white minds 番外編

技使いだった少女

 座卓に向かって何気なくテレビのニュースを聞き流しながら、リンは安物のコップに手を伸ばした。冷たかったはずの麦茶は既に温くなっていて、中の氷もいつの間にか小さくなっている。揺れる液面を見下ろして、彼女はため息を飲み込んだ。
 この無世界むせかいの夏は暑い。じっとり肌に纏わり付くような湿度は、今まで住んでいた神魔世界しんませかいでは経験のないことだった。レモン色のワンピースにも既に汗が染み込んでしまった気がする。首に張り付く髪も邪魔で、先ほど纏めてしまった。こんな中、外で働いている仲間たちは大変だと思う。
 だから今朝サツバが苛ついて周囲に当たり散らしていたことも、彼女に喧嘩を売ってきたことも、水に流すべきだ。そう考えて腹を立てるのは止めたのだが、それでも出かける寸前に吐き捨てられた一言だけが胸にわだかまっていた。
『お前、自分が女だってこと忘れてるだろ。ずっとこんな狭いところに男と二人っきりとか』
 それまでの罵詈雑言とは全く別。嘲るように、それでいてどこか同情するように言われた。向けられたのは呆れた眼差しだった。サツバにはずっとそう見えていたということだ。何か言い返せばよかったのだろうが、そうしなかっただけに余計に心に引っかかっている。
「そうよね」
 ぽつりと漏らした言葉はくだらないニュースに掻き消された。思考はあちこちを行き来していて落ち着かない。
 神技隊しんぎたいに選ばれ、この無世界に派遣されてまだ半年も経っていない。お金を稼ぎながら『違法者を捕まえる』という秘密裏の役目を果たすために、リンたちは一つの方法を選択した。五人のうち三人が生活費を稼ぐ、残りの二人が神技隊としての本来の仕事を果たす。リンは後者の一人だった。だからサツバの言う狭いところで男と二人きりという状況はには反論しようがない。
 他の方法も検討したが、一番効率がいいのがこれだった。だからこの状況には不満はないし、苦痛を感じているわけでもない。ほぼ一日中一緒にいるといっても過言ではないシンが、よくできた人間だからというのもあるだろう。彼女と一つしか違わないサツバはまだどこか幼く、何かある度に文句を口にしている。だがシンはそういうことがない。
「シンじゃなかったら破綻してるわ」
 彼女はコップを座卓に置いた。当の彼は、見回りと称したランニング中だ。とにかくこの無世界は狭くて仕方がなく、自由に体を動かせる場所が限られている。体がなまるのを恐れた彼は、それを日課とすることに決めたようだった。本当に真面目だ。
「こっちは狭いもんねぇ。建物だらけだし、部屋も小さいし」
 大きく伸びをしてから、彼女はチャンネルを変える。生々しい事件の報道が一段落すると、さして興味の湧かない著名人の私情やら恋愛やらの話に埋め尽くされていく。彼女はそれがあまり好きではなかった。噂はどこまでも広まっていくものだとわかっていても、好き勝手言われている人のことを考えると心地よくない。
 ――リンは旋風と呼ばれていた。神魔世界ではそう珍しくもない、技使いという存在。その中でもそういった異名がついているのは一握りだけだ。いつ、誰が、何をきっかけとしてそう呼び始めたのかは知らない。だがいつの間にかそれは浸透し、彼女を知らぬ人間まで旋風という名は耳にしたことがある、なんて状況にまでなってしまった。
 風を、炎を、水を自由自在に操ることができる技使い。だが実際どの程度の技が使えるかは、人によって大きく異なる。彼女の実力は、周囲の人間と比べても飛び抜けていた。だから気づいた時には、「守らなければならない小さな女の子」ではなくなっていた。長からも協力を求められる、異名持ちの技使い。女であることを忘れたつもりはないが、技使いであるということの方が、彼女にとっては大きかった。女である前に技使いだった。
 見目だけは気にしていたのは、最後の悪あがきだったのか。いや、単に趣味だろう。可愛い物や綺麗な物は好きだし、色々な服装を試してみるのは楽しかった。もっとも、何かあれば動きやすさ優先になるのは仕方ないことだが。頼られることには慣れている。
「まあ、サツバの言う通りかもしれないわね」
 自分が女であること忘れていると言われたら、そうかもしれない。あえてその事実を無視してきたとも言える。頼ってくる可愛い後輩たちに異名がつかないようにと注意を払ってきたし、皆に妙な足かせがつかないよう努力してきた。少女たちの自由を壊したくはなかったからだ。
「まだ気にしてたのか」
 と、不意に背後から声がかかってリンは慌てた。振り返ると、扉を開けたシンが顔をしかめながらタオルで汗を拭っている。まるで水でも浴びてきた後のような姿だ。考え事のせいでぼーっとしていたらしい。帰ってきたことに全く気がつかなかった。
「おかえり。あ、麦茶飲む? この時間でも外はもう暑いでしょう」
 彼がそれ以上何か言う前に、立ち上がった彼女はぱたぱたと冷蔵庫へ向かった。今のはたぶん失言だった。単に自分自身について振り返っていただけで、彼に不満があるわけではない。しかし朝のやりとりを思えば、そう誤解される可能性もあるだろう。彼女はコップにこぽこぽと麦茶を注ぎながら、どう説明するべきか思案する。
 結局、良案は浮かばなかった。座卓に向かった彼へコップを手渡すと、彼女はテレビを消した。騒音じみた応酬がなくなったせいで、静寂が強調される。
「気にするなって言っただろう」
 一気に麦茶を飲み干した彼は、一言そう口にした。怒気も苛立ちも含まれていない声音だが、それでも機嫌がよくないのはわかる。彼の纏う『気』がそれを告げてきている。大まかとはいえ感情を伝えてしまうこの気というものは厄介だ。そしてそれを読み取ってしまう技使いも、難儀な生き物だ。
「気にしてるっていうか。ただちょっと反省しなきゃなーって思って」
 彼女はできるだけ軽い調子でそう言うと、片手をひらひらとさせた。そう、女であることを忘れてはいけない。ここは神魔世界ではなく、無世界なのだ。
 女性である前に技使いであったのは、女としての身の危険を感じるようなことがなかったからだ。腕力では男には敵わない。しかし技を使えば事情は違う。精神集中できる状況なら、技で負けるようなことはまずなかった。肝心の精神集中の点においても、よほどのことがなければ崩れない。相当の大怪我でもなければ大丈夫だ。女であることの非力さを補うには、有り余るほどの力があった。
「反省?」
「技を使えば何とかなるから大丈夫って思考が染みついちゃってたなって。こっちじゃあ、そう簡単には技が使えないのにね」
 しかし無世界では違う。こちらの世界で技を使うことは、基本的には禁じられている。少なくとも一般人に見られるような場所では駄目だ。つまり技が使えないのも同然だった。サツバの一言はその事実を思い出させてくれた。一応感謝しなければ。
 だからシンは何も気にする必要はないと言いたかったのだが、眉根を寄せる様が視界に入る。汗を拭う手も止まっている。彼女は小首を傾げて――それから自分の発言が別の意味にも受け取れることに気づき、ますます慌てた。
「あ、いや、別にシンのことを疑ってるとか信用してないとか、そういうわけじゃないからね! ただ、容易に技を使えないって感覚を忘れて違法者と向き合うのはよくないって、そういうことっ」
 注意すべき相手は違法者であって仲間ではない。シンと一緒にいて身の危険を感じているとか、そういう意図はない。またしても失言だった。彼が優しく頼りになる人間であり、かつ常識人であることはよくわかっている。
「はあ」
 両手をぶんぶん振りながら訂正したが、彼の顔はますます複雑そうに歪む一方だった。通じなかったということはないだろう。先ほどとは少しだけ、彼の纏う気が変化している。それでもまだ引っかかることがあるのか? 彼女は必死に考えた。それこそサツバの指摘通りずっと一緒にいるのだから、喧嘩などしたくない。
「技があれば何とでもなるって、ずっと思ってたのか?」
「思ってたっていうか、実際そうだったから。私が技を使えないような状況ってよっぽどだしね。シンは違ったの?」
「オレは、ほら、オレよりも強い人がすぐ傍にいたから」
 苦笑する彼に、彼女はなるほどと相槌を打つ。彼も異名持ちと言えばそうだが、一括りにされていた。ヤマトの三人組と言えば彼女も耳にしたことがあるが、そこに『ヤマトの若長』が含まれていることは知っていても、それ以上の情報はない。
「そっか、そうよね。同じくらい強い技使いが近くにいたら話は違うわよね」
 たとえば幼い頃、近くにシンがいたら。小さかった自分に無理難題が押しつけられるようなこともなかったのだろうか? 考えても仕方のないことだが、つい想像する。可能性は皆無ではなかったのだ。異名がつく前、一度だけ、両親は引っ越しすることを提案してきた。もっと強い技使いが集まっている場所に移り住んではどうかと、そういう話だったと記憶している。きっとそれはヤマトだったのだろう。シンは彼女よりも五つ年上だから、あの頃には噂が流れ始めていてもおかしくない。
 その提案を、彼女は拒否した。もう既に彼女の傍には可愛い後輩たちがいた。置いていくなんてことは考えられなかった。その選択が誤っていたとは思わないし、後悔もしていない。今も同じだ。
 また考え込みそうになっていることに気づき、彼女は顔を上げた。シンはじっと彼女を見ていた。やや色素の薄さを感じさせる茶色の瞳が、何かを見透かそうとしている。その眼差しを直視できずに、彼女はコップに手を伸ばした。氷は完全に姿を消している。
「ま、でも、そう、今は技が使えないようなものだから、気をつけるわ。うん。一人じゃないけど、でもシンも技が使えないのは同じだし」
「……オレは男だけど?」
 両手でコップを包み込んでいると、彼の一言が静寂に染みた。彼女は恐る恐る顔を上げ、彼の視線を受け止めた。何を言いたいのか、何に対して怒っているのか、苛立っているのかわからない。彼女はぐるぐると渦巻く思考から、答えらしき物を引っ張り出そうとする。
「え、あ、そうね。そっか、技がなくてもシンは強いのよね。そうよね、一緒にしてごめんなさい」
「いや、そういうことが言いたいんじゃないんだが。……何でそんなに焦ってるんだよ」
 彼がため息を吐いた。短い髪をがしがしと掻かれなかっただけましだと思うような、そんな表情だった。相当呆れられているように思えて、彼女はコップから手を離してうなだれる。求められている返答ではなかったらしい。
「焦ってるって、シンがそんな顔するからでしょう? 私、何か悪いこと言った? 時々すごく無神経みたいなの、ごめん」
 こうなったら謝るしかない。平謝りだと、彼女は首をすくめて背中を丸めた。自分の言葉がどう彼の心を抉っているか予想もつかないが、気に障ったことは間違いないだろう。座卓を見つめながらあれこれ考えてみるが、やはりどう返すべきだったのかはわからない。
「いや、リンが悪いわけじゃないから、オレの問題だから」
 自嘲気味な響きを含んだ彼の声に、彼女はそろそろと視線を上げた。中途半端に伸ばされた彼の手が、微妙な位置で止まったところだった。背を丸めたまま彼女が首を傾げると、彼は苦笑をこぼしながらその手を戻す。そして耳の後ろを掻いた。
「うん、オレの問題」
「……そうなの?」
「そうなの。だからリンは気にするなよ。サツバの言葉も気にしなくていいから」
 言い聞かせるような彼の言葉に、彼女は曖昧に頷く。何だか腑に落ちない。しかし彼がこうまでして拒むのだから、追及すべきではないのか。互いの領域を侵さないのも、赤の他人と一緒に暮らす秘訣だ。仲間でも踏み込んでいい部分と悪い部分がある。
「――わかった」
 小さく答えて、リンはコップを持ち上げた。薄くなったはずの麦茶は、先ほどよりも何だか苦く感じられた。

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