薄鈍色のパラダイム

エピローグ

 鳥のさえずりが止んだと思ったら、部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。ベッドの上に座ったまま、私は「開いてる」とだけ返事する。ここにノックをして入ってくるのは一人だけだった。トウガはそんなことはしない。いつも無愛想で強引だ。
「起きてたんだね、よかった」
「今度は薔薇の花?」
 両手いっぱいの花束を抱えて入ってきたのは、やっぱりオキヒロだった。彼はちょっとした時間を見つけては、この山奥の診療所へと顔を出しに来る。ここを知っているのは彼と私たちだけ。そういう約束になっていた。オキヒロがそれを守っているのは、誰もここに来ないことで証明されている。
「花はいいって言ってるのに。しつこい」
「でも花、好きだっただろう? 調子はどう? もう頭痛はしない?」
 ベッドの側へ寄ってくると、オキヒロは手近な椅子を引き寄せた。もう何度目ともなると断りもなしだ。半ば諦めている私は、笑顔のオキヒロを横目に軽く相槌を打つ。
 ここに来てしばらくはひどい頭痛と吐き気に悩まされたけれど、今はそれも落ち着いていた。ただまだ感覚が鈍ったままなので、あまり出歩けはしない。転んでばかりいるとトウガにまた叱られるし。
「それは平気。オキヒロこそ、会社の方は大丈夫なの?」
「うん、大丈夫だよ心配しなくても。これでも僕は信用されているんだ。怪しんでいたのはマツヨシくらいさ」
 そう言って不器用に片目を瞑るオキヒロに、私はなんと言っていいのかわからなくなった。マツヨシはあれから一度も目を覚ましていないらしい。私もそうなるかもしれなかったと考えると、誰にも何も言えなくなった。トウガの神経質すぎる忠告も無視できない。何が起こるかわからない、それが脳改造だ。今さらながら実感している。
「だから心配せずにイブキはゆっくり休んで。そして元気になって欲しいな。ああ、今度何か美味しいものでも買ってくるよ。それじゃあ仕事が終わったらまた来るね。イブキ、愛してるよ」
 花束を無理やり私へと押しつけ、オキヒロは颯爽と立ち上がった。困惑するのも飽きた私は、何も答えずにオキヒロの背中を見送る。山小屋のようなこの部屋で、オキヒロの恰好は場違いだった。たぶんあれも高いスーツなんだろう。この花束だっていい値段のはずだ。
「また増えちゃった」
 歪なリズムの足音と共にオキヒロの姿が見えなくなると、代わりにトウガが顔を出した。ため息を吐き損ねた私は、微苦笑を浮かべたトウガを見上げて肩をすくめる。いつも通りノリのきいていない白衣を揺らして、トウガはベッドへと近づいてきた。
「匂いの強いものは控えて欲しいと言ってるんだがな。これで何度目だ?」
「知らない。もう数えてない」
「いい加減にしないと、この部屋は花だらけになるぞ」
 枯れてしまった花はもう飾っていない。それでも小さなタンスの上には花瓶が幾つも置かれていた。その花瓶だってオキヒロが持ってきたものだ。
「何度も断ってるって。でも持ってくるのよ」
「愛されてるな」
「冗談言わないで。私、そんなつもりないもの」
 トウガに笑いながらそう言われる度に、胸の奥に何かが突き刺さる。オキヒロを邪険にできないのはトウガの安全のためだ。この診療所のことが誰かにばれたら、またトウガはどこかへ移らなくてはならない。しかも私という足枷がついた状況で。早くこの体がまともに動くようになればいいのに。
「……ねえ、トウガ。トウガは、本当に約束を果たす気はあるの?」
 いや、それよりも何よりもさっさと約束を果たしてしまえばいい。私はもうどこにも潜り込まなくてもいいんだから、トウガは待つ必要なんてないんだ。まあ、私が妊娠したなんて知ったら、今のオキヒロが何するかわからないという不安はある。
「そのつもりもないのに、お前をここに置いておくわけがないだろう」
「……気が長いのね。私の子宮はあいてるのに」
 トウガが何を考えているのかわからない。相変わらず読めない。約束を果たさないとお互い解放されないというのに、どうして先延ばしにするのか。それとも私がこんなことになったから責任を感じてるとか? これは私のせいなのに。
「――イブキ」
「ん? 何?」
「いや、いい。何でもない」
「何よそれ。変なの」
「気にするな。何事も、元には戻らないものだ」
 私の手から強引に花束を取り上げると、トウガは小さな窓へと視線をやった。それにつられて、私もそちらへと顔を向ける。
「また来てる」
 半分ほど開いた窓の外では、数匹の蝶々が飛び回っていた。外に植えられた花に群がっているのか。山奥の割に日がよく差し込むここには、色んな生き物がやってくる。
 本当にのどかだ。この間のことが嘘みたいだ。でもそれは現実で、その先に今があって、そしてこれからもまだ何かがあるんだろう。ひらひらと揺れる蝶の羽を、私はぼんやりと眺める。
「振り返っても仕方がないことがある。時間は、巻き戻らない」
 トウガがそんなことを口にするなんて珍しい。感傷的な発言なんて今まで聞いたことがない。私はトウガの方を振り返ると首を傾げた。彼の眼差しはいまだに窓の方へと向けられている。
「一度大きな過ちを犯すと、人は大概臆病になるものだ」
「……トウガ」
 なんだかいつもとは違う声に聞こえた。もしかして、トウガにも昔に何かあったんだろうか? そういえば、どうしてトウガがこんなことを続けているのか聞いたことがなかった。彼の力を継ぐだろう子どもを残したいという話しか、聞いていない。
「怖じ気すぎて何もかも失ってからでは遅いのにな。人ってのは本当に愚かだ」
 そこまで口にしてから、トウガはゆっくり私を見下ろした。それから頭の上に手をのせると、子どもにするようにぽんぽんと撫でる。もう反発する気にもならなかった。されるがままにしておいて、私は目で相槌を打つ。
「時間はまだある。イブキはもう少し健康に気を遣え。まだ若いんだしな」
「たまには真面目に医者っぽいこと言うじゃない。ちゃんと言えたんだ」
「単に、医者ぶるのは嫌いなだけだ」
 気怠そうに口の端を上げるトウガに、私は思わず声を出して笑った。少し、気が楽になった。私は焦りすぎていたのかもしれない。全てに今決着をつける気でいたのかもしれない。確かに私は色んなものを失っているけれど、まだ失ってないものもあるのに。
「またオキヒロが来た時はもう少し医者ぶってよ」
「そうだな、花じゃなくて物にしてくれと頼んでおく」
「あ、ずるがしこい」
「合理的と言ってくれ。お前の服もろくにないだろう?」
 花束を抱えたままトウガは花瓶へと近づいていく。いつの間にやら部屋の中へと入ってきた蝶が一匹、その縁には止まっていた。羽をゆっくり動かすものの、トウガが側に寄っても飛び立つことはない。
「たまにはヒラヒラとした服でも着てみろ。喜ぶぞ」
「誰が?」
 間髪入れずに尋ねると、振り返ったトウガは複雑そうに顔をしかめた。思った以上の反応に笑い声を漏らし、私はまた窓の外へと目を向ける。きっと今当たり前にあるものだって、失ったら痛いに違いない。そう思えるくらいには落ち着いてきたようだ。ただ、今を幸せだと認めるには、まだ色んなものが足りない。
「もうちょっと待っててね」
 誰に向かってか何に向かってかわからない囁きが、唇からこぼれる。でも聞こえているだろうトウガは何も言わなかった。それを優しさだと受け止めて安堵し、私は遠ざかる背中へと視線を送る。
 揺れる白衣にかすめられて、花瓶に止まっていた蝶が羽ばたいた。その黒と黄色の軌跡を、私は静かに見つめた。

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