white minds 第一部 ―邂逅到達―

第四章「すれ違う指先」1

「アルティード殿!」
 目指す相手が渋い顔をしていることを知りつつも、ラウジングは声を掛けた。白い廊下の先、閉められた扉の前にアルティードはたたずんでいる。目を伏せて今にも嘆息しようとしていた横顔は、今後を憂慮している時のものだった。ラウジングが小走りで寄ると、アルティードはやおら振り返る。
「ラウジングか」
「先ほどちらりと話を聞きましたが、また『忠告』が入ったとか」
 足を止めたラウジングに向かって、アルティードは神妙に頷く。その瑠璃色の双眸を見るに、苦悩しているのは忠告の内容のせいだけではないのだろう。気もそう語っている。アルティードは後方を見やるように視線を外すと、またラウジングへ向き直った。
「下の中央会議室に置き手紙があった。――私宛になっていた」
 よく見ると、アルティードの左手には白い封筒がある。一見すると変哲のない、特徴に乏しい物だった。けれども宛名が問題だ。アルティードを名指ししているというのも驚きだが、そもそも何故その名を知っているのかという点が重大だった。アルティードが『代表者』であることは、外には知られていないはずなのに。
「そんな、そんなはずが……。いえ、でも事実そうなんですね。それで、差出人は?」
「今度は堂々と名前を書いてきた。こちらが気づいたことはわかっている、とでも言いたげにな」
 アルティードは掲げた封筒をひらりと振った。驚くという段階を通り越して、呆れているような声音だった。目眩を覚えたような気になり、ラウジングは額を押さえる。どこまでこちらの状況を見透かしているのだろう。あの少女――レーナは。
「一体、何なんですかあれは。ただの人間なわけがないでしょうし」
「無論それを突き止めなければならない。人間ではないといっても、魔族でもなさそうだな。しかし宇宙にいたことはまず間違いないだろう。……そろそろカルマラが戻ってくる。それらしき噂がないか確かめるつもりだ」
 手紙を凝視したアルティードは軽く肩を落とした。カルマラという名を聞いて、ラウジングの顔は曇る。過去の様々な出来事が一気に押し寄せてきた。彼女の情報だけで足りるのだろうかという一抹の不安が、じわじわと這い上がってくる。おそらく、足りない。
「……本当にカルマラでよかったんですか?」
「ラウジングは相変わらずだな。彼女以外の誰がこんな急な話に対応してくれる?」
「そう言われますと」
 苦笑するアルティードに返す言葉はなく、ラウジングは唇を引き結んだ。アルティードの直属と言われるような者たちの数は、実のところそれほど多くはない。理由は単純で、先の大戦で多くの者が戦力として機能しなくなったからだ。亡くなった者も多いし、生きていたとしても『核』へのダメージが大きく、魔族と相対する危険がある場所へはやれない。
 宇宙を含めて自由自在に動けるのは、限られた実力者と、ラウジングたちのように大戦時にまだ「未熟者」であった世代だけだった。しかも実力者の大半は、宇宙の各地域を任されていて身動きが取れない。だからたとえ力不足だとしても、嘆いてばかりもいられなかった。
「我々は今できる範囲でやるしかない。それはお前もわかっているだろう。――ところで、忠告の内容だが」
 ラウジングがうなだれたことに気がついたのか、アルティードは話題を変えてきた。過去に思いを馳せるのは危険だと思い直し、ラウジングも面を上げる。アルティードの言う通りだ。今ある戦力でこの局面をどうにか切り抜けるしかない。
「半魔族の封印が解けそうになっている、とのことだ。リシヤの結界の一部だな」
 リシヤと聞いて、ラウジングの顔は瞬時に強ばった。先日の戦闘が思い起こされ、口の中に苦い味が広がる。
「……私のせいだとでも言いたいんでしょうか」
「そうではないだろう。リシヤについて、彼女は前々から忠告してきている。それにしても半魔族の封印とまで指定してくるとは、どこまで事情に通じているのか。予想がつかない――」
 不意に、アルティードは押し黙った。あまりにも不自然な声の途切れ方だった。不思議に思ってラウジングは首を傾げ、もう一度辺りを確認する。廊下には誰の気配もないし、近づいてくる気も感じない。立ち聞きされる危険を感じて口を閉ざしたわけではないようだ。
「考えてみると、彼女たちの名前。特徴的だな」
 しみじみとアルティードは呟いた。何を言いたいのか、ラウジングにはわからなかった。「たち」というのだからレーナのみではないのだろう。しかしラウジングには全く心当たりがない。
「レーナ、という名前がですか?」
「ああ、お前たちは知らないか。かつて大戦時、星々を一定の範囲でまとめて呼び名を付けていたのだ。その一つがレーナ連合だ。そこから順にこの星から遠ざかる位置にイレイ、カイキ、ネオンがある」
 説明を聞くにつれて、ラウジングの背筋を冷たいものが這い上がってきた。確かに、それは特徴的だ。偶然同じだったとは思えない。あえてつけられたものだろう。
「では、アースは……」
「ここ、地球がアースだ。ここだけは連合ではないがな。ちなみに言っておくが、この呼び名は我々のみが使用していたもので、魔族は知らない。大戦も終盤になるとまとめる意味がなくなっていたので、知っている者の方が少ないかもな」
 絞り出されたアルティードの声が、ラウジングの鼓膜を揺らす。ぞっとした。それでは神の一部のみが知り得ていた名称を、わざわざ彼らに与えた者がいるということなのか。くらくらとしてきて、ラウジングは一度固く目を瞑る。混乱していた。本当に、彼女たちは一体何者なのか?
「我々の事情にも通じている存在か。ますます得体が知れないな」
 目を開くと、アルティードは沈鬱な面持ちで腕組みしていた。ラウジングが予期していたよりも事態は複雑なのかもしれない。ただ神技隊が絡まれているという範囲では収まらず、もっと大きく何かが動き出している。
「アルティード殿。こうなってくると、やはりシリウス殿に来てもらった方がいいのでは……」
「そうだな、考えておく」
 以前は渋っていたアルティードも、今度ばかりは即座に首を縦に振った。現時点で唯一自由に動ける実力者を呼び戻すことは、重大な決断の一つだ。しかし今回ばかりはそうせざるを得ないだろう。手遅れになってからではどうしようもない。
 気怠げな眼差しで嘆息するアルティードの横顔からは、決意を固めようという意志が感じられた。何においてもこの星の平穏を守ることが彼らに課せられた使命だ。
「あいつなら宇宙の情勢にも詳しいだろう。何か知っているかもしれない」
「そうですね」
「それまでどうにか保たせてくれ、ラウジング。頼む。私はケイルのところに行ってくる。こんなあからさまな挑戦状が来てしまうと、あいつも反応するだろうからな」
 アルティードは手の中の手紙をまた振った。頷いたラウジングは、向けられた大きな背を見送りつつ顔をしかめる。問題は山積みでいっこうに減る様子はない。アルティードの心労もいかほどのものだろう。ラウジングたちでは、どう努力してもそれを軽くすることはできなかった。可能なのはおそらく一人だけだ。
「早く戻ってきてください、シリウス殿」
 祈るような言葉を、ラウジングは口にした。遠ざかっていく足音さえも、重たげに響いているように思えた。



 この真っ白な小部屋に閉じ込められて、どれくらいの時間が経過しただろう。青葉は白い椅子に腰掛け、机の表面を指で叩いていた。気で周囲の状況を判断しようにも、妙な気配が満ち溢れていてうまくいかない。窓もないため外を眺めることもできず、仕方なく考え事をしていた。梅花のこと、乱雲のこと、そして父親のこと。
 待ちくたびれて苛立ちが増した頃に、ようやく扉をノックする音がした。「はい」とだけぶっきらぼうに返事をすると、ゆっくり戸が開く。その隙間から静かに顔を出したのは梅花だった。
「ただいま」
「梅花!」
 青葉は勢いよく立ち上がった。押しのけられた椅子がガタリと大きな音を立てる。後ろ手で扉を閉める梅花の下へ、彼は急ぎ足で近づいた。彼女は一寸扉の向こうを気にする素振りを見せてから、小さく相槌を打つ。
「待ったでしょう、ごめんなさい」
「いや、それはいいけど。大丈夫だったのか? 上は何て?」
「何も。話が長引きそうな感じよ」
 扉にもたれかかった梅花は微苦笑を浮かべた。その答えは青葉も半ば予想していたことだ。予期しない出来事について、上の対応はいつも後れがちだ。慎重すぎるのか、それとも意見が割れやすいのかは定かではない。
「でも、それはゲートの件だけのせいじゃないみたいなのよね」
 しかし続く梅花の言葉は想定外で、青葉は首を傾げた。てっきり上が最も重要視しているゲートについての判断だから、時間を掛けているのかと思ったのだが。
「困ったものね」
 思案するように瞳を伏せている梅花の様子は、普段通りだった。そのことに安堵すべきか否かは悩ましいところだ。上や仕事について考えることで気持ちが鎮まってきているのならばいいが、そうでないとすれば無理をしている証拠になる。だが今踏み込むべき時ではないだろうと、彼は別の疑問を口にした。
「他にも何か起きてるっていうのか?」
「さあ。リューさんもそれは知らないみたいだけど、上の動きがそんな感じ。念のためってことでフライング先輩やピークスも待機させられてるみたいなのよ。リシヤの森で、交戦もあったようね」
 交戦と聞くと、アースたちの姿が脳裏をよぎる。いきなり神技隊に喧嘩を売ってくるような人物の心当たりはそれしかない。いや、青い髪の男もいたか。しかし無世界だけではなく神魔世界にも現れるのだろうか? そもそも彼らが普段どこにいるのかもわかっていない。亜空間にも姿を見せたことを思い起こすと、どこにでも出向いてきそうなものだが。
「じゃあピークスたちに話を聞けば、何があったかわかるんだな」
 上が教えてくれないとなれば、直接仲間に聞くしかない。少なくとも誰と戦ったのかくらいはわかるだろう。俯き気味のままの梅花を見下ろし、青葉は辺りの気を探ろうとした。だがすぐに断念する。よく見知った気を見つけるのにも苦労するのに、朧気にしか覚えていない仲間たちの気を探し出すことは困難だった。すると彼女は少し顔を上げ、かすかに眉尻を下げた。
「そうね。ただ、私はこれからラウジングさんと話をする予定なのよ。リューさんを通してじゃなくってところが嫌ね。いい話ではなさそう」
 梅花は今にもため息を吐きそうな表情を浮かべた。浮かない様子なのはそのせいなのか。いや、それだけではないだろうが。青葉はどう反応していいのか逡巡しながらも、ぽんと彼女の頭に手をのせる。
「それじゃあオレがピークスたちを探す」
 梅花に自由がないというのなら、青葉が動くしかない。どうせ彼女が戻ってくるまで時間は掛かるだろう。暇をもてあましているよりは何かやっていた方がましだった。この不親切極まりない宮殿内を歩き回るのは、本来なら避けたいところだが。
「探す必要はないわ。どこに待機させられてるかは聞いてきたから」
「何だよ、それじゃあ話は簡単だ」
「……ここからだいぶ離れてるけどね」
 苦笑した梅花は言葉を濁した。彼女が何を心配しているのか理解して、青葉は目を逸らす。このわかりにくい作りに定評のある宮殿は、慣れない者が歩くとまず間違いなく迷う。部屋や廊下の作りがよく似ているにもかかわらず複雑に入り組んでおり、しかも案内というものがない。彼も神技隊に選ばれてから派遣されるまでは出入りしていたが、限られた区画だけだった。その外のことは把握していない。
「まあ、何とか、なるだろ……」
「本当に? それならいいけど。じゃあ場所を説明するわね」
 扉から背を離した梅花は、青葉の側を擦り抜けて奥へ向かう。その先には、棚と呼ぶのも憚られるような小さな白い箱状の物があった。角に置かれているので気にも留めなかったが、中に何か入っているらしい。梅花は戸を開けるとそこから紙とペンを取り出す。そして青葉の方を一顧だにせず机に近づいた。
「今いる会議室は、第二棟の三階、小会議室十一なの」
 紙にペンを走らせながら梅花は説明を始める。青葉も机に寄っていき、彼女の肩越しに覗き込んだ。さらさらと書き出されている地図を見ていると、何だか嫌な予感がしてくる。
「一階と二階に第三棟へ行く通路があるの。二階は行き止まりが多いから、まずはこの廊下の先の階段で一階へ下りて。フライング先輩たちがいるのは第五北棟。だから第三棟を通り抜けて第四北棟に入ってそこから第五北棟に抜けなきゃならないんだけど」
 地図を書きながら、ちらと梅花は青葉へ視線を寄越した。彼は顔が引き攣っていることを自覚しつつ、続きを促すようにと相槌を打つ。この宮殿のややこしさは想像以上らしい。
「第三棟はこの道の通りに進めば第四棟の入り口に辿り着くんだけど。第四北棟に入るには、右手の階段で二階にいく必要があるの。それから――」
 こんな複雑な地図をすらすら書けるのは慣れているからなのか。それにしても、すっかりいつもの調子だ。無世界での出来事などなかったかのような様子を見ていると、そこはかとなく不安になってくる。
「この突き当たりを左に……って聞いてる?」
 突然、説明を途切れさせて梅花が振り向いた。心が別の方へ飛んでいきそうなことに気づかれたのかもしれない。彼女が顔を上げたため、黒い双眸が間近に迫る。ふわりと雨の匂いが漂ったような気がして、青葉は唇を引き結んだ。
「迷って困るのは青葉なんだけど。もうすぐラウジングさんが来るかもしれないし――」
「大丈夫じゃないなら言ってくれよ」
 机に乗せられている華奢な左手に、青葉は指先だけで触れた。言葉尻を飲み込んだ梅花は、目を丸くしてから視線を逸らす。頭を傾けたせいで、揺れた髪が肩を滑るようにして机の上に落ちた。わずかに見えた首筋の白さが彼の目を引く。
「そんなに、大丈夫じゃないように見える? リューさんは気づかなかったみたいだけど」
「普通に見えるから心配なんだよ」
「……そう」
 安堵とも落胆とも取れるため息を、梅花は吐いた。顔は背けられているので表情ははっきりしない。それでも先ほどよりも弱々しい印象を受けた。纏う気が変わったせいだ。複雑な感情を宿したそれが、揺らめいている。
「私は青葉に心配かけてばかりね」
「それは、お前が悪いと言うよりは、その……」
「何?」
「いや、何でもない。単に、当たり前に思ってた世界の違いだろ。そんなのはどこにだって誰にだってあるもんだ」
 本音を口にしかけて、慌てて青葉は言い直した。今ここで伝えるべき内容ではない。このタイミングで梅花を動揺させるのは不本意だし、ますます事態がこじれるだけだと思われた。この一年間、彼女を見てきてわかったことがある。彼女はとにかく、あらゆる意味で、好意に弱い。
 不思議そうに振り向いた彼女は、途中で腑に落ちた表情を浮かべた。ほんの少し、彼女を包む気が柔らかくなる。怪訝に思われなかったことに、彼も密かに胸を撫で下ろした。
「そんなものかしらね。って、ラウジングさんが近づいてきたわ。ここに辿り着く前に、青葉は出ないと」
 だが不意にはっとしたように、梅花は青葉の腕を掴んできた。彼はまだラウジングの気を覚えていないが、彼女はもう記憶してしまったらしい。胸に押しつけられた地図を見下ろして、彼は顔をしかめる。
「ラウジングさんに見つかるとまずいのか?」
「止められるかもしれないでしょう? ラウジングさんは上の者なのよ。あんまり宮殿内部の規則には詳しくなさそうだけど、念のため」
 神技隊といえども宮殿内を勝手に歩くのはよく思われないことを、青葉は思い出す。何をするつもりなのかと尋問されかねない。だが廊下を歩いている分には、万が一見つかっても「迷った」の一言で回避できるだろう。注意されたとしても一瞬のことで終わるのは経験済みだった。
「おう、わかった」
「さっきの続き。突き当たりを左に折れたらそのまま真っ直ぐ進んで。奥から三つ目の部屋よ」
 地図を折りたたんで懐にしまった青葉は、扉へ向かった。これがあれば何とかなるだろう。近くまで行けば仲間たちの気なら何とか判別がつくに違いない。技使いが集まっていることは間違いないので、それが目印にもなる。
 わずかに微笑んだように見えた彼女を横目に、彼は部屋を出た。気のせいかどうか確かめる時間は、残念ながらなかった。

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