white minds 第一部 ―邂逅到達―

第二章「迷える技使い」5

 葉のさざめきのみが聞こえる世界を、リンは一人で歩いていた。小道の周りには鬱蒼と木々が生い茂るのみで、目印となりそうなものは見当たらない。空を仰げども、方角の指針となってくれる太陽も見つからなかった。雲の動きを頼りにどちらへ進んでいるのか予想してみるが、当てになるかどうかは怪しい。空間の歪みがあることを考えるとなおのことそうだった。彼女は一度立ち止まると、辺りを見回す。
「どうも、先ほどから景色が変わった感じがしないのよね」
 ぐるぐると同じ道を歩き続けているのではないかという懸念が拭えない。風に煽られた髪を手で押さえ、リンは小さく唸った。気合いを入れるためにジーンズのポケットを叩いてみるが、音も響かない。緑に吸い込まれてしまうのだろう。これだけ木々があるというのに、虫の鳴き声一つしないのが不気味だった。生き物の気配がない世界というのは落ち着かない。ここしばらくは喧噪とばかり親しくしていたから、余計にそう感じられるのかもしれなかった。
「慣れって怖いわよね」
 呟いた言葉の弱々しさに、つい苦笑したくなる。落ち着かないのは環境のせいだけではない。一人だからだ。こんなことで心細く思う日が訪れるなど、考えてもみなかった。昔の自分が聞いたら笑い出すだろうと、彼女は想像する。
 気づいたら旋風というありがたくもない二つ名がつき、ウィンの長からは都合よく利用され、頼られていた。自分一人ででも何とかしなければと、無茶をした時もあった。いつも彼女は後ろに続く者たちの存在を感じていた。全てが変わったのは神技隊に選ばれてからだ。
「無世界に来てからはほとんどずっとシンと一緒だったものねー。仕方ないか」
 リンはおもむろに空を見上げ、眉根を寄せた。この二年ほどを振り返っても、一人でいる時間などほとんどなかったのではないか。旋風という異名の影がいつもつきまとっていた生活が一変し、無世界では単なる神技隊の一員になった。文化も空気も違う世界での生活は大変だが、背負っていた物がなくなるのは楽だった。妙な気負いもないし、守らなければならない後輩もいない。
「でもまあ、弱くなっちゃ困るわよね」
 あらゆる枷から逃れる日々も悪くはないだろう。平穏が続くのならば問題ない。しかし一度このように異変が生じてしまえば、呑気なことも言っていられなかった。虚勢でもなんでも再び気張らなくてはと、リンはゆっくり相槌を打つ。気持ちを入れ替えるいい機会だ。トンと靴先で地面を叩き、彼女は視線を道の先へと戻した。悲しいくらいに代わり映えのない景色が続いている。
「逆に進んだ方がよかったかなあ」
 目を凝らしても意味はなかった。深い緑の中に、かろうじて日が差し込んでいるのが見えるだけだ。人影は見当たらない。
「みんな気を隠してるってのは、こういう時は不便よね」
 ぼやいたリンは大きく嘆息してから、足を踏み出そうとした。その瞬間だった。突然、右手の草むらがガサリと揺れた。同時に妙な気を感じる。強く、鼓動が跳ねた。体を強ばらせた彼女は、すぐさまそちらへと視線を転じて構えた。気持ちを落ち着けるよう固唾を呑み、精神を集中させる。もう気は感じられなくなっているが、茂みの向こうには確かに何かがいる。
 何者かの到来を、待ち受ける時間は長く感じられた。緩やかな風に髪が煽られて、何度か頬を撫でる。再び動きが見られたのは、彼女が息を詰めた時だった。
「あ、リン先輩でしたか」
 揺れた茂みの奥から姿を見せたのは梅花だった。木々の間を縫うように歩いてきた彼女は、髪についた木の葉を払っている。どうやら一人のようだ。一気に脱力したリンは、安堵の息を吐いた。
「ちょっと梅花、脅かさないでよ。何でそんなところから出てくるのよ」
「空間の歪みに飲み込まれたみたいだったので、どうにか元の場所に戻れないかと思って空間を斬ってみようとしたんですが。失敗しました」
 無表情のまま抑揚に乏しい声で梅花はそう告げる。彼女の傍へと走り寄ったリンは、長い黒髪についた葉を取り除いてやりながら顔をしかめた。今、さらりととんでもないことを言われた気がする。空間を斬るなんてことができる者は限られている。否、リンはそういった人間の名を聞いたことがなかった。いたことがあるだの宮殿にはいるらしいだのと、耳にしただけだ。
「空間を斬るって……」
「亜空間だからできるかなと。ゲートを開く応用で」
「梅花は精神系の使い手だったっけ? もう、無茶やるわねー」
 髪に絡まった葉を全部取り除いたところで、リンは首をすくめた。さすがはジナルの神童だ。とんでもない実力者がごろごろしているのが最近の神技隊だと、今の彼女はそう認識している。ヤマトの若長を中心としたヤマト三人組を筆頭に、各地域の強者たちが集められていた。
 だからこそリン自身も異名から解き放たれているのかもしれない。そう考えるとすんなりと納得できた。「ありがとうございます」と礼を述べる梅花を、リンはもう一度よく観察する。彼女は強者たちの中でも異端だ。神技隊の事情に通じているという点だけではなく、表情の乏しさやいつも何かを諦めているような言動が、そう感じさせる。服についた葉も全て払ったリンは、土のついた藤色のスカートを見て眉をひそめた。
「あーほら、せっかくのワンピースが汚れちゃってる。どうして今日みたいな日にワンピースなのよ。不向きでしょ」
「手持ちの服の種類が少ないんです。ワンピースなのは、接客するならワンピースだろって青葉が。私は何でもよかったんですけど」
「あ、そう。そうなの。青葉の趣味なのね。了解」
 淡々と答える梅花に、リンは微苦笑を向けた。まともに話をするのは初めてのことだが、初見の印象通り一風変わった少女だ。宮殿がその外と違うことはわかっていた。しかしそれを差し引いたとしても、梅花の醒め具合は異常に思える。同じ宮殿出身であるローラインはそうではない。
「そこまでしてどこに行こうとしてたのよ。まだ誰も空に技を放ってないでしょう?」
 空間を斬ってまで急いでどこへ行こうというのか。疑問を口にすると、スカートの裾を正した梅花はやおら顔を上げた。その双眸に疑問の色が宿っていることに、リンは気がつく。今のところ技の気配は感じられない。どこかで戦闘になれば気を隠しているわけにもいかないから、それで気づくこともできるはずだ。それなのに梅花は何を懸念しているのか?
「この空間のねじれ方、どうもややこしいことになってそうです。嫌な感じがします。私たちの見ているこの空は、本当に他の誰かが見ている空と同じでしょうか?」
 梅花に倣って、リンももう一度頭上を仰いだ。太陽の見あたらないどこか無機質な印象を受けるこの空。梅花の指摘通りだとすれば、誰かが合図を放ったとしても気づかない可能性があるのか。それでもこうして合流できるのだから、全くでたらめな空間というわけでもないだろう。全員には伝えられなくとも、誰かには届くと信じたい。
「怖いこと言うわね。でも、そうだとしたらのんびりともしてられないのか。こっちの方向で正しいかどうかはわからないけど、立ち止まってるよりはましよね。急ぎましょう」
「そうですね」
 道に沿って歩いた方が、仲間と出会える可能性は高いだろう。目印になるのはこれくらいしかないから、皆そう判断するはずだ。梅花が頷くのを確認して、リンは再び小道の方へと向き直った。萎えかけていた心に気力が戻ってくるのを感じる。単純だなと苦笑しつつ、リンは道の真ん中へと足を踏み出した。ちょうどその時だった。
 今度は低く唸る獣の声が、左手から聞こえた。それまでなかった生き物の気配に、二人は同時に振り返る。梅花が現れた茂みとは逆の方だ。揺れる緑の向こう側で、赤い光が怪しく揺らめいている。
 咄嗟の判断で、リンは横へと飛んだ。梅花は後方へ飛び退ったようだった。それとほぼ同時に、茂みから黒い影が躍り出てきた。軽い足音と共に、『それ』は着地する。
 リンが飛び退いたまさにその場所に降り立った獣は、熊と虎を足して二で割ったような姿をしていた。大型犬程度の大きさだが、ちらりと見えた鋭い爪の殺傷力はそれなりのものだろう。黒々とした毛並みを横目に、リンは声を上げる。
「梅花!」
 リンが呼ぶやいなや、梅花は右手を掲げた。意図は伝わったらしい。白い手のひらから空へと放たれたのは、赤い光弾だった。炎系だろう。しかしリンには悠長にその様を観察している暇はなかった。再び飛び上がった黒い獣に向けて、左手を掲げる。
「何なのよっ」
 生み出したのは結界だ。薄い透明な膜が防御壁となり、獣の爪を弾いた。体勢を崩した獣は後ろ足から地に降りる。その前足が地面に触れる瞬間を狙って、リンは右手を振るった。手のひらから生み出された風の刃が黒い足を貫く。
 獣は悲鳴を上げ、地面へと崩れ落ちた。だがまだその赤い瞳から闘争心は消えていない。切られた前足からは、不思議なことに血も滲んでいなかった。結界を消し去ったリンは眉根を寄せる。立ち上がろうとしてもうまくいかずにのたうち回る獣は、低く唸り続けていた。一体この獣は何なのだろう?
 リンがさらなる攻撃をと構えた時、梅花が動くのが視界の端に映った。白い腕から放たれたのは、見慣れない薄水色の刃だった。それは上体を起こそうとする獣の体を勢いよく貫く。悲鳴が甲高くなった。赤い瞳が見開かれたと思った瞬間、その姿は唐突に消えた。光の粒子となって空へと溶け込み、跡形もなくなった。
「……え?」
 リンは目を疑った。土の上には獣の死骸どころか、血の跡一つ見当たらなかった。辺りを見回せども、どこかへ移動した気配もない。まるで幻であったかのように消え去っていた。しかし道の真ん中には爪痕が残っている。
「どうなってるの?」
「消えましたね」
 リンの傍へと梅花が近づいてくる。ちらりと横目で見ると、梅花も怪訝そうな顔をしていた。一体何が起こったのかリンには全く理解できないが、それは梅花も同様らしい。
「普通の生き物のようではなかったですよね」
「形からしてね。しかも最後は消えちゃうとか。どうなってるのよここは」
 嘆息したリン髪を掻き上げる。空間がねじれて仲間とはぐれたと思ったら謎の獣と出くわすなど、想像もしていなかった。警戒しなければならないのはアースたちだけではないようだ。他にも何が飛び出してくるかわからない。これは一刻でも早く他の仲間とも合流しなれば危険だ。
「こんな獣がいるだなんて、ラウジングさんは言ってなかったわよね」
「そういう話はありませんでしたね。隠していた……とは思いたくありませんが」
「そうだったら後で殴るわよ」
 頭を傾けた梅花へと、リンは苦笑を向ける。いくら秘密主義の上でも、そんな大事な情報を隠していたとなれば文句も言いたくなる。神技隊の命を一体何だと思っているのか。リンは軽くジーンズのポケットを叩くと、梅花の腕を引いた。
「さ、こうなったら少しでも早くこの場を離れるべきね」
「ちょっとリン先輩」
「合図したのに動くのかって? アースたちにも見つかっちゃうかもしれないわよ? 何かが起きたことだけ伝えておけばいいのよ。あの獣の仲間が近くにいないとも限らないし」
 戦うにしてはこの道は狭すぎる。何匹もあんな獣を相手にするのは避けたかった。リンがやや強引に歩き出すと、それ以上梅花は抵抗しなかった。文句も言わずに手を引かれている様には、どことなく慣れが感じられる。すぐに身動きが取れる状況にしておいた方がいいだろうと、リンは手を離した。いくらウィンの旋風とジナルの神童が揃っているとはいえ、油断していられる状況でもなかった。
「そうだ、梅花。さっきの技は精神系?」
 道に沿って歩きながら、振り返らずにリンは問いかけた。話には聞いているし知識はあるが、まじまじと精神系の技を見たのは初めてのことだった。技には色々な種類がある。炎系や水系は一般的だが、精神系の使い手は珍しかった。技の気配は他のものと大差がないように思えるし、見た目は水系の技に似ていたが。
「はい。精神系の簡単な技ですよ。あれがあんなによく効くなんて変ですね」
「……どうして?」
「知ってるとは思いますが、精神系は直接体にダメージを与えるわけじゃあないんです。精神系はその名の通り、精神とそれに関連するものにしか影響しませんから」
「関連するものねえ」
 早足で進みながら、リンは梅花の方を一瞥する。斜め後ろをついてきている梅花は、考え込んでいるのかやや顔をしかめていた。その黒い双眸は道の前方へと向けられている。梅花の説明を、リンは頭の中で繰り返した。「精神」というものの実態も掴みづらいが、「精神に関連するもの」という表現は実に曖昧だった。
「確か、人間だったら一般的には動けなくなったりする感じよね」
 どうやら「関連するもの」の中に、体を動かす何かが含まれているらしい。理屈はよくわからないが、リンはそう教えられていた。すると梅花が頷く気配がする。
「そうですね。強い技であれば、気を失います」
 命に関わる怪我を負わせることなく確実に相手の動きを封じることができる、そういう意味では精神系の技は重宝している。また、どうやら空間に関わるものも精神系の使い手は得意としているようだった。こちらの理屈もいまいちはっきりしていない。とにかくよくわからない技の種類だ。
「どちらにしても、いきなり生き物が消えたりしないわよね」
「そうなんです。……この空間と何か関係しているんでしょうか」
「だったらあのラウジングさんを後で問い詰めるわ」
 訝しげな梅花の声を聞き、リンは決意を固めた。ラウジングにはきっちり説明してもらわなければ気が済まない。調べろというのは、まさかこの獣たちのことだったのではないか? そんな予感さえしてくる。こんな危険なところに何も知らせずに放り出し、自分は姿を消してしまっているのだから、とんでもなくたちが悪かった。やはり上の者は当てにならない。
「そんな風に宣言できるのはリン先輩くらいですよ」
 憤りながら歩いていると、梅花の苦笑が耳に届いた。肩越しに振り返ると、彼女は笑っていた。わずかに細められた黒い瞳の柔らかさに、思わずリンも口角を上げる。
「なーんだ、笑えるじゃない。そっちの方が魅力的よ、絶対」
 湧き上がっていた苛立ちまで和らいだようで、リンは頬を緩めた。苛立つことばかりで気落ちしそうになるが、悪いことばかりでもないと思い直す。途中経過がどうであれ、最終的には皆が無事に目的を果たして帰れたらいいのだ。リンはそう自らに言い聞かせた。苦楽をともにするのは、打ち解けるいい機会にもなり得る。
 そのためにもまずは仲間たちと落ち合うことが先決だ。強く土を蹴り上げて、リンは空を見上げた。先ほどと何ら変わりない青空では、やはり白い雲が穏やかに流れているばかりだった。

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