white minds 第一部 ―邂逅到達―

第三章「望みの居場所」8

 フライング、ピークスを神魔世界へ送り届けてからほぼ二日経過した。上からはその後の状況についての連絡どころか、通信機への簡単な信号すらない。全くの音沙汰なしだ。嫌な予感を覚えていた梅花は、日が昇る前から目を覚まし、周囲の気の変化に意識を向けていた。特別車の中からでは感じ取りにくいので、外に出てテーブルを引っ張り出し、小さな明かりを灯す。
 しばらくして日が昇り始めても、辺りは薄暗かった。今にも雨が降り出しそうな暗雲が垂れ込めているせいだ。この様子では今日は仕事にならないかもしれないと思いつつ、彼女は白いテーブルを拭き始める。人が来るかどうかは天気に影響されやすい。屋根すらないのだからこればかりはどうしようもなかった。
 異変に気づいたのは、テーブルを拭き終わった時だった。初めはほんのわずかな、かすかな変化。しかし次第に心をざわめかせるほどに、それは明確になった。
 ゲート周囲の気配がおかしい。歪んでいるとまでは言えないが、波立つように揺らいでいる。ゲート使用後の状態に近いが、それにしては妙だ。
「どうしよう……」
 手を止めた梅花は眉をひそめた。今すぐにでも様子を見に行きたいが、そうなると仲間たちに何も伝えずに動くことになる。残念なことに、今のところ誰も起きてくる気配がない。まだ夜が明けたばかりだから仕方がなかった。
 テーブルを見つめて彼女は嘆息した。ここで一人で出向いたらまた文句を言われるだろうか。しかしゲートに何か起こってからでは遅い。違法者が勝手にゲートを使おうとしている、というわずかながらの可能性もある。穴が広がるようなことがあれば一大事だ。
 以前なら迷わず飛び出すことができたのに、今日は躊躇いがあった。単独行動は避けるべきというのが、今の神技隊の注意事項でもある。青い髪の男のことはまだよくわかっていない。
 けれども悩んだ末、彼女は結局一人で向かうことにした。誰かを起こして連れていくとなると、ある程度は時間を要してしまう。上はどうでもいいことには目を瞑ってくれるが、ゲートに関することとなると話は別だ。手遅れな事態が生じてしまうと、あらゆる意味で取り返しがつかない。
 彼女は申し訳程度の書き置きを残し、人の疎らな道を歩き出した。ゲートからそこまで離れていない位置に待機していたのが幸いだった。この時間ではさほど人通りもないだろう。彼女はもう一度辺りの気配を探った。ゲートの周囲の空間はそもそも不安定であるが、それでもいつもとは違うように感じられる。先日、大人数の技使いを通した影響だろうか? だが昨日までは問題なかった。
 ゲートのある公園へと彼女は急ぐ。この辺りの中心街から少しだけ離れた場所にあるが、ここからだと徒歩でもどうにか行ける。バスでも使えたらさらに時間短縮できるが、これだけ早朝だと無理だろう。走っていたとしても待ち時間の方が長いに違いない。
 空気に雨の匂いが色濃く混じっているような気がしたが、まだ頬に雨粒を感じることもなかった。足に纏わり付こうとするスカートを振り払うように、彼女は速度を上げていく。結んでいなかった長い髪が背中の上で踊った。乾いた路面で跳ね返り、軽い靴音が響く。
 比較的大きな通りから細道へと入り、住宅街を抜けていくと、時折人とすれ違った。皆疲れた顔でぼんやりしているか急ぎ足で歩いており、梅花に構う様子はない。仕事帰りかこれから仕事に向かうのか、どちらかだろう。一見ひたすら平和に思えるこの無世界には、宮殿よりも大変な働き方をしている人々がいるらしい。
 目の前に何かが飛び出してきたのは、三本目の道を曲がった後だった。横の路地から何者かが前触れもなく姿を現し、梅花は足を止めざるを得なくなる。
 翻った紺色のスカートと背格好から、立ちふさがったのが少女であることが知れる。何も考えずに飛び込んできたようで、そのまま道の真ん中で立ち尽くしていた。ぶつかる前に立ち止まった梅花は、少女を驚かせまいと数歩後ろへ下がる。その足音でようやく近くに誰かがいることに気づいたらしく、少女はのろのろと顔を上げた。
 さらに後退した梅花と、少女の視線がぶつかり合った。驚きに見開かれた黒い瞳を、梅花は後悔の念を持って見返す。この道はしばらく通るまいと決めていたことを、今になって思い出した。この先には、以前母の姿を見かけたスーパーがある。
 少女の頬はふっくらとしているが、目元には泣き腫らしたあとがあった。乱雑に結わえられた髪の先は、頬や口元に張り付いている。顔立ちは、先日会ったばかりの母を幼くしたものだった。名前を尋ねなくとも予測はできる――あすずだ。
 思い切り目と目を合わせてしまったせいで、素知らぬ振りで横を通り過ぎることもできず、かといって声を掛けるわけにもいかず、梅花は黙するしかなかった。あすずは何度も口を開いたり閉じたりを繰り返していたが、やがて強く拳を握ってこちらを睨み付けてくる。その眼差し、纏う気から、梅花は事情を悟った。おそらく両親から全てを聞いてしまったのだろう。
 まさか夜通し話をしていたのか? こんな少女が出歩いているべき時間ではないことを考えると、一人で家を飛び出したに違いない。梅花が口にすべき言葉を見つけられず押し黙っていると、あすずは震える唇をゆっくり開いた。
「どうして――」
 体ごと梅花の方へ向けてきたあすずは、腫れ上がった瞼を拳の裏でこすった。彼女の気には怒りが満ちていた。全てが遅かったことを理解した梅花は唇を引き結ぶ。『普通』の世界から強引に『こちら側』へと引きずり込まれてしまった、悲しい妹だ。梅花が無世界に来なければ、何も知らないまま時を過ごすことができたかもしれないのに。
「どうして、来ちゃったのよ」
 泣き出しそうな声であすずは言った。本当にその通りだと、梅花は頷きたくなった。本当にどうして来てしまったのか。こんな事態が起こり得ることを、どうして予測できなかったのか。自分が甘かった。最悪なのは、この道を選んでしまったことだ。気が急いていたとはいえ、注意していれば避けられたのに。
「わけがわかんないよ。何でよ、もう。お母さんは、あんなに苦しんで……」
 所々消え入りそうな声で、あすずはそう続ける。脈絡のない言葉だが、きっと彼女の中でもうまく纏まっていないのだろう。くしゃりと顔を歪め、荒くなりつつある呼吸を鎮めようとしている。様々な感情の入り交じった気が突き刺さってくるようで、梅花は息苦しさを覚えた。
「悩んでいて。なのに、私は、何にも知らなくて」
 この少女の怒りは、自身にも向けられている。そしてきっと、今まで全てを秘密にしていた両親にも。誰が特別に悪いわけでもないが、段階を踏めなかったのがまずかったのだろう。何も知らない妹に伝えるにしては早すぎた。
「お父さんは、黙り込んじゃうし」
 あすずの喉が細かく震える。固く握られた拳が震えているのも、梅花にはわかった。こんな時に何と声を掛けるべきなのかわからない。いや、適切な言葉などないのかもしれない。誰を責めたらいいのかわからず気持ちのやりどころを失っている妹に、恨まれてやるのがいいのか。
「みんな、ぎくしゃくして。なのに、あなたは、どうして、そんな平気な顔をしてるのよ」
 ふっくらした白い頬を涙が伝った。あすずにはそう見えているのかと、梅花は自分の繕い振りに密かに驚嘆した。いや、実際こんな風に冷静に妹を観察しているのだから、動じていない範疇に入っているのかもしれない。やはり自分はこんなところにいるべきではなかったという思いを強くしているだけだ。ならば恨まれ役になろうと、梅花は頭を振る。
「私はただ、私の役目を全うするだけよ。お母様たちは関係ないわ」
 嘘は言っていない。今の梅花にとっては、神技隊としての役目を果たすことの方が先決だ。だから一刻も早くこの話を切り上げ、ゲートへ向かうべきだ。あすずが眼を見開くのを確認しつつ、梅花は淡々と告げる。
「もう、とうに切れている縁だもの。どう受け止めるかはあなたたちの問題。私は関わる気はないわ。全ては今さらの話よ」
「そんな、そんな言い方って……」
 あすずの言う通りだ。同じ内容を伝えるにしても言い様がある。もっと穏便に事を済ませるべきところだ。この言葉が両親に伝われば、おそらく深く傷つけることになるだろう。しかし甘い期待を抱かせてしまうよりはましなのかもしれない。こうなったからには、何が何でも距離を置かねば。
「仕事の途中なの。行くわね」
 立ち尽くしているあすずから視線を外し、梅花は歩き出した。俯いたあすずの横を通り過ぎても、何も言われなかった。少しずつ歩調を速めた梅花は、すすり泣く声を耳にして瞳をすがめる。泣かせてしまった。本当にどうしようもない自分という存在に嫌気が差してくる。
 きっと、ますます混乱させてしまった。気持ちを揺さぶってしまった。一人にしておくのは気がかりだが、しかし梅花が傍にいても何の役にも立たないはずだ。憎まれるのはいっこうに構わないが、妹が後に自分の言葉を後悔するようなことは避けたい。だから去るのだと自らに言い聞かせ、梅花は決して振り向かなかった。あすずの気がどんどん遠ざかっていく。
「あと四年だったのになぁ」
 ほとんど走るような速度で進みながら、梅花は微苦笑を浮かべた。平穏無事に神技隊としての任を終えた後は、宮殿側が何と言おうと消えるつもりだった。何の痕跡も残さずに行方をくらませることは、この無世界でなら可能だ。しかしその前にこんないらぬ事態を引き起こしてしまった。
「この道を選ばなければよかった」
 後悔したところで現実が変わるわけでもない。嘆息しながら駆けた梅花は、ゲートのある公園を目指した。人気のない道では軽い足音でもよく響く。そのリズムさえ何だかぎこちなく思えて、彼女は苦笑を漏らしたくなった。なんて脆いのだろう。神童などと呼ばれていてもこの程度だ。ただの過敏な技使いだ。
 風すら吹かぬ静寂にぽつぽつという音が混じり始めたのは、ゲートに辿り着く直前のことだった。見上げた彼女の額に小さな滴が落ちてくる。垂れ込めている雲は先ほどよりも重たげだ。耐えきれなくなったように降り出した雨は、公園の中へ足を踏み入れる頃には本降りになっていた。
 慌てて出てきたので雨具一つ持っていない。ワンピースに薄手のカーディガンを羽織っただけだ。このままではあっという間にずぶ濡れだった。それでもここまで来たからには何もせず引き返すこともできない。ゲートの前に立った彼女は、湿り始めた髪を背中へ流した。
「……先ほどよりはましになってるわね」
 ゲート周囲の不安定な歪みは、徐々に落ち着きを見せ始めていた。辺りに人影はなく、技使いらしき気も感じられない。これなら来る必要がなかったのではないか。そう考えるとますます気持ちが沈んでいく。それでも念のためだと、よくよく辺りへ精神を集中させてみた。歪みには改善が見られるが、その周囲へとさざ波のような気の流れが広がったままだ。こんなことは初めてだった。
「すぐに何かが起こりそうな感じではないけど、念のため上に報告した方がいいかしら」
 呟いた梅花は顔をしかめた。そうなるとさすがにこのまま神魔世界に向かうことはできない。場合によってはまた数日間拘束されるようなことになる。しかしだからといって、今すぐ仲間たちの下に戻るのは気が進まなかった。おそらく様子がおかしいことは指摘されるだろう。先ほどの話をせずに適当にはぐらかすなど、今の彼女には無理なことだった。もちろん、宮殿に赴くのも気が重い。
「どうしよう」
 何をどう選ぶのにも踏ん切りがつかず、梅花は立ち尽くした。その間にも、どんどん雨脚は強くなっている。前髪から落ちた滴が、頬から首へと伝って落ちた。服も重たくなってきている。
 どうするのであれこのまま濡れているわけにもいかないと、彼女が振り返ろうとした時だった。突然、頭に何かが被さった。びくりと体を強ばらせた彼女がその何かに手を伸ばそうとすると、手首をぐいと掴まれる。普段とは違い、反射的に体が動かなかった。声だけが漏れる。
「えっ――」
 手を引かれた勢いで振り返ると、そこには自分と同じ顔があった。
「レーナ?」
 意識に名前が上る前に、それは唇からこぼれ落ちた。警戒心が働くよりも、今はただただ驚きしかない。目を丸くした梅花は、微笑むレーナを凝視した。混乱した頭がうまく機能しない。
「風邪でも引きたいわけじゃあないだろう?」
 気どころか全く気配を感じなかったが、相手がレーナであればそれも致し方がないか。しかしこの状況は何なのだろう? 左手を頭の上に持っていくと、被せられたのはふかふかとした布のようだった。梅花がその手触りを確かめていると、レーナは右手を掴んだままずんずん進んでいく。
「ちょっと」
 布が落ちないよう、慌てて梅花は頭ごと押さえる。事態が飲み込めないまま連れて行かれたのは、公園の中にある木の下だった。それなりの大きさなので、とりあえず雨をしのぐこともできそうだ。
「どうして……」
 尋ねる声がかすれた。何を聞きたいのか、梅花自身にもはっきりしなかった。何故突然現れたのか、どこからやってきたのか、何のために来たのか、どうして今なのか。次々と湧き上がる疑問が、続く言葉を飲み込ませてしまう。
 問われたレーナは薄く微笑んだだけで何も言わなかった。そのまま梅花を木陰に押し込めると、ちらりと後ろを振り返る。ゲートの方だ。
「これくらい離れたら、まあ大丈夫かな」
 手を離したレーナは、それを軽く掲げてひらりと振った。生暖かい風が彼女の手のひらから生み出される。服と髪が瞬く間に乾いたのを、梅花は実感した。火と風の技の応用だ。梅花もたまに使う。今ここで戦おうとする者の行動ではなかった。
「そんな顔をしてそんな気配を出さないでくれ。何があったのかは聞かないが」
 向き直ってきたレーナは微苦笑を浮かべた。相手が正体不明の人物であるというのに、やはり不思議と危機感は生まれない。気は隠されているからそこから情報が読み取れるわけでもないが、敵意はないと確信できた。言動から判断しても、少なくとも現時点ではそう言い切れるだろう。
 だが、顔はともかくとして「気配」とは何を指しているのか。気は隠しているのだが。
「そんな気配って……」
「オリジナルはもっと自分の影響力を自覚した方がいいな。気を隠すといっても限度があるし。そもそも消し去ったわけではない」
 指摘するレーナを見つめながら、梅花は頭の布をそろりと下ろす。レーナの言うことはわかるようでわからない。何となくだが、説明不足というよりはあえてそういう言い回しを選んでいるような印象を受けた。それでこちらの理解度を推し量っているといった具合に。
「それじゃあ、あなたは気じゃないものを辿ってここまで来たっていうの?」
「半分は正解。半分は間違い。精神の一部と言えばそうだよ。精神は空間に作用する」
 この通りだ。こちらの知識に合わせてさらに情報を提供してくる。少しずつ薄い紙でも積み重ねて行けと言わんばかりに、本当にわずかなものだけを口にする。つまり、最初から全ての答えを求めても無駄なのだ。
「あなたは私を捜していたの?」
 ふわふわとした布を抱きしめた梅花は小首を傾げた。辿ってきたということは、つまりそういうことなのか。レーナはさらに顔をほころばせ、悠然と頷いた。
「そうだよ。オリジナルに会うために。そのためにこの星に来たんだ」
 亜空間で見た時と同じ、心底そう思っているとわかる微笑。戸惑った梅花は閉口した。神技隊を襲ってきたと思ったら会いたかったと口にする、レーナの意図がわからない。しかし嘘を吐いているとは感じられなかった。根拠はないが、勘だ。そして今の一言で決定的となったことがある。「この星」と言うからには、やはりレーナが宇宙から来たことは間違いない。
「ずっとこの時を待っていた。そのために、準備をしてきた。ようやくここまで来た。手遅れにならなくて本当によかったと思っている」
 しみじみとしたレーナの口調から、感じるものがあった。梅花は布の端をぎゅっと掴み、つと瞳を細める。この気持ちは何だろう。むずがゆいとも違う、じんわりと染み込んでくる感情がある。
「レーナは……苦労してきたのね」
 ぽつりと漏れた言葉は、梅花自身にも意外なものだった。労るつもりなどなかったが、素直な感想がこぼれ落ちた。レーナが一瞬だけ、驚いたように息を止めたのが伝わってくる。いくら雨音が強くともわかる、肌に直接触れるような喫驚の気配だ。
「――そうだな、色々あったな。でもそれも、こうして今オリジナルの傍にいるためなら、意味があったと思える」
 感慨深そうなレーナの言葉に、梅花はどう返答していいのか困惑した。そうさせるだけの価値が、自分にあるとは思えない。いつもずっと、必要とされてきたのは梅花の能力だけだ。しかしレーナがそれを求めているとは思えなかった。レーナの方が遙かに力を持っている。
「オリジナルがいなければ、われは存在しなかった」
「あなたたちは、何者なの?」
 思い切って、梅花はそう問いかけた。ずっと胸の中に抱いていた疑問を吐き出した。確かな繋がりがあるというのなら、レーナたちは一体何者なのか。どうして同じ姿をしているのか。だが肝心な質問に対しては、レーナは頭を振るだけだ。結わえられた長い髪が揺れる。
「それを説明するには、色々なものが足りないな」
「私の知識がってこと?」
「それもある。単に状況がそこまで進んでいないとも。全て、タイミングというものがある」
 もったいぶった話しぶりは、そのタイミングを計っているのか? 梅花は目を伏せた。やはりレーナの考えることはわからない。それでも、神技隊を恨んでいるわけでも殺したいわけでもなさそうだった。目的は別のところにありそうだ。そしてアースたちは、おそらく、レーナのその目的に付き合っている。不思議なことではあるが。
「少しは落ち着いたか?」
 そう尋ねられ、梅花は瞠目した。この会話はまさかそれが目的だったのか? 何も話してなどいないのに、そんなにわかりやすい顔をしていたのか。梅花は怖々とレーナの方へ視線を向ける。
「気に病みすぎるのは我々の損な体質だが。行きすぎると蝕まれるぞ。気をつけなくては」
「我々って……あなたも?」
 瞳を瞬かせ、梅花は頭を傾けた。その範疇には誰が含まれているのか。単に技使いのことを指しているのか、それとも別の意味合いがあるのか。するとレーナは微笑みを深め、少し躊躇いがちに首を縦に振った。そしてほんのわずかな間だけ、瞼を伏せる。
「そうだな、われもだな」
 どことなく自嘲めいた響きのある声音だ。他人事とは思えぬ憂いと悲嘆の色をたたえた眼差しが、やおら梅花に向けられた。どうしてなのか、胸の奥で何かがさざめいた。少しだけ眉根を寄せた梅花は、布を抱える手から力を抜く。
「私は、あなたのことを敵だと思わなきゃいけないの?」
 自分でもどうかしている質問だと思う。敵なのか聞いているわけではなく、そう思わねばならぬのか尋ねるなんて。敵だと考えたくないという気持ちが明らかだ。それでもレーナは訝しみも嘲笑いも戸惑いもせず、ただ悪戯っぽく笑った。
「何をもって敵と見なすか味方と見なすか、それを決めるのはわれではない」
 またもや謎かけのような言葉を放ち、レーナはちらと空を見上げた。梅花もそれに倣う。先ほどよりは少しだけ雨脚が弱まっただろうか? しかし重苦しい雲は相変わらず空を覆ったままで、雨が止みそうな気配はない。
「巨大結界の方は落ち着いたようだな」
「……え?」
「それにお迎えが来たみたいだ」
 梅花が雨雲を睨みつけていると、緩んだ手の中から布が取り上げられた。驚いてレーナの方を見やると、ふかふかの白い布を抱えたレーナは、またもや楽しげに微笑んでいる。それから彼女は前髪の陰に隠れそうになっていた髪飾りに、軽く指で触れた。瞬く間に、腕の中にあった布が消える。
「え? ええっ!?」
「ほら、見るのはこっちじゃない。そっち。お迎えが来てるぞ」
 ぽんと肩を叩くレーナの手により、半ば強引に体の向きを変えられる。お迎えの意味は、すぐにわかった。雨で白く煙る緑の向こう側から、青い傘が近づいてくるのが見える。梅花がやってきた方角だ。
「……青葉?」
 気は隠されているのでわからないし、傘で顔も隠れているが、あの走り方はおそらくそうだろう。置き手紙に気づいたに違いない。

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