはいけないのだと、思い出さなくてはいけない。自分はレーナだ。何のためにここまで積み重ねてきたのか、この星に来たのか。平穏など束の間のことでしかない。
 だから好意を伝えるにしてもほどほどにしなければ。彼らの不安を和らげる程度でかまわない。「愛情をばら売りしている」と最初に指摘してきたのは誰だっただろうか? レーナの脳裏を幾人かの顔がよぎった。負の感情を押し込めるのには慣れているが、正の感情をというのは難しい。
「馬鹿を言え。そう簡単に離れてやるつもりはない」
 途端、アースの腕の力が強まった。逃がさないと言わんばかりに強く抱き寄せられると、続く言葉が全て霧散してしまう。まるで思考を読み取られたかのようだ。この一月ほどは、距離をとろうとする度に阻まれている気がする。察知されているのか。
 どうしてこうなったのだろうと、レーナは独りごちた。『目覚めた』彼らをこの星に置き去りにするわけにもいかず、かといって他の星に逃がすのも難しく、結局こうして共にいることを選んだのは仕方がないとして。だが、まさかこのような後悔に悩まされるとは思わなかった。最初の距離感を間違えたとしか考えられない。『目覚めた』時から傍にいる存在は、彼らにとっては内側の者だったのだ。
「だからそう何度も聞くな」
「……すまない」
 レーナはアースの腕に手を添える。自分が彼らの加護の対象となっている理由は定かではないが――目覚めた直後の不調をアースに見られたせいかもしれないが――それが見つかっても見つからなくても、現状に変わりはない。選べるのはこれからの道のみだ。故に、彼女にできるのは今から少しでも距離を離すことだけだった。彼ら四人の仲を見ているとその成功率に関して悲観的になりがちだが、心がけくらいは忘れないでおこうと決意する。微苦笑を浮かべた彼女は、アースの手の甲を軽く指で叩いた。
「アース、そろそろこの手を離してくれないか?」
「何故だ?」
「話がしづらい」
 まずはこの体勢をどうにかすべきだろう。抱きしめたままなのはおかしい、という理屈が通じなかった経験があるので、別の言い訳を使うことにした。悪いとは欠片も思ってなさそうな気を放っていたアースは、それでも渋々と彼女を解放する。ちらと横目で見上げれば、まだどこか不服そうな顔をしていた。
「これでいいんだろう」
「うん、ありがとう」
 レーナは乱された前髪を整えながら破顔する。アースは何か言いたげに口を開いたが、しかし結局は声に出さなかった。何か恥ずかしいことを言われそうな気がしていた彼女は、これ幸いにイレイの方へ向き直る。するとイレイは待っていましたと言わんばかりの笑顔で首を傾げた。
「それで、どうだったの? 僕たちのオリジナルには会えた?」
「うん、会えた会えた」
 本当にイレイが聞きたかったのはその点だったのだろう。空気が変わったことに気づいたのか、カイキとネオンが立ち上がるのが見えた。『オリジナル』のことが気に掛かっていたのは間違いない。二人が近寄ってくるのを確認したイレイは、笑顔はそのままにアースへ顔を向ける。
「そっかー。ねえ、アース、どうだった?」
「レーナの言う通り、我々のことを知っているようだったな」
「じゃあ本当に前の僕らに会ってるんだ!」
 アースの声には何故か苦々しいものが含まれている。一方、イレイは好奇心の滲んだ瞳を輝かせ、ぱちんと手を叩いた。その音が景気よく洞窟内に響く。近づいてきたカイキが、おどけた顔でイレイの肩を気安く掴んだ。
「おいおい、それってやっぱり面倒なことになるんじゃないの? 想像したくねー。前のオレたちってどうだったの?」
「僕は知らないよ」
「何度も言ってると思うが、あまり変わらない」
「本当にー?」
 カイキはイレイの肩にもたれかかりながら嘆息した。やはり仲がいい。そうすることが当たり前のような関係だ。すると重いと呻くイレイに代わって、ネオンがカイキのすねを蹴った。手を離したカイキはネオンに向き直り、そのまま軽い口喧嘩が始まる。これもいつもの流れだ。レーナは小首を傾げながら瞳をすがめる。
 何も変わらない。否、変わらないように見える。でも確かに変わっていることは理解しているし、実感もしている。彼らの服も、表情も、言動も、彼女の記憶の中と同じだ。しかし決定的な違いもある。――積み上げてきたものが違う。
「本当に」
 答える声にあらゆる感情が漏れないよう、レーナは気を配った。同じようで同じではない存在。そんな彼らと相対するのは別に初めてのことではない。ただ、今回は、明らかに距離が近すぎただけだ。『最初から』ずっと一緒にいることなどなかったから。
「あーもういい! 悪かったって。それで、前のオレはもっと格好良かったとかそういうのは――」
「ない」
 話題を変えようとするカイキに、アースとネオン、イレイの否定の声が重なった。「何でお前らが答えるんだよ!」と泣きそうな顔で怒鳴るカイキを、今度はイレイがなだめ始める。『生まれた』時から仲がよい理由も、同じような行動をする理由も、レーナにはわからない。消えているように見えるものの中の何かが、彼らに伝わっている可能性はある。そうでなければ名前だけ覚えているというのもおかしな話だ。
「核なのかなぁ」
 ぽつりと、思わず言葉がこぼれた。そしてそれが失言だったと気づいた時には、アースの手がまた頬に伸びてきていた。ふわりと包み込むように撫でてくる大きな手のひらから、レーナはあえて目を逸らす。
「また考え事か?」
「いや、考え事ってほどでは」
 触れすぎだと言えないのも、よくないのだと自覚はしていた。接触欲というのは厄介だなと独りごちりたくなる。長年の反動だ。嫌だと言えないのを見透かされているからこうなるのだろう。神や魔族でもないのにこういう欲求は持っているのだから困ったものだ。レーナはそっと目蓋を伏せる。動揺を気取られないために微笑むのが癖になっているが、この場合はそれも禁じ手か。するとカイキの足がやおら近づいてくるのが視界に入った。
「……アース、前から思ってたんだが」
 顔を上げると、半眼になったカイキが呻くような顔で口を開いていた。そのうろんげな眼差しがアースに向けられる。
「お前、レーナに触りすぎ。嫌がられなけりゃいいって問題じゃないぞ」
「は?」
 どす黒い気を纏ったアースの不機嫌な声に、カイキはあからさまに縮み上がった。こうなるのが目に見えているだろうに、口にしてしまうカイキは懲りないというべきか。わかっていても言いたかったのか。何故か助け船を期待する視線が向けられたので、レーナは微笑むことで答える。この関係も変わらないなと思うと、不思議な心地になる。
 どこが同じで何が違って、そしてこれからどう変化していくのか。どうするのが正しいのか。答えのない不安定さには慣れたつもりだったが、やはりどうしても心が浮かないのは「根本」に関わるからだろう。彼らを傷つけずにすみますようにと、いつも願っている。だが優先順位を考えると、薄暗い心境にもなる。彼女はそれを振り払うよう、瞳を細めて悪戯っぽく笑った。
「いいんだカイキ、気にしないでくれ。ああ、でもアース、もう少し、その、人前は避けてもらえると嬉しいかな」
「何故だ?」
「オリジナルたちに悪影響があるから」
 アースの顔を見上げると、怪訝そうな目を向けられた。悪影響の意味するところは伝わってなさそうだ。それでも彼は渋々と首を縦に振り、静かに手を離す。まだまだ彼らは神技隊らのことなど知らないから仕方ないだろう。気が感じられるばかりに人間でありながらこちら側の苦悩まで負ってしまう技使いという生き物は、実に難儀な存在だ。
「人間っていうのは、我々同様に歪な生き物なんだ」
 付言したレーナはそっと目を伏せた。「神や魔族もだけど」と口にするのは、何故か今は憚られた。

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