white minds 第一部 ―邂逅到達―

第三章「望みの居場所」10

 道の途中でつとレンカが立ち止まったため、滝も足を止めた。傘に弾かれる雨音がリズムを変える。傾いた紺の傘からどっと落ちた滴が、黒いアスファルトの上で跳ねた。
「ゲートが元に戻ったわ」
 振り返ったレンカが困ったように笑った。すくめられた肩から、焦茶色の髪がこぼれ落ちる。滝はその意味を飲み込むのに間を要してから、慌ててゲートの方へ精神を集中させた。確かに、どことなく不安になる歪みが落ち着いてきていた。完全になくなったわけではないが、元々ゲートの周囲の気配は歪だ。その点でも「元に戻った」という表現は正確だった。
「本当だな。ひとまず、緊急事態ってのは避けられたってところか」
「そうね、一応のところは。一体何があったのかしら」
 首を傾げたレンカの横顔を、滝は見つめる。ゲートの異変に気がついたのは彼女が先だった。何となく胸騒ぎがあり、早くに目が覚めたとのことだった。元々、彼女は早起きではあるが。
 ゲートが利用された時も歪みは不安定になるが、それとは違う。空間の歪みに敏感な彼女の言葉なら信頼できた。そのうち元通りになるかもしれないとしばらく様子を見ていたのだが、いっこうにその気配はなく。実際に確認するしかないと、彼らはこうして出向いてきていた。既に梅花あたりが動いているだろうと予測はできたが、念のためだ。何かあってからでは遅い。
「戻ったってことは、梅花が何とかしたのか?」
「そうかもしれないわね。どうする? 一応このまま見に行く?」
「そうだなぁ……」
 問われて滝は逡巡した。雨脚は強くなるばかりで、気は進まない。ゲートの近くでうまく誰かと合流できれば話を聞けるかもしれないが、そうでなければ空振りに終わるだけだ。それならきちんとした報告を待っていた方が手っ取り早い。
 彼は通信機代わりの腕時計を見下ろした。鈍く光る銀色のそれには特に反応もなく、無機質な音を立てながら時を刻んでいるばかりだ。
「またあの青い男に狙われても敵わないしな。ゲートに問題がないなら戻るか」
「あら、滝にしては気弱な判断ね」
「いくらなんでも、この雨の中で戦いたくはないだろう? この天気でこの時間だと人気はない。遭遇したら戦闘は免れないぞ」
 滝は微苦笑を浮かべた。戦闘音を雨音が掻き消してくれるとしても、できれば避けたい事態だ。足場は悪いし使える技も限られている。それに、ずぶ濡れになることは間違いなかった。すると彼の返答を聞いて、レンカはちらりと空へ目を向ける。
「んーそう言われると困るわね。こんなところで戦うのはごめんだもの」
 ついで白い傘の端を揺らし、レンカはくつくつと笑った。滝は片眉を跳ね上げる。何がおかしいのかさっぱりわからないが、ずいぶんと楽しげな様子だ。くるりとこちらへ向き直った彼女は、口角を上げて頭を傾けた。
「……何だよ」
「自分一人だったら見に行っちゃうんだろうなあと思って」
 そう指摘され、滝は閉口した。確かにその通りかもしれない。誰かと一緒かどうかは、彼の判断を大いに変える。自分一人であれば多少の無茶も通してしまうが、そこに誰かを巻き込むことは好かなかった。無理を強いるのは嫌いだ。
「ああ、そうかもな。……見抜かれてるな」
「だから滝は一人にしちゃいけないのよねぇ」
 笑ったレンカは「一人だと何するかわからないし」と小声で付け足す。まるで子ども扱いだ。一人で全てを切り回せるよう若長として訓練されてきた滝にとって、彼女の発想は新鮮だった。過信しているつもりはなかったが、しているのかもしれない。
 一人で神魔世界中を巡ってみた日のことを思い出すと、素直に納得できた。実はあれはなかなかの冒険だったのではないか。よく長はあっさり許してくれたものだ。若長であれば何もないだろうと、信じ切っていたのか? 今となっては確かめる術もない。
「ずいぶんな言い様だな」
「だって本当のことだもの」
 滝もつられて笑った。レンカの偉大さはこういうところにある。難なく全てを見透かしてそれを口にしてくるのに、反論する気も起こさせない。悪気なく、ただ好意のみを滲ませた言葉と声には、不思議な力があった。するりと心の内に入り込んでくる。
「あの子も同じよね」
「……あの子?」
「梅花も。一人にしちゃいけないわ」
 不意に、レンカが声の調子を落とした。その視線が再び遙か遠くの空へ向けられる。気も隠されているため何を感じているのか定かではないが、眼差しからわずかな憂いがうかがえた。ずっと「一人」であっただろう少女のことを気にかけているのは、レンカも一人だったからか。
「まあ、そんな感じだな」
「あとはシンもね。うーん、考えてみると他にも結構いそうね。神技隊には……いえ、技使いには多いのかしら」
 小首を傾げたレンカから視線を外し、滝は相槌を打った。技使いは良くも悪くも繊細だ。その理由の大部分を「気が察知できること」が担っている。皆が皆、大抵他者も自分と同じくらいに感じ取っている、と思い込みやすいのも原因だ。実際は大いに違いがあり、その差が齟齬を生んでしまう。
「繊細っていうのも困ったものだな」
「でも、役に立つこともあるわよ? 何でも使いようよ」
 穏やかな笑い声を響かせてから、レンカは「さ、帰りましょう」と告げた。雨を弾く傘へ一瞥をくれてから、滝は頷く。つい考え込んでしまうのは悪い癖だと思うが、しかしだからといって全く考えないというわけにもいかない。彼女の言う通り何でも使いようだろう。何事も適度にであれば問題はない。
「その適度がどのくらいなのかわかれば、苦労しないんだろうな」
 ぽつりと、口の中だけで滝は呟いた。それは雨音の奏でる旋律に、瞬く間に飲み込まれていった。



 誰かと並んで歩くことに慣れてしまったのは、いつからだろうか。隣を行く青葉から目を離して、梅花は瞼を伏せた。宮殿では、彼女の隣に並ぼうとする者など限られていた。周囲の目が気になるからだろうという予測は立つ。そういうのを気にしない変わり者か「上の者」だけが、時折彼女の側に寄ってくる。
 黙って進んでいくと、ぽつぽつと響く雨音が少しだけ静かになったような気がした。ちらと傘の外を見遣ると、若干雨脚が弱まっている。水溜まりに生まれる波紋の重なりも、それを裏付けていた。だが止むまでにはいかないだろう。一日中こんな天気なのか? これではアサキたちの『商売』もままならないため、またささやかな蓄えが減ってしまう。
「おい」
 そうやって思考を彷徨わせていると、ぐいと腕を引かれた。立ち止まった青葉に引きずられるようにして、梅花も足を止める。スカートの裾が膝に絡みついた。ぼんやり視線を上へ向けると、彼が意外そうな顔をして見下ろしてきている。
「誰か来るぞ。ぼーっとしてるけど、大丈夫か?」
 そう指摘されて、梅花は瞳を瞬かせた。そして意識を周囲へ集中させる。確かに、前方から何者かの気が近づいてきていた。この速度は走っているとまではいかなくても早足には間違いない。もちろん、それだけであれば青葉が声を掛けてくることはなかっただろう。近づいてきているのは技使いの気だ。
「かなり駄目だったみたい」
 梅花は正直に頭を振った。こんなことにも気づかないとは、ぼんやりしているという段階を超えている。違法者なのか、それとも神技隊か? 精神を集中させてみても、知り合いの気ではなさそうだった。だが今の自分の感覚は当てにならない。青の男ではないことを祈るばかりだ。さすがにここでの戦闘は避けたい。
「……あ」
 どうしたものかと梅花が首を捻ると同時に、青葉が声を上げた。やや気の抜けた声音だった。怪訝に思い、梅花は前方へ目を向ける。雨で煙る道の向こうに、かすかに人影が見えた。黒い傘を差しているようだ。目を凝らした彼女は、ついで瞠目する。
「えーと、あれって、たぶん、お前の……」
「うん、たぶん」
 言葉を濁した青葉に、梅花はコクコクと首を振ってみせた。揺れる黒い傘からちらりと見えた顔は、どこか青葉に似ていた。アースほどそっくりとは言えないが、面影がある。心当たりとなる人物はいた。それをすぐに口にできなかったのは、わずかに抵抗があったからだ。
 次の行動がとれず二人が立ち尽くしていると、早足で近づいてきた男性が不意に立ち止まった。傘をやや後方に傾けたせいか、雨音のリズムが変わる。困ったように微笑んでいる男の眼差しが、梅花たちに向けられた。
「梅花、だね」
 一言静かに、確認の問いかけが放たれる。どうしてわかったのかと尋ねるのも馬鹿らしく、梅花は小さく頷いた。今こちらは気を隠しているから、技使いであることは即座に知れるだろう。しかもこの容姿は母とよく似ているのでわかりやすいはずだ。
「――お父様ですか」
 問う声は震えなかった。そのことに梅花は少しだけ安堵しながら、それでも何かが表情に表れていないか不安を覚える。ここが宮殿なら何があっても無表情を突き通すこともできただろうが、今は自信がない。彼女は心許なさを押し隠すように、ぐっと拳を握った。
「という、ことになるかな。初めまして、と言うのも変な話だけど」
 父――乱雲は微苦笑を浮かべる。彼の気に複雑な感情が宿っていることは、梅花にも容易に読み取れた。偶然ここを通りかかったというわけでもないのだろう。こんな時間、こんな天気の日に出歩いているはずがない。飛び出した妹を捜しているのか? いや、探し出して事情を聞いた後なのか。
「無事に見つかってよかった」
 やはり後者だったらしい。そう囁いた乱雲は、ほっと息を吐いた。梅花は何と答えたらよいのかわからず、小首を傾げる。先ほどの妹の表情が脳裏をよぎり、声を出そうにも音となって出てこなかった。全てがただの吐息となりそうで、仕方なく梅花は押し黙る。父親と会うならば、もう少し気持ちが落ち着いてからにしたかった。
「あすずから、少しだけ話を聞いてね」
 言葉少なに、乱雲は説明する。きっと妹の行動にさぞ焦ったことだろう。彼は今何を考えているのか? だが、あえて拒絶するようなことをしたのは梅花の方だ。動揺を気取られないよう、ここは毅然としなければ。
 握った拳にさらに力をこめると、甲に手が触れる。青葉だ。彼女は横目で彼の方を見上げた。心配そうな視線が注がれていたが、乱雲の前では下手なことも言えない。気を隠し損ねないよう、気張るだけでも苦労する。そのまま口を閉ざしていると、乱雲の声が雨音に混じって鼓膜を揺らした。
「本当にすまなかった。あすずが、とんでもないことを言ったそうで」
 様々な感情を含んだ声が、梅花の胸に突き刺さる。謝って欲しいわけではないし、罪悪感を抱いて欲しいわけでもない。むしろ謝罪すべきなのは彼女の方なのだ。だが感情的にその言葉を振り払うのは逆効果だろう。梅花はぐっと奥歯に力を込めると、静かに首を横に振る。
「いえ、気にしないで下さい。あの子は何も悪くないんです。私が軽率でした」
 全てにおいて浅はかだった。偶然の出来事は仕方ないにしろ、もっとうまく立ち回れたのではないかと思う。いや、それは自分を高く見積もりすぎているか。不器用な自分にはこれが精一杯だったのか? 考えても答えの出ないことばかりが頭を巡り、思考を掻き乱す。ただ今となってはどうしようもないことではあると、自覚はしていた。起こったことは変えられない。
「どうしてそうなるんだ。……全ての根源はオレたちだ」
 戸惑いを含んだ気が、乱雲から伝わってくる。悔恨の情を抱きやすいのは彼らも同じなのかと、変なところで梅花は感心した。誰かの責任にできるようなことではない。不運の重なりによって生み出された道の先に、彼女たちは立っている。一番の被害者はきっと妹であろう。何も知らずに歩いてきたというのに、突然渦中に放り込まれてしまった。
「誰も悪くなんてないですよ。お父様も、お母様も」
 一言一言、思いを込めるように梅花は口にした。誰が悪いと言い争っても仕方のないことだし、それで自責の念に駆られてもらっても困る。もし、選択の結果に責任を持ちたいというのならば、幸せになってもらわなければ。そうでなければ梅花の気持ちのやりどころがなくなる。
「……オレたちのこと、恨んでないのか?」
 乱雲は青葉と同じようなことを尋ねてくる。よほど自分の立場というのは、誰かを恨みに思うものらしい。梅花はゆるゆると首を横に振った。また強まりつつある雨脚の気配を感じながら、かすかに目を伏せる。
「恨むとか、そういうのは苦手です。そういう負の感情で、消耗するなんてことは嫌いですから」
 周囲から降り注ぐ負の感情に辟易しているのに、ましてや自らの生み出したものでこれ以上すり減りたくはない。そうでなくても、あの宮殿にいると何かが削り落とされているような気になる。
「しかし――」
「恨んだって、私が苦しくなるだけです。私は、ただ、お父様たちが元気にしていることが、幸せであることがわかればそれでよかったんです。あそこに囚われずに生きているのかどうかを知りたかったんです。後悔して欲しいわけじゃあないんです」
 勝手な期待だ。誰かの幸せのために役に立っていると思いたいという、我が儘だ。気持ちの押しつけだ。それを自覚すると少しだけ気分が軽くなる。結局は、自分という存在の意味を追いかけているだけなのだろう。否定され続けてきたものを求めているだけだ。居場所がなかったとしても、疎まれていたとしても、ここまで来た意味はあるのだと確かめたいだけ。
 ならば、家族が幸せかどうかは、本当はどうでもいいのかもしれない。幸せであると信じたいだけなのかもしれない。実に身勝手だと苦笑を漏らしたくなった。それでも、たとえ今までがどうであれ、これからは梅花のことなど気にせず幸福を求めて欲しかった。自分のせいでさらに何かが崩れていくのは見たくない。
「だから、気にしないでください。私は、あなたたち家族を壊したいわけじゃあない」
 雨が降っていることに、梅花は感謝した。ちょっとした声の抑揚や震えも、全て曖昧にしてくれる。それでも隣にいた青葉には伝わってしまったようで、気遣わしげな視線が向けられているのが感じられた。とんでもない場面に立ち会わせてしまったと思う。これでは後々もますます心配されてしまうだろう。
「……梅花は、強いな」
 乱雲の言葉を、梅花は即座に否定したかった。強ければもっとうまく切り抜けてこれただろうし、こんな状況にも陥っていない。妹を不用意に傷つけたりもしない。――強くなりたかった。両親が安心できるくらいに強く、したたかに生きたかった。こんなことには動じないくらいの気丈さが欲しかった。たとえばそう、レーナのように。
『でもそれも、こうして今オリジナルの傍にいるためなら、意味があったと思える』
 不意に、脳裏にレーナの言葉が蘇った。すとんと、胸の奥に何かが落ちたのを感じた。それは捉え所のない感情だったが、次第にじわじわと体中に染み込んでいく。冷え切っていく一方だった芯が、少しずつ温められていった。
 そうか、同じなのか。彼女も「意味」を求めていたのか。その先が何故自分だったのかはわからないが、彼女はずっとそれを追い続けてきたに違いない。梅花だけではなかったのか。
「……梅花?」
 隣で、怪訝そうに青葉が首を傾げるのがわかる。彼を横目で見ると同時に、梅花は自分が微笑んでいたことを自覚した。無理にではなく、意識せずに、自然と笑むことができていたなんて驚きだ。今ならうまく伝えられるのではないか? 拳を解いた彼女は、大丈夫だと告げるように青葉の手に触れてから、乱雲へ向き直る。
「私は、強くなんてないです。強くありたいだけです。お母様たちの決断を、誰も責めることがないよう。誰も後悔することがないよう」
 周囲から向けられる哀れみの眼差しが苦手だった。梅花が不幸な素振りを見せれば見せるだけ、顔も知らぬ両親が責められる。多世界戦局専門部の不手際が噂される。それが嫌で、寂しいとは言えなくなった。悲しい顔ができなくなった。リューたちの苦悩を少しでも減らしたかった。それでも幸せな振りをすることだけはできなくて――。
「気にしないで欲しいと言っても無理なら、ちょっと早く自立したとでも思ってください。私は、私の道を探しているので」
 そうしているうちに、普通に微笑むことさえ難しくなってしまった。しかし、こうやって足掻いているのが自分だけでないなら、もう少しだけ頑張れる気がする。過去の決断に囚われている家族を解放したいのなら、安心してもらえるように努力しなければ。今はまだ無理だとしても、いつかそんな日が訪れるように。
「……あすずには、ごめんなさいと伝えておいてください」
「いや、あすずのことは梅花には責任はない。何も言わずにいたオレたちのせいなんだ」
「そうだとしても、伝えてください。傷つけたことには変わりないですから」
 こんなことは終わりにしたかった。できることなら前を向いていたいし、振り返りたくない。どうしようもなかったことを引きずっていたくない。緩やかな呼吸を意識した梅花は、ひたすら祈りを込める。少しでも幸せに見えるように。幸せになれそうだと思われるように。
「おい、梅花。本当にそれでいいのか?」
 そこで、ずっと黙ったままだった青葉が口を挟んできた。梅花は瞬きをしながら彼の方を見上げる。傘の陰に隠れがちな黒い瞳が、複雑そうな色味を宿していた。異論があるらしい。
「なんていうか、また一人で頑張ろうとしてるだろ」
「そんなことないわよ」
 どうやっても青葉の目にはそう映るらしい。ここでひっくり返さないで欲しいと視線で訴えても、効果はなさそうだった。半分当事者なだけに首を突っ込むなとも言えず、梅花は眉尻を下げる。どうすれば通じるのか。するとそれまで渋い顔を保っていた乱雲が、噴き出すように苦笑した。
「……青葉君、だね」
 確信を持った響きが空気を震わせる。声を押し殺しきれずに笑う乱雲と、ばつの悪そうな顔で頷く青葉を、梅花は交互に見比べた。何も知らぬ人が目撃したとしても、赤の他人だとは思わないだろう。

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