white minds 第一部 ―邂逅到達―

第六章「鍵を握る者」8

 真珠色に輝く空を見上げると、いつも苦々しいため息がこぼれる。空が悪いわけではない。それを見上げる気分になる時は、何かがあった後だからだ。柔らい髪を掻きむしるようにして、ミケルダは今日も嘆息した。気持ちが重い。回復室で寝かせられたラウジングの顔を思い出すと、体までだるくなる。
「間に合わなかったなあ」
 回廊の柱に寄りかかり、ミケルダはうなだれた。お節介が全て悪い方悪い方へと作用してしまった。そうとしか思えなかった。こんなことになるなら何もしなければよかったと後悔しそうになる。が、何がどうなったところで悔やむことは悔やむのだろう。彼はそう思い直して目を伏せた。この状況で誰も傷つかずにすむとは考えにくい。
 それでももう少しうまく立ち回れたのではないか。自らの力を過信していると指摘されるかもしれないが、そう思わずにはいられなかった。彼はいつだって最善の道を探し続けている。――この選択が精一杯だったと納得できたことすらなかったが。
「決断されちゃった時点で、オレにはどうにもならなかったのかなぁ」
 誰が何の決断を、というのも定かではない。ケイルたちの作戦か。ラウジングの覚悟か。はたまた別の何かか。いつだって動き出してしまったものを止めることは難しい。嫌な記憶を刺激されてミケルダは顔を歪めた。
「それでもどうにかしたかった」
 繰り返している後悔。苦い気持ちに蓋をしようとしても、こうして何かがある度に顔を出す。長く生きるというのはこういうことなのだ。変化の乏しいこの神界に留まり続けるのならば、その苦悩も少ないかもしれないが。人間たちと関わっていれば、悔恨ばかりが積み上がっていく。それ以上に嬉しいことも楽しいこともあるはずなのに。
「あ、やばい。自責的になってるな」
 ミケルダが慌てて頭を振った、その時だった。白い廊下の向こうから、偉大なる気が近づいてくるのを察知した。続いて響いた規則正しい靴音が、それが間違いではないことを裏付けている。柱から離れ背を正したミケルダは、音の方へ振り返った。
「アルティード様」
 悠然と歩いてくるのはアルティードだ。さらりと揺れる銀の髪が、揺らめくような光を反射して淡く輝いている。その穏やかな瑠璃色の瞳に見据えられ、ミケルダは唇を結んだ。余計なことを言わないようにと肝に銘じておかないと、すぐに弱音を吐き出してしまいそうだった。地球神代表という重苦しい立場にいるにも関わらず、アルティードの言葉はいつも温かい。
「ミケルダ、すまなかったな」
「いえ、オレは何も……」
「ラウジングの様子はどうだ?」
 足を止めたアルティードは頭を傾ける。答えづらいだろう質問を後回しにしてくれた気遣いを感じて、ミケルダは頬を緩めた。一つ一つはさりげないとしても、積み重なった温情はいつもぎりぎりのところでミケルダたちを救ってくれる。
「今は回復室で休んでいます。目覚めるのには、時間が掛かりそうです」
「そうか」
「ですが『核』の傷はさほどではなさそうなので、後遺症はないだろうと」
 ミケルダは相槌を打った。後々に響いてくるのが破壊系の技による核の損傷だ。核は彼らの命にも等しい。それがある一定以上の傷を負ってしまうと、回復も困難となる。どの程度の影響があるかは破壊系の技の精度にもよるし、受けた傷の大きさにも左右される。
「それは幸いなことだな」
 顎に手を当て、アルティードは小さく唸る。考え込む横顔の気難しさに、ミケルダはふと不安を覚えた。ミケルダには見えていない何かに、アルティードはもう勘づいているのではないか。
「アルティード様?」
「いや、それが偶然だったのかと思ってな。さほどではないということは、全く影響がないというわけでもないのだろう?」
 そう問われてミケルダは口をつぐむ。ラウジングの状態を見たのは治癒を得意とする回復専門の者だが、「さほどではない」ということは少しは傷を負ったということだ。つまり、破壊系の技ということになる。今のラウジングの様子を考えれば、技の精度が低かったとは思えない。
「つまり、わざとだったと?」
「まあ、断言はできない。彼女も瀕死だったのだろう? どんな技だったのかは、その場にいた者でないとわからない」
 アルティードはわずかに口の端を上げた。頷いたミケルダは次々と湧き上がる疑問を押し込め、「そうですね」と淡泊に答える。状況を確かめるためには、神技隊にでも話を聞くしかなかった。あの場には、確か梅花がいたはずだ。
「ところでアルティード様、ケイル様とは?」
 話題を変えたくなったところで、ミケルダは密かに気にしていたことを問いかけた。森からラウジングを連れて帰ってきたところ、早々にケイルに見つかり叱責されたのだが。その場から助け出してくれたのはアルティードだった。あの後、おそらく長い議論が繰り広げられたはずだ。
「ああ、そのことか。お前たちは気にしなくていい」
「ええっと、でもですね……」
「ラウジングを負傷させてしまったのは、計画が穴だらけだったからだ。ジーリュも急ぎすぎたな。責任は取ってもらう。しばらくはジーリュには口出しさせないことにした。これでケイルも静かになるだろう」
 さらりと告げられた事実に、ミケルダは息を呑んだ。頭の固いケイルや強行派のジーリュは、ミケルダにとっては天敵のような存在だった。柔軟な対応を心がけるアルティードとはぶつかることも多い。それなのにあっさり非を認めさせたということだ。普段のアルティードならもっと穏便に、回りくどいくらいの方法を使って説得するのだが。――今回の件はアルティードも憤っていたのだろうか。
「そ、そうでしたか」
「森の探索、結界への影響はケイルの部下が担当することになった。お前たちは休んでいてくれ」
 微笑むアルティードの双眸に強い光が見えた気がして、ミケルダは喉を鳴らす。さすがにリシヤの森をあのまま放っておくわけにはいかない。こればかりは人間たちに任せてもおけず、こちらで動かなければならなかった。しかしもとより数が足りないところを、ジーリュ配下の産の神たちが瀕死ときている。ミケルダも駆り出されるものとばかり思っていた矢先に、予想外の言葉だった。
 これはアルティードが憤慨しているという証拠でもある。戦の神の負傷はそれだけ重いのだ。ミケルダは改めて事の重大さを噛み締めた。
「あの、それで、レーナは……」
 そこまで理解したところで、最も気になっていた点に切り込んでみた。重傷を負ったというレーナのその後はわかっていない。気が消えたという報告もあるが、隠されてしまえばわからなかった。するとアルティードは真珠色の空を見上げ、瞳をすがめる。
「死んだ、とケイルは言い切った」
「……え?」
「無論、誰かが確認したわけではない。だが確実に気配は消えたと」
「ええっと、でも、気が消えただけでは――」
「ああ、それだけでは証拠にならない。だから探索するのだと言っていた」
 アルティードの静かな横顔を、ミケルダはまじまじと見つめた。ケイルの言葉に根拠はないように思える。状況証拠から断言できるものではないだろう。ラウジングがエメラルド鉱石の剣をレーナに突き立てたというのは事実のようだが、どの程度の傷だったのかまでは把握できていない。
「それを含めての調査なんですね。いいんですか? ケイル様にだけ任せても」
「ケイルは嘘の報告はしないだろう。生真面目な奴だ。むしろ、徹底的に探し出そうとするはずだ」
「もし、それで見つかったら?」
「生け捕りにするつもりだろう。万が一生きていても今ならそれが可能だと踏んでいるんだ。なに、心配するな。見つかった場合、彼女をどうするかは私の判断が優先される」
 ミケルダへと向き直り、アルティードは微笑む。それ以上踏み込むことを許されぬ空気を感じ取り、ミケルダは首を縦に振った。上の者たちの間で何か駆け引きがあったのだろう。普段はそういうのを毛嫌いしているアルティードだが、今回はそれを利用したようだ。
「ところで、これから部屋に戻るんだが。リシヤの森で倒れた彼女が、どうもそろそろ目覚めそうな感じだ。よければついてきてくれないか? 状況によっては、下に連れていって欲しい」
 そこでアルティードは話題を大きく変えた。即座に首肯したミケルダは、精一杯の笑みを顔に貼り付ける。今の彼にできることは、少しでもアルティードの力になることだけだ。ラウジングが倒れた今、下の様子を見に行ける者は限られている。
「わかりました」
 覇気ある声を心がけ、ミケルダは返事をする。それは白い回廊に響きながら、次第に空気へ溶け込んでいった。頷いたアルティードの眼差しは、相変わらず優しかった。



 部屋の戸をノックする音が響いたのは、真夜中のことだった。微睡んでいた青葉が先に目を覚ましたのは、出入り口のすぐ側にいたからだろう。時計型通信機に視線を落としてから、彼は立ち上がる。隅にある頼りない明かりでは足下までよく見えないため、慎重に扉へ近づいた。
「どちらさんですか?」
 ぼんやりした頭で問いかけながら、扉を開ける。すると見覚えのある青年が立っていた。今朝方、部屋に飛び込んできたミケルダという男だ。廊下の薄明かりの下でも、垂れ気味の目が印象的だった。青葉は首を傾げる。
「えっと……ミケルダさんですよね。何かありましたか?」
「梅花ちゃんはもう寝てる?」
 ミケルダが真っ先に口にしたのは梅花の名だ。その呼び方にはやはり慣れず、青葉はつい眉根を寄せた。馴れ馴れしいという段階を通り越しているが、気安く指摘できる雰囲気でもない。
「こっちは男部屋なんで、隣にいます。普通は寝てる時間ですが、あいつのことだからまだ起きてるかも」
「あ、そっか。そうだよね」
 ミケルダは照れ笑いを浮かべつつ頭を掻く。こちらが男部屋であることがわからなかったのか? 気づきそうなものだが、ミケルダも慌てていたのだろうか。……まさか男女の区別なく部屋に押し込めるのが宮殿の流儀とは思いたくない。
「あれ?」
 そこでミケルダの向こうに、もう一人誰かがいることに気がついた。寝ぼけ眼を必死に凝らした青葉は、次の瞬間息を呑む。そこにいたのはレンカだった。まだ完全に回復しきっていないのか疲れた表情をしているが、しっかり廊下に立つことができている。薄暗いため顔色はわからないが、気に不安定なところは見受けられなかった。
「レンカ先輩?」
 思わずその名を呼ぶと、たたずんでいたレンカは弾かれたように顔を上げた。ようやく現実に思考が戻って来たと言わんばかりの様子だった。薄闇から進み出てきた彼女は、ちらと部屋の中をのぞき込む。
「もう宮殿についていたんですね」
「あ、ごめんねレンカちゃん。もういいよって言ってなかった」
 苦笑したミケルダはぱたぱたと気楽に手を振る。何が「いい」のかわからず青葉が首を捻ると、レンカはにこりと微笑んだ。
「上から下への降り方は見ちゃ駄目なんだそうよ」
「……はあ」
 本当に物理的に降りてきたかのような発言だ。わけがわからず気のない声を漏らした青葉は、ついで誰かが立ち上がる気配を察知する。それが誰なのか認識するよりも先に、耳慣れた声が鼓膜を震わせた。
「レンカ!」
 滝だ。レンカの声を聞きつけたのか、それとも気を感じたのか。何にしろ反応が早い。慌てて右側へ避けると、滝は足早に彼らの方へ寄ってきた。その気には不安と安堵が入り交じっている。
「大丈夫なのか?」
「ごめんなさい、心配かけて。もう平気みたい」
 柔らかに破顔したレンカはちらとミケルダへ視線を送った。もう大丈夫だという合図だろうか。するとわかったと言わんばかりにミケルダは一歩後ろへ下がる。その顔がくしゃりと悪戯っぽく歪んだ。
「じゃあオレはこの辺で」
「あれ? ミケルダさん、梅花に用があったんじゃあ」
「ああ、レンカちゃんを梅花ちゃんに任せようと思って。ただそれだけ。だからいいんだ」
 へらりと笑ったミケルダは、おどけた調子で手をひらひらさせた。今朝とは打って変わって気安い表情、仕草だ。こちらの方が本来の彼なのだろうか? 詳しいことは把握できていないがとりあえず首を縦に振ると、隣にいた滝もほぼ同時に頷いた。
「どうもありがとうございます」
「いやいや、オレはアルティード様に頼まれただけだから」
 本当に用件はそれだけだと言いたげに、ミケルダはゆっくり背を向ける。まさか、このまま何の説明もなく帰るつもりなのか。
「ちょっと待ってくださいっ」
 慌てた青葉よりも早く滝が呼び止めた。怪訝そうに振り返ったミケルダの顔は、一瞬ひどく疲れて見えた。すぐに飄々とした表情に戻ったが、それはあえて装っていたのだろう。わざとらしく肩をすくめて、ミケルダはわずかに頭を傾ける。
「何か用? レンカちゃんに何があったのかは、オレもよく知らないよ」
「それも、もちろん気になるんですが――」
「レーナちゃんのこと? あの後どうなったのかはわかってない。さっき、捜索隊が出発したところだ。消火しながら捜す流れになると思う。……ラウジングのことなら、今は治療中としかいえない。体は回復すると思うけど」
 こちらが知りたいと思っている点については予想できていたらしい。尋ねる言葉すら必要なかった。しかしこうも矢継ぎ早に答えられると、どことなく不快だ。思わず青葉は片眉を跳ね上げる。あえて自分から口にしなかったのは、言いたくなかったからなのか。それとも長話は避けたかったのか。
「……そうですか」
 滝もそれ以上は踏み込めず閉口している。さらなる情報を得るには梅花にでも来てもらうしかなさそうだった。ここで話をしていても女性部屋から出てこないところを見ると、眠っているのだろう。ならば今はそっとしておきたいところか。
「では、もうしばらくは待機ですか?」
 仕方がないと諦めたのか、滝は別の問いかけを口にする。するとミケルダはぱちりと音がしそうな瞬きをしてから、「ああ」と気の抜けた声を漏らした。不自然な笑顔がその口元に浮かぶ。
「うん、たぶん。詳しい話は多世界戦局専門長官から明日辺りにでも行くと思う。細かいことは、オレには決定権がないから」
 その点について尋ねられるとは予想外だという顔だ。上の者ならば知っているだろうと思われたことが、心外だと言いたげな反応だった。今朝からの話を思い返せば、上には上の事情があることはわかる。だが青葉たちは現時点でもミケルダの立ち位置を把握してない。ただ純粋に確認したかっただけなのだが。
 そこで微妙な空気が流れたことを感じ取ったのか、レンカが何気なく扉に触れた。そして周囲を和ませる微笑をたたえて、やんわり頭を傾ける。
「それじゃあミケルダさん。私もそろそろ休みますので」
「あ、そうだね。無理しない方がいいね。おやすみ。とにかく今日はみんなゆっくり休んで。こっちはもう大丈夫だから」
 再びへらっと笑ったミケルダは、手を振りながら踵を返した。今度は誰も声を掛けなかった。薄暗い廊下の向こうへ消えていく背中を黙って見送る。夜特有の静寂の中、幾分のんびりとした靴音が反響した。
 音が聞こえなくなったところで、青葉は大きく息を吐いた。何だか妙な気分にさせる青年だ。上の者にはやはり癖があるものらしい。
「滝、起こしちゃったんでしょう? ごめんなさい」
 すると廊下の向こうへ一瞥をくれてから、レンカは小さく首をすくめた。それは滝にとっては些細な問題だろうと思うのだが。
「いや、それは別に……って、泣いてたのか?」
 不意に、滝の声音が変わった。何のことかわからず青葉が瞳を瞬かせると、滝の気から懸念と不安の色が強く感じられるようになる。レンカははっとしたように目元に触れ、少しだけはにかんだ。気のせいではなかったようだ。さすがは滝だ、目聡い。
「何でもないの。よく覚えていないんだけど、とても悲しい夢を見ていたみたい。ううん、悲しい誰かの気持ちを追っていたのかしら。ただそれだけなの」
「それならいいんだが」
 滝はまだ不安げだ。それでも嘘だと決めつけなかったのは、レンカの気に揺らぎを認めなかったからだろう。強く感情が揺さぶられたのなら、気に表れてくる。しかし彼女の気は穏やかで、波立った様子がなかった。わずかな申し訳なさを感じる程度だ。
「私が倒れてからの話はミケルダさんに簡単に聞いたわ。だから大丈夫。今日はもう休みましょう?」
 頬を緩めたレンカはそっと滝の腕に触れた。それでも滝はまだ何か言いたげだったが、自分が起きていては彼女も休めないと考えたのか。渋々首を縦に振る。これで滝も落ち着いてくれそうだと、青葉は内心ほっとした。わけのわからない状況が続いているが、一つ不安材料が減った。
「そうだな」
 滝の返事が夜の静寂に染み入る。青葉はもう一度ミケルダの言葉を思い出した。この真夜中、月明かりの下で、大勢の上の者がレーナたちの探索を始めているのか。見つかって欲しいのかどうかも青葉には判然としない。自分は何を望んでいるのだろう。明らかなのは、梅花が傷つくような事態にはならないで欲しいということだけだった。もっとも、現時点でもそれが難しいことだとは重々承知している。
「青葉、お前も寝ろよ」
 突然そう注意され、青葉ははたと顔を上げた。滝の何とも言いがたい視線が向けられているのは、考え事をしていると見抜かれたからだろう。まだ滝の中ではやんちゃな子どものままなのかもしれない。
 素直には頷きがたくて気のない声を漏らせば、レンカがくすりと笑い「おやすみなさい」と背を向けた。視界の端で、長い髪がたおやかに揺れる。
 何も解決していない状況でも、時は流れていく。体は休息を求める。抗うことを許されぬ現状に辟易としつつも、青葉はあくびを噛み殺した。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆